二〇〇一年四月十二日 浙江大学日本文化研究所訪問記念 講演要旨
二〇〇一年四月十六日 北京外国語大学日本学研究センター訪問記念 講演要旨
古田武彦
淅江大学・日本文化研究所の皆さん、今日この場にお迎えいただいて、まことにうれしく存じます。
先ず日中の友好、日中の文化交流に力を尽してこられた方々、またこれから力を尽そうとしておられる方々に対し、深い敬意を表させていただきます。
今日、わたしの申し上げたいことは、二つあります。
第一は、八世紀の唐時代、わが国(日本国)の遣唐使節団の一員として渡唐した安倍仲麻呂の著名な歌に関する問題です。
天の原ふりさけ見れば春日なる
三笠の山に出でし月かも
この歌は、ここ杭州に近い明州(淅江省?県の東)の地で、帰国にさいして行なわれた送別の宴で歌われたとされています(古今集、巻第九)。
従来、この歌の意味は次のように解されてきました。
“この明州の地で、東の空の方を仰いで見れば、月が海上に出ている。あれは、わたしの故郷、日本の大和の国にある、春日の中の三笠山の上に出た月である。(なつかしいことだ。)”
以上です。しかし、わたしが今から十年前、学校(長野県立松本深志高校)の授業で、生徒の質問に“答えられなかった”ことが発端となって、種々研究するうちに、右の理解は正しくなかったことが判明してきました。その結論は左のようです。
「天の原(長崎県壱岐島北端部の地名)から、離れてきた九州本土(福岡県、博多湾)の方をふり仰いで見ると、月が出ている。あれは、故郷の春日(福岡県、太宰府・筑紫野・春日市の地帯)にある三笠山(宝満山)から、いつも出ていた月である。ここを離れると、もう、あの故郷(の月)を見ることができない。」
日本を離れるときの「離別」の歌です。歌を作った場所は九州島の北の海上にある、壱岐島の北端、「天の原」を舟が通りすぎるときに、若い仲麻呂(十代、八世紀前半)が作った歌だったのです。
右のように考えるに至った理由を簡単にあげれば、左のようです。
1). 「天の原ふりさけ見れば」の意味が従来“不明瞭”だったが、博多湾をはなれて朝鮮半島・中国方面へ向うとき、壱岐の北端の「天の原」(地名。弥生時代の天の原遺跡。現在も天の原海水浴場あり。)で作った歌と見れば、スッキリする。(「ふり離(さ)け」の「さけ」は“離れる”という意味)。
2). 中国の明州で“はじめて作った歌”とした場合、{大和の三笠山}と言わず、「春日の三笠山」と言っているのが不適切である。春日は大和の中の地名だから、中国人には通例“知られていない“はずの小地名だからである。(これが、生徒の質問のポイント)
この点、壱岐の北端の「天の原」で作ったという場合には、眼前に二つの「三笠山」がある。一つは「春日の三笠山」、二つは「志賀の三笠山」。いずれも、筑紫の国(福岡県)に属する。従って、右の中、前者(一つ目)であることをしめすものとして、「筑紫なる三笠山」では不適切であり、必ず「春日なる三笠の山」でなければならない。きわめて適切である。
4). このとき、仲麻呂は「日本国」の使節団の一員であったが、その十数年前(七〇一)までは、筑紫(福岡県)を中心とする「倭国」の時代であった。そのような「倭国(筑紫)→日本国(大和)」という権力変動の中の人々の動き(時代にあわせた行動をとった、多くの人々)に対し、「春日なる三笠山」から出る月は永遠に変らず、そのような人々の(姑息な)動きを見つめている。—これが、この歌の真意である。
5). 仲麻呂は「日本への帰国」にさいして、この、かって「日本を離れるときに作った歌」を改めて歌った。それが明州における離別の宴である。
6). 使節団の中心をなした「大和の人々」は、仲麻呂の歌の真意を誤解し、「大和の中の春日の三笠山」を歌ったものと考えた。これが古今集の記事(前書きと後書き)である。
7). なお、この「天の原」を「青海原」としたものがある(紀貫之『土佐日記』)。この点、別述。
第二は、今後、日中双方で研究をすすめるべきテーマを提起したい。
〈その一〉近年、日本の縄文草創期遺跡が次々と発見されています。ことに九州島の西岸の南半部(鹿児島県)の各遺跡の発掘はめざましい成果をあげています。
その時期は
(α)「約一万三千年前〜六四〇〇年前」です。これに対し、中国の淅江省の河姆渡遺跡の年代は
(β)「六六〇〇年前(以降)」
と聞いています。
すなわち、日本側の鬼界ヶ島の一大火山爆発によって(α)の文明が滅亡(に瀕)した頃、その少し前に、中国側の(β)の文明がはじまっています。
両国の研究者が共同してこの(対岸文明の関係の)問題にとりくみ、各資料を提供できれば、幸です。
〈その二〉右の「河姆渡(かもと)」の地名に対し、日本側(熊本県)にも「鹿本(かもと)」という地名があります。両者の関係の有無の問題です。それと共に、これ以外にも、これと同類の例があるかもしれません。今後の、双方の調査研究に期待します。
〈その三〉日本の南九州(鹿児島県)には「栫(かこい)が原」「姶良(あいら)」といった、通常、日本の「漢字」では用いないの文字がかなり含まれています。
これは千字文などの“北系列”の
「西安(長安)→洛陽→楽浪→帯方→北部九州→近畿(大和)」
というルートとは別に、 「呉・越の地(中国)→南九州(日本)」
という、直接の伝来ルートがなかったか、どうか。これも、今後の研究対象として、興味深いテーマであると思われます。
・・・日中共同研究、相互発展・・・ 以上
古田武彦
はじめて北京外国語大学の日本学研究センターの皆さんの前でお話できることを光栄といたします。
今日は三つのテーマについて御報告申し上げたいと思って参りました。
第一は、アジアの三大発明(発見)についてです。
その一つは、中国の古代における「方法の発見」です。BC・一一〇〇年以降の周髀算経などの、中国古代天文・数学書の中で明らかにされたものです。
不定形な土地の面積を現わすために、その土地に内接する正方形を求め、「一辺の二乗」として、その土地の面積を現わすものです。
いずれの場合も、当然「誤差」を含みますが、すべてのケースにおいて、そのような「誤差」はありますから、それぞれを比較すると、大略において、各面積の比率がえられます。これが「方法」です。
現代科学におけるグラフなどをとってみても、また微積分などの高等数学をとってみても、この古代中国で発見された「方法」が、思考方法として、その一番基礎に存在しているのを知ることができます。偉大な発見です。
第二は、「0の発見」です。古代インド数学において発見されたものとして、知られています。日本でも、吉田洋一氏の『0の発見』(岩波新書)が出ていて、ロングセラーとなっています。
この「0」の概念なしには、あらゆる近代科学も、パソコン・インターネットも、成立不可能であること、言うまでもありません。
古代インド数学もまた、現代社会を根本においてささえているのです。
第三は、「土器の発明」です。日本列島は火山列島であり、その土地において、世界にさきがけて「土器の発明」が行なわれました。
火山から流れ落ちる熔岩が粘土質の土を焼くとき、そこに「固い土」への変質が行なわれる。それを古代日本人は「発見」したのです。
最初は、子供たちが発見者であり、自分たちの好む形の「物」の製作者であったでしょう。母がそれを見、父に伝えたでしょう。やがて人間のための容器である「土器」が成立したのです。
現在のところ、一万六千年余り前(青森県:修正値)や一万六千年余り前(長野県)などのことだとされています。
これが、人類の現代工業文明の「さきがけ」となったのです。
以上、現在の人類の文明は、このアジアの三大発明にささえられていることが分ります。
これに比べれば、「ヨーロッパの三大発明(羅針盤・火薬・印刷術)というのは、アジア(中国)や回教圏からの模倣にすぎません。
アジアは人類文明の偉大なる母胎なのです。
第二は、「日本の古代に対する歴史観」についてです。
中国と日本、両国の歴史観が大きく“くいちがっている”こと、その報告です。
1). 三国志の魏志倭人伝について、そこに描かれた女王国(倭国)について、日本国内でも、中国国内でも、見解の相異のあることは、よく知られています。
(今は、その問題は、保留します。御質問があれば、お答えいたします。)
2). 今とりあげたいのは、七世紀前半の日本を記した、隋書イ妥*(たい。「倭」ではない。)国伝です。
「日出ずる処の天子、云々」の文書で有名ですが、この天子(多利思北孤)の所在については、
阿蘇山有り(九州)。
の一節からも、「九州島」としか考えられませんが、日本の学界では(わたしを除いて)それを「大和」(奈良県)だとしています。
日本側の、天皇家が作った歴史書である古事記・日本書紀が「近畿天皇家中心の一元史観」で貫かれている。そのイデオロギーにすべての学者が影響されているからです。わたしはこの三十年間、これに対して常に反対してきました。
3) 同じく、七世紀中葉以降の日本を記した旧唐書・新唐書では、「七〇一以前」を「倭国」、「七〇一以後」を「日本国」としています。そして前者(倭国)は九州、後者(日本国)は近畿が、それぞれの中心と見なしています。
しかし、日本の学界では(わたしを除き)、これを中国側による「全くの誤認」だとしています。先の問題と同じく、「近畿天皇家中心の一元史観」に反するからです。
わたしはこの三十年来、これを「主観主義の歴史学」と見なし、これに対する客観的な「多元的中心の歴史学」を提唱しています。
「七世紀以前」は九州中心、「八世紀以後」は近畿中心であるばかりではなく、関東や東北、さらに北海道、また沖縄(琉球)など、それぞれ独自の中心を持ち、独自の歴史をもっていると見なすこと、すなわち「多元史観」の立場です。
わたしは中国の代々の史書が、周辺の国々に対する記述においては、「客観主義の立場」をとっている、と考えます。
しかし、残念ながら、日本の歴史学界は依然として「主観主義」と「天皇家中心の一元主義」の立場に立っています。
第三は、日本と中国との国家関係の歴史です。
左に主要な関係(国家間侵略)の歴史事実を客観的に記載します。
(A)隋の日本(沖縄)侵略……七世紀前半
(隋の煬帝)進至其都、頻戦皆敗、焚其宮室、虜其男女數千人、載軍實而還。
〈隋書、八十一、流求国伝〉
(B)唐の百済侵略……七世紀後半
顕慶五年(六六〇)命左衛大将軍蘇定方統兵討之、大焚其国、虜義慈及太子隆小王孝演偽将五十八人等、送於京師。上責而宥之。
〈旧唐書、一百四十九上、百済伝……白江の戦の前哨。〉
(C)白江の戦(唐・新羅〈対〉倭国・百済)……七世紀後半
(龍朔二年、六六二)仁軌遇扶餘豊之衆於白江之、四戦皆捷、焚其舟四百艘、賊衆大潰。
〈旧唐書、一百四十九上、百済伝〉
(D)元軍の日本侵略……十三世紀後半
1). (至元十一年、一二七四)使忻都高麗軍民總管洪茶丘等、将屯田軍及女真軍并水軍、合萬五千人戦船大小合百艘、征日本。
2). (至元十八年、一二八一)詔阿塔海統率軍馬、征日本。
〈元史本紀、世祖、巻八・十一〉
(E)豊臣秀吉の朝鮮侵略(対明、侵略未遂)……十六世紀後半
1). 明、萬暦二十年(一五九二、文禄元年)
2). 明、萬暦二十五年(一五九七、慶長二年)
(F)日清戦争(領土割譲、未遂)……十九世紀後半
清、光緒二十年(一八九四、明治二七年)〜光緒二十一年(一八九五、明治二十八年)
(G)日中戦争(十八年間の大侵略)・・・・・・二十世紀前半
中華民国十六年(一九二七、昭和二年)〜中華民国三十四年(一九四五、昭和二十年)
(狭義では一九三七年から一九四五年まで)
『歴史の教訓』
・・・相互、永遠不侵略、
恒久、友好平和・・・
以上
インターネット事務局注記2004.6.30
イ妥*(タイ)は人編に妥です。