「和田家文書」に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史の考察1 2 3 4
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古田史学会報73号 2006年 4月12日
「和田家文書」に依る『天皇記』『国記』
及び日本の古代史の考察3
藤崎町 藤本光幸
【遺稿】
次に第十代崇神天皇以前の天皇について考察してみましょう。
(12)「丑寅日本記 第七」“天皇系疑審書”
「抑々、天皇記を読むれば、古事記、日本書.紀、に奉る天皇をして、世に非らざるを系継せる多し。先づ以て、孝元天皇即ち諡号にして荒覇吐王系なる大根子彦王、その皇子稚根子彦王二代ぞ、天皇に非らず、倭領奪回せし安日王、長髓彦王の阿毎氏耶靡堆王、後なる荒覇吐王系なり。天皇記を捧持せる蘇我氏は己れを蝦夷とせるは此の故なり。
(注)傍点は筆者、インターネット上は赤色表示。
丑寅を平征せると曰ふ崇神天皇(?)、日本武尊、更には、神功皇后も世に非らざる皇系なり。審せば疑ふる多く、朝廷作なる古事記、日本書紀、にいでくる古代天皇の系継ぞ信じるに足らん。王朝之一統司政は後世にて、諸王の王国を以て古代は成れり。
抑々、公史にして、東国の記行なきは知り得ざる未知の彼方にありてこそなり。倭国さえ、和珥王、葛城王、宇治王、大津王、木津王、越王、出雲王、ら群位しけるに、是を一統しけるは至難にして成り難し。
天皇記は、その明細にありて明らさまなり。各処に遺れる天皇陵また然りなり。依て、倭王より大なる墓陵にては宿葬とて玄武の遺骸を抜きて葬せし御門ありきも明白なりと曰ふ。
正平二年五月一日 物部蔵人」
(13)「丑寅日本記 第六」“侵入不可侵之東日流”
「荒覇吐王の発祥せし東日流及び宇曾利の国は津保毛王の一万年前より応永十七年に至る間、倭領直治のなかりける民族自治の国たり。是の地に耶靡堆より落来たる安日彦王一族を始めとせる落人多く、その智聖を遺したるは、造誘作説の倭史に記さる偽史なり。
吾が日本国は一統信仰になる国治安泰を永代せし国なり。倭人の如何なる智謀も東日流、宇曾利には通ぜず、以て侵入不可侵の国土たり。吾が国より倭国の天皇となりしは大根子彦にして、世に是を孝元天皇と曰ふなり。その誕生せる地に、大根子神社のありきは、今に遺りけり。
吾が国は豊葦原の国にて稲作を耕作せし二千三百余年の史実あり。西に三輪、東に稲架郷に創まりぬ。依て、稲作を稔らせし諸技ぞ倭国より入れたるものならず、晋民の漂着にて、伝はりたるものなり。
古代より民に掟あり。山靼を通じて進みたる紅毛人の律を習へて造りたる国なり。武道また然りなり。失ふなく歴史を伝へたるは、シュメールに習ふる語印にて、信仰の縁源亦、然りなり。依て、倭史を学ぶる者に、丑寅日本国の古史を云々せるは、何れも一毛の史実に当るは無かりけり。
倭史を以て成る史伝を覆えすは、天皇記及び国記に明細たり。はからずや是を吾等に伝へしは蘇我氏にて、日本書紀、古事記、の上記になる偽と実との相違を吾らは掌握しける。是ぞ、いつ代にか衆に説きなば、天皇代に廃さる憂に追求を免がれざる要史なり。依て、是を奪はしむに蘇我氏を誅せども、既にして荒覇吐王の掌握さるまま今に遺りぬ。征夷の至らぬ東日流に是ありきとは、世襲至らば顕れん。
寛政六年十月廿日 秋田乙之介」
これで明白な様に八代目の孝元天皇は荒覇吐王系であり、九代目の開化天皇も同系なのです。十代目の崇神天皇になって、倭国系になったのです。ここで、崇神天皇に関する記述を見てみましょう。
(14)「丑寅日本記 第七」“丑寅日本国史抄”
「倭国の天皇記に曰く。韓国より渡来せる崇神天皇とて倭王となれるあり。常にして丑寅にうかがえて、兵を遣して敗るが故に、河内王和珥帝と和睦せんとせるも、和珥帝、元より膽駒王富雄郷之長髓彦系なりせば、春日穂無智別を遣して崇神天皇を討伐せり。
和珥帝に縁れるは、宇治氏、大津氏、木津氏、春日氏、ありて蘇我郷の崇神天皇と常にして攻防の戦を相争ふたり。
崇神天皇に加勢せるは、葛城王にて、日向の出なり。故地日向は、筑紫王磐井氏に滅亡さるまま崩滅せる後を猿田氏が地配せり。是また薩陽王、隼人王、併軍押領に屈したり。
筑紫にては熊襲王、邪馬壹王と併せて奴国王を亡し、茲に立国せり。崇神天皇とは伊裡王の事なり。天皇系にして、景行天皇、倭武、神功皇后、ぞ実在せざるとぞ、天皇記に記述ありき。
文正丙戌年二月七日
船史恵尺之流胤 竹内宗達」
ここで、古代耶靡堆五畿の状況を見てみましょう。二項目あります。
(15)「丑寅日本記 第八」“古代耶靡堆五畿王”
「浪速国潮太之王 大堺泉彦
膽駒嶽白谷之王 富長髓彦
耶馬臺国孔舎衛坂王 磯城大彦
河内国草香津王 大和珥彦
耶靡堆国多草之王 戸畔大彦
耶靡堆国莵田之王 津奴大猾
耶靡堆国古野王 八十梟師
耶靡堆国国見黒坂王 大兄磯彦
耶靡堆国蘇我之王 安日彦
山城国鴨之王 大鳥※翔彦
山城国宇津之王 一頭八咫鴉日子
浪速国波多岬之王 和珥坂彦
浪速国臍見岬之王 春日彦
三河国高尾張之王 長手足彦
邪馬臺畝傍明日香王 美真手彦
耶靡堆国三輪嶽之王 阿毎彦
加賀国犀川之王 多利思比孤
加賀国白山嶽之王 阿輩鷄*彌
越国糸魚津之王 箸香媛子
右天皇記自第二巻
治暦丁未年一月廿日 日川神社伝書
寛政五年六月一日 写
稗貫之住 鈴木惣太郎」
鷄*は、「鳥」のかわりに「隹」。JIS第三水準、ユニコード96DE
(16)「丑寅日本記 第十一」“丑寅日本国実史”
「丑寅日本国を君主とて統治せしは安日彦王なり。安日彦王の祖系累代は阿毎氏にして、耶靡堆彦王を遠祖と為し、爾来、多利思比孤を祖と世代せる加賀犀川の三輪山に分住みの系あり。亦、山住の阿輩?彌は白山にありて越に移り立山を領す。亦、宗主の系は東国に移り、富士山を領と加へてより安倍氏と改姓し、更に丑寅の地を開き、坂東より北の領を日本国と号けたり。
阿毎氏の代に地豪の王を併せて耶馬臺五畿の五王を連立せしめ国治むれば、世に是を耶馬臺五畿王と号されたり。
筑紫に賊起り、その王を佐怒と曰ふ。日向王となりて筑紫を討伐せしめ、更に山陰、山陽、南海道、内海諸島、をも掌握したり。地王たるは出雲王、筑紫王、猿田彦王、ら県主、邑王、らを併せて国ゆずりとす。
高嶋に王城し、耶靡堆を攻むる事八年、遂にして略す。依て、時の王、安日彦王及びその舎弟富長髓彦ら、地領の民ら大挙して東国に降りて、更に丑寅に落北せり。
国末の東日流に豊葦原を拓き、晋の流民群公子一族、及び地民の阿蘇辺族、津保化族、麁族、熟族、らと併せ、漁撈、稲作、馬飼、犬飼、鶏飼、牛飼、杣、狩猟の民と一統し、茲に、荒覇吐王国を建国し、その一世なる王とて安日彦王を即位せしむ。その補王とては富長髓彦を従へて、茲に日本国と号し、東西南北に補王を置き、更に隔つる間に県主、郡主、邑長、郷長を定めたる国治をなせり。
代々に東日流、世禰志呂、糟部、飽田、仙北、瀧澤、和賀、衣川、迫大野、桃生大野、名鳥大野、砂瀉平、白根大野、会津平、坂東豊葦原、へと拓きて、国栄ふ日本瑞穂国と相成れり。東西北なる海幸、山幸、もまた民富める国と相成りてより、安東国亦は日高見国とも語部録に国号を遺しむ。
寛政五年九月二日 秋田孝季」
この後は「和田家文書」に記述されて居る『天皇記』の内容について、年代の古い順に三項目紹介しましょう。
(17)「丑寅日本記 第八」“丑寅日本国要記”
「(前略)倭史の作説なるを審し得るは天皇記、国記、に依るこそ倭史の実相なるも、是を古事記、日本書紀、等にくらぶれば、雲泥の相違なり。天皇紀元ぞ、前漢恵帝の巳酉年とあるも、即位の定かならずとありき。
凡そ仁徳天皇にて倭を一統せるも、その王朝も崇神天皇が久耶漢族を入れて斃し、崇神天皇成れるも、河内王和珥一族に誅滅さる。
後、耶靡堆の三輪郡蘇我郷箸香に春日和珥王朝相成り、攝津の葛城王朝の二朝
に、倭国は成れりとありぬ。依て、天皇紀元の一統に定まれるは推古天皇の辛酉九年に、上宮太子らに依りて、国建の一統成れりと曰ふなり。
依て、天皇記及び国記の抹消に抗して蘇我一族、滅亡の悲運に了りぬ。倭の蘇我蝦夷の古墓に至るまでに解掘さる跡ぞ、石舞台とて残りき。(原漢書)
建長壬子年三月一日 竹内金明」
(18)「丑寅日本記 第十」“天皇記行抄一”
「倭史になる古事記、日本書紀、の筆頭行記に載るる天皇の累代は、天皇記に記行なかりけり。神代、亦、然りなりき。
抑々、天皇記、に創まれる記行の筆頭にありては、耶靡堆国、筑紫国、琉球国、南海道国、淡志国、那古国、越国、出雲国、高嶋国、日本国、日高国、流鬼国、千嶋国、佐土国、対馬国、伊治島国、隠岐国、壹木国、坂東国、高砂国、の二十国なり。此の国々、島国、治むる国主の基に二百七十八主の族長ありて、各々睦みぬ。即ち、族長の基になる民は、海部、狩部、稲部、織部、工部、式部、卜部、船部、杣部、河部、あり。その他、馬飼、鵜飼、犬飼、鷹飼、魚飼、鶏飼、あり、更に塩造、玉造、器造、木造、土造、橋造、酒造、車造、鞍造、荷造、網造、炭造、石造、糸造、皮造、鍬造、らあり。是を部の民、造の民とて、営を譜代せり。防人は民、皆兵として急挙に臨めり。討物は、常にして各々備へたり、弓箭、矛、腰刀、楯、ら士気に委せて士風に造り、砦、物見、見告、攻防は族長にして指揮せり。
主系の累代を定むるは長老の選にて位し、衆に引導秀ならざる者は、旧主の子息とて廃せり。世、移りにして国主、族主、併合し、坂東より丑寅を日本国とし、赤間に至るを耶靡堆国とせり。亦、筑紫を邪馬壹国とて、三王国にて併せしも、耶靡堆は、木国、那古国、越国、出雲国、浪速国、高島国、南海道、とて分岐し、筑紫にては、奴国、熊襲国、日向国、薩陽国、隼人国、に相分岐して、常に攻防をくりかえせり。
丑寅にありき日本国、耳治安し、民の生々能く富めり。 (原漢書、天皇記)
正平六年十月二日
三河住 橘秀継」
(注)※=へん/泉、つくり/羽
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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