3.古田武彦の古代史再発見 第三回 「独創古代 -- 未来への視点」


仲麻呂の命運

KKS406 amanohara

 この歌は百人一首で歌われ、もっとも良く知られた歌です。また紀貫之(きのつらゆき)が10世紀に勅撰和歌集として編集した古今和歌集にある歌です。作者は8世紀に中国へ留学した阿倍仲麻呂です。

阿倍仲麻呂
 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に出でし月かも

 この歌は紀貫之が作った土佐日記では、最初の句を「天の原」から「青海原」に変えられています。土佐日記は紀貫之が土佐から京に旅行したことを元に書かれたものです。

青海原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に出でし月かも

 この歌は中国の明州といわれるところで、月が上るのを仲麻呂が感激して作ったといわれています。そしてこの歌は生まれ育ったところである奈良の月を偲(しの)んで歌ったと言われています。
 しかし仲麻呂が明州で生まれ育ったところを偲んで歌ったという解釈には数々の疑問があります。

fig.2. Nara (north Yamato Plasin

 最初の疑問は一般論として、彼が毎日月を見ていたという現在の奈良県、大和の三笠の山からは、月が上がるという解釈は出来ないことである。なぜなら平城宮址から見れば、三笠の山から月は上がらない。春日連峰や高円山からしか上がらない。大和の広い範囲から観ても三笠の山から月が上がるという観測は成立しない。
 さらに不思議なことに、三笠の山と言われているところは二つある。一つは(春日大社あるいは大和朝廷以前から、)「神山」として崇拝の対象としての、『御蓋山』と言われる三笠山である。もう一つは三段になった『若草山』といわれる三笠山である。
 加えて「春日の三笠の丘」とは何を意味しているのかである。「春日(かすが)」とは、「空にいつも雲が棚引いている。」という意味です。しかしこの二つの丘は余りにも低すぎて、いつも雲が棚引いてはいない。この歌に「春日」を加える理由がない。(海抜高度は、御蓋山二百九十三メートル、若草山三百四十二メートル、平城宮跡は六十五メートルです。)
 御蓋山も若草山も仲麻呂が歌った「三笠の山」であることは証明されてはいない。仲麻呂が大和に住んでいたという記録もない。

Fig.3. View Point A
平城宮跡から御蓋山を見る
View Point A Ruins of Heijo Palace
Fig.4. View Point B
奈良公園飛火野から御蓋山を見る
View Point B<BR>Nara Park Tobihino

 もう一つの疑問は、紀貫之が土佐日記において最初の句を「天の原」から「青海原」に変えたことです。これは改竄(かいざん)であり、この歌の理解において、問題の解決にはなりません。
 貫之は土佐日記においてこう書いています。
”山の端もなくて、海のなかよりぞ出(い)でくる。かうやうなるを見てや、むかし、安倍仲麿(あべのなかまろ)といひける人は、唐(もろこし)にわたりて、帰り来(き)けるに、・・・”
 貫之は歌の背景を大和から海に変えています。最初の句の変更は貫之が、「中国の明州で月が上るのを仲麻呂が感激し、故郷の月を偲んで歌った。」という考えに同意出来なかったことを示しています。私は仲麻呂が中国でこの歌を歌ったのではないという結論に至った。

Fukuoka Provience,Tikushi

 では何処でこの歌は作られたのか。私はこの歌を倭国から去るとき九州で作った歌だと考えている。
その一つの証明が、九州にも三笠の山が二つあることである。一つは志賀島の三笠山、もう一つは現在は宝満山と呼ばれる三笠山である。この三笠山(宝満山)は海岸に近く高さが827メートル有り、いつも雲が棚引いている。さらに古代・中近世はもちろん、現代にも御笠川、御笠郡、春日郡の地名がある。太宰府近辺からは、いつも御笠(三笠)の山から月が上るのを観測することができる。
 だから私は故郷が見えなくなる壱岐(島)の天の原の海上で、この歌が作られたと考える。

写真1 四天王寺山から御笠山(宝満山)を望む
写真2 御笠山(宝満山)から博多湾を望む
写真3 太宰府市青山(高尾山付近)から御笠山を観る

< この考えは中国の詩の解釈と対応する。

 この歌のこのような理解は、考えたよりも良い成果を獲得し次の情報をもたらした。

1、歌の解釈は歌そのものから行う。歌は一次史料である

2、「注釈・歌の解説」は、一次史料ではない。歌集を作るときの解釈である。

 私はこのことから、このような理解にたどり着いた。


翻訳者 解説

 この報告は古田氏の講演会の報告を元に制作したものです。このような歌の理解の方法は、万葉集・古今和歌集などの理解に大きな影響をおよぼすものす。事実、古田氏の詩の理解および方法は、大きな九州王朝の理解となり、新発見が続出しています。御興味のある方は『古田武彦講演集’98』(古田史学の会編)などを御覧下さい。また万葉集の解説をはじめとする著作なども出ますので御期待下さい。
 この報告を作成したのは、古田氏の見解が、歌を並べてみれば一目瞭然(いちもくりょうぜん)で外国人から理解されると考えています。一般に言われている解釈、「中国の明州で仲麻呂が月が上がるのを感激し、故郷を偲んで歌った作った歌」は成り立たないということが、英語の三つの歌を並べて見れば明解である。それ以上でも、以下でもありません。私のつたない語学力でも、そのことは理解されると考えて提案したものです。もちろん古田氏の見解は、事実関係と一体ではありますが、主張は主張として理解されるべきものと考えています。ですから事実関係を並べたのは、この詩に対して外国人が日本人に説明を求める時の回答と考えられます。古田氏の見解を理解できる一助になれば幸いです。

追記
 この中にあるFig.3.と Fig.4.は写真を合成して月を逆向きに配置した図です。本来は月の位置を計算して示そうかと考えましたが、逆に図として明確に理解できるように月を配置したものです。別に奇を衒(てら)わなくても、平城京跡からみれば、三笠の山(御蓋山と若草山)から月は絶対に上がりませんが。


資料

日本語電子書籍案内

3.古田武彦の古代史再発見 第三回 「独創古代ー未来への視点」
98年10月 4日  大阪 豊中市立生活情報センター「くらしかん」


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古今和歌集巻第九

羇旅哥

00406 唐(もろこし)にて月をみてよみける

仲麿

天の原 ふりさけ見れは 春日なる み笠の山に 出し月かも

この歌は昔安倍仲麿といひける人は、唐土(もろこし)に、物ならはしに、遣しけるに、あまたの年を経て、え帰りまうでこざりけるを、此の国より又使まかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとていでたちけるに、明州といふ所の海べて、かの国の人むまのはなむけしけり。夜になりて月のいと面白くさし出でたりけるを見て、よめるとなむ語り伝ふる。


土佐日記
・・・二十(はつか)の夜の月いでにけり。山の端もなくて、海のなかよりぞ出(い)でくる。かうやうなるを見てや、むかし、安倍仲麿(あべのなかまろ)といひける人は、唐(もろこし)にわたりて、帰り来(き)けるに、船に乗るべき所にて、かの国人、餞(むまのはなむけ)し、別れ惜(お)しみて、かいこの漢詩(からうた)つくりなどしける。飽かずやありけむ、二十の夜の月いづるまでありける。その月は海よりぞ出でける。これを見てぞ、仲麿の主(ぬし)、「わが国にかゝる歌をなむ、神代より神もよんたび、いまは上中下の人も、かうように別れ惜(を)しみ、喜びもあり、悲しびもあるときはには、詠む。」とて、詠めりけるうた、

あおうなばら ふりさけみれは かすがなる みかさのやまに いでし つきかも

とぞよめりける。かの国人、聞き知るまじく、おもほえたれども、事の心を、男文字に、様を書きいだいして、こゝのことば伝へたる人にいひ知らせければ、心をや聞きえりたけむ、いと思ひのほかになむ愛(め)でける。唐とこの国とは、言異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ。


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