中村幸雄論集 誤読されていた日本書紀


誤読されていた日本書紀

─天皇の神格性の意味、及びその発生消滅に関する考察─

はじめに

 戦後「天皇論」「皇国史観」に関する論文は数えきれないほど発表されているが、唯一つ「何故、いつから天皇は神であったか」に関し納得できる説明をされている学者はいられないようである。 戦前の皇国史観の根底には「天皇は神である」という独断があった事実を何人も否定できないであろう。当時の御用学者はこの独断を発展させ、聖戦を宣伝し、如何に多数の日本人・外国人を問わず、尊い生命が「神である天皇」の名の下に失われたかは周知の事実である。然るに、敗戦後、天皇は 一片の「人間宣言」において自らを「現御神」ではないということにより、戦争責任を廻避してしまったのである。
 その人間宣言の内容は、天皇を、現御神と呼ぶのは架空と観念であるというに止まり、何故それ迄現御神といわれていたのか、また何故現御神が架空の観念なのかは一切説明されてはいないので、 戦後四十年を経た現在も皇国史観の亡霊が横行している(教科書検定の実状、憲法改正により天皇権の増大を企てる改憲論者の存在)事実はそれに淵源しているとしか思えないのである。また、以下に 明らかになる通り、この問題を明らかにすることにより日本古代史の真実が浮上して来たのである。


天皇の神格性の意味

I通  説

 天皇が神であった事実の一番一般的な説明は次の通りであろう。

  (a)、通説的には伊勢神宮天照大神は皇室の皇祖神(祖先神)として最高神の地位にある。
  (b)、故に、 (a)を逆説的にいうと、天皇は最高神である天照大神の子孫であるから神(肉体を持った神)であると。
 この説の弱点は少しでも論理的思考を持つものには明らかであろう。
もし、『記紀』に書かれている通り、天皇が天照大神の直系の子孫であったとしても、子孫全体が必ずしも神ではなかったのである。

  (a)、天皇が神といわれたのは天皇位を継承したからであり、何故天皇位を継承したもののみが 神といわれたのか理解できないのである。
  (b)、神武以来の大王達全員が神であったとは思えない。少なくとも前期飛鳥時代迄の大王達には神意識は認められない。

 故に、通説的に天照大神を単なる皇祖神(祖先神)と解釈する学説には誤りがあるといわざるを 得ないのである。


II 鳥越憲三郎説


次に、I説の弱点を補強し、今迄にこの問題に関し唯一理論的に説明したと思われる学説を紹介しよう。

 鳥越憲三郎『天皇権の起源』
 略説すると、同氏は中国史書の「倭」は大和朝廷以外にはあり得ないという独断的偏見に立脚し、
  (a)、三国志魏志倭人伝の卑弥呼と男弟王
  (b)、隋書、イ妥*国伝の阿毎多利思北孤と男弟王
  (c)、隅田八幡宮の鏡銘 日十大王と男弟王
を引用し、我国の古代の政治体制は全て兄弟統治であったと断定し、その分担は、

 兄─祭祀権者─神
 弟─政事権者─天皇

であったとし、神武〜天智間に両者を無理矢理にこじつけ的に推定し、そして壬申の乱に勝利を収め、飛躍的に権力を増大させた天武の時代になり、両者は一体化し、「天皇=神」という定型が完成したと説明されているのである。

インターネット事務局注記2004.02.05
イ妥*国のイ妥*(タイ)は人編に妥です。

 この学説に村する批判は次の通りである。

  (a)、大和朝廷の古代統治体制が兄弟統治であったという鳥越氏の断定は独断という外なく、いくら『記紀』を読み返してもそのような事実を発見し得ないのであり、
    (鳥越氏も『記紀』に於いては確定的な証拠を挙げられてはいない)
  (b)、前記三例は全て古田武彦氏により九州王朝における事例であると証明されている。
  (c)、天皇=神の定型はむしろ大和朝廷の国王の称号が大王より天皇への変化に対応していると いうべきであり、天皇の称号の使用は比較的新しいといわねばならない。

なお、この学説に対する決定的反論は以下 IIIに譲る。


III 自  説

 以上の通り I ・IIでは、何故必然的に大和朝廷の天皇に神格性が発生したか(私も神武以降全ての天皇が神ではなかったことを証明された鳥越氏の功績に対し敬意を表するものである)を説明できなかったのである。
 私見を述べると、今迄の学者達は『日本書紀』を誤読していると断定せざるを得ないのであり、 解答は明らかに『日本書紀』に書かれていたのである。まず、次の事実を確認していかねばならないのである。

“神武を皇祖(始祖)と做なし、神武即位の日を太陽暦に換算し、戦前の紀元節、戦後の建国記念日に当てた明治以後の政府の方針が日本古代史を泥沼に追い込んだ。”と。

 このようにいうと、明治天皇の発布した教育勅語にいう「皇祖皇宗」の解釈、即ち、「神武及び 以後の天皇」に反し、殊更に異説を唱えるものとして批難を受けるかもしれない。しかし、古代の 歴史書、『日本書紀』は神武を皇祖とは認めていないのであり、むしろ『日本書紀』の示す皇祖は 別に存在しているといわねばならないのである。

 神武即位前紀
“ 神日本磐余彦天皇曰く……皇祖皇考乃神乃聖にして……天祖の降跡りましてより以逮、今に一百七十九萬二千四百七十余歳なり。”

 この皇祖を誰と解釈するとよいのであろうか。
 この場合、『日本書紀』がその型式を中国史書にならった事は明らかであるから、中国史書がどのような型式により編集されているかを明らかにする必要があるのである。そして『日本書紀』成立 以前に成立し、『日本書紀』が記事を引用している中国史書では例外なくその王朝の成立を次の通り表現しているのである。

“ 天帝─天命─天子─高祖”

繙って『日本書紀』神代紀を視ると、

  (a)、天帝に相当する天照大神
  (b)、天命に相当する、天壌無窮の神勅(神命)
  (c)、天子に相当する天孫ニニギ尊

の型式が備っていることは明らかであり、

  (d)、神命(天壌無窮の神勅)を受けた天孫ニニギ尊こそ、中国史書の天命を受けた高祖に相当する皇祖と判定せざるを得ないのである。

“ 天照大神─神命─天孫─皇祖”

以上の推論はまた次の事実により裏付けられているのである。

“ 天孫ニニギ尊の降臨地「竺紫の日向の高千穂峯」の比定は通説的には日向国(現宮崎県)とされていたが、古田武彦氏は『盗まれた神話』において、『記紀』の記事を正確に読みとるならば筑紫は単に筑紫国を指すのみであり、天孫降臨地は筑紫の日向(ヒナタ)峠を含む高祖山であると主張されたのであるが、今もって他の歴史学者により黙殺されているのであるが、今迄説明した通りニニギ尊が皇祖(高祖)であるのであるから、読み方は異っても高祖(タカス)山以外には天孫降臨地はあり得ないと断言し得るのである。” と。

そして以上の説明を理解されるならば、

A 『日本書紀』末期の天皇の敬称である。
  明神(アキツミカミトシテ)御宇(アマノシタシロス)天皇

B 『続日本紀』の天皇の敬称
  現神(右ニ同ジ)御宇天皇

 こそ、中国史書における各王朝の二代目以下の皇帝の自称、

「天命を継承して、国を治める皇帝」(各皇帝により表現は異なるが大意はこのようである)の日本版であり、

 Aの明神は、「明神命
 Bの現神は、「体現神命

の省略型であったのである。

 故に、皇祖=ニニギ尊が乃神乃聖、即ち、神聖とされ(神武即位前紀)天武・持統が「大君は神にしませば……」と歌われた(萬葉集)のは神命(天孫降臨に際し天照大神がニニギ尊に授けた天壌無窮の神勅)を或は受け或は継承して神(天照大神)の代行者として国を治めていたからであるといえるのであり、平安時代以後、遣唐使の廃止、武家政治の開始により、国際外交の舞台から天皇が姿を消すことにより奈良時代の天皇の公式称号「現神御宇天皇」を使用する機会が無くなり、天皇=神の伝承のみが伝わることとなり、「天皇は肉体を持った神である」と変化して戦前の皇国史観の最盛期に到ったと推定されるのである。
 以上の通り、『記紀』の編者は中国史書を換骨奪胎することにより、成立時(奈良時代)の天皇の神聖性の意味及び発生を見事に説明していたのである。そしてこの論理により『記紀』神代紀を読むと今迄神憑り的超自然的であるが故に荒唐無稽な作り話に過ぎないと思われてきた説話が、実は体系的な国家成立の説明であった事実が次の通り判明したのである。

(1) 、神代紀のメインテーマは、中国史書における天帝の天命に相当する天照大神の天壌無窮の神勅を受けたと称するニニギ尊の新王朝建国であった。

(2) 、サブテーマは次の二点である。
 イ、天帝に相当する天照大神の説明
 ロ、ニニギ尊の王朝の領土の範囲(国生み神話)と、その沿革(国譲り神話)。


天命=天壌無窮の神勅

  私はここまで論理を展開した時、日本古代史の真相を発見した一番目であると内心自負したので あるが、為念、「現神御宇天皇」の称号を現在の天皇の称号と比較した時痛棒を喫したのである。

a、明治五年、琉球藩冊立の詔
   「朕上天ノ景命ニ膺り 萬世一系ノ帝祚ヲ紹ギ奄ニ四海ヲ有チ八荒ニ君臨ス……」
b、大正四年即位礼ノ勅語
    「朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ……天壤無窮ノ神勅ニ依リテ萬世一系ノ帝位ヲ伝ヘ………」

 すなわち、天皇家においては自らの神聖性の根本が実は、本稿で私が説明してきた「天命=天壌 無窮の神勅」であることを自明の理として使用していたのであるが、その事実を神秘のヴエールに 覆い一般に分り易く説明していなかっただけであり、歴史学者達も一杯食わされていたのである。
 しかし、 炯眼な読者諸君は、 先に略説した鳥越憲三郎氏が 『天皇権の起源』で説明された通り 「神武以後の天皇達には神格性が認められない」と矛盾するではないかといわれるであろう。私も 以下の理由によりそれらの天皇達が「神命を代行する」=「神としての天皇」とは認めがたいのである。

 イ 仲哀紀 ・ 神功皇后紀に出現する「神」は『記紀』を詳しく読むと天照大神であることが判明 する。然るに仲哀はその天照大神の神託を信頼せず、罰として死を与えられている。

 ロ 雄略・崇峻のような悪逆無残な天皇の存在。

  この点において鳥越氏の卓説に敬服せざるを得ないのである。そして私は鳥越説以外に(鳥越説は前述した通り信用できない)この矛盾を説明し得る記事があるのではないかと『日本書紀』を読み返した結果、今一人の「皇祖」が出現していることを発見したのである。

孝徳
大化二年、皇太子より天皇への上奏文、(長文であるので略記す)
朝廷の用に資する為(班田制の為か)かつて皇族領であったのが、現在民間領となっている
 (イ) 代々の天皇の子代入部、
 (ロ) 代々の皇子らの御名入部、
 (ハ) 皇祖大兄の御名入部
を献上させよといっているのである。

「皇祖大兄」に註として彦人大兄が当てられているが、果して正しいかが問題となるのである。 なるほど、この記事は孝徳紀であり、彦人大兄は孝徳の祖父に当たるから一見妥当なように見えるのであるが、「皇祖」を「皇の祖」と分断する方法に問題があるのである。

 (1) 皇祖を皇ノ祖父と解釈するならば、『記紀』全体を通じ無数の皇祖がなければならないのに、 「皇祖」と表現されているのは、ニニギ尊とこの「皇祖大兄」のみである。
 (2) 彦人大兄は皇位にも就かず(敏達の後を継がなかったのは敏達より早世であったとも考えられる)、
 (イ)代々の天皇
 (ロ)代々の皇子ら
に匹敵する程の領地を持っていたとは思えない。

 故に、この註は『日本書紀』成立当時の註ではなく後で入れられた註であると解釈すべきである。


皇祖大兄

 しからば「皇祖大兄」は誰であろうか。
 私見を述べると、この場合戦後の歴史学の成果である「大化改新はなかった」の立場を導入すると、この問題は解決するのである。「郡評論争」により、既に大化改新の詔に文武の詔が混入されていることは明らかであり、この大化三年の記事も、天皇を持統、皇太子を文武に比定するならば、「皇祖大兄」は中大兄即ち天智であるといえるのである。
 何となれば、天智を皇祖に比定することにより、次の問題が解決するからである。
 『日本書紀』を読まれた方は、斉明が皇祖母尊・斉明の母吉備姫、欽明の母糠手姫が皇祖母命と 諡名されている事実をご存知であろう。通説的には『古事記』成立時の元明の祖母が斉明であるから、「皇の祖母」の意味であろうと解釈されているが、その誤解は明らかであり、皇祖=天智が基準であり、一親等の母である斉明に皇祖母尊、二親等の祖母である糠手姫吉備姫が皇祖母命であり、「尊」の方が「命」より上位であることが理解されるであろう。
なお、私は前にニニギ尊が皇祖である事実を説明する論拠として、ニニギ尊が所謂天命に相当する天壌無窮の神勅(神命)を受けたるが故に、中国史書の高祖に相当する皇祖であることを示した。 故に再び天智を皇祖と判断する基準として天命ないし神命の表現が示されていればよいのであろう。そして天命の降下は明らかに示されていたのである。

(1) 、天智七年

時人曰、天命将及乎

 天智の即位記事の締めくくりとして、 この一行があるのであるが、現在の最高権威者により 編集されたと自負している岩波古典文学大系『日本書紀』では「ミイノチマサニヲワリナムトス」と読んで居り、その誤読の根本は「天命将及」を革命、即ち王朝交替を意味すると解釈し、大和朝廷にあっては天智の時代にはそのような事実はないのであるから、無理矢理にフリガナ付けをしたのであり、「天命将及」が革命を伴わない新王朝の成立(独立)を意味している場合もあることに思い到らなかったからである(中国に於いては三国、南北朝時代に複数の天命を受けた国家が併立していた事実がある)。

(2)、懐風藻序文
  「淡海先帝の命を受けたまふに及びて、帝業恢開……」
懐風藻が孝謙の時代に編集された詩集であることは確実であり、その序文に「受命」と明記されているのであり、中国史書においては「受命の君」とは高祖に該当することは明らかであり、天智が 皇祖であった事実の明白な証明である。

(3)、『続日本紀』孝謙天平宝字元年
   藤原仲麻呂の上奏文
  「淡海大津宮御字皇帝は天縦聖君なり………」
「天の縦せし聖君」が天命を受けた天子であり、天智以外にこのような敬称を受けた天皇はいず、初めて天命を受けた皇祖にふさわしい敬称であるといえるのである。

(4) 、以上を通観すると、天智の諡名「天命開別」は「天命を受け別国(新王朝)を開いた」天皇で あることは明らかであり、通説的な読み方「アマノミコトヒラキワケ」は古代の真実を見失った後世のふり仮名に過ぎなかったのであり、何を意味しているか分からない。

(5) 、さらに、視角を変えて詳説しよう。
『続日本紀』に奈良時代の天皇達、元明・聖武・孝謙・桓武の即位の詔に原文は省略するが、

「この食す国(治める国)は淡海大津宮御宇天皇(天智)の定め賜える不改常典により出来たのだ」という一節が含まれているのである。この即位の詔はいわゆる「宣命」であり、作為の混入し易い 史書の編集とは異なり、群臣公開の場に於ける天皇の発言であるから、作為の入りようがなかったはずである。このことを前提として「不改常典」とは何かを検討してみよう。
 まず明白なのは成文法ではあり得ないという事である。何となれば今迄歴史学者達は近江令ではないかとして、その成立不成立を論争されたのであるが、近江令がもし成立していたとしても、その後天武の浄御原令、文武の大宝律令、さらに養老律令と変化しており、到底「不改常典」と形容することはできなかったはずであり、一般にいう「令」、「律令」とは異なるものであったはずである。そこで考えられるのは古代の国家成立の為の最も必要な条件であり、天智が受けたとされている「天命」以外ではあり得ないのである。そして「天命=天壌無窮の神勅」であったのであるから、天壌無窮の神勅は二度降りたと判断せねばならないのである。
 天壤無窮の神勅が天智に降り新王朝が開始されたと解するならば元明・聖武・孝謙・桓武の即位の詔の意味ははっきりと理解できるのである。
 王朝成立の必須条件である天命=天壤無窮の神勅が二度降り、二人の皇祖ニニギ尊と天智が実在した事実は果して何を意味しているのであろうか。この事実は両者が全く別個の王朝であったことを明白に証明しているのである。何となれば中国史書における天命の使用法によると、同一王朝に複数の天命降下はあり得ないからであり、この法則は全て先例を中国に求めた『日本書紀』の編者にとって自明の理であったはずであるからである。
 『記紀』共に神武が九州より出発し大和に定着した事実を伝えている。このことを従来通説的に 神武が九州の王朝を挙げて大和に移動したいわゆる神武東であると解釈してきた。これに対し古田武彦氏は『古代は輝いていた』で神武は九州王朝の傍流に過ぎず、 新天地を求め開拓者的に大和に 侵入したのであり、神武東に過ぎないと主張されている。どちらが正しいか自ら明らかであろう。神武は天命=天壌無窮の神勅を継承した正統の王朝ではなかったのであり、天智が天命を受ける 以前の大和の政権は「王朝」ではなく、単に「豪族」に過ぎなかったからであり、中国史書に継続して出現している「倭王朝」は九州に継続して実在した九州王朝であったのである。
(代々の中国王朝が豪族に過ぎない大和の地方政権と継続し交渉を持っていたとは考えられない)。
 然らばなぜ大和の豪族が突然天智の時代になり、天命を称する王朝に変化したのであろうか。その原因は古田氏の提唱されている通り、白村江の大敗を契機とする日本列島上における九州王朝の地盤低下であったのである。
そして九州王朝の頽勢挽回は遂にならず、遂に文武の時代になり、先行したニニギ尊を皇祖とする九州王朝は後発の天智を皇祖とする大和朝廷に併合吸収されてしまった(この事は九州年号の消滅、大和朝廷の年号である大宝年号の開始により裏付けられている)。
 東北を除く日本列島の覇者となった大和朝廷は、その王朝に箔を付けるため吸収した九州王朝の 史書を盗用し、自らの王朝が古来より唯一の王朝であるかのように朝鮮半島諸国との交渉史を引用した『日本書紀』を作成したが、真実の皇祖である天智の功績に対する敬称「天命開別」迄は消すことはできなかった(周知の事実であったから)。またその史書には皇祖天智の影がちらりと姿を現わしていたのである(孝徳三年皇祖大兄、天智七年天命将及乎)。

(6)  最後に今一つ天智が大和朝廷における真の皇祖と推定し得る資料を示そう。
 延喜式(十世紀前半成立)に国忌の規定があり、その内容は各省より出席すべき定員、参加者への記念品、無断欠席者の罰則等明細に定められているのであるが、ここで注目しなければならないのは、肝心の被祭祀者が『日本書紀』『続日本紀』に出現する天皇全員ではなく極めて限定されている点である。

  以下に示すが桓武以後の天皇皇后は除く、何となればそれ等の天皇皇后は延喜式成立直前の天皇であり、近親祭祀に当り、祭られて当然であるからである。

 国忌
 イ、天智天皇 十二月三日 崇福寺
 ロ、天宗高紹(光仁)天皇 十二月二十三日 東寺
 ハ、桓武天皇 三月十七日 西寺

  桓武忌は桓武が平安京に都を遷した天皇なのであるから、平安時代の朝廷にとっては最も重要な 天皇であったはずであるから国家の記念日である国忌に登場するのは当然であろう。
 光仁忌は桓武の父であり、平安朝の国忌は桓武より始り継承されたはずであるので桓武が父親である光仁の忌日を国忌としたのも当然である。
 光仁以前の天皇達のうち、国忌として定められている天皇は天智のみである事実を何と理解すべきであろうか。官撰の歴史である『日本書紀』には堂々と神武以下の天皇が継続しているのである。

  (1) 、或は次のようにいわれるかもしれない。
 「国忌は仏式で施行されるから、仏教伝来以前の天皇を祭るはずはない。」と。
 しかし仏教伝来以後の天皇でも天智しか祭られていないのである。

  (2) 、また、次のようにいわれる方もいるであろう。
  「壬申の乱で近江朝を倒し皇位に就いた天武系の皇統は孝謙で絶え、天智の孫である光仁以後 平安朝の皇統は天智系であるから、直系の祖先である天智を敬慕するため国忌に入れた。」と。
現在の歴史家は壬申の乱に勝った天武に大きな評価を与えられているようである。論文の量が そのことを物語っているのである。しかし、私見を述べると、壬申の乱は大友皇子(弘文)に対する天武の私怨であり、単なるクーデターに過ぎず、コップの中の嵐であるとの評価を下し得るのではなかろうか。なぜなれば乱後も天武の天智の他の皇子達に対する待遇は公正であり、また、天武系の天皇である元明・聖武・孝謙の即位の詔においては天智を「大倭根子天皇」と礼賛し、反対に 天武に対しては全く何も言及していないのである。また、もし平安朝の朝廷に天智系・天武系を 区別する考えがあったとしても、両者に共通する斉明以前の天皇を国忌より省くのは不自然である。

 となると結論は一つしかないのである。

 「延喜式成立時代の朝廷は、元明・聖武・孝謙・桓武の各天皇が即位の詔において云っている天智が定め賜える不改常典が、前に説明したように天壌無窮の神勅であり、天智が大和朝廷の皇祖である事実を正確に知っていたからである。」と。

 以上長々と現在ではほとんど死語である「天命」「皇祖」を引用して天皇の神格性の意味及びその発生を説いたが、天命、皇祖が古代王朝成立の不可欠の必要条件であり、その意味が理解できなくては天皇の神格性の意味の究明が不可能であったからである。


天皇の神格性の消滅

 さて、本論に戻りいよいよ天皇の神格性の消滅を検討しよう。天皇の神格性の消滅が敗戦後の昭和二十一年頭のいわゆる「人間宣言」における「現御神は架空の観念である」という発言によるものであることは周知の事実であり、本稿の読者は既にその「架空の観念」である所以を十分理解されて いるはずである。
 それぞれ、天皇の神格性の根本であった天命の思想は中国に於いては股王朝の時代には使用されていた王朝を権威付けるための思想であり、近代の合理主義民主主義の史観とは全く調和できない古代の遺物であったのである(第二次大戦後植民地より多数の独立国が誕生しているが、皆共和国であり、 その独立宣言を調べても天命神命に類する発言をしている国は全くない)。
 そして、中国の「天命」の思想が中国革命、ヨーロッパ諸国の「王権神授説」がフランス革命・ ロシヤ革命等により否定された現代も我国は「天命(神命)」の史観を持ち続けた数少ない精神的後進国の一つであったのであり、明治以来流入して来た近代的合理主義的歴史哲学により、当然天命の 史観は否定されるべき運命にあったのである。
 しかし、戦前の天皇制政府は国体擁護の美名の下に近代的歴史哲学を拒否し弾圧を加え、「天皇は神である」ことをかたくなに主張していたのであるが、敗戦により近代的歴史哲学(民主主義)の 導入が不可避であると判断し、人民より天皇の神格性批判の声が出るにさきがけ、天皇自身が「人間宣言」において「現御神は架空の観念である」ことを宣言したのであり、もし「人間宣言」がされなければ、連合軍は当然戦争責任者の筆頭に天皇を指定したであろうと推定され、「人間宣言」は一石二鳥の効果があったのである。
 なお、憲法改正論者の中には「人間宣言」は占領軍の強制であったとし、天皇の神格性は不動のものであると盲信されている方もいられるようであるが、とんだアナクロニズムであるといわねばならないのである。


付 記
 読者は本稿が単に天皇の神格性の研究に止まらず、日本古代史の根本に関係していることを認められるであろう。少し考えるだけで、

イ、天皇の初称は天智である。懐風藻序文に「受命帝業恢開」の記事がある。

ロ、 倭(ヤマト)王朝の出発は天智である。 倭の五王、 好大王碑の倭は大和朝廷と解すべきでは ない(天智以前は豪族に過ぎない)。

ハ、天照大神が倭(ヤマト)朝廷で最高神に昇格したのは天智に天命を降したからである。

ニ、「ヤマト」の表記の変化が天智受命により説明できる。

が、無理なく解けるのである。今後本稿の原則を適用し、古代の真実を解明してゆくつもりである。


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