古代史再発見第2回 王朝多元 -- 歴史像 1998年9月26日(土) 大阪 豊中解放会館
古田武彦
最後にわたしの経験しました興味深いエピソードを紹介してみたい。
西日本テレビの記念企画で、南米のエクアドルに行きましてエクアドルのバルディビア遺跡でメガーズ夫妻と私の御対面の番組が企画された。ところが残念ながらエバンズ博士はその直前と言っていい時期に亡くなっておられ、私は非常にショックを受けた。エバンズ夫人も大変な考古学者で、旦那さんより報告もたくさん書いていられるが、その夫人と御対面した。
帰りにテレビ局の方はハワイで取材を行うことを予定していた。ですが私は先に日本に帰らなければならない用事があったので、皆さんとお別れしてサンフランシスコから成田へ、一人で帰ったときの飛行機の中でのエピソードである。
そのときに、隣に上品な御婦人が座っておられた。わたしは別に気にせずに本を読んでいました。私が本を読み終わったときに、そのとなりの方から「ちょっとお話をしても、よろしいですか。」と声をかけられた。ああ良いですよと御返事した。「実は今困っていることがある。」と言われた。そのご婦人は旦那さんはアメリカ人で、山口県の出身で実家へ帰る途中でした。私には二人の息子があってアメリカの大学に在学している。その二人の息子が最近私に対して訴えることがあって困っている。大学の先生が授業で繰り返して言われることがある。それは「日本人は所詮リファイン(refine)することが出来る民族である。しかし所詮それ止まりである。独創は無理である。独創は我々白人しかできない。諸君安心するように。」と大学で先生に言われたと。・・・
いうなればrefine(リファイン)とは改良でしょうね。何が安心かというと、その当時アメリカに日本の車がどんどん進出していった時期である。日本のほうが性能が良いとか、保守性がよいとか、いろいろなことで日本の自動車が売れまくっていて、アメリカの自動車産業が衰退の時期だった。その時代の話である。ですからその当時アメリカ人としては自信喪失に成り始めていた時期だった。そういう時代の雰囲気を感じとったアメリカの大学教授は学生たちを慰めるというか励ますというか勇気づけるためにそう言った。
「いや心配要らない。かれら日本人は我々のまねをして、近代的なものを作り、自動車も作った。われわれと同じようなものを作り、やがて我々以上のものを作ったように見えて、脅威を感じている。その先は心配要らない。彼らは所詮まねをするという、模倣するという、それ止まりの才能しかない。彼らは所詮独創の才能がない。その点は、諸君はまったく心配しないでよろしい。」そう言うことを授業で繰り返し言われる。白人の学生は良かった。俺は大丈夫だと思って授業を聞いていたのでしょう。しかし(彼女の)息子さん二人は複雑なわけです。半分アメリカ人で、半分日本人である。半分日本人の方は独創の才能がないと言われて、「お母さん、本当にそうか。日本人はそういう民族か。」と聞かれて困るんだ。一体どういうものでしょうか、と聞かれた。私が多分歴史の本を一生懸命読んでいたのでそのことを聞かれたのでしょう。
わたしは「まったく心配要りません。」とご返事した。
なぜならば、お聞きになったことがあると思いますが、ヨーロッパの三大発明がある。羅針盤、火薬、印刷術。これをヨーロッパの三大発明として、わたしなども社会科(西洋史)の教師をしていたとき教えた。
しかし良く見てみると変な話です。なぜ変な話かというと、
まず火薬。火薬というのは中国で発明されて中東・回教圏に伝わった。十字軍というのがありましたが、回教側が十字軍に使った。ヨーロッパ側の十字軍は騎士ですから馬に乗って行く。それで回教圏に攻め込んだが、騎士ですから、馬が驚いて前足を上げて全然戦闘にならない。それで十字軍が、回教軍と何回闘っても勝てなかった。それが初めてジュノアという人が黒色火薬を作った。これもおそらく質の悪い火薬で、とりあえずメイド・イン・ヨーロッパの火薬を作った。それをヨーロッパでは発明と言っている。
同じく羅針盤。これも中国で指南車。言うなれば南を指さす車があって、黄帝がこれを使ったと伝えられている。。霧の中でも車に羅針盤を付けていて闘ったので、方向を間違えず困らなかった。黄帝が使ったどうかは分からないが、古くから中国で羅針盤が作られたことが知られている。同じく回教圏に伝わって、地中海で回教側が使っていて無敵海軍と呼ばれた。ヨーロッパ側には羅針盤は無かった。だから勝てない。それが同じ羅針盤を付けることに成功し、回教側の無敵海軍を打ち破った。それが地中海の制海権を奪いとった根拠の一つに成っている。これは同じものを作ったということです。
それから印刷術になりますと木版。これも中国が古い。ですが実物の一番古いものは、日本の法隆寺に残っている「陀羅尼」が一番古い。ですがノウハウは中国である。これも中国から回教圏に伝わって、さらにヨーロッパに伝わった。これをグーテンベルグが銅版印刷に変えた。この場合は木版より銅版の方が優れている。銅版なら失敗しても何回も鋳潰して何回でも作りなおせる。これは木版よりより良いものを作った。
まとめると、火薬は黒色火薬の段階に留まっていた。これは元より悪いが、なんとか作った。羅針盤、これは同じものを作った。印刷、つまりこれはリファインの段階、より良いものを作った。これをヨーロッパの三大発明と言っている。
これもあつかましい話ですね。実物を見て、真似をして同じ物を作っている。真似して作った事を「発明」という。しかし私は(当時の)この用法が間違っていない証拠は、コロンブスのアメリカ大陸の「発見」を見ればよい。初めから人間はちゃんと居た。ヨーロッパ人が初めて見たのを「発見」と言っている。これも同じ時代の同じ用法である。「発明」も「発見」と同じである。
これも余計な話をしますが、ソビエト連邦(当時)に行った人が、驚いて当惑して文芸春秋に書いていました。ソ連の博物館を見に行けば、汽車も列車も飛行機鉄砲も全部ロシア人が発明した(ことになっている)。何年にだれだれが発明したと書かれてあった。当惑して書かれていました。私は(別の見方をすれば)もっともな話だと思う。さきほどと同じでしょう。ヨーロッパ人と同じ用法である。ヨーロッパ人が初めて作ったのを三大発明と言っている。同じ用法でロシア人が初めて作ったのを発明と言ったのも筋が通っています。同じ用法です。それだったら日本人も全部発明できる。
今の歴史上の問題としては、ヨーロッパの三大発明。その最後のリファインの段階の次に、独創的なヨーロッパの文明が開始したという事ですよ。近代文明に入っていったわけですよ。そういう歴史から見るとリファインの次に独創しかない。リファインの前に、もう一回猿まねに帰りますと言っても無理である。つまり安かろう、悪かろうという日本が真似をしている段階がありましたよ。大体似たものを作れましたという段階もありましたよ。それからリファインの段階まで来たのではないか。後は独創しかない。これは歴史の示すところである。
わたしは、どの民族についても例外がないと思っている。ある民族は地球に出てきて以来独創ばかりです。ある民族は模倣ばかりである。私はそんなものは信じることは出来ない。どんなに偉大な発明であっても、それであればあるだけ、それ以前の先進文明のどん欲な模倣を集合し、出来上がった独創である。中国がよい例である。金や銅の文明がトルコに始まり、黒海周辺・カピス海に広がった。それがBC三千年頃、銅器の文明が、それが今度はバルト海周辺に伝わってきた。わたしは冬の橇に乗ってだと思う。あれだけ広い領域が同一の文明圏である。それが南下して北から中国・甘粛省に入ってきた。もちろんシルクロードから入ってきたのもある。あるいは南は稲作は揚子江領域から、北上して北側の黄河領域へ入ってきた。東はそれより前にずっと古くから日本の縄文土器が入ってきた。考古学者はそうは言わないけれども、放射能年代を見れば日本の方がずっと古い。わたしには分かり切ったことだと考えていますが、中国側が古くなっても、日本の方がもっと古くなって、中国は追いつかない。わたしの理解では日本は火山列島だから(日本の方が古い)。その火山列島がお師匠さんで、溶岩が土を焼いて、大自然が土より堅いものを作ってきた。それを見た新石器人がお弟子さんで、人間の力で真似をして火で焼いて同じものを作った。人間における工業製品の始まり。大自然に対しては模倣だけれども、人類にとっては独創である。それが一万六千年前から信州から土器の欠片が出てきているように始まったわけです。一万四千年前から各地に広まった。一万二千年前には、日本は九州から本州まで土器だらけ。同じ時期に沿海州からも出てきています。ですから、その土器が中国や朝鮮に伝播したしたと考えても何のふしぎもない。これも戦後の先入観で、戦前は皇国史観というへんてこな論理でなんでも日本で無ければ済まないというばかばかしい風潮があり、政策があった。それは敗戦と同時に消え去った。ところが逆に戦後はなんでも中国が中心で、中国から来たと言うと、それであれば結構ですという風潮である。逆を言うと「皇国史観だ。」と言われる。羮に懲りてなますを吹く。そういう風潮が四十年戦後を覆っている。韓国との関係もそうである。韓国から日本に来るものはあるけど、日本から韓国に来るはずはない。そういう変な思いこみがある。実際は日本の縄文中期後半から勾玉は、青森あたりから牙玉の一種としてたくさん出てきている。韓国で出てくるのは弥生ないし古墳時代でずっと遅れる。しかも現在の北朝鮮部分からは出てこないで、南の韓国部分からしか出ない。明らかに日本列島からの伝播である。先入観なしに見ていくとあたりまえの話である。ところが韓国の人はそうは言わないし、日本の学者もそういうことを言うと相手を刺激するから、それは言わないことにしている。変なナアナアの状態である。暗黙の談合状態です。
そんなことは全くナンセンス。現在の国境や民族意識には全く無関係ない。事実が示していることから判断するならば、中国に土器は伝播している。
(中国は)そういう先輩を真似して、つまり安かろう、悪かろうという段階から、大体似たものを作れましたよという段階もへて、それからリファインの段階まで来た上での中国文明という独創であり、爆発である。そういう手順を経て中国文明は爆発したとわたしは思っている。それは中国文明にとって恥ずかしいことではない。中国人は人間の一人であることを証明しているに過ぎない。そういう目で歴史を見てゆくことが必要であると考えています。
最近いろいろ言っていますが、もう少し我慢して聞いて下さい。大きな歴史の大局から見れば、今の解決はもう日本の独創だけである。つまり日本がヨーロッパやアメリカ以上の模倣やリファインの段階を過ぎれば、後は独創のビッグバンしかない。日本が独創を始めたらもう何を言っても駄目なのである。たとえば石油や天然ガスで動かす自動車でなく太陽熱から取ったエネルギーで自動車を動かすことが出来るとか。今の勢力関係が一変するような独創的な発明をするような段階に来ている。日本はもうそのような独創的な発明をする段階に来ている。そういう段階になったら、創造をやりだしたら、もうすべては消え去る。
最近の経済情勢は、経済の混乱は、私のような経済音痴から見ると、見えすぎるぐらいハッキリしている。この不況は、アメリカ発やソ連発や日本発だといろいろ言っているが、私の目から見れば最近の不況は米ソ発に決まっている。競争で原水爆の、ものすごい実験を何十回となく行っていたじゃないですか。あの原水爆を一発落とすために動員された人の数はおびただしい。又動員された企業の数もおびただしい。経済力もおびただしい。その動員された力をバックに爆弾を一発落とす。だから何千発も作るには、ものすごい生産力を背景にしていると想像する。おそらく間違いのない想像だと思いますが。それを止めたのでしょう。それに参加していたのが全部駄目になった。日本の企業のように無意識に参加していたのもあるでしょうが、日本の電子製品などもたくさん使われていたと思うのですが、それが全部駄目になった。失業になるのが、不景気になるのが当たり前です。不景気にならないほうがおかしい。あれだけの浪費を止めておいて、なお景気が続くというのは奇跡、不合理な話である。イエスが海の上を歩いたというばかばかしい奇跡より、景気が良くなるという話の方が尚おかしいと私は思う。
変なことを言いましたが、私はイエスを大変尊敬している。なぜ尊敬しているかというと、「汝の敵を愛せ。」と言った。迫害者を愛するという、あれだけの奇跡はない。そういう意味で尊敬している。それを海の上を歩いたとか、ライ病人を治しただの、あの時代はあんな幼稚な事を言わなければ誉めてくれなかったわけで、あんな幼稚な話を取って付けなければ、イエスを尊敬できない程度のレベルだった。イエスが迫害者を愛すると言った。あの一言、あの姿勢ほど、これ以上の奇跡はないと私は思う。これはつけ加えですけれども。
元に戻り、あれだけの原水爆を止めて、景気を良くしようと思うのが無理である。それを考えるなら、原水爆を上回る生産力に匹敵することをしなければならない。アフリカを緑化するなど何をしても良いが、何をしても原水爆を落とすほど馬鹿馬鹿しくはない。わたしは何をしても人類はそういう経済的・人口的実力を既に持ってきていると思う。それを政治家は考えてくれなければ。それをしないで、枝葉末節的には小手先の事はとりあえずはやらなくてはならないが、おおきくは原水爆を上回る生産力に匹敵する事を行わなければ大きくは無理だろう。そういう経済を知らない人間の見方である。
これももう一言突っ込んで言うと、経済を知らない人間の見方ですが、現在は金本位制ではない。現在はドル本位制である。
ドルはアメリカだけがドルを刷る権利を持っている。資本主義で自由競争は大事だ。規制撤廃だとアメリカは言っているが、大変あれはいかがわしいと思っている。規制撤廃なら、ドルを製造する権利も撤廃したらどうか。それは絶対手放さない。原水爆を作る権利も放さない。飛行機の作る権利さえも手放さない。規制撤廃しませんよね。日本には作らせない。自分の方だけ必要な都合の良いところを押さえておいて、自分の都合の良いところだけ規制撤廃と言っているとわたしのような素人には見える。経済に強い方はどう見るか知りませんが。
(今の経済の混乱は)米ソ発と言いましたけれど、これが基本ですね。より近くはアメリカ発であるに間違いないと思っています。ドル中心、ドル本位制だから。アメリカ発だから、それを日本発だとかロシア発だとか、いろいろ言い換えるのに苦心しているようにわたしには見える。私などは新聞を見ているだけであるから、その程度の理解しかない。
さらにもう一言つまらん憶測を言わして貰うと、バブルの頃、日本人がアメリカのビルを買ったり、映画会社を買ったりしましたね。あれはものすごくアメリカ人には頭にきた。誇りを傷つけられた。彼らから見れば、日本人というのは猿まね、自動車にしろ、その猿まねをさせてやっている連中だ。その猿まねの連中に我々の誇りとするものを買い占められるとはなんたることだ。そんなことは書けないけど、内心はほとんどの人はそう思っていたと想像する。これは想像に過ぎませんけれども。
だから良し。これをやってやれ。ドル本位制ですから。それで手を打ち始めたと思う。彼らの手練手管は私は全然知りませんけれども、だから今のような状態になった。一時大変な円高で、日本は製造工場を東南アジアに出した。東南アジアに進出した。それで待ってましたばかり円安にして東南アジアが立ちゆかないようにした。それでは東南アジアに進出した日本も立ちゆかなくなるのが、あたり前である。わたしなどは経済を知らないから、知らない強みで、いわゆる筋書き通りに進行して、なんの不思議もないような感じを持っている。
そういう意味ではアメリカの政策は成功しつつあるように見える。しかしその場合の彼らの一大ミステリーは、あらゆる戦術・戦略の基本を為しているものは、日本人はリファインしかできない民族である。独創は無理である。そういう信仰のような(考えである)。大体何百年か成功すると、人類の歴史から見ると瞬間でしかないが、成功すると、だいたい人間というのはうぬぼれる。日本人も結構そういう面はありましたよ。アメリカ人もうぬぼれているのではないか。「日本人は独創出来ない。」という前提で、あらゆる戦略は立てられているように私には見える。これを突破するためには、政治家は当面の問題としていろいろやって貰わなければならないし、当面の問題としてはやって貰ったらよい。しかしそれは「枝葉末節である。」と言っては悪いがそれだけのことです。
根本の解決はさっき言った独創ですよ。リファインの次の独創を次々生み出すことこそ本当の解決。彼らの戦略・戦術の上をいくものです。彼らの基本の思いこみを打ち破るものです。そうすれば絶対に次の時代がやってくると私は思っている。先ほど言った自動車を太陽熱で動かすこと等は、私の出来ない話ですが、私の関係する分野でも取り上げる問題はたくさんある。
わたしが良く上げる問題ですが、バイブルの先頭に創世記がある。その創世記に宇宙を作った神々の話が出てきます。つまり「神々」という複数ですよ。つまりヘブライ語では「神々」と複数になっている。ところがなんと英語ですが、欽定訳の聖書(バイブル)では、「神」という単数に変えられている。改竄されている。ルーターのドイツ語も単数、フランス語も単数です。そして日本語は単数・複数はないようなものですから、「神」とは書いていない。言うときは「エホバの神が・・・」という解釈を牧師さんはしているのだと思う。しかしヘブライ語の原文は疑うべきもない複数形である。
これはわたしから見ると大変当たり前である。当然今のバイブルは、BC三千年位から始まったと考えられていますが、人類にとってBC三千年というのは最近である。それ以前に楔形文字の文明があったことは誰でも知っている。多神教の時代ですね。(聖書の)創世記といっても(人類何十万年から見れば)たかだかBC三千年、それ以後、初めて神様が宇宙を作ったというアイデアを思いついたというばかばかしい話ではない。当然その楔形文字の文明の時代にも、神々がいて「この宇宙はどうしてできたか。」というテーマはあった。当然その場合「宇宙は神々が作った。」に決まっている。だからバイブルを作ったときも、「宇宙は神々が作った。」に決まっていたから、そこだけは変えられなかった。単数に出来なかった。中近東の人たちは。
だから、わたしから見ると複数になっていることに非常に意味があり、素人としては(聖書は)史料として貴重である。わたしなどには、分かり切っていることです。しかしヨーロッパ・アメリカではそうは言えません。そう言ったら今晩は夜道が危ない。帰るとき危ない。いろいろ居ますから、無事には済みません。クリスチャンの学者も、もちろん分かっているけれども、書いていません。書くときには「昔は尊敬すべき時には複数形で示すことがあった。」と注釈では書いてある。それだったら聖書(バイブル)、全部複数形で書いたら良い。又それだったら「神様を尊敬しなくなったから、単数になったのか。」と、こちらは言いたくなる。そういうことを言うこと自身が、不遜であるということになるでしょう。バイブルを尊重するキリスト教の専制世界では、それは出来ないことである。幸いに我々の社会は、キリスト教の専制支配の社会ではないですから、そういうことが率直に言える。
そういう率直に言った立場からのバイブル研究とキリスト教のイデオロギーの立場に立つバイブル研究とが、衝突すればどちらが勝つか。勝つか負けるかという言い方は変ですが、衝突というか喧嘩をすれば、別にする気はこちらにはないが、絶対にわたし一人の方が勝つ。いくら世界中のバイブル研究者が総掛かりで来ても、わたし一人の方が勝つ。イデオロギーとそうでない立場ですから。
有名な洪水神話の問題でも、有名なエホバの神に関わってバイブルを覚えてきておった。ところが一人のある青年の発見によって(真実が判明した)。大英博物館のアルバイトで、その人が泥だらけの資料を見て、楔形文字を読んでいくと「洪水神話」ではないかと言った。読んでいくと確かに洪水神話である。つまりバイブル以前の洪水神話である。何種類か、見つかった。
あれは立派である。その青年に奨学資金のようなものを与えて、中近東に派遣する。日本ではなかなか若い青年にそんなことをしない。中近東に行って、史料を持ってきたという同じ所を探したのでしょうが、続きがいろいろ見つかった。いろいろなタイプの洪水神話が有ることが分かってきた。そこで一生懸命バイブルと同じものを探したがなかった。無かっただけではなくてバイブルの洪水神話は、他の楔形の洪水神話よりずっとスマートで、完成度が高いことが分かった。それを自慢して書いているものが良くある。わたしから見ると、自慢するのは勝手ですが、しかし逆に言えば素朴な方がおかあさん、そこから生まれた子供の方がバイブル、そういう関係を示している。子供の方が唯一神を元に、より完成された形に、改竄というか、書き直されている形を示している。しかし、そういう言い方を彼らはしないで、いろいろ有ったけどバイブルが一番立派であるという結論に持っていくが。
とにかく、そういう目から見ると先ほどの聖書の先頭が「神」でなく「神々」であることは当たり前である。 時間が無くなって終わりになりましたが、日本でアミニズムという言葉がある。あれも変な言葉ですね。キリスト教の信仰が立派で一番高等で正しいという立場で、それ以前の多神教を卑しめてるからアミニズムという言葉の書き方になる。それを日本の学者が(背景のキリスト教社会の理論抜きで、)頂いてきて有り難がり、深遠な学問用語を使った気になって書いておられる。わたしから見るとキリスト教猿まねである。(アミニズムという)多神教の世界の中から、キリスト教という唯一神教が生み出されていく。母は多神教で、子供は唯一神教。それはバイブルであったり、コーランであったりする。いずれも人類の貴重な記録だと思う。そういう母のところを変なアミニズムと言って卑しめること、変な言葉を付けること自身がキリスト教宗教学の性格をよく示している。
考古学もそうである。
ストーンサークルという言葉もそうですよ。あれは見事な言葉です。(ヨーロッパ)考古学の性格を見事に示している。なぜかというと、イギリスを初めとするヨーロッパの遺跡を見学に行きましたが、サークルに囲まれた中央部(石の神々)、基本的には多神教の神々、あれが全部壊されて、除かれている。歴史的にはキリスト教の牧師さん達が壊した記録がきちんと残っている。中心部が壊されている。残っているのは、全部壊せば何も残らないが、少しづつ一部分石が残っている。多神教の神様の中心が全部壊されている。ストーンサークルというのは、キリスト教が壊した後を「ストーンサークル」と呼んでいる。この「ストーンサークル」という言葉ほど、歴史的な用語はない。我々はそういう言葉だというキリスト教考古学の意識無しにヨーロッパで使っているから「ストーンサークル」という言葉を、れっきたる学問用語だという感じで見ている人もたくさん居るのではないか。
われわれは、そういう考えではなく、キリスト教は素晴らしい文明ですが、たいへん評価しますが。しかし万能ではないし、歴史上において一定の長所と一定の欠陥を持った、一定の時期に栄えて一定の時期に滅んでいく、多くの宗教の一つであることは、残念ながら疑うことが出来ない。そういうキリスト教社会が作り出した近代文明は非常に素晴らしいけれども、また非常に大きな欠陥を持っている。
我々は独創する場合、それに恵まれているわけで、我々はそれに関わりのない真実というか、宗教やイデオロギーに服しない立場で見ていくという立場で、やり方をすれば精神科学の分野でも新しい発見が続出して困ると思う。だいたい今までの発見はアメリカやヨーロッパですから。あれをもう一度壊して、もう一度厳密な論理により組み立てていくという作業をみんなが待っている。やらない事だらけ、つまり独創待ちだらけである。この精神科学は、わたしは承知しているが、おそらく自然科学でも同じようなことがあると思っておりますので、ぜひ今後に期待したい。
それで期待する場合でも、やはり道理を道理として観るという立場が大事なのです。日本の歴史について第一回と第二回に言ってきたように、道理を道理としてみる、論理を論理として押し進めずに、「従来そうなっているから、それは動かせないよ。これを覚えておけ。」というやり方を、教育や学問でやっておれば、とても今のような独創の爆発は無理だ。その無理があちこち今限界に来ている。経済などはその無理の露出である。ということで見た目には非常に行き詰まりには見えるが、わたしなどには輝く独創大爆発の前夜であると思っております。
どうも今日は遅れて申しわけありませんでした。
(終)
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