古代史再発見第2回 王朝多元 ー歴史像 1998年9月26日(土)大阪 豊中解放会館
古田武彦
さて『後漢書』には、今までにないもう一つ重要な、まったく新しい情報が読み込まれております。この表現です。
倭國之極南界也光武賜以印綬
倭国の南界を極むるや、光武 賜うに 印綬を以ってす。
この表現です。広げて書くと書き方がちがっている、この表現です。
建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬
建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す、使人ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武 賜うに 印綬を以ってす。
従来はこのように読まれて来ています。皆さんもこれに慣れていると思います。しかしこの読み方はおかしい。
この「倭国の極南界」はどこを指すか。結論からいえばはっきりしていて、九州の志賀島、金印が出た所を指していることは間違いがない。広げて言っても博多湾岸を指していることは疑いがない。ところがここで「倭国の極南界なり。」と、ここでは言っている。 ところが「極南界」の「極」という字は、中国人にとっては簡単に使える字ではない。「極」は中国語で極端な話を示す。『後漢書』で言いますと新彊省シルクロードの西の南の果て、ここから先はヒマラヤ山脈に向けて道はそこで終わっている。そこで道は極まると言っている。長安から辿ってきた道が、そこで道が終わっている。そこで「極」という字を使ってとうぜんです。又もう一つ出てきまして『三国志』では、中国と古くから往来してきた粛慎国のことを述べて、粛慎というのは日本の歴史を考える上で重要な国名、民族と思いますが粛慎国は沿海州、場合によってはベーリング海峡辺りまでを指すのでしょうが、とにかく「この北は極むる所を知らず。」と書いてある。そこから先、北の方は分からんと書いてある。これは非常に正直です。現在の北極を指すのでしょうが。中国人は粛慎国と往来しているからそこまでは分かっているが、その北は分からんと正直に書いてある。そこで「極」を使ってある。中国の中心、洛陽・西安から見まして、その認識の果てる所を指して、一番端のところ、それが「極」と言われている。
そうすると中国側にとって九州博多や志賀島が認識の南の果てなのか。そんなことはない。まだ投馬国が南の方にあると書いてある。方角が東の間違いだと日本の学者が言ってみても、それを中国の人が間違っていると思って読むわけではない。当然中国の人は南だと思って読む。とうぜん博多湾岸より南の方に、五万戸の国があるということはちゃんと『三国志』に書いてある。なのに志賀島が「極南界」だとはおかしい。
大体志賀島が倭国の南の端ではおかしい。北の端と言うならば、まだ対馬・壱岐を無視すれば理解できるが。また「南の端」というならば、かりに朝鮮半島全部に倭人が住んでいて、その南の端が志賀島に及んでいるというのならば理解できるが、そんなことはない。その先に人が住んでいて、わからんと言う話ではない。ここで「倭国の極南界なり。」という読み方はおかしい。私もおかしいと思わなかったけれども、考えてみたらおかしい。
更にその次がおかしい。印綬をやった理由が書いていない。「光武賜以印綬 光武賜うに印綬を以ってす。」これは我々が知っている金印授与である。我々が知っている臣下として最高の金印を与えた。しかし最高の金印を与えた理由が書いていない。「理由は分からないけれども印綬をやった。文句はあるか。」という書き方に感じるように読める。歴史叙述としてはまったく主旨が整っていない。
しかし、これは読み方が違っていたのではないか。ある方のご質問を契機にして、気が付いた。
原文を見て下さい。「也」は、終止の「なり」と読むとは限らない。中間の「や」とも読み方は出来る。この用法は『後漢書』にも両方あり、また東夷伝自身にも両方の用法がある。当然「也」とあれば、「なり」とよむか「や」と読むべきか、迷って欲しかった。だから「や」と読めば、どうなるか。
倭国極南界也光武賜以印綬
倭国の南界を極むるや、光武 賜うに 印綬を以ってす。
わこくの なんかいを きわむるや、こうぶ たまうに いんじゅを もってす。
つまりなぜ光武が印綬を遣ったか。東夷の世界では他に金印をやった例はない。高句麗も新羅も百済も金印は貰っていない。それをなぜ倭国にだけ金印をやったのか、理由が書いてある。倭国は南界(南の世界)を極めたから、倭人が報告したので、それを知った光武は倭国に金印を与えることにした。
と、このように書いてあると理解する。
実は滅多に出ない「極むる」と言う表現が、『後漢書倭伝』の最後にもう一度出てくる。
使驛所傳極於此矣
使駅の伝うる所、ここに極まる。
自女王國南四千餘里至朱儒國人長三四尺自朱儒東南行舩一年至裸國黒齒國使驛所傳極於此矣
これは裸国・黒齒国という問題の国である。『倭人伝』でも出てきますが、これを『後漢書』で再び取り上げまして、使駅というのは、中国への使者である。「駅」は使者が馬に乗ってきますので、馬を留めるところ、駐在所です。その中国への使者が、倭人から聞いて洛陽に報告したところは、裸国・黒齒国がいちばん端である。いちばん最後のところである。ここに「極まる」が出てくる。これは良いですよね。まさに『倭人伝』が言うように東南方向に船で1年行ったところ、船航一年かかる。そこに裸国・黒齒国がある。そこの話を倭人から聞いて記録しているのですが、そこが一番端である。そこから向こうは分からん。これは正直ですね。これもなかなか明晰な認識です。「そこから向こうは分からん。」ということは、そこから向こうはある。向こうに何かあることは予想している。陸ですから、そこから向こうには何かあるのでしょうが。しかしそこから向こうは分からんと言っている。倭人が我々に教えてくれたのは、そこ止まりである。非常に認識のしかたが明確です。ここに「極」が出てきます。ここに、倭伝の最後にもう一度「極」が出てくる。
そうしますと志賀島が倭国の南の一番端(極南界)だとはおかしい。全くおかしい。
ここに書いてある倭国の「南界(南海)」とは、簡単に言えば太平洋のことである。倭人がその領域を極めた。太平洋領域を極めた。その一番端に裸国・黒齒国があると倭人がわれわれに報告してくれた。そこで倭国に、その倭国は博多湾岸の倭国だけではなくて、裸国・黒齒国に至る太平洋の王者として、そういうものとして金印を与えた。こう言っている。壮大なスケールですね。それはある意味で、自画自賛かも知れません。そういう倭国が我々に使いを送ってきたので金印を与えた。言うなれば、我が中国の天子のご威光は船航一年の裸国・黒齒国迄及んだということになる。そういう意味では自己賛美かもしれません。しかしそう読んだときに初めて、文章がきちんと分かる。志賀島が南の一番端(極南界)だという、べらぼうな話ではなくなる。
しかしそうは言っても、倭国が裸国・黒齒国の情報を伝えたぐらいで金印をやろうというのは少しおかしいではないか。このように考えられるかたがあるかも知れない。もっと裸国・黒齒国が倭国と関わりがあるならともかく、同じ倭人であるというならともかく、そのような噂を伝えてきたぐらいで、情報を伝えてきたぐらいで金印を遣るのはおかしいではないか。そのように思う人があるかも知れません。その通りである。
ところが凄い話が出てきた訳です。
ここにアメリカのワシントンの世界最大のスミソニアン博物館、そこのエバンズ夫妻が作成した、たいへん大きい報告書をお回し致しますので見て下さい。この報告書を作成したときは三十五年ぐらい前ですが、アメリカという国が今みたいに赤字の国でなく栄えていた実力十分の時代の報告書ですから、白黒ですけれども写真などもしっかり載っており、前半はいろいろな統計が載っている見事な報告書です。
これで何を言っているかというと、南アメリカ西海岸の北半分ペルーからエクアドルにかけて土器が出てきた。なんと日本の縄文土器とそっくりの土器である。それでエバンズ夫妻が日本にやってきて研究されました。やはりこの土器は縄文人が南米に渡ってそこで、そこで新しい文明を開いたと考えざるを得ない。そういう結論を出された。
この説はアメリカでは非常に有名で、博物館では太平洋を真ん中にした大きな地図が壁に貼ってある。しかも日本から南米に来たという矢印がある。それを見学に来た子供たちが写している。そういうことが日常的におこなわれている。ところが日本ではだれも教わっていない。皆さんも小学校・中学校で教わったことはないでしょう。日本では考古学者はみんな知っていますが、アウト。考古学者が出させない。ひどい話ですね。情報遮断という形で出させない。言い出すとこれも面白すぎて、たくさんありますが、わたしには思い出があります。もう時効だと思うので言いますが、朝日新聞社が「縄文人展」を企画した。このエクアドルの土器の展示を、一番の華にしたいので、「エバンズさんに紹介して欲しい。」と言ってきた。わたしは喜んで紹介状をエバンズ博士に書いた。エバンズ博士は喜んでいた。ところが日本の考古学者が反対。そういうモノを出すなら、我々は(展示品を)引き揚げると拒否した。大学の所有しているものは私有物ではない。国民の物を預かっているにすぎないのに、それを私有物のように出さない。一斉にストライキ。そういういきさつがあって、朝日新聞社は泣く泣くわたしとエバンズ博士に撤回を要請してきた。そんな経過を知らないで「縄文展」は行われた。見せられている人は、知らぬが仏。見せられた人々はそういう一幕があって、一番の目玉はカットされたということは、日本国民に知らされないままに行われた。わたしは知っている。これだけでなく、もちろん教科書からもカットさせられている。
これなども、わたしなどは常識的な解釈で、賛成・反対は、いくらあっても良い。賛成か反対かは、見せてから行えばよい。賛成か反対かは別にして、見せて展示会でも講演会でも、反対の説があると紹介すればよい。日本の学者には、これに対する反対の説があると書けばよい。邪馬台国でも、近畿説と九州説があると書いてある。ところがそれを書かせない。一切あることを知らせない。ひどいではないですか。現在厚生省などの情報公開といって騒がれていますが、物質的に見えた物は気がつくが、精神の傷は気がつかない。気がつかないままになっている。
このことも話を始めると切りがないので、この辺で省略するが、わたしは『「邪馬台国」はなかった』という古代史の第一番目の本を書いた。書き終わった頃は『邪馬壹国』というだけの題だったのだが、それを朝日新聞社の米田さんにお渡しした。そうすると米田氏がお出でになって言われたことだが、「大変結構な原稿です。しかし最後の「縄文人が太平洋を渡る」という話だけは、今回カットさせて頂きたいと思います。読者が付いてゆけないのと思いますので。」と、こう言われた。ところが、わたしはそう言われることは覚悟していたので、その答えも用意していた。「それはダメです。わたしは読者をおもしろがらせるために、おもしろおかしく書いたものではありません。倭人伝の中に、東南船航一年の所に裸国・黒齒国がある。それを本気で考え、そう受け取ろう。」とした。
当時二倍年暦という問題、倭国は今の半年を「一年」と言っていたという問題が出てきていた。その立場から観ると半年である。半年で行ける所はどこだろう。ちょうどその時、勇敢な青年達がヨットで太平洋を往復しておりました。まず堀江青年、今は良いお年ですが。次は鹿島俊男さん。あの方は往復された。そういうデータから観ると、日本からアメリカのサンフランシスコまではいずれも三カ月です。海流の早さですからヨットの速さではない。自分の漕ぐ早さでもない。もちろん労力の早さでもない。単純に海流の早さである。風と波の力である。それでサンフランシスコから、単純に地図に糸を引っ張ってみると南アメリカの北部になる。エクアドルとペルーになる。しかし南のチリには行かない。長いですからね。南アメリカの北半分には行けるけれども南半分には行かない。それで大胆にも南米のエクアドルとペルーの地に裸国・黒齒国があったと考えざるを得ない。『倭人伝』の表記を信用すれば、そのようになると書いた。もっとも全くの当てずっぽうというわけでもなく、手がかりがないわけでもなかった。南アメリカの北部沖合いにはフンボルト海流という最大の寒流が上がってきて、そこで黒潮という世界最大の暖流とぶつかっていた。黒潮の生命はそこで終わる。だから船で流されると、そこから先へは行けない。そこで陸に上がるか、太平洋の真ん中タチヒ島に行くしかない。一つの終点に当たる。そこが裸国・黒齒国になる感じです。そこが半年に当たるので、偶然とは思えないという感触はあった。しかしそれだけのことで、わたしの立場は海流の問題は直接関係しない。わたしの立場は、フンボルト海流よりも、ともかく『倭人伝』の表記を、そのまま著者陳寿が言いたいことを言いたいようにそのまま理解すると書いた。いろいろ先入観を交えずに、その立場から書くとそうなるという事です。
もう一度言うと、米田氏が「縄文人が海を渡った。」という件だけはカットさせていただきたいと思いますと言われた。わたしは、それに対して「それはダメです。わたしは読者をおもしろがらせるために書いたものではありません。わたしの方法論だと、そうなるということです。」とお答えした。それをカットしたら、たいていの人は気が付かないだろうが、読者の中に一人でも「あっ古田は逃げたな。」と気がついた人がいたらどうなる。「陳寿の言うとおりに従うのだ。」と序文で言っておきながら、「裸国・黒齒国については、あんまりひどい。」と思って、逃げたな。こう思われたら、とくに手紙で言ってこられたら返事の仕様がない。「出版社に言われた。」と言っても、それは弁解にならない。言ってこなかったら、その読者に永遠に敗北したことになります。だからカットは出来ません。
この意味は、「縄文人が海を渡った。」という件を書かないなら、朝日新聞から著作を出していただかなくて結構です。生意気ですが、腹を決めてそう答えることに決めていたので、その通りお答えした。
そうすると米田さんが「分かりました。会議にかけて検討してみます。」と言って、五日目に来られて、「結構です。」と返事があった。あの瞬間『「邪馬台国」はなかった』が、朝日新聞から出ることが決まった。朝日新聞から出なかったらどこから出たか分かりませんが。出なかったかも知れないが、出版が決まった一瞬です。もちろん朝日新聞社の中に入ったら、うんといろいろ反対があったと思う。それを乗り切って下さったのが、先ほどもうしあげた米田さんという人の力であること疑っておりません。
ともかく、わたしは文献解読という立場だけで、そこに到達した。それで『「邪馬台国」はなかった』が第二版をむかえたとき、米田さんから連絡があって「実は面白い報告がアメリカにあります。縄文土器が南アメリカから出ているという報告があります。」ということを、朝日ジャーナルか何かの記事を元にして知らせて下さった。それで私はエバンズ夫妻に手紙を出した。手紙を出してから驚くような早さで返事が来た。出して四・五日目に返事が来た。付いたらすぐ返事をだして下さったと思う。それでこの厚い本を送って下さった。その本は二〇日かかっているが。
それで現在では問題が二つ加わりました。
一つは十年ぐらい前のブラジルの寄生虫の研究者・自然学者の方々の、たくさんの報告です。英語やポルトガル語の報告ですが。
それは南米のミイラである。とうぜんミイラにも、汚い話ですが糞がある。糞も一緒にミイラになっている。またその中にある寄生虫も当然ながらミイラになっている。それを調べられた。また野外にも糞がある。それもいちいち拾い集めて調べられた。その寄生虫の研究報告です。すると驚いたことに、その中にある寄生虫は、アジアに多い寄生虫、とりたてて日本列島に多い寄生虫であることが分かった。日本列島に多い寄生虫が、なぜか南米のミイラのうんちのなかに一杯いる。それでこの自然学者たちは大変困られた。なぜこまったかというと、ベーリング海峡を渡ってきたのでは、困まる。もちろんモンゴロイドがアメリカに渡ってきたこと自身は現在学問的常識である。ベーリング海峡を渡ってきた人はいる。「一万年の旅」というテレビなどで放映されたこともある。
しかし今の場合は、ベーリング海峡を渡って来られたのではダメである。その寄生虫は熱に弱い。摂氏二十二度以下では死滅する。われわれは、その寄生虫をお腹に貯めて、ずっと持って行けばよいと思いがちだが、そうは行かない。一度外に出なければならない。教えられた人からの受け売りですが。汚い話ですが「うんち」で一度出す。出てもう一度野菜などにくっ付いて、人間の口に入る。そういう体内と体外の循環を通じて、寄生虫というのは生きている生物である。ですからアラスカを通れば外に出た瞬間、死んでしまうから循環が出来ない。事実ベーリング海峡の周りにも糞はあるが、寄生虫はいない。北米にもほとんどいない。正確には若干いるところがある。しかし南米のミイラにはなぜか一杯いる。
そうすると、はるばるベーリング海峡を越えてきた人々のものと考えるには、あまりにも自然科学的に無理がある。それでなにか他の方法はないかと探していた。それでエバンズ博士の研究が注目された。これだったら生き延びることが出来る。黒潮は暖流である。船や筏の中でいろいろなドラマがおこなわれているのでしょうね。うんちしたり、くっ付いたり離れたりいろいろしているのでしょうが、それで生き延びることが可能である。
ということで、エバンズ説に基づいて理解できるという報告が、一人ではなくグループで何回も報告が出されている。そういう見解が十年前に、何回も出されている。日本で紹介されたのは、数年前である。
もう一つは四・五年前、癌学会で発表された田島和雄という、名古屋のガンセンターに疫学部長として勤務されている方の研究報告である。HTLV型というウィルスが有りまして、これを持っていると大変不幸なことになる。四十・五十歳代の働き盛りの船頭さんなどが、原因もなく突如苦しんで発熱し、亡くなる。私が高知県の足摺岬に行ってまず聞かされたのはこの話でした。何が原因かは分かっていないですが、そういう病気、奇病がある。後で田島氏に聞くと、その病気は沖縄、鹿児島、高知、和歌山、北海道と太平洋岸に点々とウィルスを保有している方がいる。これは遺伝子ではない。親から子へ、母乳を授ける時に一緒に移っていく。牛乳に切り替えると遮断できる。そういう医療の問題である。
ところがこのウィルスの親戚を調べたがどこにもない。中国、朝鮮にもない。きっとあるだろうと思っていたインドネシア・ミクロネシアにもない。ところがなんと南米のインディオの方を調べたら、この人々からぞくぞく発見された。今は研究が進んで、一型、二型、三型、・・・と細かく分類できるが、いくら細かく分類しても日本列島と南米のインディオは同一の型である。一致している。これが何を意味するか。簡単に言うと先祖が一緒である。この方法の場合は、途中は分からない。変な呼び名ですがインディオ、現地の方々と日本列島の太平洋岸沿いの方々とは、同じ先祖からの別れである。それだけは明確である。これが現在の状況である。
こうなると、わたしは倭人伝をそのまま理解しただけであるが、「古田は馬鹿だ。あんな事を言って・・・。」と言われてきたが、わたしの説が駄目であると言うことは難しい。
ある有名な学者が書いてましたよ。学生に、「『「邪馬台国」はなかった』はどうですか。」と聞かれて、返事として「それは彼が書いている南米に裸国・黒齒国があるという話を見ればよい。あの話を見ても、彼の邪馬壹国説は論ずるに足りないことが分かる。」と答えている。変な論理ですが、そう書いていらしゃる有名な方、熊本大学の教授をしておられて亡くなられた方、藤間生太さんですが。書いた人は正直で、他の学者はみんなそう思っていたらしい。ところが実は、今お聞きのような証拠が次々出てきたので、とてもこれは無視できない状態である。無視できない状態であるけれども、まだどの学者も無視している。そんな説があるのは知らんよ、と無視する態度を繰り返している。無視する姿勢を、まだ続けている。いつまで続くのでしょうか。
さて今の問題で驚くことがある。これは何を意味するか。裸国・黒齒国にいる人々は広い意味の倭人である。そういうことを意味する。日本列島人である。そうする倭奴国というのは太平洋に跨る海洋国家である。
大体「倭の奴国」というのは無茶苦茶である。中国の金印というのは「AのB」と、与える方と与えられる方が一対一であるのがルールである。その中に中間の第三者を入れるやり方はない。それを三宅米吉という明治の考古学者が、金印を三段読みで読んた。それが本居宣長の国学と結びついて「那の津」と一致する。それで「漢の倭の奴国」と読んだ。
それは無理で倭奴国。「凶奴」というのが後漢の光武帝の終生のライバル。それに対して従順な種族という意味の「(漢の)倭奴国」。その倭人の総体を指すのが「倭奴」である。その総体の中には、裸国・黒齒国人も入っていたのではないか。震えるような感じです。その判断は正しかった。もちろん後漢の光武帝が特別なリサーチ能力を持っていたわけではない。倭人がそう言った。それを光武帝が認めて信用するに足りると判断したから、高句麗や百済・他に与えたことのない金印を与えた。その判断は正しかった。
ここまで話が進展するなどとは思いもしなかった。倭人伝を読むルールとして、そう読んだにすぎない。倭人伝を読む姿勢として、削除することは出来ませんと言ったに過ぎなかった。それが思いもかけない大きな反応に到達した。
倭奴と凶奴は一対の言葉である。凶奴はヨーロッパのハンガリーからバイカル湖そして万里の長城の端までが活動領域である。その凶奴に匹敵する倭奴の領域が太平洋である。)
この話も言い出すと切りもないが、一つだけ示しておきます。ここに写真がありますが、右側の二列が日本の縄文土器、左側二列が南米の土器、言わなければどちらかはおそらく区別できない。それだけ良く似ている。そして似ていない要素もある。それはお人形さんである。このような人形は(日本の)縄文土器からはご覧になったことがないと思う。エバンズさんが人形の写真を送ってこられて何か覚えはないかと尋ねられた。気になっていたのでしょう。私は日本の縄文遺跡からは出てこない。しかし非常にジャパニイーズ・ライク、日本人好みの顔であるという御返事をした覚えがある。われわれ日本人には非常に親近感を持つ顔である。南米のインカ文明は、われわれから見て恐い顔をしている。我々とは非常に人相が違う。ところがこれは非常に日本人の顔とよく似ている。しかも日本人と同じ糞の寄生虫を持っていたというのは不思議な感じがしますね。『後漢書』の問題はそういう形で、もうしあげました。
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