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『市民の古代』第7集 古田武彦とともに 1985年

経済学と古代史の接点

『古代は輝いていた』を読んで

渡辺好庸

 最新刊『古代は輝いていた I』の中で、古田先生は、我々経済学の研究者にとって非常に興味深い問題を提起されている。
 先生は、中国文献に現われた「縄文の大海の岸辺の一粒の砂金」を、いつもながらの鋭い史料分析をもって解明し、その上で、縄文時代に関する「イメージ」を語られている。それは、「イメージ」として当然であろうが、「後来の探究者の参考」のための、先生の縄文時代に対する「物の見方」だというのである。しかし我々は、そこで示された先生の理解の内に、それを単に「見方」としてはすまされない、我々にとっては、むしろ論理的帰結といわなければならない内容を、いくつか見い出すことができるのである。(その中から、ここでは、三三〜三四頁の「交換」の問題について触れて見たい)。
 先生は、和田峠の黒曜石が関東、東海、近畿にまで運ばれていることの「重さ」から、「集団」間の「交換」を推論される。和田峠から関東、東海、近畿へという「この距離のもつ重さ」は、「縄文人が掘りに出かけ、掘り出してもち帰る」ということを不可能としているのであり、それは「交換」によって運ばれたと考えるしかない。それでは、何と交換されたのか。それは、加曽利貝塚の巨大な貝殼の堆積から類推できる、「集団」によって加工された「干した貝肉」のようなものではないか。そして、このようなものが「交換」されることを前提すれば、その相互の主体は「個人ではなく、集団」と考えざるをえない。先生は、このようにして、黒曜石や貝塚の出土事実から、「集団」間の「交換」を推論し、「『交換』は、原則として、集団と集団の間の行為である」と結論付けられる。
 たしかに、このように見る限り、この一つの結論は、事実から出発しながらも、いくつかの仮説の想定の上での推論によったものであり、実証しえた結論とはいえない。その意味で先生は、「見方」と言われているのであろう。
 ところが、実証的にはなかなか確定しにくいこの結論 ーー「交換」は、原則として、集団と集団の間の行為であるーー が、実は、我々の理論経済学においては、論理的に規定されなければならないし、また規定できる命題なのである。
 マルクスは、『資本論』において、「AおよびBという物は、交換前には、このばあいまだ商品ではなくて、交換によってはじめて商品となる。・・・商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体か他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる」といっている(第一巻第二章交換過程)。そして、この有名な指摘を、マルクスは商品論の論理展開を通して、「交換されるべきものとしての商品」自体に対する規定の内に、基本的に論証しているのである。この成果の上に、我々は経済学原理論において、商品規定を確実なものとしえるのであり、それによって、「交換」が、本来、「共同体」(=「集団」)において、つまり「共同体」の内部からではなく外部関係の中で発生するということを、すでに論理的に確証しえているのである(「商品」の、したがって「交換」の、「共同体」にとっての外在性に関するマルクスに即した論証については、拙稿「商品形態論の生成」、『唯物史観」25号所収を参照せられたい)。
 だから、我々は、先生が事実から類推して導き出されたここでの結論が、まちがった結論ではないことを、先生のあげられた事実に即してではなく、「交換」に対する論理的規定に即して、断言することができる。しかし、ここで問題なのは、たしかに先生は正しい結論を導きえたといってよいのであるが、それにもかかわらず、先生自身が「イメージ」といい、また「あるまいか」「ないであろうか」というように断言を避けられていることからもわかる通り、この結論を実証的に確証することは非常に困難であるということである。「交換」の開始という、いわば人間歴史の黎明期にまでさかのぼらなければならない問題を、事実をもって解明するということは、ほとんど不可能なことといわなければならない。したがって、それは、むしろ逆なのであり、「交換」が本来「集団」の行為であるということ自体を、事実をもって明らかにすることが歴史学における実証なのではなく、本来「集団」間の行為としてしか発生しえない「交換」が、特定の地域の特定の時代に、どのように存在していたのかを、事実をもって明らかにすることこそが実証歴史学の課題なのであろう。
 つまり、経済学原理論による「交換」に対する論理的規定は、黒曜石の非生産地からの出土という事実に対して、黒曜石と何かとの「交換」を当然想定しうるわけであるが、その場合、黒曜石自体が本来その生産地の「集団」による占有物であり、また、それと交換されるべき物も、黒曜石の出土地においで、「集団」的に占有されていたもの以外ではありえないということを、実証の前提として提供するということである。先生の、「このような交換の相互の主体は」「やはり個人ではなく、集団だったのではないであろうか」という疑問に対して、我々は、「そのとおり、そこから出発して下さい」と明言することができると同時に、だから、その「集団」間の「交換」の実態を可能な限りの事実をもって具体的に解明して下さることを、先生をはじめとした実証家諸氏に期待するのである。そして、もし、黒曜石と何かの「交換」が、個人間で行なわれていたという実証家がいたとすれば、我々は、彼には、その実証はどこかがおかしいと指摘することができるのである。
 こうして我々は、先生が縄文の「イメージ」の一つとして描いた、「黒曜石」と「干し貝肉」との、相互の「集団」による「集団」的生産と「集団」的占有を前提した、相互の「集団」間の「交換」という状況を、そのようなことがあったとしてもなんら不思議ではないものとして、論理的に保証しうるのである。
 実証歴史学への経済学の貢献の道が、古田史学の内に今開かれようとしているとすれば、我々にとってこの上ない喜びといえよう。



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