古代史再発見第2回 王朝多元 -- 歴史像 1998年9月26日(土) 大阪 豊中解放会館
『古事記』の倭 韓国の三種の神器
古田武彦
またその神の嫡后須勢理毘賣命、甚く嫉妬したまひき。故、その夫の神わびて、出雲より倭國に上りまさむとして、
しかし、それは『三国史記』という隣の国のことと違うか。日本の国の記録の場合はそんなことになっていないよ。そのように思われる方があるかも知れないので、さらに『古事記』について述べさせていただきます。
ここで『古事記』でポイントとなるところを書き抜いて挙げてあります。それは大国主命のことですが、「出雲國より倭國に上りまさむんとして、」そういう表現が出てくる。これを従来は、本居宣長先生が『古事記伝』の注釈をされて以来、疑わずに「倭」を「ヤマトの国」と読んできた。しかし出雲から大和に行くのに、なぜ「上る」と言わなければならないのか。天皇がいらしゃるからだ。国学の立場から言えば、天皇のおられるところが永遠の原点であるという立場で解釈して、それで良かった。しかし大国主の時代に、奈良県が永遠の原点であるとは考えられない。
じゃ何か。非常に簡単である。あそこには対馬海流がある、出雲にも流れている。普通は我々は川を昇るとき、「あがる。」という言葉をよく使います。それは陸地人間の使い方である。海上民にとっては河以上の河が海流である。海流を上がるのも当然ながら「あがる。」と言う。下るのも、「くだる。」と言う。出雲から北海道へ行くのは下がる。出雲から九州へ行くのは上がる。自然地理にもとづく本来の用法である。権力関係なしの自然的用法である。それで上がっていったら当然倭国・筑紫(チクシ)の方へ行く。この文章はそう読んだら何もおかしくはない。
故、大國主神、胸形の奧津宮に坐す神、多紀理毘賣命を娶して生める子は、味遲高日根神。次に・・・
(味遲高日根神という神が、いわゆる「国譲り」以後、出雲の中心の神様になる。)
しかも上って行って誰に会ったかと言えば、天照大神の娘さんに会う。それで宗像の沖の島の沖津宮で、ーーここは天照大神の子の三人の娘が祭られていることは有名であるーーその一人に会いに行った。会って、そこで結婚して子供が出来た。味遲高日根神はその子供である。こう言っている。
なぜ出雲から奈良県に行く途中で、宗像へ行くのですか。ぜんぜんナンセンスじゃないですか。しかし出雲から筑紫へ行く途中なら、宗像・沖の島に寄るのは当たり前の話である。普通の文章で「倭」とあれば「大和(やまと)」である。わが国では永遠の中心が大和であるから「ヤマト」としか読ませんというところから出発するのが国学である。国学というイデオロギーを抜きにして、ヤマトが中心だからということを棚上げにして、文章として素直に読めば、この倭国は当然筑紫国である。
この話は『古事記』の早い段階で出てくる。ということは、これは、この後から「倭」と出てきたら「筑紫(チクシ)」国と読んで下さい。そのように言っている。先ほどと同じ論理です。もし、ここだけが筑紫(チクシ)、後は大和(ヤマト)と読んでくれと言うならば、ここから方向転換を行う。ここからは大和(ヤマト)と読んでくれという標識は初めには無い。倭は筑紫(チクシ)と読んで下さいと『古事記』は主張している。天武天皇や筆記者や伝承者は、皆そういう立場に立っている。
ところが転換点はないかと言えばある。誰でもが知っている有名な「倭健(ヤマトタケル)」説話である。あの「倭健」説話の中に、ひじょうに変な話がある。九州に行って、少女に化けて宴会で会って相手である熊噌健を切り殺す。切り殺すのは仕方がないが、切り殺されながら相手がいう言葉が変ではないか。「大倭の国に、私より強いものはないと思っていたが、あなたがいらっしゃった。これから、あなたは倭健とお名乗り下さい。」と言った。そんなの、ありですかね。死ぬときに相手に名前をお譲りしますという馬鹿な話、変わった人は見たことがない。それから少女に化けるという話もかなり苦しいが。いわんや、それは卵から生まれるという人間もあるから一つのお話として我慢するとしても、死ぬときにそんな大事なことを言って死ぬという話は聞いたことはない。
しかもあの話は、『古事記』にとっては大変重要な話である。
なぜかと言えば、あそこで初めて、ここから「チクシ」の倭を、「ヤマト」と読んで下さい。ここから「倭」を「ヤマト」と読んでも良くなった。あの倭健(ヤマトタケル)はどう見ても、筑紫健(チクシタケル)ではない。「倭健」を「ヤマトタケル」と言うためには、ただ言うわけにはいかない。こういう事件がありましたので、ここから後は「倭」を「ヤマト」と呼んでも良いことになりました。『古事記』の一番のハイライトといって良い場所が、あの説話です。もちろん、この事件は歴史事実ではない。この話を天武天皇が作ったのです。倭健(ヤマトタケル)説話はわたしは大好きな説話です。しかし歴史事実として見ると、ほとんど作り話です。文学作品としては造りモノで良いのですが。それも現地の英雄達の話を取り入れて、主語を倭健にして作り替えた。それも現地の英雄A・B・C・D・E・Fの首を取ってしまって、主語をぜんぶ倭健に入れ替えた。そういう説話であることが分かって来て、少年時代からこの説話が好きだった私としてはひじょうにガッカリした。しかしガッカリしようと、どうしようと、事実はその通りでございます。そのウソ話、この目立つ話をなぜ入れたかという一つの大きな理由として、ここから「倭」は「ヤマト」と呼んでも良いことになりました。
もちろん現実には何を意味するかというと、「倭」を「ヤマト」と読もうとしたのは天武天皇。ご存じのように天武天皇まで、外国史書の分析で示しましたように白村江までは、「倭」は筑紫(チクシ)と読まれてきた。ところがそれを「倭」は「大和(ヤマト)」と読むというアイデアを、天武天皇は考えつくわけです。表記法の方法論をうまく使いまして導入しようとした。
しかしみんな「倭」を「筑紫(ちくし)」と読んでいるところへ、いきなりそう言っても通用しません。そこで、これは私が新たに言い出したことではなくて、実は根拠があるのです。この説話があるからです。倭健が九州に行って、殺した相手ですが譲り受けるというお許しをえたという事があるので、私が今言おうとしている「倭」は「ヤマト」と読もうとしたやり方は、決してわたし一人がただ思いついたことではありません。この事件以来、「倭」は「大和(やまと)」と呼んでもいいことになったのだ。そのように天武は言いたかった。そういう『古事記』の持つ主張の重要なポイントだと思う。
それを本居宣長が国学のイデオロギーで、最初から『古事記』の倭を「ヤマト」であると読んでしまった。そのために、あの話がまったく宙に浮いてしまった。単なるまったくの作り話になってしまった。有っても無くてもあんなものはかまわんよ。そういう無意味な話になっしまった。しかしこの話はほんらい無意味どころか、『古事記』にとって、本来は非常に重要な話である。比較的最近、そのことに気が付いて愕然とした。
以上、『古事記』自身が大国主の説話が強調しているように、倭はチクシであることを強調しているわけです。わざわざ沖の島のフレーズを入れて筑紫であることを強調している。なにもわざわざ筑紫を入れず、直接沖の島に行けばよい。あのフレーズを入れているという事は、倭というのはみんなが知っているとおりの筑紫です。こう言っている。
ついでに申しますけれども、神武天皇につきまして『古事記』の序文がある。あまり長くない序文の中に、この序文の最初二行目に「神倭天皇」と出てきて、最後のほうに出てくるときは「神倭磐余彦天皇」となっている。これは何か。本居宣長をはじめ、これに注意した人は余りいないように思う。その間に入っているのは当然ながら、神武が九州を出て、近畿に入って大和を征服し支配したということが間に入っている。美しい文章で飾られて述べられている。つまり大和に入ってきたから「磐余彦」という名称を名乗るようになったと言っている。(九州から)大和に入ってきたという時の話には「磐余彦」は無くて、大和に侵入した後の話には「磐余彦」が付く。この考え方は、ひじょうに筋が通っているでしょう。
それでは、その前にある「神倭」はなにを意味するか。「倭」は何者か。はたして「大和(ヤマト)」か。今までわたしも含めわれわれが考えてきたのは、磐余と言うのはご存じのように大和にある。だから「神倭磐余彦(カムヤマトイワレヒコ)」は、何も問題ないなと思ってきた。しかし、よく考えたら大変問題である。なぜならば磐余が大和にあるから、「倭(ヤマト)」を被せる。しかしそう言うのならば他の地名も、大和にあるからいっぱい出てくる。文章にも出てくるし、人の話の中にも出てくる。そうであるならば「倭(ヤマト)」を、本当なら地名にも人名にも全部被せなければおかしい。大和にあるのだから。しかし使っていない。使っているのは神武だけ。理由になっていない。これはおかしい。
磐余は大和にあるから、「倭(ヤマト)」を被せるという話は、一応そのように見えるが、良く考えたら大変おかしい。これは何か。この「倭」は、また「倭(チクシ)」である。本人は筑紫から来たことを、たいへん誇りにしている。だから「倭(ちくし)」を名乗りの頭にかぶせている。
同様に最近読んで面白いと思ったのですが、フィリッピンの東のパラオ諸島。パラオの人々は地名を持って移動する。地名を頭にかぶせている。つまり地名を持って「名乗りの姓」に使う。つまり「どこそこに住んでいる太郎兵衛」と名乗る。それを地名を引っ提げて移動・移住する。そういう習慣がある。『パラオの神話』(三一書房)に出ています。これはどこでもある、おもしろい話です。
それと戦国時代黒田公が、岡山県から福岡県に移住するとき、「福岡」という地名を持って移動した。岡山県では福岡という丘に住んでいた。博多に来るときに、その名前を持って移った。博多には大した丘はないのに「福岡」と名を付けた。それが福岡市・福岡県のはじまりであることはよく知られています。博多は古いけれど。そういう例は、いくらでもある。アイルランドからアメリカに移住するとき、地名を持って移住してきた。そういう人類的傾向がある。この場合もそういう人類的傾向の一つである。
だからそれと同じように、これはそういう人類的傾向の一つで、彼らは倭(ちくし)から出発したから、「倭(チクシ)」の名を持って移動していた。筑紫から来たこと、それを誇りにしていた。
それでは「神(カム)」は何か。これも神聖な存在だから「神」を付けたと、従来は説明する場合はされていました。これも従来はそれで納得していましたが、よく考えたらおかしい。それではアマテルは「神」は付いていないが、彼らは神聖でないのか。ニニギも「神」は付いていないが、彼はダメなのか。そんな屁理屈を言っては困ると言うけれども、子供はそういうことを聞くだろう。だから神聖なという解釈はやはりダメ。
それでは何か。最初には『日本書紀』の解釈などから、神武を南九州出身だと誤解していました。現在は神武の出身は、北部九州、糸島・博多湾岸の出身である。その証明を一生懸命行ってきました。その一つに糸島郡に神在(かむあり)村がある。「あり」の「り」は、吉野ヶ里の「里(り)」と同じ集落の単位で、「あ」は、我などの意味の接頭語と考える。「あたい」とも言いますから。そうすると「あり」は、「我が町・村」の接尾語です。そうすると語幹は「神(かむ)」である。神武は倭(筑紫 ちくし)の中の神(かむ)・神在(かむあり)の出身だと言っているように見える。
ところがこれは、名乗りの順序は逆であり、日本語だったら「倭神(ちくしのかむ)・・・」となるけれども、中国風である。閔越、越の国の中に閔があるから閔越という。韓国の中に拘耶があるから拘耶韓国。順序は、大きいを方を下に書いて、小さい方を上に書く。これが中国風の名乗りである。神武は中国風の「名乗り」をしている。「古田武彦」ではなくて、「武彦古田」である。中国風のバタ臭い言い方をしているのが「神倭(かむちくし)」である。そこへ倭(ちくし)の神(かむ)から来たから「神倭(かむちくし)」である。そして大和の「磐余(いわれ)」に来たから「磐余彦」。合わせると神倭磐余彦(かむちくしいわれひこ)となり、そう理解すると何も問題は起こらない。変な解釈をせずにすむ。
無理に神聖な人だから「神」を付けると言うと、それではニニギやアマテルは神聖ではないのかという屁理屈を言われる。また神武は大和(ヤマト)にいるから「倭(ヤマト)」を付けると言うと、じゃ他の人はなぜ「倭(ヤマト)」が付いていないか。そういう変な問題は解消する。
以上のように、ここでも太安万侶は「倭」を筑紫(チクシ)と読んでいる。ここでも先頭に神倭(カム チクシ)天皇、大和に来た後には神倭磐余(カム チクシ イワレ)天皇と書いている。表記は明確に示している。ところが本居宣長は太安万侶がビックリするような皇国史観で、すべて倭をヤマトと読んだために、大和は永遠の中心だというふうに読んでいたので、今述べた問題は、全部素通りになっていた。
以上繰り返しますが、『古事記』においても倭は筑紫(ちくし)である。
他方『日本書紀』は新しいやり方を行ったわけです。先頭に「大日本」を日本(ヤマト)と呼べと、最初から注に書いてあるように「ヤマト」と成っている。『日本書紀』は遠慮会釈なく、最初から日本はヤマトとなっている。(おそらくそういうやり方で、倭とあってもヤマトなんでしょうね。)そういうやり方で書き直した。『古事記』はもっと可愛らしく、遠慮気味であって、今まで読んでいた倭(チクシ)を倭(ヤマト)と読んで良くなった謂れはここにあります。そのようなお話を作って、そのことを主張している。両方タイプは違っている。
だから『日本書紀』が出来たら、『古事記』はチャラ、キャンセル。我々は両方比べて非常に有り難いと思っているけれども、『日本書紀』を作った人から見ると『古事記』はあってもらっては困る。だから姿を消していた。だから『日本書紀』の、天武天皇のところにも稗田阿礼に暗唱させたという話は一切無い。また『続日本紀』の元明天皇のところにも『古事記』を太安万侶が撰進したという話は一切出てこない。歴史から全く姿を消されてしまった。
以上申し上げたことは、倭というのは金印が示しますように「筑紫(ちくし)」と呼ぶべきものである。本来の「倭(wi)」に日本語の読みを与えれば「筑紫(ちくし)」と呼ぶべきものである。
その点は朝鮮の『三国史記』もまったく基本的には変わらない。『三国遺事』も同じ。それから基本的には『古事記』もまた同じである。それを「倭」をヤマトと読み換える苦心が『古事記』を作った重要な目的の一つになっていた。それをすべてご破算で、いきなり日本・倭をすべてヤマト(大和)と呼ぶことに切り替えたのが『日本書紀』である。
まず皆さんにお配りしたカラー写真の説明から始めさせていただきます。
これは現在の韓国の大統領金大中(キム・テジュン)さんの出身地の近辺とみられる光州咸平草浦里遺跡から出てきたものです。これはその報告書です。もちろん韓国語で書かれた貴重な報告書ですが、一般に売っている物ではありません。それで皆さんにお伝えするのに、先頭の写真を研究用ということカラーコピーさせて頂いた。ですからそのことを考慮されて、このコピーを取扱って下さい。
その遺跡の中から、剣と鏡と勾玉とは言えないが玉は勾玉風の物ですが、その三つが出てきました。もちろんこれは棺の中から出てきました。周りからは、棺の外からは我々から見ると不思議な呪術的なもの、何に使うのか曲がった形の銅器、お医者さんの手術に使うような曲がった形。そのようなものが出てきております。日本の遺跡ではあまり見ない物ですが。
一体これは何だろうと考えていたのですが、今回の奈良県田原本町の黒塚古墳の棺の中から三種の宝物が出てきてのを見てハッキリ理解した。これが意味することは、棺の中からの三種の宝物(神器)が大事なのである。いわゆる呪術的な・道教的なものは附属のかたちで外にあった。そういう位取りは明確に分かりましたので、黒塚古墳は貴重である。
これが意味することは、お分かりのように三種の神器は朝鮮海峡の両岸に跨っている。
小型イ方*製鏡、時期は遅く倭国産ですが、それを含む三種の神器が、斧山の近辺である金海からも出てきております。その他幾つかからも出てきています。朝鮮半島南岸部も結構三種の神器が分布する地帯です。九州北部も三種の神器が分布する地帯である。九州と朝鮮半島両岸に跨った所が倭地である。そういう言い方を韓国の人は嫌いますが、われわれは現代のナショナリズムというものに関係なしに、歴史事実を認識する立場です。
インターネット事務局注記2004.9.23
イ方*製鏡のイ方*は、人偏に方です。
返す刀で言うと生意気ですが、今宮内庁の管理している天皇陵の、初め神代三陵は鹿児島県にある。ニニギノ尊からウガヤフキアエズまですべて鹿児島県にあるという形で、明治の初め薩長政権が権力を握るやいなや、すかさず公定した。天皇陵にもいろいろあるけれども、重要さに順序はないというけれども、やはり一番大事なのは元祖の天皇陵、神代三陵である。その元祖の天皇陵を鹿児島に決めた。しかしみんな嘘だった。あんな所に三種の神器があるはずがない。隼人塚の世界。三種の神器は、今言ったように対馬海峡の両岸に広がっている。それを完全に宮内庁は見失っていた。宮内庁が見失ったというのは江戸時代の薩摩国学が見失った。それがお国自慢というか神代三陵が鹿児島県にあることを主張していた。それを薩長政権が取り入れて公定した。当時の事情としては仕方がないが、嘘はウソ、間違いはマチガイ。結論はハッキリしている。
朝鮮半島南岸部と九州北部にまたがった三種の神器が分布する地帯が、弥生時代にあったというという事実は動かせない。
そこも不思議な話ですが、草浦里(ソホリ)という所である。『日本書紀』では、天孫降臨は筑紫の日向の高千穂のクシフル嶽が天孫降臨の場所であると、かねて主張しています。そこに不思議な地名がある。「添(そおり)」(一書第六)と書いて現地読みが付いている。ソホリである。ちゃんとこう読めと書いて有る。もちろん草浦里、これはもちろん、これは韓国読みでは、このようには読めませんよ。しかし日本読みではソホリとなる。日本語読みの方が本来ではないかという、ビックリするような問題も覗いている。これもお話を始めると長くなるので、問題提起のみにさせていただきます。とにかく今の韓国光州の草浦里遺跡の件は非常に重要な遺跡であると思います。さてそのようなことをお話した上で次のテーマに入らせていただきます。
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