古代史再発見第2回 王朝多元 -- 歴史像 1998年9月26日(土) 大阪 豊中解放会館
前回の要約 『後漢書』の倭
古田武彦
はじめに
前回の要約
遅れてきて申しわけありません。それで明日京都府岩崎町の遺跡の現地説明会に参加することになっておりまして、夜 七時まで皆さんとご一緒出来ればと思っております。もちろんこれはわたくしの都合ですので、皆様がたのご予定があることは当然でございます。そういう形でやらさせていただきたいと考えており、よろしくお願いいたします。さてそれでは前回の簡単な要約から話に入らせて頂きます。(世間では)「邪馬台国」、「邪馬台国」と言って、かつその場所は分からないよというムードで扱ってきた、しかし本当にそうだろうか。私の理解では『三国志魏志倭人伝』に書いてある本来の名前「邪馬壹(一)国」を、「邪馬台国」と呼ぶのは終着点を奈良県にしたいためで松下見林の意図である。もし九州に持ってきたら筑後山門にして、後追いの理屈は後で考えると言う立場を取っていた。これは方法論としてはダメである。
これに対してわたしは、帯方郡から出て部分々の方角と里数が書いてあるのだから、その通り理解して到達するところに到達すればよい。しかもその場合、部分々の方角と里程があり、かつ全体の方角と里程が書いてあるのだから、部分を加えれば全体になる。これが不可欠の前提条件である。ところが従来の立場は、その立場に立っていなかった。それを前提条件にせず、「九州」だ、「大和」だ、と議論していた。なぜそうならないかと考えてみれば、対海国と一大国の半周の足し忘れである。その半周三百里づつと半周四百里づつを全部足し合わせるとちょうどピタリ足らない千四百里が出てきた。それで一万二千里になる。そうしますと部分里程が書いてある、最後のところ不弥国・博多湾岸、これが女王国の入り口である。そういう結論に到着したことを申し上げた。わたしの論理がどこが間違っているか、知らぬ顔をしたままで二十九年突っ走ってきた。後世の人が見たら信じ難いだろうが、分らん分らんという顔をしてきた。生意気な言い方だが、わたしにはそう見えるともうしあげた。
また前回の後半には、中国から貰った銅の鏡はどんな鏡か。『魏志倭人伝』だけでは、どんな鏡か分からない。「銅鏡百枚」と書いてあるだけだ。しかし中国(西)晋の時代の洛陽の墓が発掘された。その報告書を見ると、そこに出ている鏡は、全て前漢鏡・後漢鏡ばかりである。しかも死んだ人の年代が、三カ所分かるものがあるのですが、いずれも三世紀後半・四世紀始め、つまりいずれも『三国志』の作者陳寿が亡くなったのと同時期の人々である。亡くなったのは数年の前後しかない。そうすると陳寿達にとっての鏡は前漢鏡・後漢鏡である。そう理解せざるを得ない。日本列島でそれが集中しているのは糸島・博多湾岸である。
それに対して三角縁神獣鏡というのは日本における鏡を使った祭祀のあり方、お祭りのあり方、それに適合するような適切な形に縁が付けられている。また多数の鏡を収納するために、重ね仕舞いができるように、便利なように不都合がないように三角縁にされた。同時にわたしの推量ですが、前漢鏡・後漢鏡はそのものだったら、それを貰ってきた人にしか真似る権利がないと考えたのではないか。だから明らかに中国にない違った鏡であるなら、これは当時の常識ですから、現代風に言えば特許を冒していませんよ。そういう慎みをあらわしたものが三角縁神獣鏡という中国にはないユニークな鏡の性格ではないか。こういう議論は今までにお聞きになったことはないと思いますが、むしろ前漢鏡・後漢鏡とまったく同じでないところに意義があったのではないか。
以上のことが、わたしが申し上げた前回の要点でございます。
さてプリントを見ていただきますと、『後漢書』が出てまいります。
前回『三国志』は、全て「邪馬壹国」であるともうしました。「邪馬台国」と書いた版本は早い時期も遅い時期に書いたものない。全て邪馬壱国であるともうしました。一番簡単な横棒の「一」まであると申し上げた。
ところが「邪馬台国」という言葉は松下見林が発明したのか。空想したのか。そうではない。『三国志』より百五十年後に出来た『後漢書』は、南朝劉宋という時代に作られた。後の南宋と違って区別するために、劉という人が天子になったのでそう呼びますがその『後漢書』に、はっきり「邪馬臺国」と書いてある。しかも『後漢書』に関する限りは、どの版本をとっても「邪馬臺國」しかない。「邪馬壹国」と書いてある版本は全くない。ゼロである。ということは何を意味するかというと、前回申し上げたことでもお分かりのように、後漢書を論ずる場合は、これを邪馬一国と勝手に書き換えてはならないことを意味する。そうですね。『三国志』は「邪馬壹国」と書いてあるのだから「邪馬台国」と勝手に書きかえるのはおかしいのではないかともうしあげた。同じ論理で、『後漢書』は「邪馬臺国」としか書いていないのだから、これをもし古田なら、わたし古田が勝手に邪馬一国の間違いと見ましょうと「邪馬壹国」と書き直すのはおかしい。ぜんぜん話が通らない。
じゃあ!一体どうなっているのかと言いますと、解決は大変簡単なところにある。
なぜならば文章というのは単語を含んでいます。単語は文章に包まれています。つまり「邪馬臺国」・「邪馬壹国」とそれぞれ出てくるけれでも、その前後の文章はぜんぜん違う。じゃあ!どう違うか。
『三国志』
・・邪馬壹國女王之所都・・・可七萬餘戸自女王國・・・
・・邪馬一国は女王の都するところ・・・戸は七万余戸なるべし
『三国志』は、女王の都する所を言っている。戸数七万戸という、たいへんな広がりでしょう。そのたいへんな広がりの国を邪馬壹国と呼んでいる。都全体である。
『後漢書』
・・其大倭王居邪馬臺國、・・・
・・その大倭王、邪馬台国に居す・・・
ところが『後漢書』では、そうではない。つまり倭国の中心、代々の大倭王の住んでいるところは「邪馬台国」というところだと言っている。大倭王一人がいるところが主語となっているです。そこの場所を、「邪馬臺國」だと言っている。
『三国志』でも、三十カ国もあるように分かりますように、なんでも「国」と言っている。邪馬壹国も「国」と言っているし、小さな国も「国」と言っている。小さな浦のようなところも入っていますが、それも「国」。国と言っても、いろいろな段階の国を「国」と言っている。いろいろな人間の集まった政治単位を「国」と言っている。これも他にもいろいろ検討するとおもしろいこともあるが、今言ったことは明らかである。この場合『後漢書』で言っているのは大倭王がいる場所のことであり、『三国志』では七万戸のことである。『後漢書』で言っているのは大倭王一人のいるところのことである。そこの場所を、地名を「邪馬臺國」と言っている。もちろん、そこには「とりまき」ぐらいは居る。概念としては居ても居なくても良いが。そこが邪馬台国である。
これも言ってみれば当たり前のことですが、それまでそのことに、私も含めて気が付いていなかった。それを従来は、あたかも取り替え人形の首のように、邪馬一国が好きな人は「邪馬壹国」、邪馬台国が好きな人は「邪馬臺国」と、取り替えできるように思っていた。とんでもない間違いだった。
そういうことでいったい「邪馬臺国」とは何か。「台(だい)」を検討することに、『「邪馬台国」はなかった』を書いていらい、今まで関心があったが、これも探求するのに時間が、かかった。忙しくて現地を訪ねる時間がなかった。
なぜかというと字地名を調べていて、不思議な現象に目がいった。『明治前期全国小字調査書』(内務省地理局編纂基本叢書、ユマニ書房刊。明治政府が明治初年に調査。第二次世界大戦の空襲で、ほとんど消失。棚の端の両方の焼け残りが、なんと北部九州と青森。明治政府が、これをおこなった目的はおそらく、税金の徴収と徴兵の基礎資料が目的であると考える。)というものがあり、それを調べると、九州に「ダイ」がやたらに出てくる。一つの村に一つ以上在る。
もちろん現在の「台(だい)」とは意味が違いますよ。「・・台」、不動産屋さんへ行けば必ず書いてある。あれはちょっと見晴らしが良いですよと言う意味の「・・台」と、住宅地に宣伝の意味の「台」を付けたものです。
ところが字地名はそんなものではない。だいたい小字地名は日本語である。漢音はゼロではないが珍しい。「天神」とか「釈迦」など漢音の中国語ですが、ないことはない。しかし七・八割方は日本語です。福岡県では「ダイノウチ」、「ダイノウエ」など、やたらに「ダイ」が多く、大分県豊前なども、村々の字地名は軒並み「ダイ」「タイ」だらけである。私がふしぎに思ったのは、軒並み漢語が、小字地名にあるとは考えられない。もしかしたら「ダイ」は、日本語かも知れない。なぜ日本語かと言いますと、「平ら」、「平らげる。」という言葉がある。ご馳走を平らげる。敵を平らげる。そういう使い方をする日本語です。「ら」は空、村などの日本語ですから、語幹は「たい」である。「平らな」、「平らげる。」、「平らにならす。」など名詞・形容詞もあり、中国語ではなくて、日本語かも知れない。これを机の上で想像しただけでは答えになりませんので、現地に行って調査してみなければならない。
東京にいたときは自慢にはならないが、講演とか授業などがあり、忙しくてとても現地をたずねて調査ができなかった。それで定年になり京都へ帰ってきて、毎日日曜日という結構な身分になり、やりたいことは一杯あるが、まず一番目に取り組んだのがこの件である。
それで志賀島の国民休暇村に拠点を設けて、一九八六年の二月、毎日調査に歩き回った。現地を訪れた。こういうことはやってみて、無駄に終わることが多いですし、また思ったよりも時間がうんと掛かることも多いが、この場合は逆で「案ずるより生むが易し」、皆簡単に分かった。例を上げたい。
1 福岡県遠賀郡大鳥居村 和田 丸ノ内 臺(現在は北九州市)
2 遠賀郡蜑住村 小森 森下 臺ノ内 (現在は北九州市)
3 鞍手郡金丸村 走折 臺ノ上 深ノ口(現在は若宮町)
1 福岡県遠賀郡大鳥居村 和田 丸ノ内 臺
持ち主のお百姓さんに案内して頂き「ここが私の臺です。」と確認し、道路と川の間のぬかるみの低湿地を「臺」と言った。そこは堤より低い。
(それでも無理に考えれば、高台を削ったことがあるかもしれない。そんな兆候はないが。)
2 福岡県遠賀郡蜑住村 小森 森下 臺ノ内(だいのうち)
ここは明確な場所です。湾が入り込んで昔海だったことがはっきりした。輪郭が残っている。「私の所の畑が臺ノ内です。」と同年のお婆さんから確認した。昔海であったところを埋め立てたことが明瞭です。もっと広い低湿地の台の一部である内です。
3 福岡県鞍手郡金丸村 走折 臺ノ上(だいのうえ) 深ノ口
石鞍手高校のプールの有る所が「臺ノ上」です。田畑より六十センチほど高い。道路よりわずかな勾配で学校の校門に向かって上がっている。。その上を「臺ノ上」と言っている。従って「臺」はその下の低湿地となります。
(また関東ではもっとはっきりしていました。堤より低い低湿地が「臺」です。九州と違うのは、非常に広い領域を「だい」と呼んでいる。利根川に面した広大な低湿地が、「臺」です。)
中国語の「ダイ」は、盛り土を表し、更に発展させて「宮殿」を言うが、それではなくて、低湿地を「だい」と言っている。
考えてみれば日本では低湿地が多い。島国だからその低湿地を埋め立てて平らにして、畑や家を作っている。そういう低湿地の所を「だい」と言っている。現在不動産屋さんがいう「台」とは逆である。あれは見晴らしがよい、御殿も建ちますよという意味の中国語の「台」ですが。ところが『明治前期全国小字調査票』に残っている字地名の「だい」は、低湿地を埋め立てて平らにした所です。それを意味するということが、予想以上に分かってまいりました。おそらくもう少し後なら、分からなかったかも知れない。私と同年ぐらいの人がいて、話がうまく通じて案内していただいた。ちょっと若い人に聞くと知らないと言われた。そういう意味で、いい時期だったかも知れない。最後の時期であったかも知れない。とにかくそういうことで、分かってきましたのは「たい」という日本語があって、それは低湿地を意味する。
そうすると「やまだい」とは、「やま」と言われるところがあって、そこの側の低湿地を意味する所ではないかという事が分かってきた。
しかもこの場合大事なことがある。『後漢書』は、『三国志』より百五十年あとに書かれた。当然『後漢書』を書いた范曄という学者も『三国志』を読んでいる。また『後漢書』の読者である中国のインテリも、もちろん『三国志』を読んでいる人が読者になる。その場合『三国志』を見てみると、そこにはきちんと帯方郡からの方角と里程が書いてある。ところが『後漢書』には、方角と里程が書いてない。これは何か。方角と里程なしの国に変化したのか。そんなことはない。つまり方角と里程はきちんと『三国志』に書いてありますので、重ねて書くことは致しません。ただ『三国志』には、七万戸の邪馬一国という政治地名が書いてある。七万戸という大変な広がりを持った地域である。ところが『三国志』では大倭王のいるところが書いていない。中心の場所が書いていない。玄関の不弥国に入った。都はその南にある。都の領域に入ったことで満足している。それを一歩突き進んで新しい情報を提供します。それは「邪馬臺」と呼ばれている所です。だから『三国志』の倭人伝と場所は同じ場所である。ただその場所を指す場合、広域を指すか狭い領域を指すか。その違いだけにすぎない。ということが分かってきた。
(「邪馬壹國」の「壹」は、中国に二心なく忠誠をつくすという意味を『三国志』では表わしている。中国に対するオベンチャラを入れた政治地名である。もともとは倭国の「倭」は「wi」という発音ですから、それを下敷きにして音が似ていて「二心なく忠誠をつくす。」という中国に対するオベンチャラ用語だと、わたしは観ている。壹与が考えた。壹与もほんらいは倭与だと考えていまが、それを「壹与」で表したと考えている。)
これも私にとって大きな発見でした。特にこの場合、方法的に申しますと「承前史書」といわれるルールである。中国の本には、歴史書を書く場合一つの重要な方法がある。定型がある。
何かというと、中国の王朝にはA、B、C、D、Eと次々時代によって王朝の歴史書が作られている。その王朝の真ん中で作られたものもあるし、直後に作られたものもある。大体その王朝が終わってから、その直後の王朝に作られるようですが、『史記』『漢書』はその王朝の最中に作られる。『三国志』は(曹)魏がおわって後の(西)晋の王朝で作られた。ですから王朝が終わって次の王朝に作られるというルールは、『三国志』から始まったと言っても良いようですが。いずれにしても皇帝が承認した正史。個人が勝手に書いたものではなくて、これは間違いないですよと、「王朝としてそれを承知します。」と、決定済みであるものが「正史」と呼ばれる。
正史ですから、正史Bは以前に書かれた正史Aを無視して書くことは許されない。当然正史Aを土台にして、前提にして、それにないプラスを書き加えるのがルールである。以前の正史を、そんなものは私は知らんよ。私が書いたものではないのだから、勝手に書くよというものではない。そういう書き方はしない。当然といえば当然である。そういうルールが成立している。言葉でいえば「承前叙述・継史書」である。わたしはそういう名前で呼んでおきます。
そういう方法が、行われているという事は前から思ってはいたが、邪馬台国と邪馬壱国という問題の検証を通じて、はっきりと確認した。だから「台(臺)」と「一(壹)」を松下見林のように勝手に取り替えて平然としている。これは「承前史書」の性格を知らないで、意識しないで、すげ替え人形のように自在に取り替えるように、「どっちが本当だろう。私はこれが良い。」と判断する。学者も含めて、不思議なことにそういうやり方を、今まで行ってきた。
ですから中国の歴史書の書き方を正確に認識した上で、そこに出てくる単語を処理するという方法。これは学問として基本だと思うのですが。それを生意気ですが、その基本を忘れていたのではないか。今でも『倭人伝』に邪馬台国があると学者は平気で言っている。それは基本の処理を忘れた人々が、おこなっていると感じている。わたし以外はみんなそう処理しているから、ぜんぶ部忘れていると言うのは生意気ですが、しかし私にはどうもそうとしか思えませんが、どうでしょうか。
以上、前回の邪馬台国問題の追加であり、大きな答えになっていると思っております。
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