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解説 多胡碑の「羊」と羊太夫伝承 (『市民の古代』第10集)へ

多元史観の新発見 古田武彦講演録(『市民の古代』第9集)


市民の古代 第8集 1986年 市民の古代研究会編
 ○ひろば

削られた多胡碑

藤田友治

 一
 「あら、ここに何か字があるみたい。」「ここに『由』という字がありますよ」
 古田武彦氏に高田かつ子さんがささやく声が、多胡碑をとり囲んで参観している者にもハッキリと聞こえた。これが、思いがけない“新発見”の始まりであった。
 古田氏が多胡碑を凝視して、「由」(あるいは田)という字を確認している内に、又、「年」という字が見つかった。従来、どの報告書や論文を見ても、誰も気付かなかった「削られた多胡碑」という重大なテーマを共同で発見したのだ。
 一九八六年四月二七日〜二九日、市民の古代研究会主催の第四回遺跡めぐり「群馬・栃木古代史の旅 ー関東王朝をたずねて、毛野路をめぐるー」は、上毛三古碑(多胡碑、山ノ上碑、金井沢碑)と那須国造碑を中心として、諸石碑や遺跡群を見学するために古田武彦氏を講師に依頼して集まった総勢三三名の旅であった。全体の旅の報告は、既に三木カヨ子さんが要領よくまとめておられるので(「市民の古代ニュース」第四号「毛野の遺跡めぐりに参加して」)、私は「削られた多胡碑」という当初、予想だにしなかった“新発見”(この発見者は誰か一人というのではなく、共同でなされたもので、古田武彦氏を講師とした遺跡めぐりの旅の参加者全員とすべきだろう)について、これまで解ったことを報告して、今後の研究の第一歩としたい。

 二
 多胡碑は群馬県多野(たの)郡吉井(よしい)町大字池(いけ)字、御門(みかど)地にあり、日本三古碑の一つで、数少ない日本金石文の貴重な資料として、有名である。この碑のことが、はじめて書物に出現したのは、永正六年(一五〇九)連歌師宗長の「東路の津登」である。研究者としては、伊藤東涯、青木昆陽、伊勢貞丈、沢田東江、市河寛斎、狩谷[木夜]斎らで、中国金石学界にも知られ(後述)、近年では黒板勝美、尾崎喜左雄各氏らがいる。

狩谷[木夜]斎の[木夜]は、木編に夜。JIS第3水準ユニコード68DE

 石質は安山岩(花嵩岩質砂岩ともあり)の一種でほぼ方柱状であり、碑身は高さ約一・二七メートル、前面の幅上部約五六・五センチ、下部約六四センチであり、頭上に笠石を置いている。この笠石は高さ約二七センチ、幅約九一センチである。なお笠石は国宝の那須国造碑にもあるが、碑に笠石を配置するのは数少なく、この碑の一つの特徴をなすものであろう。碑文は下の写真の通りであり、読みは次の様だ(古田武彦氏による)。

 弁官の符。上野国(かみつけ ぬのくに)の片岡郡(の こおり)・緑野郡(みどりの の こおり)甘良(から 甘楽)群、并(ならび)に三郡の内の三百戸を郡と成し、羊に給して多胡の郡と成す。和銅四年(七一一、元明天皇)三月九日、甲寅の宣なり。左中弁は正五位下多治比真人(たじひのまひと)、太政官は二品(にほん)穂積親王、左大臣は正二位石上尊(いそのかみのみこと)、右大臣は正二位藤原尊。

多胡碑 (藤田友治撮影)
多胡碑(筆者撮影)

 多胡郡について『続日本紀』和銅四年三月六日の条に、「上野国甘楽郡ノ織裳(おりも)、韓級(からしな)、矢田(やた)、大家(おおや)、緑野郡ノ武美(むみ)、片岡郡ノ山等(やまな)ノ六郷ヲ割キテ別ニ多胡郡ヲ置ク」とある。
 「多胡」とは胡が多いという意味で、胡とは中国では西北の遊牧民を意味しており、この語が使用されているのは中華思想の影響であり、当地には異民族視された人々が多いと言うのであろう。従来、この異民族(胡)とは、朝鮮半島からの渡来人と考えられてきたが(尾崎喜左雄説等)、蝦夷をさすという説(古田武彦氏指摘)もある。
 最も肝要な問題は、「羊」とは何を指し示すのかということである。現在知られている碑面それ自身の検討からは、論理、文脈、文章に一貫性を欠いている。それは、肝心要(かなめ)の「羊」とは一体何か明確でなく、羊そのものについては何も「書かれていなかった」と言えよう。それ故、従来から、羊とは何かについて諸説が分れていた。これを分析すると、次の通りだ。
 (一)人名説、(二)「半」または「午」の字とする説、(三)養の省略説、(四)方位を示すもので未と同義、(五)羊そのもので差支えないという説等があった(参考文献一)。
 碑面をよく凝視すると、現在においても「羊」は明確に羊と読むことができ、それ以外に読みようがない位ハッキリ刻まれている。従って、(二)の他の字とすることはできない。又、(三)の省略字とみなすこともできない。金石文において初めて出現する字を省略することは、金石学上の常道ではない。(五)は「羊」の字は正しいが、意味を動物の羊とするのでは正しくない。(四)は方位に関連ありとする点は示唆を与えるが、羊=未とするだけでは賛成できない。(一)の人名説は根拠がある。文脈上からも多胡郡をある人物(羊)に給(たま)ひたのであり、幾多の羊太夫伝承がこの説を支えている。何故に羊と呼ばれるか、伝承は「未御(ひつじ)年未ノ日未ノ刻」に生まれたからという。

削られた多胡碑 ー「由」の字ー(藤田友治撮影)
削られた多胡碑 ー「由」の字ー(筆者撮影)

 三
 私達は従来知られている正面を第一面と呼ぶ。第二面(これ以後、好太王碑等の数え方と同じ)は正面左側でノミ等で削られた跡がハッキリと残り、下部に「由」(田)という文字がタテ五センチ、ヨコ四センチ大で刻印されている(写真参照)。第三面(正面ウラ)は、今日何の文字も読みとることはできない。第四面は右端に「年」と明確に刻印した字がある。
 さて、ここで文化破壊行為が行われたとしたら、何故に全てを破壊せず一部分を残すようなことをしたのだろうかという疑問がおこるだろう。軍事的には全てを破壊しつくす方が、敵への打撃も大きいことは自明だ(三光作戦等)。ところが、宗教、文化等のイデオロギーに関わることは一部の破壊にとどめることによって、偶像否定者の意思を明確に示し、かえって後世にまでその意思の周知徹底を意図している場合も多い。
中国龍門石窟 写真A藤田友治撮影

 仏像の頭部を破壊し、排仏毀釈(はいぶつきしゃく)を行った場合、全てを破壊せず一部を残している意味は偶像破壊者の意思によるものである。写真Bは日本だが、写真Aは中国であり、場所も年代も民族も異なるが偶像否定者の共通した傾向を認めることはできよう。

頭部を破壊された野辺の仏像 群馬県写真B藤田友治撮影

 多胡碑もある意思をもつ者によって削りとられたと考える方が、現状を合理的に説明できる。多胡碑の存在は沢田東江によって一八世紀に中国の葉志[言先]に伝えられたが、葉は『平安館金石文字』中の「日本題名残碑」の跋で、「在日本国残碑凡八十字・・・此文首尾残闕」と言う。又、『古京遺文』に「碑文給羊字不可読俗傳羊大夫之事文義不通不如闕疑」と既にいう。

葉志[言先]氏の[言先]は、言偏に先。JIS第3水準ユニコード8A75

 これらの文献において、六行八十字の文章のみでは「文義不通」であり「闕(けつ)」(欠ける)と認識している。しかし、その後の研究者は、正面のみの文字で全てと考えて、何の不思議とも感じないで今日まで時を経てきたのだ。
 今日では第一面から「羊」に多胡郡を給ひたとあるのみで、羊とは何者か、一切解らたくなっている。何らかの功績碑であるはずの碑が「文義不通」であったり「闕」であったりするということは自然の風化作用を除き、他にあるだろうか(好太王碑は意図的な改ざんではなく、拓工による仮面字であった。この点、詳細は拙著『好太王碑論争の解明 ー“改ざん”説を否定するー』新泉社、を参照されたい)。
 羊とは何者であり、羊の運命はどうなったのだろうか。又、碑に何が書かれていたと推定されるだろうか。碑はこれらの疑問を残すのみで、一切語ってくれない。それ故、伝承・文献類を探し求めた(参考文献五、六)。

 四
 旅から帰るや、早速羊についての伝承を調べはじめた。史料は次の通り。

1.「緑野郡落合村宝永寺縁起」、2.『神道集』、3.「多胡羊大夫 ママ 由来記」(二通りある)、4.「羊の太夫縁起」、5.「上野国多胡郡八束山千手観音略縁起」、6.「羊太夫栄枯記」。

 羊の名は伝承によって異なっている。「小幡羊太夫」(1.、4.)とか、「小幡羊太夫宗勝」(5.)、「多胡羊太夫宗勝」等様々に言われている。しかし、同一人物をその生まれから「羊ひつじ」(未ひつじ)と言い、地名(多胡)を加えたり、役職(太夫)を付けたり色々な形容をしているが、正式名は「小幡宗勝」と考えられる。
 これらの伝承を分析したところ、3.「多胡羊大夫 ママ 由来記」(以下、由来記を略称する)は不思議な性格をもち、特異な位置を占めていることに気付いた。紙面の都合で、由来記を全て掲載することは出来ないが、問題のポイントを指摘しよう。
 六行八十字の正面(第一面)の内で、由来記は欠字(弁・郡・内・胡郡・和・宣)が七字と約一割もあり、由来記の作者が碑文を実見していたならば極めて明確に見えるはずの文字でさえ欠字としている。由来記は伝承や写本の間に欠字を発生せしめたとも考えられるが、碑文の文字の中で特異な別字体となっている「[ネ恵]積」(普通は穂積)は碑文の通りである。
 碑文を実見しているか、拓本を見さえすれば欠字は一割も生じなかったであろう。現状の由来記を残した作者は、驚くべきことに正面では七字も欠字しながら、「官符宣旨日」と第一面七三字を書き残しているだけではなく、その前後に文章を続けているということだ。これは一体、何を根拠として書いたのであろうか。単なる伝承や推測で勝手に記されたものでないことは、由来記の性格を分析すれば欠字を欠字として残していることでも解るであろう。
 更に最も驚くべきことに、私達が第四面と名づけた所に「上野国住人多胡羊大夫 ママ 宗勝申」からはじまる文章があり、しかも「年」が二ケ所出現しており(恐らく今日、この内の一文字が残存しているものと推定する)、父は「天児屋命」であり、羊は「未刻生」であるから「羊太夫」の名を給ったとある。羊は弓道を習い「文武二道」に達しており、「天下無双ノ公卿ナリ」と功績をのべている。
 これらの文章の一字一句が全て削られた多胡碑のものかどうか、今日では確定できない。しかし、羊は「朝敵」の汚名を着て滅んだ(6.)という伝承は、私達に大和朝廷及びそれの支持勢力によって羊そのものの功績、由来等書かれていたであろう碑文を削らせしめたということを何よりも雄弁に今日残しておいてくれていたのではないだろうか。

〔参考文献〕
一、『日本考古学辞典』日本考古学協会編、藤田亮策監修。「多胡碑」(斉藤忠記)。
二、『日本史総覧I、考古、古代一』新人物往来杜。
三、中西慶爾『訪碑紀行一』木耳杜。
四、斉藤忠編『古代朝鮮・日本金石文資料集成』吉川弘文館。
五、『討論・古代の群馬・埼玉』あさお杜。
六、各種の羊に関する伝承の収集について茜(あかね)史朗氏、柳川美紀子さんにお世話になった。記して感謝したい。

〔注〕参加者一覧 <略>


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