『伊豫史談いよしだん』385号(平成 29 年4月号)から転載
合田洋一
伊予の大族・越智氏については従来多くの研究があり、し尽くされたと言っても過言ではないであろう。しかし、その中で私には、一つだけどうも釈然としないことがあったのである。それは、越智氏の「越智」は史料により小千・小市・于知・子致・乎致・乎知とも書かれていた(『朝倉村誌』(1) )。従来、これらは全て「オチ・ヲチ」と読まれていたようである。しかし、それは本当であろうか。私は常々「越智」氏に改姓するまでのこれらの読み方に疑問を抱いていたからである。そのようなことから、これについて、敢えて愚見を述べてみたい。
越智氏の出自について、誰もが初めに注目するのは河野氏の記録の『予章記』(2) である。これには、第七代孝霊天皇 ーー 八代孝元天皇の弟・彦狭島命(伊予皇子) ーー 小千命 ーー 天狭貫 ーー 天狭介となっている。この系図と同じものが「越智系図」・『予陽河野家譜』・『河野家譜築山本』などにもあるという。なお、同じ河野氏の記録である『水里玄義』(3) では伊予皇子は第五十代桓武天皇の皇子としている。
また、大山祇神社史料『三島宮御鎮座本縁並寶基傳後世記録』(4) では孝霊天皇の三男は彦狭男命とあり、その子が小千命となっている。
これに対して、天徳寺所蔵『伊予国造家 越智姓河野氏系譜』(5) は初代を天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(饒速日命)、十代の大物部主大新川命を経て、十一代の大小市命、十二代乎致命へつながる、これは饒速日命つまり物部氏を祖とする、「物部氏系図」で乎致命すなわち小千命としている。これと同じものとして、「越智宿禰系図」と「越智姓系図」があるという。
そして、『先代旧事本紀』所収「国造本紀」(6) に、
「小市国造 軽島豊明朝御世、以物部連同祖大新川命孫子致命、定賜国造」
とあることからも、「越智氏の祖は物部氏」が通説になったようである。なお、景浦勉著『河野氏の研究』(7) でこの「子致は小致の誤記」としているが、既に半井悟庵により『愛媛面影』「越智郡をちのこをり乎知」で、この「子致命ヲチチノミコトヲ定賜サタメタマフ国造クニノミヤツコト子疑乎誤」とされていた。つまり「子は乎の誤りを疑う」と。 (8)
また、村上順市著『伊予の姓氏』(9) では次のように記している。
「越智郡は上古小市国の地で中古伊予の国府の所在地だった。越智氏はこの土地より発祥したといわれる。和名抄には乎知と訓じ、釈日本紀には乎知郡と記している。乎知の国造は物部氏の族で国造本紀に<小市国造は軽島豊明朝(応神)御世物部連の同祖、大新川命の孫子致命を国造と定め賜う>とある。
天孫本紀によると、大新川の子に大小市連がいて、小市直の祖としている。」
とあり、良くまとめていて解りやすい。しかし、「乎知」にはルビがないことから従来読みの「オチ」と思われる。
この他に越智氏の祖は、紀氏・大山積神・吉備武彦・源義親などの説もあるようであるが、これらに関しては前掲『河野氏の研究』が詳しいので、ここでは触れないこととする。
ところで、朝倉の矢矧やはぎ神社にある『伊予不動大系図巻二十五』(『岡文書』と同じ)や『矢矧神社御由緒』(10)には、
「七代孝霊天皇第三皇子彦狭島王三代ノ嫡孫、越智氏ノ祖ハ小千ノ天狭貫王」
とあった。ここでは、越智氏の祖は小千命ではなく小千ノ天狭貫王となっていて王称号もついていた。これについては後述する。
ここで、第七代孝霊天皇・第八代孝元天皇の“皇別の不思議”について述べることにしたい。この両天皇は今や通説になってしまった第二代綏靖天皇・第九代開化天皇までの「欠史八代」と言われる中にあって、『古事記』や『日本書紀』に殆ど説話がないことから、いわゆる戦後史学では架空の人物とされてしまったのである。ところが、これに関わることで注目したい論稿がある。
それは、三宅利喜男氏の『「新撰姓氏録」の証言』(11)である。要約すると、
『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』(12) には皇別・神別・諸蕃に分けられており、その皇別の内、最も多いのは孝元天皇の一〇八家、次いで孝昭天皇の四四家、以下崇神三三家、開化二二家、神武・景行二一家、敏達一九家、応神一二家、垂仁・天武九家、孝霊八家、あとの天皇は五〜〇家(神武〜嵯峨天皇まで)。
とある。これを見てお解りの通り、皇別氏族は孝元天皇の一〇八家がダントツである。説話も無い、果たして実在かどうかも判らない天皇に出自が集中しているのは何故か。不思議の極みであった。
ところが、これを納得させる画期的な論証、それは古田武彦説『高良山の「古系図」 -- 「九州王朝の天子」との関連をめぐって』(13)である。これには次のようにあった。
新撰姓氏録に対する三宅利喜男さん(古田史学の会)の研究成果に基づくと、「皇別」が圧倒的に集中する(一〇八家)ところは「孝元」だ。その「孝元」とは、いわゆる「皇暦」(『日本書紀』の「暦」)によれば、「前二一四〜前一五八」である。紀元前三世紀末から二世紀前半の頃だ。すなわち、いわゆる「天孫降臨」の時間帯である。
とあって、以下に九州王朝・倭国(14)の天子の系図である「高*良玉垂命コウラタマダレノミコト」を祖とする「高*良山の古系図」について論証しているが、これも「孝元」を祖としていることに関してなのである。古田説を要約すると、古系図は「天孫降臨」の「邇邇芸尊ニニギノミコト」を祖とすることに大変な誇りを持っているが、世を憚って『日本書紀』の「皇暦」に合わせて「孝元」を祖としたようである。つまり、「皇別氏族」の一〇八家は実際の「邇邇芸尊」から「孝元」に“置き換えた”ということである。
高*は、高の異体字。ユニコード9AD9
そこで、私は孝元の父親である孝霊の八家もほぼ同時代のことでもあり、事実は孝元と同じ「邇邇芸尊」の置き換えと考えても差し支えないと思われる。しかしながら、系図は家系を飾ることを常とするようであり、神話時代の話でもあるので、何処までが真実かは解らない。
次に、彦狭島命(彦狭男命・伊予皇子)について述べる。『予章記』「長福寺本」「築山本」には彦狭島命は「伊予国伊予郡神崎庄に御座す」とあり、この神崎庄は現在の伊予郡松前町神崎と言われている。前掲の『三島宮御鎮座本縁』ではこの宮を「伊予国遠土宮」としている。ここには延喜式内名神大社でもある伊豫神社が鎮座している。沿革は、
「主祭神ーー彦狭島命(伊予皇子又は彦狭男命、第七代孝霊天皇の第三皇子)(15)。」
とあり、そうなると、神崎庄伊豫神社が「遠土宮」のこととも考えられるが、この神社及び松前町には、管見の限り遠土宮に関わる地名・伝承はない。また他の文献からも確認できない。伊豫神社の祢宜・星野暢広氏にお尋ねしたが、このような伝承はないとのことであった。今のところ不明と言わざるを得ない。
ところで、系図をそのまま鵜呑みにすることは到底出来ないが、『予章記』によると、彦狭島命(彦狭男命・伊予皇子)には三子あり、第一王子は大宅・庵原氏祖、第二王子は三宅・児島氏祖、第三王子が小千命で、旧・越智郡大浜(現・今治市の糸山半島部付け根)に居宅を構え、越智氏・河野氏の祖となったとしている。
小千氏祖三代がそれぞれ違う所、彦狭島命 ーー 伊予郡神崎庄(伊余国)、小千命 ーー 越智郡大浜(当時は怒麻国内 ー 筆者)、小千天狭貫越智郡朝倉(小千国)、そしてまたその息子・天狭介 ーー 乃万郡大井(怒麻国)と、全く離れている所、「クニ」も違う所に居宅を構えている。あたかも伊予国内全てが小千氏の領土であるがごとくで、これは不自然である。弥生時代から古墳時代にかけて、小権力が割拠している時代には、とても考えられない。このことから、小千氏が伊予の覇者を誇示するため、他の複数ヵ所にまつわる別の氏族の説話をのちの世に一つに繋ぎ合わせたようにも思える。
伊予皇子について景浦勉氏は前掲『河野氏の研究』で、
「すでに栗田寛博士が指摘されているように孝霊天皇の皇子に伊予親王は存在しない。これは本書(『予章記』 ー 合田注)の筆者が河野氏を皇別にせんがために、親王の名を捏造し体裁を整えていることによる。」
としている。
また、白石成二氏は『古代越智氏の研究』(16)で次のように述べている。
「『予章記』の記事では伊予親王というのは、七代孝霊天皇の第三皇子、孝元天皇の弟にあたる彦狭島命である。この時に南蛮・西戎が蜂起したため、国家を鎮護するために伊予国に留まり、そこで伊予皇子と号し、天皇より西南藩塀将軍の宣下を受けたという話になっている。『記』『紀』には孝霊天皇の子に彦狭島命が存在するが、異民族の蜂起などということは全くみえない。そもそも第七・八代の孝霊・孝元天皇は実在しなかったとするのが通説であり、したがってこの記事も事実ではなかろう。」
そして、『水里玄義』の伊予親王に関しても、
「『水里玄義』は『予章記』と同じく、<南蛮・西戎が蜂起したため、国家を鎮護するために伊予国に留まった>と記すが、ここでは伊予親王は桓武天皇の第四皇子とされ、先の孝霊天皇からは、数百年も年代が異なり、時代設定に大きな違いがある。」
としている。この孝霊・孝元天皇が架空の人物であったかどうかであるが、仮に実在であったとしても、当時、近畿(大和)天皇家は大和盆地の一角を占めているだけの小さな土豪であることから、「天皇より西南藩塀将軍の宣下を受け、伊予に留まり伊予皇子と号ス」などとは創作以外の何ものでもない。また、『水里玄義』の桓武天皇の皇子・伊予親王説も白石氏が述べているように、時代が全く合わない。
次の小千命であるが、「小千」と最初に記されることから、小千氏祖とすることに不思議がないようにも思える。しかしながら私には、大浜降臨以外の格別な伝承もないことから越智氏を飾るための神話上の人物・架空の人物のように思えてならないのである。なお、『朝倉村誌』によると、朝倉にある「コチ神社(祭神はコチの命)」は金光家の祖神で、江戸時代に旧・東予市の楠から朝倉の浅地へ遷座したとしている。これ以上のことは不明であるが、そうなると小千氏祖の地は神崎や大浜はたまた朝倉それに楠説(17)もあることになる。しかしながら、この楠説については伝承だけで確かな記録はない。
何分にも小千氏祖は神話時代の産物であり、歴史事実とは認められないことから、私は朝倉に初めて居住した人物を初代と考えるのが順当と思うのである。
すなわち、小千氏(越智氏)の初代は、矢矧神社にある『伊予不動大系図巻二十五』(『岡文書』と同じ)や『矢矧神社御由緒』の「小千天狭貫王」となるのではないか、と。これはあくまでも推測ではある。
因みに、『姓氏家系大辞典』(太田亮著、角川書店)・『新編姓氏家系辞書』(太田亮著、丹羽基二編、秋田書店)・『日本家系・系図大事典』(奥富敬之著、東京堂出版)などの「越智氏」の項を見ても、『予章記』や『国造本紀』の引用で郷土史の従来説と変わりはなかった。なお、この他にもこれらよりも古い辞書である太田亮氏の『姓氏家系辞書』(人物往来社・昭和 四三年)にも越智氏の記述があるようである。(18)
それでは、本稿の核心となるところを述べることにしたい。
思うに、越智氏は当初「コチ」と呼ばれていたのではないか。それは、小千氏は史書上に「乎致命」(『伊予国造家 越智姓河野氏系譜』・今治の大浜にある八幡神社の祭神)、乎知(『和名抄』)、乎知郡(『釈日本紀』)、「子致命」(『先代旧事本紀』所収「国造本紀」)と書かれていたが、「乎」・「子」はどう読んでも「オ」ではなく「コ」ではなかろうか。「小千・小市」の「小」も「コ」である。
因みに、『新大事典』(講談社)で乎は漢音で「コ」、呉音では「ク」であり、子は「ス・シ・コ」、小は「ショウ・コ・チイサイ」であった。従って、「オ」の読みはなかったのである。なお、前述した朝倉の浅地には「コチ神社」(祭神はコチの命)という小祠が遺されていた。また、朝倉上にはコチノミヤと言う「ホノギ(小字地名)」まである。そのようなことからも、「子致」は誤記ではなく真っ当だったことになるのではなかろうか。
そこで思うことは、「コチ」と言われていた土地に、「ある部族」がやって来て、そこに定着して土地の名を名乗り、繁栄して行ったと考えるのである。
この朝倉盆地には、弥生時代の「クニ」があったと思っている。『漢書』「地理誌」(19)に、
「楽浪海中、倭人あり、分かれて百余国を為す。歳時を以て来献すと云う。」
とあって、日本列島には百余国の国があり、定期的に中国に朝貢していたという。この記述は漢の武帝(前一四一〜前八七)の頃のことで、わが国では弥生時代である。この時代には、既に日本列島各地に部族単位であったり、地域を統率したりする小規模の「クニ」があり、やがてそれらを支配下においた大小の王朝も各地に存在するようになったようである。
そこで、『朝倉村誌』記載の朝倉の遺跡を見ると、多伎宮古冢ちょう群・野々瀬古冢群・野田古冢群などの「冢(20)」群がある。更に古墳時代初期の「王墓」を象徴する「三種の神器(鏡・剣・勾玉)」が出土している樹之本古墳があって、他に牛神古墳・根上がり松古墳・七間塚古墳・五間塚古墳・行者ヶ原古墳・城ヶ谷古墳・恵下坊古墳など、県下屈指の古冢・古墳の密集地帯である。これらのことからも、ここには「クニ」が在ったことを疑うことは出来ないのである。
そして、この朝倉には時代は下るが「伝・斉明天皇陵(所在地・朝倉上)」があり、斉明さいみょう天皇(九州王朝の天子 ー 筆者)に因んだ「斉明」という地名(『岡文書』に記載有り、現小字地名は「才明」、明治初年に替わったか ー 筆者。)まであった。
更に、『朝倉村誌』や越智国に遺る史書・その他の関係史書(21)による私の研究から解ったことは、斉明天皇の行宮遺跡及び伝承地として、「橘広庭宮(現在の伏原正八幡神社)」・「木丸殿(数回立て替えられ現在地は朝倉下)」・「矢矧神社(朝倉北)」があり、西条にも「石湯八幡宮(熟田津石湯行宮・旧所在地安知生 ーー 橘新宮神社へ遷宮、現在地洲之内)」・「御所神社(所在地古川)」など都合五ヵ所もあった。この他、隣国の宇摩国(四国中央市)にも長津宮(磐瀬行宮 ーー 現在の村山神社)もある。
その上、“唯一無二”であるはずの天子・天皇の宮殿「紫宸殿」(斉明天子の宮殿か ー 筆者)地名遺跡が旧東予市の明里川にあり(わが国の紫宸殿が在った所は太宰府と平安京及びこの明里川の三ヵ所)、隣接して広大な「天皇」地名まであつた。(22)
次に、『日本書紀』では斉明天皇の夫とされている舒明天皇(九州王朝の天子 ー 筆者)の行宮遺跡及び伝承地は、越智国内に遺構として「象耕庵」(現在まで数回建て替えられており、現存は昭和年代、旧・三好町大野)、伝承地として「金谷村十方寺(旧・実報寺村)」・「国山之湯(本谷温泉の奥)」・「楠窪之湯(鈍川温泉の近く)」の都合四ヶ所がある。(23)
また、舒明天皇や斉明天皇よりも古い聖徳太子に擬せられた『隋書』「イ妥国伝たいこくでん」(24)に登場する九州王朝の「日出ずる処の天子・阿毎(天 あま)多利思北孤たりしほこ」に纏わる遺跡として、拙論ではあるが「伊社邇波岡(いさにわのおか 石岡神社いわおかじんじゃ)(25)」・「神井(しんせい 芝井の泉)(26)」が西条の氷見にある。そして、明里川の近くに「永納山古代山城」まである。
このように、古代において「越智国」には、天子行幸の足跡が濃密に遺っていた。それは取りも直さず、朝倉を中心とした越智国が伊予国の中心でもあり、最も繁栄していたからではないのか。このことは、弥生時代から「クニ・国」が連綿と続いていた栄光ある地であったからにほかならないと思っている。なお、私の古代史探究のテーマである「九州王朝」との因縁浅からぬ「小千・越智氏」の輝ける歴史の舞台でもあった。
それでは論を戻して、最初に王都とした「古谷こや」についての背景を述べると、
そこには前述の多伎神社(所在地古谷)があって、その境内に多伎宮古冢が三十八基、現存十五基がある。多伎神社は式内社であり、往古奥の院にある磐座(いわくら ふすべ岩)と入口にある陰陽石信仰に始まったようである。
古谷の語源について『朝倉村誌』には次の記述がある。
「丹生土にぶどを採掘する所をコヤ(コーヤ)とよび、そこを流れる川を丹生川と言った。丹生土はもともと、水銀朱を含む赤土であるが、後には、鉄(ベンガラ)銅(黄銅鉱)アルミニウム(ボーキサイト)などを含有する赤土をも、総称して、丹生土と呼ぶようになり、さらに、単なる赤土をした粘土を、やはり丹生土と呼ぶようになったのである。」
と。近くに壬生川にゅうがわ・丹原たんばらがあり、朝倉も含めてこの辺り一帯が丹生土の産地であり、『朝倉村誌』が述べているように、語源の「コヤ」説は一面妥当のように思っているが、但しこの多伎神社のある一帯は、丹生土の産地であるかどうかは解らない。
そこで、別の見方も考えられる。それは、元は「コチ」の中の「小さな谷」すなわち「小谷」(コヤ)ではなかったか、と。私は、何回も現地に足を運んだ実感により、地形上からもそのように言えると思うのである。そうなると、丹生土のコヤと、小さな谷のコヤが相まったと考えることもできる。それが、次の王都となった「新谷にや」に相対して、のちに「古谷」の字が当てられた、と。
因みに、「新谷」を王都とする理由は、
「新谷森ノ前遺跡2次」(二〇一三年三月発掘史料)である。王の権威を象徴する二体の龍を描いた絵画土器・船を描いた絵画土器・方格規矩鏡(後漢製)の破鏡・弥生集落やその後の古代集落・転用硯・祿*釉陶器などが出土。ここからは1次発掘で既に細形銅剣・銅鏡・玉類などの様々な遺物が出土しており、古墳は数基まとまったものが四群あって、鹿ノ児池の西側丘陵上に十七メートル・文殊院西に二十三メートルの前方後円墳もある。
祿*は、示編の代わりに糸偏。JIS第三水準、ユニコード7DA0
ところで、前述のように朝倉一帯が「コチ」と呼ばれていた、その理由は、
「チ」は「石鎚」の「チ」と同じで、出雲の神さまを現しているからであろう(神様を現すとする梅沢伊勢三氏・古田武彦氏説)。
なお、朝倉の「ホノギ」には「チ」地名として、浅地・白地・車地・角地・行地・三通り地・有ヶ地・引地・ヲンチ・ワサ地・分地・小茂地・越智など、このほか田畑に関係する壱丁地・弐丁地・ニチョウチ・半地・弐反地・三反地・五反地・七畝地・九畝地(『朝倉村誌』)もある。
この地は出雲王朝の支配下にあったと思っている。それは、朝倉だけではなく伊予全体であるが、その痕跡を示すと次のようである、
一、「コチ」「イシヅチ」の「チ」は、『出雲国風土記』(27)の「出雲神話」に登場する大己貴命(オオナムチノミコト 大穴持命)・足名椎アシナヅチ・手名椎テナヅチ・八岐大蛇ヤマタノオロチなどの「チ」と同類の「チ」を戴いている。
二、伊予に色濃く遺る出雲の神様である大己貴命(オオナムチノミコト 大穴持命)やの伝説があること。(28)
三、少彦名命は、肱川ひじかわの激流にのまれ死亡、梁瀬山やなせやまの御壺谷(おつぼたに 大洲市)に埋葬されたとする伝承があること。(29)(30)
四、松山市北条の鹿島から出雲式土器が出土していること。
五、今治市朝倉古谷から隠岐島後おきどうご産の黒曜石の鏃やじりが出土していること。
六、旧越智郡・旧周桑郡・旧新居郡一帯には牛頭ごず天皇社・素鵞そが神社が大変多く、祭神は何れも出雲系の神さま“須佐之男命スサノオノミコト”であること。
七、松山平野には元素鵞村があったこと。
八、伊予でも旧暦十月は、八百万ヤオヨロズの神々が全国各地より出雲大社に集まるので、各地の神様が居なくなる月、すなわち「神無月かんなづき」と言われている。しかし、出雲の人達は神無月とは言わず、「神有月かみありづき」と言っている。その理由は各地の神様すなわちその国の王が、参勤交代よろしく年に一度出雲に参集したことにほかならないからである。
九、「だんだん」(ありがとうの意)言葉の共通性。伊予には方言として「だんだん」があるが、これが出雲にもあったのである。我々古田史学の会で出雲へ研修旅行に行った際、お土産店で買い物をした時に店員さんに「だんだん」と言われ、一同びっくり仰天したのである。聞くと出雲の言葉であると言う。伊予弁は出雲から伝わったか
それでは朝倉盆地に戻り、「コ」の意味はとなると、
「コ」はやはり小さいの「小(コ)」と考える。それは、朝倉盆地(東西距離六・二キロメートル、南北距離八キロメートル、総面積二十九・七九平方キロメートル)はどう見ても小さな盆地であるからである。すなわち、「小地こち」なのであった。それが、出雲の「チ」の神さまと土地の「地」がマッチングしたのである。
次に、ある部族とは、「天孫族(てんそんぞく天族あまぞく・海士族あまぞく)」と考える。それは、『予章記』の「天狭貫」・「天狭介」であり、そして「矢矧神社史料」の初代「小千天狭貫王」・二代目「天狭介」の「天あま」が象徴している。
このことは、古田武彦説によると弥生時代の前三〜二世紀頃西日本の覇者であつた「出雲王朝」の大国主命(オオクニヌシノミコト大黒さま)から、「天国あまくに」(対馬・壱岐・隠岐島・朝鮮半島南岸に跨る海峡国家)の女王・天照大神アマテラスオオミカミが「国譲り」(事実は簒奪)を受け「天孫降臨」(邇邇芸命が天国より博多湾岸日向ひなた地方に上陸、その後九州島制圧)の後、西日本一帯が天国それに続く九州王朝・倭国へ順次支配下に入ったという。
そこで、この「コチの国」へも「天孫族(天族)」がやって来たのではなかろうか。それ故に、「邇邇芸命」の一族の「○○の王」が土地の名「小地(コチ)」をネーミングして「小千(コチ)」と称した。それが「小千天狭貫王」である。天狭貫に「王」称号が付いていることから類推すると、天狭貫王は、伊予に対する「天孫族の降臨」ではなかったか。これ以後西暦七〇〇年まで続く九州王朝と越智国との密接な関係の土台がこれにて築かれたように思うのである。
また、単純に考えて、「コチ」へやって来た「天孫族」の一員がこの地で初代の「王」になった。それが「小千天狭貫王」であった、と。
従って、この地は「小千(コチ)王国」と言われていた。その後、『先代旧事本紀』所収の「国造本紀」に記されていた「小千国造」の国になったと考えたい。(31)このことからも、越智氏は孝霊天皇の皇別でも、饒速日命の物部氏系でもないと考えている。これもやはり、近畿(大和)王朝の御代になってからの系図作成であるので、天孫族とすれば“世を憚り”それを覆い隠し、出自を飾るため今様に替えたものと考える。仮説の域を出ないが提示しておきたい。
そして、小千から越智に改姓したことについて『予章記』は、
「玉興越人ヲ弟トスル事」として、玉興は小千守興の長子であるが守興が蒙古退治の折に中国の越で生ませた母違いの弟・玉澄との出会いを縷々述べている。次いで、
「玉興越人ニ家督ヲ譲リ越智并河野ニ字ヲ定ル事」として、玉興は玉澄(玉純)に家督を譲り、越で生まれたことから姓を小千から越智に替えることとした。
これは、「白村江の戦い」に出征した小千守興が、捕虜となって中国で暮らした折に生まれたとする玉澄のことを記しているのであるが、この玉澄の生まれた国・越に因んで越智に替えたとしているのである。一方、中国の越えつではなく、北陸の越国こしのこくとの説もあるようである。しかし、守興が捕虜になったことを考えると、中国の「越」が正しいように思う。何れにしても、小千から越智に替わったことは事実である。
ところで、確かに「字じ」は替わったのだが、果たしてその「読み」はどうなのか、ということである。
七〇一年の「大宝律令」以後「越智郡」と表記され現代に至っている。これが、古から「オチ」であれば論証外であるが、私にはそうは思えないのである。つまり、前述のように「乎」・「子」・「小」は「コ」と思っているからである。では、古の栄光ある「クニの王」であった「小千(コチ)氏」から、「越智(オチ)氏」という字を当て、読み方も替わったのは何時であったのか。
これは、やはり「白村江の戦」以後その敗戦を契機として、当事者の守興の意向を受けた玉澄の時代と思いたい。推論ではあるが、「小(しょう)」から「大(おお)」に替えたかった、それに中国の「越えつ」を絡ませて「越智(オチ)」とした、と。現代の町村合併による地名の付け方のように、縁起を担いで好字を付けるのと同じではなかろうか。元明天皇の和銅六年(七一三『続日本紀』(32)に、
「畿内と七道諸国の郡・郷の名称は、好い字をえらんでつけよ。」
と、あることと同じである。因みに、「越」の漢字の読みは「漢音はエツ」「呉音はオチ・こえる・こし」という(講談社『新大字典』)。
なお、朴市秦造田来津えちはたみやつこたくつとという人物がいた。この人物は『日本書紀』に複数回出現するが、最も顕著なのは「白村江の戦い」に倭国の将軍として出征したことで知られている。近江国愛知えち郡出身である。それがどういう訳か、前掲の『水里玄義』で饒速日命の後胤田来津が小千・河野氏の先祖として、天智天皇二年の御代に朝鮮半島に出征したことが記されている。これは間違いである(なお、白石成二氏も前掲書で述べている)。これは、河野氏を飾るため著者が改作したか、或いは間違った伝承からの記述ではなかろうか。
越智氏は、『伊予不動大系図巻二十五』(『岡文書』と同じ)や『矢矧神社御由緒』にある初代・小千天狭貫王、それから白村江の戦い(古田説六六二年、通説は六六三年)時代に実在した守興まで、この間の系図は到底そのまま信用することはできないが、「オチ氏元はコチ氏だった」つまり「小千(コチ)」から「越智(オチ)」に替わった経緯を私なりに考察した。
また思うに、現在の朝倉地名の起こりは「小地(こち)」であり、それが「小千(こち)」となり、盆地全体の広義の意味を現していた。その中の一地域が「朝倉」(33)であった。つまり、朝倉は狭義の意味だったのである。それが何時しか「朝倉村」として盆地全体の呼称となった。この地は、九州王朝と密接な関係もあることから、九州の朝倉に因んだのかも知れない。
以上、史料が限られている中での「作業仮説」である。ご批判を仰ぎたい。
(1)『朝倉村誌』朝倉村誌編さん委員会 昭和六一年五月
(2)『予章記』河野氏の記録 十四世紀末成立か 上蔵院本 長福寺本がある 伊予史談会双書第五集所収
(3)『水里玄義』河野教通の時代に河野氏の由来を記録 伊予史談会双書第五集所収
(4)大山祇神社史料『三島宮御鎮座本縁並寶基傳後世記録』宝暦四年太祝越智宿祢安屋編 平成十二年 國學院大學日本文化研究所編集 大山祇神社
(5)『天徳寺所蔵「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」について』川岡勉・田中弘道共著 地域創成研究年報第5号 二〇一〇年
(6)『先代旧事本紀』所収「国造本紀」平安時代成立か 物部氏に関係する書と見られている 偽書説もある「先代」は九州王朝を指しているとする説もある 『国史大系』所収
(7)『河野氏の研究』景浦勉著 伊予史料集成刊行会 平成三年一二月
(8)『愛媛面影』半井悟庵著 愛媛出版協会 昭和四十一年一月 この書について「伊予史談会」副会長清水正史氏にご教示を戴いた
(9)『伊予の姓氏』村上順市著 愛媛文化双書刊行会 昭和五五年七月 この書について前掲清水正史氏にご教示を戴いた
「和名抄」は『倭名類従抄』のことで九二一〜九八三年源順撰
『釈日本紀』は鎌倉時代中期に著された『日本書紀』の註釈書 卜部兼方著
「天孫本紀」は「国造本紀」と共に『先代旧事本紀』所収
(10)『伊予不動大系図巻二十五』朝倉の『岡文書』と同じ『岡文書』は戦国時代の笠松山城主の末流で文明年間〜明治初年までの岡家の記録 村指定有形文化財
『矢矧神社御由緒』矢矧神社の記録
(11)『「新撰姓氏録」の証言』 三宅利喜男論稿 古田史学論集第三集『古代に真実を求めて』二〇〇〇年十一月 明石書店
(12)『新撰姓氏録』平安時代初期の弘仁六年(八一五)に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑である 皇別・神別・諸蕃に分かれている
(13)『高良山の「古系図」 -- 「九州王朝の天子」との関連をめぐって』古田武彦論稿 古田史学論集第九集『古代に真実を求めて』二〇〇六年三月 明石書店
(14)九州王朝・倭国は紀元前三〜二世紀に邇邇芸命による九州島制圧後 順次中四国・近畿・中部・関東をも支配下に収めた日本列島の宗主国 王朝開設時は不明であるが五一七年「磐井」が倭国年号「継体」を定め中国の冊封体制から独立 「白村江の敗戦」を契機に弱体化して七〇一年三月二一日に近畿の文武天皇に政権の座を明け渡した ーー 「日本国」の成立ーー 『続日本紀』に「大宝を建元」したと書かれている 「建元」とは王朝の交代を示している 中国の『旧唐書』に倭国と日本国は別国として記され 日本国が倭国を吸収したとしている(古田武彦説 ー 元昭和薬科大学教授)
(15)松前町教育委員会編由緒案内板、『愛媛県神社誌』 愛媛県神社庁 昭和四十九年三月
(16)『古代越智氏の研究』白石成二著 二〇一〇年十一月 創風社出版
(17) 楠説は前掲清水正史氏にご教示戴いた
(18)この書の存在についても清水正史氏にご教示戴いた
(19)『漢書』「地理誌」(『前漢書』とも言う) 班固撰 前漢の歴史を記した書
(20)冢は 中国では墳より小さく木棺・石棺に土を被せただけのものを言う 塚程度のものでわが国では前方後円墳などの大型古墳が出来る古墳時代以前のもの
(21)『矢矧神社御由緒』(矢矧神社)・『岡文書』「伊予不動大系図巻二十五」(『朝倉村誌』所收・矢矧神社で一部所収)・『両足山安養院無量寺由来』「十方寺由来」(無量寺)・『旧故口伝略記』(橘新宮神社の記録 ーー 写本を高橋重美氏所蔵)・『萬年山保国寺歴代略記』(保国寺)・『西条誌』・『村山神社由緒記』(村山神社)・『源氏物語河海抄』所収「温泉記」・『大安寺伽藍縁起並流記資財帳』『釈日本紀』・その他各寺社由来・縁起など
(22)「紫宸殿」地名は西条市明理川に小字として遺っている 現在面積は七四,八〇〇平方メートル 隣接して「天皇」地名があり 現在面積は八一,〇〇〇平方メートル 明治二二年の「地積登記台帳」(旧・小松町農林水産課所蔵)にあり 何れも未発掘 今井久氏(古田史学の会・四国幹事)調査
明治九年の桑村郡明理川村『合段別畝順牒』(愛媛県立図書館所蔵)にも「紫宸殿」・「天皇」地名があった 大政就平氏(古田史学の会・四国幹事)による調査
「白村江の敗戦」にて九州王朝の首都「太宰府」は 唐の進駐軍数千人に二九年間に亘り占拠されたので 「天子・斉明」はそこを逃げ出し 明里川に居を定め「紫宸殿」を造営したものと思われる 勝者の歴史書である『日本書紀』により九州王朝も越智国も“なかった”ことにされた(以上は古田武彦説) これにて明里川が“倭国の首都”だった可能性も浮上してきた 終焉の地は越智国朝倉 ー 筆者 『松前史談』第二九号所載・拙稿『「九州王朝」の終焉と新生「日本国」の成立 -- 越智国にあった「紫宸殿」地名が物語るもの』『古代に真実を求めて』第一三集・一四集・一六集に拙稿所載
(23)前掲今井久氏にご教示戴いた
(24)『隋書』「イ妥*国伝」唐代の武徳四年(六二一)〜貞観十年(六三六)に魏徴らにより編纂・成立した隋朝に関する史書
「イ妥*国伝」にわが国のことが記されている 隋使・裴世清が阿蘇山下の王朝である九州王朝イ妥*国の天子・阿毎(天)多利思北孤に謁見した記録
(25)伊社邇波岡に比定する石岡神社が鎮座している所は 現在の「祭ヶ岡」 古名は「祝ヶ岡」であり 神功皇后の伝承地 近くに「伊雑里いざり川(現在名猪狩川)」が流れ 「伊雑(いざ 現在の読みはいぞう)」という地名まである ここは山部赤人が詠った「伊予ノ高嶺の射狭庭ノ岡」に最も相応しい所である 「伊予ノ高嶺」とは「石鎚山・瓶ヶ森・笹ヶ峰」の石鎚連峰をいう ここからの三峰の眺望は素晴らしい この地は椿の名勝地であり『伊予国風土記』逸文に収録されている「温湯碑」に刻まれた 「窺-望山岳之[山嚴][山咢]。反冀子平之能往椿樹相[广/陰]。」(覗いて山岳の山ざしを望み<中略>椿あいおおいてまがる)に最も相応しい地である
[山嚴]JIS第4水準ユニコード5DD7
[山咢]は、山編に咢。
[广/陰]は、广編に陰。
『松前史談』第二七号所載・拙稿「聖徳太子の虚像 -- 道後来湯説の真実」 『松前史談』二八号所載・拙稿「にぎたづはいずこに -- 斉明天皇の伊予行幸と崩御地及び天皇陵の真実」 『盗まれた「聖徳太子」伝承』(古代に真実を求めて第一八集 -- 拙稿「虚構・聖徳太子道後来湯説」)に詳述
(26)「神井(しんせい芝井の泉 ー 筆者)」前記「温湯碑」に刻まれていてここで愛でられていたのは「湯」ではなく「神井」と言う “不思議な泉”であった この神井は「天の井」「加持水」「長寿水」とも言われていた 「天の井」は「天あま」とあるので阿毎(あま天あま)多利思北孤たりしほこを思わせる 「加持水」とは加持祈祷の水であり 正に“病気も沐む水”となるであろう この泉は彼の弘法大師も愛でたとの伝承があるとのこと 西条史談会前会長三木秋男氏にご案内戴いた 西条は石鎚山系からの伏流水が町の各所から自噴している 石鎚山系は鉱物資源(銅・鉄・マンガン・輝安鉱<アンチモン>・朱・丹など)が豊富であることから 現在は普通の水であるが当時の「芝井の泉」は特殊なミネラルというか何かしらの治療物質が含有されていて 病気も癒す“霊験あらたかな泉”であったのではなかろうか(例えば病気を治すと言われていたかの有名なフランスの“ルルドの泉”のように)『盗まれた「聖徳太子」伝承』(古代に真実を求めて第一八集 拙稿「虚構・聖徳太子道後来湯説」)に詳述
(27)『出雲国風土記』風土記には和銅六年(七一三)に風土記撰上の詔によって成立する「郡風土記」とそれ以前の九州王朝時代に編纂された「県風土記」があるが『出雲国風土記』は後者に属する(古田武彦説)『日本文学大系2風土記』所収 昭和三三年 岩波書店
(28)『伊予国風土記』逸文『釈日本紀』所収 和銅六年(七一三)以降の成立「郡風土記」である
(29)『大洲舊記』寛政十三年 富永彦三郎著 一九三八年 豫陽叢書刊行会 大洲新谷舊記集草書
(30)『伊豫温故録』宮脇通赫著 一八八七年
(31)「国造」は『出雲風土記』にも記載されているが制度としては九州王朝が施行した
(32)『続日本紀しょくにほんぎ』六国史の第二書 菅野直道らにより編纂された 延暦十六年(七九七)完成 文武天皇元年(六九七)から桓武天皇の延暦一〇年までの九五年間の歴史 全四〇巻
(33)朝倉の語源は拙書『新説伊予の古代』(二〇〇八年十一月 創風社出版)で詳述
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