法隆寺の研究

古田史学会報
2001年 6月 6日 No.44


法隆寺の研究

奈良市 飯田満麿

はじめに

 今年に入って三月の初旬と記憶していますが、全国各紙の紙面に「法隆寺建立の謎深まる」と言った意味の刺激的なタイトルを付して法隆寺五重塔芯柱の伐採年代の確定が報じられました。これによると、かねて法隆寺解体修理の際採集された五重塔芯柱切片を奈良国立文化財研究所で同所開発の「木材年輪年代法」で精密測定した結果、AD五九四年伐採と公式発表が為されたとありました。この事はこれまでの法隆寺研究に深刻な影響を及ぼしています。再建、非再建何れの論者も又如何なる権威、泰斗を以てしても、この科学的事実を合理的に説明できないのです。
 何故ならば再建論の場合、法隆寺の建立年代を現存する古文書からAD七一〇年とすると、実に百十六年前の伐採となり、到底常識では納得出来ない古材を使った事になります。又、非再建論者にとっては、「日本書紀」天智九年記事と若草伽藍発掘の事実が大きな壁です。ところが世の中は広大無辺です。此の一見解明不能と思われる謎を一挙解決に導く明快な仮説を、有力な事実を含む論証と共に提示した人がいました。しかも今から十二年前の一九八九年「(真理は導く)史料としての法隆寺」と言う著書を著し、続いて一九九三年「建築から古代を解く」と題する著書で自説を補強した近山五文氏(米田良三)です。
 今回はこの著書に基づき同氏の研究を要約してみました。本論に入る前に法隆寺に関する史料事実、研究、論争、関係古文書などを一括して提示し、併せて太宰府観世音寺に関する資料を添付します。


史料事実その他
 
A 史料事実
 「日本書紀」天智九年(六六九年)項
 夏四月三十日暁に法隆寺に出火があった。一舎も残らず焼けた。大雨が降り雷鳴が轟いた。


B 過去の研究論争

 明治年間伊東忠太博士による建築様式、装飾文様々式の研究は法隆寺の建立が7世紀初頭迄遡る古い様式であることを論証した。ここから非再建論が起こった。一方喜田貞吉博士に代表される文献学者は、「日本書紀」の史料事実を根拠に再建論を唱え、双方譲らず大論争となった。これは若草伽藍跡発掘で一応の結論を得て再建論が優勢となったが、事実上は今日尚論争は続いている。


C 科学的研究


 a若草伽藍跡発掘調査
 一九三九年法隆寺西院境内の発掘調査が行われ、現南大門の東側に四天王寺様式の(注─南北軸線上に五重塔と金堂が一直線に配置された様式)寺院跡が発見された。これにより、若草伽藍の実在が証明され、「日本書紀」の記事の真実が確認された。

 b西院伽藍解体修理工事
 一九三四年〜一九八五年に行われた、浅野清氏による詳細な報告書が存在する。


D 古文書の記載
 現存する法隆寺建設時期を示す古文書

  a七大寺年表
  和銅元年戊申、依詔造太宰府観世音寺又作法隆寺。
  
  b伊呂波字類抄巻二
  法隆寺七大寺内和銅年申造立。

  c南都北郷常住家年代記
  和銅元年戊申、建法隆寺。
  
  d東寺王代記
  和銅三年藤公建興福寺或記云法隆寺同比年建立。
     ※注 和銅元年(AD七〇八年)



 太宰府観世音寺に関する史料事実・他

A 史料事実
 「続日本紀」元明天皇和銅二年(AD七〇九)詔書
 (意訳)天智天皇の誓願により建立が命ぜられた観世音寺が、年代を累ねたにも関わらず、未だに完成していないのは誠に不都合である、特段の努力を以て速やかに営作せよ。


B 科学的研究

 a 第1回観世音寺境内発掘調査(一九五二年)九州文化総合研究所主催
 この調査に依り観世音寺が同じ法隆寺様式(南北軸線に左右対称に金堂五重塔を配置する様式)ながら西・金堂、東・五重塔の配置で現法隆寺とは全く反対の配置であること、金堂は基壇の下に更に二時期の基壇が存在したこと、金堂が平面の長辺方向が南北にとられていることから東面していたことが明らかになった。(現法隆寺金堂は南面している)

 b 第2回観世音寺発掘調査(一九五七年)
 この調査で境内各所にトレンチを堀り調べた結果、寺院の規模が確定しその結果を基に鏡山猛氏が観世音寺伽藍配置復原図を作成した。


C 古文書の記載

 a 「東大寺諸荘園目録」(平安遺文二七八三)中に「壱巻五十五枚延喜五年資材帳」「壱巻三枚大宝四年府符縁起」及び「養老絵図」の存在が記載されている。「延喜資材帳」と「養老絵図」は幸いにも現存しそれぞれ東京芸大図書館及び現在の観世音寺に保存されている。
 これによると観世音寺は和銅二年詔勅の後三六年を経過した天平一七年(七四五年)に起工、同十八年に落成(僧玄防の指揮による)したことが記され、又「養老絵図」は鏡山猛氏の配置復元案の信憑性を高めた。(注)ここに示された観世音寺は移築後の再建観世音寺である。



 近山五文氏(米田良三)の仮説

 近山氏は現存する古文書、研究報告書、等々を勘案して以下のような仮説を提示した。
 現法隆寺金堂、五重塔、夢殿、その他は、太宰府観世音寺を解体移築した建物であり、その時期はAD七一〇年である。また太宰府観世音寺そのものは中国正史「隋書」に記載されるイ妥国の王者、多利思北孤によりAD六〇七年太宰府に創建されAD六一八年落成した。現存する主要な仏像も又観世音寺からの移設である。


 論証

 A 西院伽藍解体修理工事報告書中の浅野清氏の疑問

 工事担当者の一人、浅野清氏は詳細な報告書を作成した。その中で金堂大屋根垂木の釘に打ち直しの跡が認められぬ事を根拠に、これら建物が過去一度も解体されたことがないと断定した。しかし技術者的率直さをもって、西院伽藍の構造上の疑問点を以下の8点について書き残している。

 a五重塔
 第一層内陣束柱に2カ所、周囲よりも古い解体古材が使われている。後からの取り替え不可能な部位だけに理解に苦しむ。
 第一層天井化粧裏板に、旧裳階屋根材の改造材七十二枚が使われている。これも差し替え不可能な部位なので原因が判らない。
 第五層内陣土居材に旧五層野隅木が使われている。これも取り替え不能な部位であり理解に苦しむ。
 第一層内陣天井に明らかに位置の変わったものが八枚有る。慶長年間に雨漏りのため天井修理の記録が存在し、7枚に付いてはその際の取り替え材とはっきり判るが、前者は柱取り付き部を含み差し替え不能部分であるので理解に苦しむ。

 b金堂
 第一層屋根下尾垂掛に取り付く束の取り付き仕口が不統一である。西院の様な第一級の建物では考えられぬ事態である。
 初層西面南よりの第2柱上大斗と肘木の取り合いに矧木(スペーサー)がかまされている、取り合い部の切り過ぎか?
 金堂の礎石は自然石と加工石が混在し甚だ不統一であり、このクラスの建物では他に類をみない。礎石上辺の高さは約一〇センチメートルの高低差が有った。
 初層側柱2本に約九センチメートルの根継ぎが認められる。取り替え困難な位置であるのでどんな工法を用いたか理解できない。
 以上浅野氏の疑問のうち、㈰から㈮迄は建前の時、部材が不足していたか、加工寸法が間違っていた事を示している。今日でも建前時期の部材不足や寸法間違いは大工棟梁の社会的信用を一度に失墜させる行為であり、誇り高き工人なら絶対起こさない事故である。又、㈯㉀については基礎工事の品質の粗悪さを示しており、勅願による大寺院の創建に似つかわしくない。これらは西院伽藍が解体移築されたと理解するとき、忽ち何のわだかまり無く理解出来る事実を示している。
 そもそも金堂の垂木の釘に打ち直しの形跡がないと云う浅野氏の基本認識は絶対的なものではなく、ごく丁寧な解体工事で入念な工事を行えば、移築時に元の釘穴をそのまま利用して固定することは充分可能である。従ってこの事を以て非解体説の根拠とする事は出来ない。


 B 各所部材の落書き

 a六月肺出
 金堂格天井格子裏側に六月肺出の落書きがあった。肺とは彗星を意味する漢語であり、ハレー彗星である可能性がある。フィレンツェの画家ジオットーがハレー彗星の出現を描いている。これは一三〇一年と時期が確定出来るので、これから逆算して、彗星の周期は七六年とされているから、六〜七世紀では五四一年、六一七年、六九三年が該当する。観世音寺の起工が六〇七年、落成が六一八年とすると、六一七年が該当する。傍証として朝鮮半島の史書「三国遺事」新羅、真平王三九年(六一七年)記事に融天彗星歌がある。これによると彗星出現と同時に倭の大軍が一斉に撤退した事が記されている。

 b「巳五内」の大工符丁
 木造建築はあらかじめ加工した部材を現場で組み立てる工法であるが、その際それぞれの取り付け位置を正確に表す符丁を部材ごとに書き入れる。この約束事は現代と古代は基本的に異なり、古代でも流儀により多少の異同があったとされている。現代では西欧の影響で直角に交わるX軸Y軸の座標を用いて柱位置を決めるが、古代は建物中心で平面を十二等分しそれぞれ北から子丑寅卯辰巳・・・に分割し、四隅の柱を良巽坤乾と時計回りに決めて、その間を2番目の柱から1、2、3・・・と番付を打った。その材の位置する方向と順番で符丁が決められた例えば「巳五」「辰三」等々である。
 金堂内陣小壁間束東面北より4番目の束の南面上角に「巳五内」と墨書されていた。前述の符丁の法則に従うと、ここは「辰三内」の筈である。大いなる疑問である。しかしひとたび太宰府観世音寺の場合を適用し、金堂の軸線を九十度回転させると、この束は間違いなく「巳五内」に位置することになる。これは法隆寺の観世音寺移築説を証明する重大な証拠である。


 結び

 近山氏(米田)の論証はさらに広く細部にわたっています。その全てを網羅する事は出来ませんが、最も重要な部分は紹介し尽くしたつもりです。更に詳細にお知りになりたい方々は、下記に著書名と出版社を記しますので別途お求め下さい。

近山五文著 「真理は導く…史料としての法隆寺」 (株)u.モア一九八九年

米田良三著 「建築から古代を解く」        (株)新泉社 一九九三年


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第七集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜七集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp


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