(カペラ書店)
古田武彦
この本の著者は、堺の豪商たちの後継者である。もちろん、血筋のそれではない。いわゆる「巨万の富」のそれでもなかろう。他でもない。彼等の土性っ骨の、現代における体現者なのである。
昔、戦国の世、彼等は眇(びょう)たる堺という、壷中の天地から、海外を睥睨(へいげい)した。日本列島という小島内の、次々と現れる小権力者たち(織田や豊臣や徳川など)に対しても、一歩も引かぬ気魂で相対面していたのである。
この著者も、生え抜きの大阪商人として、反権力の気魂を小躯にみなぎらせている。それで己が商売(書店等)を生き抜いてきた。そういう気骨をもつ。その気骨がこの本の随所にあふれていた。
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この本の特徴を具体的にあげてみよう。第一に、著者自身が大阪市内や大阪府下各地の史蹟を丹念にひとつひとつ歩きまわっていることが貴重だ。「そんなことは、『史蹟散歩』と銘打つ以上、あたりまえ。」そう思う人も、多いにちがいない。一応は、そうだ。だが、この種の本の「企画物」の場合、出版杜側が企画を立て、写真の専門家に写真を撮らせ、いわゆる「著者」は、机上にそれらを置き、関連の書物(古くは和名抄から新しくは江戸の案内記や明治の地名辞書等)を参考にしつつ、当の「本文」を作文する。そういった作業過程を知る者にとって、この著者の“まっとうな”手法は貴重だ。自分で歩いて自分で探し当てたものを書く。この本道を固守しているからである。この著者の本業は「本」を扱う商人だから、右のような「本の成立過程」の経緯は、先刻御承知だ。だからこそ、このような、本道に立ち帰り、それを愚直に守る、そのような本を作りたい、そう思ったのではないか。読み終えて、これが最初の感想だった。
第二に、右のような手法から、著者はいくつもの発見に遭遇する。たとえば、香具波志神社。阪急電車十三駅から西へ約一キロのところにある神杜だ。ここを訪れた著者は、その神社史に「かつて境内の北側、旧中国街道に枝を張っていた大樹が、南北朝の頃、当社に祈願した植木正儀ゆかりの『駒繋(こまつなぎ)の楠』である。』との記事を見、その正儀(まさのり)の足跡を探訪しはじめる。「南朝への殉忠」として、戦前史学で、大いにその名を喧伝された楠木正成(まさしげ)・正行(まさつら)の親子は、湊川(神戸市)や四条畷(しじょうなわて 国鉄片町線四条畷駅)等に神社が建造されている。ところが、正行の弟、正儀となると、いったん北朝側に降り、南朝末期、再び南朝に帰参した、ということから、「裏切り者」扱いされて、行く先々で、「足跡」が記念されるどころか、「抹消」されているのに出会う。その経緯が記されている。その結果、赤坂村の教育委員会に質問状を出した、という。著者によれば、この正儀こそ、「裏切り者」の名を甘受しながら、南朝、さらには河内、とりわけ赤坂村を守ろうとして苦辛した「恩人」であるという、独特の史眼があるのだ。現代では、ほとんどかえりみられぬ、歴史の蔭にかくされた人物、その上に愛惜の念をそそぎつくす。ここにも、著者の真骨頂がキラリと光っている。
第三に、この本の全ぺージを飾る、おびただしい写真類。この種の本でも、いわゆる「企画物」では、意外に写真が少いのでがっかりさせられることが少くない。おそらく経費の関係、とくに本の値段とのかねあいもあろう。その辺を「本」の売り手のプロとして熟知する著者は、この“手づくりの本”に、数多くの写真を掲載した。普通、いわゆる「史蹟散歩」物の写真がいずれもシャープなのは、知れ切ったこと、プロの写真家、もしくは技術的専門家の作品のせい。が、この本の場合、いずれも著者の手になる「素人写真」のようだ。だからこそ、これほど、きめ細かく写真が撮られ、載せられているのであろう。ここにも、著者が守ろうとする、「自分の立場」がのぞいているように見うけられた。
第四に、古代遺跡に関しても、従来の通説にあきたらず、遠慮なく新しい歴史観から切りこんでいる。たとえば、高安城(幻の城)。八尾教育委員会の建てた「高安城跡」という御影石の碑に「西暦六六七年天皇が対馬国金田城、讃岐国屋島城と共に築造された古代の山城、白村江の戦後、百済領に進出した唐の勢力の侵攻に備えたもの。」とあるのに対し、著者は「高安城の築城の起因は果して白村江の大敗の結果、唐新羅連合軍の侵入を恐れて設けられたものか、私は疑を持っている。」とズバリ書く。
その理由として、第一に、「敗戦の三年後」に築城した、というが、敵(唐、新羅)は、そんなに悠長に侵攻を“待って”くれはしないこと。第二に、天智の都は飛鳥ではなく、近江である。それを守るに「高安城」では、地理関係がおかしい。第三に、敵の侵攻は“瀬戸内海経由”とは限らず、出雲・北陸・越経由の近江侵攻もありうるのに、その方面には、何の防禦(ーー城)も築かないのは不可解であること。第四に、自村江で敗れた百済は滅亡したが、逆に大和政権は、何ら「滅亡」などしてはいないこと、などをあげられる。その上で、わたしの史実論証(白村江で、唐と新羅に敗れた「倭国」とは、大和政権ではなく、九州王朝であること。)のキイ・ポイントヘの紹介にうつっている。まことに歯切れのよいテンポである。現地の解説文では、「憶(おぼ)える子供たち」には対応できても、率直に「考える子供たち」「問う子供たち」には、答えるすべがないであろう。右の四つの問いは、誰にでも、うなづける、自明の問いだからである。親たちは、この本をたずさえて高安城に登るとき、本当に「親子の対話」を行う、幸せないっときをもちうるのではあるまいか。
第五に、著者の目は古代や中・近世にだけ向けられているのではない。現代にしっかりと目がそそがれている。たとえば、つるのはし跡の碑(大阪環状線桃谷駅下車)では、仁徳天皇の治水のテーマから説きおこしながら、やがて大正十二年(一九二三年)の旧平野川の改修工事に筆をすすめ、「日本から祖国朝鮮の土地を奪われ、喰わんが為に日本にやって来た人々の血と汗と涙の結晶がこの工事を竣工させたことを思い出した。」とのべている。著者が、古代から現在へと見とおす「市民の目」をもっていることの証左であろう。
わたしはかつて著者のお宅を訪れた日のことを思い加こした。庭には、小型ながら、まさに「仁徳陵」すなわち大山古墳が築造されていた。日々これを眼下に“見おろして”生活しておられるのである。大阪商人のもつ、一種の気塊が感じられたのを覚えている。この本は、限定版、三百部の自家版だが、やがて「小さな稀覯本」として、人々に愛蔵される日が来るのではあるまいか。