『市民の古代』第八集 へ


『市民の古代』第8集 1986年 市民の古代研究会編 新泉社
 ●高句麗文化と楽浪墓

楽浪文化について

古田武彦

最近の学問的交流

 冬の入口なんでしょう。しかし、ポカポカと暖かい陽気の日曜日においでいただき恐縮に存じております。
 私は、今年は非常に忙しい日々でございました。中国の好太王碑、念願の好太王碑に二回(三月と八月)まいることができました。又、これも念願のアメリカのワシントンにまいりまして、エバンズ夫人とお会いし、討論し、かつスミソニアン研究所所蔵の土器類を十分に見せていただきました。さらに、九月(二十日)には朝鮮民主主義人民共和国の学者と大阪の茨木市で討論(ほんの入口ですが)をおこなうチャンスに恵まれました。今日の話も、共和国の方からもたされた史料に関する私の分析です。そして十月にはソ連の学者(イリーナさん)と大阪でお会いするというチャンスがありました。それに関連して、ソ連の学者から私の本(『多元的古代の成立』上・下)を読んで感想(論文のようなもの ー本誌・書評欄に掲載ー)が寄せられました。四、五日前、同じ方から今度は日本語でしっかりした内容の論文のようなお手紙をいただきました。これは、大阪でイリーナさんにお会いした時お預けした『古代は輝いていた』全三巻、『古代史を疑う』等を読んでの感想として、しっかりした骨組みのお手紙をいただきました。
 国際的といいますが、海外の学者と交流、理解がわずか一年(本当は半年ちょっと)内に密集してあったわけです。もちろん中国でも王健群さんとか、集安県の博物館の耿副館長とかいった方々とお会いしたり討論したりしたことも非常に有益で記憶に残っております。
 ということで、私として今までにない幸せな半年あまりでした。のみたらず皆様も御存知のように考古学的出土物が次々とでてきまして、東奔西走のうれしい悲鳴の一年間を過してまいりました。

朴提上説話について

 皆様にお話し申し上げたい件は大変多いわけですが、時間の関係で大きな間題に絞って四点ばかり話させていただきたいと思っているわけです。
 ところで「十三日の金曜日」という映画がきているようですが、私は十三日の金曜日というのがツイておりまして、大変いい発見があるというジンクスがあります。この九月十三日の金曜日にもありました。新しい発見というのではなくて、従来から分っていたはずなんですが、大事な意味があるということを再確認いたしました。このことをまず最初に御報告申しあげたいと思います。
 朝鮮半島側の歴史書であります『三国史記』の一節「朴提上説話」でございます。『三国遺事』では「金提上説話」となっておりますが同じ人物でございます。御存知のように日本の『古事記』『日本書紀』にあたるようなものを朝鮮半島側では『三国史記』『三国遺事』と申しております。『古事記』にあたるのがどちらかといえば『三国遺事』の方で、『日本書紀』にあたるのは『三国史記』の方でございます。この両方に共通してでてくる話というのは、案外少ないのです。その中で最も大量に共通している、全体として共通している話がこの「朴(金)提上説話」でございます。
 時代は訥祇王(四一七〜四五七年)、五世紀前半から中葉にかけての新羅の王でありまして、この人が即位したとき起った事件である。四一七年時点の話なのです。つまり、王に即位したとき、この訥祇王はどうも嬉しそうな顔をしていない。そこで家臣達があやしんで聞きますと、「心の底に気持の晴れないものがあるのだ。私の弟二人(一人は高句麗へ、一人は倭国へ)は人質にとられている。自分のお父さんの時代から人質にとられていて帰っていない。このことを思うと自分が国王になったからといって、私一人が喜ぶわけにはいかない」ということを言ったわけですね。そこで家臣達がなるほどと、三人の賢者に相談した結果、智謀もあり勇気もある一人の人物に委託するよりしようがないだろうということで推薦されたのが朴(金)提上といわれる人物であったわけです。
 この朴(金)提上は、「分りました」といって、まず高句麗に行った。ここのところは『三国史記』と『三国遺事』とではニュアンスが違うのです。この時の高句麗王は長寿王(好太王碑を建てた)。四一三年で即位しておりますから、即位して五年目の事件です。この長寿王のところに行って、訥祇王の兄として弟に対する気持を述べた。高句麗王は「分った」といってスンナリ人質を返してくれた(『三国史記』)。この点『三国遺事』はちょっと違います。高句麗は承知してくれないのでトリックを用いて脱出した話を、それ程長くはないのですが載せております。ここのところは、だいたい同じだけれど『三国史記』と『三国遺事』の話はどちらが先かとか、それぞれのバックにあった国際情勢如何というようなことを議論する場合は面自いのですが、今日はそのことは省略します。とに角、高句麗に人質に行った弟は国に帰ってきた。
 今度は倭国だ、というわけです。『三国史記』によって申しますと、朴提上は「倭国は高句麗と違って、口で話しても聞く相手ではない。だから詐謀、トリックを用いて人質を取り返してこよう」、このように言って倭国へ出かけて行った。そして倭王に会って「私は新羅にあいそをつかせて逃げてきた。今度は倭王に忠誠をつくしたい」こう言った。ところが倭王は簡単に信用しなかった。しかし何日かたっている内に、朝鮮半島の雲ゆき、軍事情勢に大きな変化があらわれてきた。そして、朴提上がもらした「こういう風になると聞いています」という内幕と、国際情勢の変転が一致していった。そこで倭王は「このような正しい秘密をもらしてくれたからには、朴提上の言うことは信用できるのではないか」というふうに考えて、人質の王子と会わせることにした。ある日のこと、再会を祝するといいますか、倭王側と一緒に都のほとりの海で、一日舟をうかべて、魚を食べて遊んだ。一日遊んで疲れて夕方帰ってきた。そして寝室に入ったわけですが、いきなり朴提上が人質の王子に「さあ、準備してあるから舟に乗って脱出しなさい。私は残って後はなんとかやります。」と言うと、王子は「それではお前は危いではないか」「いや大丈夫です」こう言って王子を送りだした。王子は舟に乗って海上にのがれた。
 翌朝、王子は起きてこない。番兵は「おかしいな。昨日、ああいう宴遊があったので遅れたのかな。」と思ってしばらく待っていたけれど全然出てこない。ということで、寝室に入ってみると提上だけで王子はいなかった。大変だということで王子の舟を追った。しかし海上はけむっており、王子は新羅の方へ帰っていたので追いつくことはできなかった。
 その後、倭王は非常に怒り、朴提上を呼びだし糾問して、焼けた鉄の上に乗せて拷問し斬り殺してしまった。その後、朴提上の妻子は倭国に向っている岩に上がって、夫(父)に対していつもなごりを惜しんでいった。この点、『三国遺事』の方はより詳しく書いてありますが、大体においてこういうような話であります。

『失われた九州王朝』以後の新発見

 私の書きました『失われた九州王朝』の中に、この話をクローズアップして両方の原文訳を載せてありますので御記憶の方もあると思います。この時、私は『三国史記』『三国遺事』というものは彼ら朝鮮半島の人々の心情を深く表現しているものである。この点、津田左右吉が、『古事記』『日本書紀』に比べて『三国史記』『三国遺事』は全く情緒もなにもない、実に文化の低いくだらない本であると書いているが、とんでもない説であるということでこの話を載せたわけです。
 それには違いないのですが、今回、九月十三日(金)に重要な論証に気がつきました。朴時亨さんの『広開土王陵碑』の日本語訳が八月に出ましたので、これを読んでいるうちに朴提上説話がでていました。それでくり返し『三国遺事』、『三国史記』を読んでみますと、これは独立して一つの論証になりうる、しかも重要な説話であるということに気がついたわけです。今、お話しした状況を考えてみますと、倭国の倭王の都というのは一体何処にあるのか、これはどう考えても飛鳥ではありえない。飛鳥は海に面しておりません。では浪速ならどうか。浪速でもどうも工合い悪いだろう。浪速が都だということになりますと、真夜中から朝までの時間で逃げきってしまう、新羅の方へ消えてしまうということがはたしてできるだろうか。とても無理ですね。瀬戸内海を逃げないといけないのだから、当時は狼煙というものがありますから、たちまちのうちに下関ぐらいまではアッという間に連絡がいってしまうかもしれません。瀬戸内海をうまく通りましても関門海峡で待っていてつかまるわけですから、真夜中から夜明けの間でとても逃げるわけにはいかない。もちろん、何かいい方法で逃げのびられないとは言いませんが、あの瀬戸内海もいかにして舟で逃げのびていったかという話が、説話として非常に重要な面白い話になってくる。ことに、関門海峡で両側から網をはっているのをいかに逃亡したかという、説話として実に面白い血わき肉踊る話になるわけです。朝鮮半島の読者は、瀬戸内海のことも関門海峡のこともよく知っているわけですから、浪速から逃げてきて夜明けに霧の中に隠れて後を追えなかったなんていうのでは読者は満足しないですよ。実際上逃げにくいし、逃げたとしてもお話として、その部分はかなり重要な部分にならないとおかしいわけです。
 と、しますとこの倭王の都というのは浪速ではありえない。では何処か?一番分りやすいのは九州の北岸部、特に博多湾岸からですと、この状況は非常に分りやすい。対馬海流、我々の知っている海流ですが出雲から能登半島にぬけている。ところが実際は壱岐、対馬の辺りから分岐して北上するわけです。そして、ウラジオストックの方から南下してきた北鮮寒流と東鮮暖流とぶつかるから、竹島とか鬱陵とかは魚が豊富で漁船がここにきて拿捕(だほ)されたりすることになるわけです。この海流の存在を我々一般の日本人は意識していないわけです。こっちは知らなくても、朝鮮半島の人達は知っているわけです。そうしますと、博多湾たら博多湾を脱出するのが第一、対馬海流に到着することが第二、ヘタをすると出雲に行ってしまいますから、北上する海流に乗ってしまいますと逃げる方の勝ちなんです。追手がその海流に乗ると一緒に慶州に行ってしまいますからどうにもならない。相手が北上する海流に乗った、と分ったらあきらめざるを得ない状況なのです。これに必要な時間はまさに深夜から夜明けまでで十分なわけです。この間に博多湾岸を脱出し、北上する暖流に乗るかどうかというのが脱出の岐路を分つもの、になるわけです。ということで話は土地勘、地理勘にドソピシャリなわけです。朝鮮半島の人は海流の状況を知っていますから、あそこをその時間帯で乗り切ったんだなあと、血わき肉踊る思いがして読む、あるいは聞かされているわけです。まず計算し勇気をもって実行した英雄譚になっている。というふうに考えると倭国の都は浪速ではない、近畿ではない。九州の北岸、おそらくは博多湾岸あたりと考えると、ドンピシャリあたるという性格をもっているのです。

史料批判

 一方中国に『宋書』という本がございます。五世紀のことを五世紀に書いた同時代史料です。『宋書』の中に「倭国伝」がある。そこには有名な倭の五王(讃、珍、斉、興、武)のことが書かれていることを、古代史に関心のある人で知らない人はいない。
 としますと、同時代史書である『宋書』と後代史書ではあるけれど内容的には非常に信憑性の高い『三国史記』、『三国遺事』(『失われた九州王朝』、『古代は輝いていた』で繰り返し述べたところですが、この二書には長所もあれば短所もある。日本でいえば、平安・鎌倉といった時代にできた後代史書である。しかし、長所として後で歴史家が書き加えたり、嘘の史料を差しこんだり、そういう形跡はどうも無い。過失で間違えているところはあると思いますが、意図して問違った史料を作った形跡は、まず私には見いだすことはできない。したがって『三国史記』、『三国遺事』にある史料はまあ一応信用できる。しかし、そこに無いからといって、事実が無いとはいえない。はやい話が、倭国の倭の事は『三国史記』の「新羅本記」では五世紀までは非常にたっぷりでてくる。六世紀には全くでてこない。これは倭国との交渉が無かったのではなく、六世紀部分の史料が脱落した。統一新羅の時にまず作られ、後代に受け継がれますので、両者の関係は禅譲ではないですから、平和的な権力移譲ではないですから、その時に多くの史料が焼かれたり滅びたりしているわけですから、六世紀の倭の史料がない。七世紀後半になると又でてきます。同様に、百済について倭の史料がないのは、百済と倭の関係が無かった証拠ではなく史料が失われた証拠である。高句麗についても、倭の史料が全く無いのも、高句麗が倭と全く関係をもたなかった証拠ではなくて、倭に関する史料が皆失われてしまったからです。百済も高句麗も滅ぼされてしまった「亡国」ですから。「亡国」の史料が散逸しているのは当然のことである。というふうな史料批判を述べたことがあります。ということでありますから、そこに存在する史料は信憑しうる性格の歴史書である。この点、日本の『日本書紀』等とはだいぶ性格が違うというわけなのです。)の両方を対比してみると、両者にある「倭国」というのは同一の「倭国」ではないか?両方にでてくる「倭王」というのは同一の「倭王」ではないか? 今「ないか?」という疑問形をとったのですが、とるのがおかしいくらいなのです。なぜかというと、例えば同じ世紀に片方の中国の歴史書に「高句麗」とあって、片方の朝鮮半島の歴史書『三国史記』に「高句麗」とあって、それを別の「高句麗」でしょう、二つ「高句麗」があったんでしょうという人はだれもいないでしょう。「高句麗王」にしても、同じ世紀に同じ時間帯に「高句麗王」が二人あったんでしょうという人はまあいないわけです。「百済」についてもそうです。「新羅」についてもそうです。同じ世紀に「新羅」といえば同じ「新羅」です。偶然同じ名前の国が二つありましたという人はだれもいない。
 同様に、人間の理性からみて当然のことですが、同じ判断に立ってみると『宋書』にでてくる「倭国」と、『三国史記』、『三国遺事』が共に述べている「倭国」は、同じ五世紀ですから(この話は五世紀前半から中葉にかけてです。『宋書』もそうです)これは同一の「倭国」である。そして又、同一の「倭王」であるとみなすのが、最も自然な人間の理性ではあるまいか。
 これが何を意味するかといえば、倭王(倭の五王)は近畿の王者ではない。従来、日本の学界でこれだけは間違いないと教科書でも扱ってきました。「邪馬台国」は近畿説、九州説があるけれど、倭の五王については近畿に間違いがないのだという立場で、学界でも教科書その他で扱ってきました。実は、それは大きな誤りを犯してきたのである。倭の五王の都は九州の北岸部(おそらく博多湾岸)に面した所にあったのではないか、というテーマでございます。
 この論証の特長は、『古事記』『日本書紀』という貴重な史料も含んでいるけれど、扱いによって危険なといいますか、後世の造作が加わっているというので非常に問題を含むものを一応のけておいて、第三者、お隣りの国、朝鮮半島の歴史書、中国の歴史書の両方の対比だけで答がでるということは、私は非常に重要なところであろうと思います。
 中国や朝鮮半島の方は意図して、日本側の都をどこに移さなければいけない利害関係はないわけです。そういう意味では第三者の証言でございます。第三者が複数あって、両者の一致したところというのは、これはにわかに疑うことはできない。『古事記』、『日本書紀』の知識にたって「それは困ります」という疑い方は史学としてフェアでない、客観的でないといわざるを得ないであろう。
 と、なりますとこの論は非常に重要な意味をもつのではないでしょうか。『失われた九州王朝』を御覧いただいたら、そういうことになっていたのですが、流れでズーと書いてきてましたので、この説話もその立場で理解できると処理していって、もっばら津田左右吉の歴史に対する見方は皮相である。朝鮮半島側の歴史書には、半島側の民族の深い歎きや悲しみがこめられているというところにポイントを置いたので、今言ったような独立した論証というところに、必ずしも私は目をむけていなかったということを、九月十三日(金)に再発見いたしました。
 これはやっばり学界に対して、この問題を問うていきたい。この論証が間違っているとしたらどこが間違っているのか。「こういう史料は信用できるかどうか分りませんよ」と、自分のもっている歴史観と矛盾するからといって、そういう曖昧な言い方でもって回避してはたらないであろう、というふうに考えたわけでございます。
 徳間書店からでます『古代の霧の中から』でもこのことを述べております。繰り返し学界に対して、この問題を提起していきたい、こう思っておりますのでまず皆様にお聞きいただいたわけです。

 

楽浪文化について

 次に、本日のメインをなします一つであります楽浪文化の問題に入らせていただきます。今年の九月、朝鮮民主義人民共和国の学者団が日本に来られ、同時にピョンヤンの壁画の写真とか模造品といいますか、そういったものを大がかりに展示しておられるわけでございます。東京の皆様は御存知ないと思いますが、九月に関西の宝塚でシンポジュウムが行われ、大阪梅田の阪急百貨店で展示が行われたわけでございます。十一月は神戸だったと思います。あと、博多か北九州の方で展示がされて、最後といいますか、来年の五、六月頃東京で展示が行われるということでございますので、その時に皆さんは御覧になれると思います。
 ここで提起する問題は、皆様が展示を御覧になった後でお話しした方が適切であるということもいえるわけです。しかし又、反面からいいますと、この九月から来年の五、六月の問は共和国側の学者が次々と日本にやってこられているわけです。九月に共和国側の学者とお会いしたことは申しましたが、十月には別の学者達が来られたと聞いております。こういうチャンスが多いであろう。そうすると、当然、共和国側としては、これを国外に出すことによって、外国というか日本側のそれに対する応答といいますか反応を知りたいということが含まれてもいいと思います。そういう意味では国交がない国でございますのでちようどそのシリーズの間にこちらからの反応というものをださせていただくということは、有意義な国際的な学問的交流という意味で非常に適切なんじゃないか、こう考えましてこれから皆様に申させていただくわけでございます。
 この内容は結論から申しますと、共和国側がもってきた結論・立場と大変違う、全く違うといっていい程相反する見解になるわけでございます。
 共和国側の学界の性格からすれば、各学者の別々の意見があっても、こちらへもってくる時は、わりと意見統一をはかってこられるようです。「高句麗文化展」という立派なカタログを販売(阪急)されたわけですが、この内容もこういう統一的見解にたって作られているようであります。
 この内容に対して、私はおかしいのではないかというふうに考えたわけでございます。しかし、おかしいのではないかというのは、国際友好上失礼であるという見方もあるでしょうが、私はそうでないと思うわけです。ちょうど中国の王健群さんともそうでした。私は遠慮なく、王健群さんの海賊説は誤っている、ということを三月にも八月にも論証をこめて直接申し上げたわけです。そういうことによってかえって深い友情といいますかそういうものを王健群さんとの間にいだくにいたった、というふうに私は感じております。
 同じ様に、共和国に対して、ごもっともです、立派です、と言うことだけが学問的友情ではないのであって、間違っていると思った場合は間違っていると思う、とはっきり言うことが、本当の友情であろうと、私はそう考えているわけでございます。
 お断りしておきますと、勿論これには大きな、一つの史料上の問題がございます。それは、私自身ピョンヤン(広い意味での)のそばのその古墳に行ってみていないということです。だから見ずにしゃべっている。これは歴史学上非常に危険なわけです。いってみれば、好太王碑の去年までの私と一緒なわけです。好太王碑の現物を見ずに、我々の手に入った史料から見ればこう判断できる、とこういうことでやってきたわけです。幸いにも私の判断は間違っていなかった、改竄はなかったということは事実上結着をみたと私は思っているわけです。李進煕さんはガンバッておられるようですが、名存実亡、論争の名前は残っていても実質の論争は、もはや解消されたというふうに思っているのです。
 同じ様に、今回実物を見ずに、共和国側から提起された(幸い銘文の文章などがはっきりとでている)物によって議論をしているわけです。今日、私の申し上げる議論が本当に正しいかどうかということは、私がピョンヤンに行って、その古墳の壁画なり銘文を実際に見せていただいて、その結果、やっばりそうだ、とかいや私の考えは間違っておった、とかいうふうになるべきものであろうと思うのです。
 だから、私が反対意見をもつことによって共和国側の学者が「それはおかしいよ」とこうおっしゃっていただくのなら、私の方は大歓迎でございます。「ならばぜひ実物をお見せいただきたい」というふうに申すつもりでございます。
 こういう前提にたってこれからの話をさせていただきます。

 

安岳三号墳

 まず第一に問題になりますのは安岳三号墳です。壁画をもつ古墳として年代がはっきりしたもののなかでは、最も早いものとして知られているわけでございます。後で申しますように「三五七年」を示す絶対年代が書かれております。このように、古墳の中に絶対年代が書かれてあるとしたら、我々としては、うらやましくてうらやましくてしようがないという感じでございます。どれ程すごい値打ちがあるかお分りいただけると思います。
 しかも、この古墳はワンルームではない。ワンルームというのは変なんですが、我々が知っている飛鳥の高松塚古墳はいってみればワンルームなんです。ところが安岳三号墳はワンルームではなくて、部屋がビッシリあるわけなんです。地下宮殿なんですね。この地下宮殿の各部屋に壁画がビッシリつまっているわけです。それを見るだけでも、論争の為なんていうことではなく、見たいという感じがするわけです。皆様もそうだと思います。壁画がビッシリつまっているだけでなく、そこに人物がおびただしく描かれているわけです。皆様にお渡ししたコピーではだせませんでしたけれど、「行列図」というものがございます。これは王と王を護衛する文武高官、楽隊、儀伏兵、武士達二百五十名が登場する。しかも、二百五十名なんて点や棒の様に描かれていると我々は思いがちなんですが、そうではないのです。朝鮮画報社から大冊がでている『高句麗古墳壁画』を見ますと、二百五十名一人一人人相が書いてあって、はっきり分るというふうな画なんですね。まさに壮観で、保存状態もいいわけなんです。本当に瞠目(かつもく)すべき、驚くべき壁画でございます。
 さて、こういう古墳壁画で何が問題かを言います。ここにこの古墳の主、つまり被葬者の顔がでている。皆様のお手元のコピーの右側がそうです。古墳に葬られた人の顔が分るなんていうのは、我々にすれば夢みたいなものです。ここにはちゃんと顔や姿が描れている。コピーでは省略して分からないのですが、左側にはお后の顔や姿がきっちりと描れているわけです。これが、古墳の主であること、中心の被葬者であることはどうみても疑いないわけです。こういう人物は一人だけですから。
 ところが、ここに奇妙な人物が一人いるわけです。入口のところに「帳下督(ちょうかとく)」といわれている人物が描いてある。「帳下督」というのは侍従武官を意味する役職名です。それがここに描いてある。これは先程の人物より格がだいぶおちるという服装をしております。これが何故「帳下督」と分るかといいますと、赤い字でそばに書いてある、朱で「帳下督」と書いてある。これで、この人物が「帳下督」という役目の人物だということが分るわけです。
 有難い話ですね、例えば、高松塚でも壁画の横に役職名を書いてくれていたら、学者が議論しなくてすむわけですよ。ところが、それがないから、いろいろ苦労するわけです。
それはいいのですが、その上に字がピッシリと書かれているわけです。私は文献から古代史に入った人間ですから、字があると目が輝くわけです。字が書いてある。読んでみます。

永和十三年十月戊子朔廿六日
癸丑使持節都督諸軍事
平東将軍撫夷校尉楽浪
相昌黎玄菟帯方太守都
郷候幽州遼東平郭
都郷敬上里冬寿字
□安年六十九斃官

 永和三年は三五七年です。共和国側の統一見解だと思いますが、

 この墨書は、燕から高句麗に亡命してきた冬寿が、高句麗の各官職を歴任して三五七年十月二六日に死去したということを語っている。同時に、この墨書は、下の入物図によって示されているように冬寿が、高句麗において侍従武官すなわち、帳下督(チャンハドク)をしていたことを語る。

という解説があります。
 つまり、この解説によりますと、この人物の上に書いてある文章は、長い大変素晴らしい経歴です。「使持節都督」なんていうと、『宋書』の『倭国伝』をお読みにたった方は倭の五王のところで出てくる表現だということを御記憶でございましょう。倭王なみですね。そして、「撫夷校尉」とか「楽浪相」とか。「昌黎」というのは地名です。「玄菟」は玄菟郡の「玄菟」、「帯方」は帯方郡の「帯方」の「太守」、そういう役職をもっている。その次の「幽州」(現在の北京を中心にして遼東半島にかけて、時代によって広い狭いはありますが、広がっていた)の中の遼東半島の中の敬上里という所の出身であるというかたちで書いている。この土地の出身の冬寿という人物が非常にきらびやかな官職を歴任していることが語られ示されている。
 ところが、これは解説によれば帳下督の肩書である。こういう輝かしい地位にあった人が高句麗に亡命してきた。そして、高句麗王の侍従武官(古墳の入口の所に描いてありますから、古墳の中にいろんな人物が並んでいるなかの一番下)になってつかえていた。その人物のことを書いているんだという解説なんです。
 つまり、この古墳は高句麗王の古墳である。だから高句麗壁画である。ここにもっている本にも高句麗古墳壁画となっています。高句麗古墳壁画の最初を飾っているのが、この安岳三号墳です。『高句麗文化展』にも載っています。つまり高句麗文化の先頭を飾るのが安岳三号墳である。なぜかなれば、それは高句麗王の古墳であるからということになるわけです。
 私は、これを読んで非常に単純な疑問を感じざるを得たかったのです。皆様も、今お聞きになってどこかひっかかるところがあったと思うのですが。
 つまりこれは古墳であります。一人の人間が死んだ、中心人物が死亡したことによって造られた墓があります。こんなことはいうまでもないことです。これは間違いのないことですね。ところが他方において、地下宮殿のような宏大な古墳ですが、この中に死亡記事が一つだけある。今読んだ「冬寿」に関する死亡記事、これ一つしかないわけです。他にはどこにも死亡記事はないのです。文章のあるのはここだけだし、その文章も、死亡記事としての文章が一つしかない。
 ところが、共和国側の共通見解によれば、その一つしかない死亡記事は死亡した人の墓である御本人とは無関係なんだ。かつては偉かったんだが今はペイペイになって高句麗王につかえている、その人が死んだ死亡記事にすぎないんだという処理になっているんです。
 「これ、本当かな?」という気がしませんか。別に亡命生活をしたから死亡記事を書いてはいけないとはいえないですよ。書いてもいいんだけれど、それなら、より麗々しく死んだ高句麗王のことを書いて欲しいじゃないですか。日本のように死亡記事を壁画に書かない国ならしようがないですが、書く習慣なんだから、これだけの文章によくこれだけ盛り込んで整然と書いているんでしょう。だのに、肝心の御本尊のことは一切、名前もいつ死んだかさえ書いていない。これは、ちょっとアンバランスすぎるのではないか、というのは、人間の一番の常識に属することだと、と思うのです。
 私の言いたいことはお分りでしょう。この墓の中に存在する唯一の死亡記事はこの墓の主の記事ではないか。これは勿論、私が初めて気がついたことではたいのです。従来、しばしば「冬寿墓」とよばれているのです。「冬寿」と名前がでてくる墓だから、議論がどれほどされたか知りませんが、なんとなく「冬寿」自身の墓だろうという感じで扱われてきたのは普通だろうと思うのです。
 ところが、これに対して共和国側は違うのだ。「冬寿」というのはペイペイの侍従武官の名前である。この古墳は中心の高句麗王の古墳である。というふうに、新しい共同見解をだして、この共同見解をバックに日本で展示するということになってきたようです。
 さて、今私が申しましたのは常識論でありますから、この常識論でいいのか、悪いのかという論証がキーポイントになってまいります。そこで、私は「ああ、これは!」と思ったことがございます。先程の行列図のところにこういう解説が載っております。ちょっと読ませていただきます。

壁画の雄壮な内容と規模の大きさには高句麗人のおおらかな気性と覇気が反映されている。この行列の中に旗手がいるが、彼らは行進する時、王の輿車の前で王の身分を示す旗を持って立つ。安岳第三号墳・行列図の標識旗には「聖上幡」の文字が黒地に朱色で書かれている。聖上は王を意味する。この旗は主人公が王であることを知らしめす御旗(王様の旗)なのである。

 つまり、二五〇人を従えた行列の中に旗を持っているのがいる。その旗には黒地に朱色で「聖上幡」と書かれている。「聖上」とは王を意味するものである。だから、この行列は王の行列である。
 これは、共和国の共同見解がいかなる結論に達したかということを、簡単なこういう解説ですが、ここに盛りこんである。解説というのは、簡単にみえても時間をかけて共同討議の上で作られた、非常に周到な解説という感じがいたします。我々にとっては有難いことです。
 これに対して、私は「これは違うな」と思ったわけです。「聖上」という言葉は中国で作られた言葉です。『史記』、『漢書』、『三国志』、『宋書』とでてくる言葉でございます。ところが、「聖上」という言葉は王を意味する言葉として使われたことは一回も無いと、私には感じられているわけでございます。誤解をしていただかない為に申しますと、周代には「王」という言葉は「天子」を意味しています。その「王」ならいいのです。つまり、私が言いたいのは、中国では「聖上」とは、天子を指す言葉なのです。
 日本では「聖上」といえば天皇を指す。戦前の方はよくお分りでしょう。例えば、皇太子やその弟さんを「聖上」と言えば「なんだ」ということになるでしょう。やはり天皇しか「聖上」と言えないはずということは年配の日本人たらピンとこられると思います。
 中国の歴史書で「聖上」は天子以外には用いない。皇太子や諸王には用いない。しかもこの用例は古く『史記』、『漢書』段階からありますと同時に、いわゆる『晋書』(東晋の史料)の中にも「聖上」がでてくる。東晋の天子を指す用例がでてまいります。
 しかし皆様は、中国ではそうかも知れないが、現代日本で「聖上」と言えば天皇であるように、高句麗の国で「聖上」と言えば高句麗王を「聖上」と言えたんではないだろうか、こうお考えかもしれません。
 ところが、それは駄目です。何故かと言うと、先程の「永和十三年」という年号がこの古墳の中にちゃんと書かれている。これは言うまでもなく東晋の年号でございます。これは共和国側も異論はないわけです。
 東晋の年号を使うということは、どういうことか。これは、単に便利だから使うということではなくて、“東晋の天子を原点と考える”という大義名分上の意義をもっているわけです。現在の我々が西暦を使うというのとはだいぶ違うわけです。西暦を使うというのは、本来クリスチャンでございます。だから「イエスが生まれました年を、元年と考えます」という信仰告白のはずなんです。本来は。だから、アラブ等に行くとなんだ、お前はと言われたという話があります。アラブ諸国は、「アラーの神以外に神聖な最高の存在はない」とこうなるわけです。ところが、我々日本はそういうところがなくて、クリスチャンではなくても便宜上西暦を使っています。実はこの方が異常といいますか、安直なんですね。信仰告白というのが本来の使い方であるということなんです。
 余談になりますが、明治、大正、昭和というのは保守的だ、進歩的な歴史をやるには西暦にすべきだという議論がありました。特に戦後言われたり書かれたりしました。しかし、私なんかは少しひっかかるわけです。西暦というのはクリスチャンの大義名分用語でありますから、それを進歩的といわれても「本当かいな」という感じがあるわけです。便宜的にクリスチャン年号を借用しているというのにすぎないのじゃないのか。アラブ人もクリスチャンも共通に使えるような年号を人類が発明すべきだと思います。要するにイデオロギー年号というのが普通であって、イデオロギーを脱した年号を人類が今後発明するか否かにかかっているといっていいのじゃないですか。歴史を学ぶ者は、流儀や宗派にとらわれざる年号を発明するところに至らなければ、人類史は新しいポジションを獲得できないのではないか。話は余分ですが、少しこういった問題をはさませていただきました。
 年号のもつ大義名分性というものから考えまして(我々が西暦を使っている現代ではないです)、しかも、南朝と北朝が対立していた時代です。東晋の年号を使うということは北朝と敵対する、北朝を敵視するという表明であるわけです。「イヤーうっかり使いまして」が通用できない時代です。だれのことをいったものであろうとも「永和十三年」は古墳の中に書かれているから、この古墳の中の文章は東晋の天子を原点として書かれております、ということなのです。私には、こうとしか理解できません。
 としますと、東晋の天子を原点として「聖上」といえば争う余地はないわけです。東晋の天子のことを「聖上」といっていると考えなければならないわけです。高句麗王である、年号はちょっと借りましたという、現代人の安直な理解でなくて、四世紀における、正当な見方に立とうとするならば、「聖上」は、東晋の天子以外を指すことはできない。では、何故東晋の天子がでてくるかといいますと、行列の主人公が東晋の配下の主人公ではないだろうか。東晋の天子の配下、「楽浪相」であるとか、「帯方太守」とかは東晋の天子の配下の「楽浪相」、「帯方太守」である。
 我が家の、自分で作ったデザインの旗を持って行列するのではないわけです。東晋の天子の旗を持って行列するのです。これは、要するに虎の威を借る狐じゃないですが、「楽浪相」自身がえらいのではなく、東晋の天子の任命によって「楽浪相」なので、「楽浪相」に刃向うことである、これがこの旗のもつ意味たのです。
 これは、大義名分論からいってもそうなんですが、それだけではございません。『晋書』、同時代史料として著名な『宋書』にはっきり書かれておる。将軍が持つべき旗は天子の旗、それを掲げて行進するという規定が書いてある。『宋書』には「百官志」とか「礼儀志」とかいういろいろあるわけですが、その中に「持つ旗」のことまで書いてある。もし、将軍が天子の旗ではなくて自分の旗を持ったら不遜で、「自分が一番えらい」と思っていることになるわけです。そうではなくて、自分を将軍に任命して下さった天子の旗を持って行進する。「こういう身分の者には、こういう旗」とみな書かれている。その表記に一致しているわけです。
 そうなりますと、いよいよもってこの行列の「聖上幡」の「聖上」というのは、東晋の天子の配下から見た「聖上」のことでなければならないというわけです。

 さて、それでは問題は、共和国側の学者の論点(これが高句麗王の墓だというのは、言い換えれば、唯一の死亡記事が真下の「帳下督」の死亡記事だと同じ論点なのです)です。

 この論点に非常に有利にみえるのは、この死亡記事が墓の中心人物、威厳をもった人物のものなら、威厳をもった人物の頭の上に書いたらよかろう、何故「帳下督」と朱で書かれた、貧相なというとおかしいですが、瓜実顔の、それほど威厳があるとは見えたい人物の真上に書かれている。これは真下の人物の説明であるからだ、というのが共和国側の学者の一つの強調する論一点で、「成程」と思われるところがあるわけです。
 ところが、この問題も解決がついてまいりました。私の解読が「間違いないな」と感じましたのは「帳下督」という名前が『晋書』にでてくるからです。文章の中に「帳下督のだれだれに命じてどこどこに行かせた」と東晋の時代にでてまいります。又、先程の「百官志」にもでてまいります。
 つまり、「帳下督」というのは東晋の官職名なのです。文章の中では「帳下督のだれだれに命じて」という形ででてくるだけなんですが、「百官志」をみますと、「帳下督(くわしくいいますと、帳下都督というのが正確な名称なのです。帳下督は略称。都というのはミヤコという意味ではありませんで総て、『都合○○』というときの意味です)」と、それに対するものが「外都督」(将軍の配下の一角にいる)
 考えてみますと、「帳」というのは「とばり」で、「将軍の陣営」のことを「帳」といっているようですね。陣営の内部のポジションすべてを監督するのが「帳下都督」、略して「帳下督」。
 それに対して、陣営の外、将軍の配下の軍隊をすべて監督するのが「外都督」。この二つの職が将軍のもとにあるようです。
 しかも他の官職名をみていきますと、「令史」あるいは「記室督」という記録官が将軍のもとにある。これは「帳下都督」の方に属するようですね。つまり、将軍配下の陣営内部のことは(書記局というんですか)みんな「帳下都督」が支配しているようなんです。
 言い換えると、「令史」とか「記室督」とか記録官は「帳下都督」の支配下にあるようです。
 それに対して、純粋な軍事の方は「外都督」に属するようなんですね。
 言い換えますと「帳下都督」というのは書記局長みたいなものですね。記録官を取り締っているわけです。本人は武官なんですよ。しかし、将軍配下の文官たちというのですか、記録官を取り締っている役目なんですよ。と、しますと、この将軍が死んだ時にその死亡記事を記録するのは、「この帳下都督」の下の「令史」か「記室督」の役目になるわけです。
 だから、「帳下督」の頭の上に書かれていたというのは“「帳下督」の責任でこういうふうに記載いたしました”ということで本人の頭の上に書いてある、というふうに理解すべきであるというふうに私は考えたわけでございます。
 これは仮説です。「帳下督」の頭の上にあるから「帳下督」の経歴だというのも一つの仮説です。
 私が理解しましたように、頭の上にあるのは「帳下督」は書記局長で、本人が直接書くのではなくて、自分の配下の者に命じて「こういうふうに死亡を記録いたしました」という意味で書かした、というのも一つの仮説です。問題はどちらの仮説が全体と合致するかということです。先程言いました「聖上幡」の問題とか、年号の問題とかの問題に対応するのは、私の方の仮説(「帳下督」の頭の上にあるのは本人の経歴だから頭の上にあるのではなくて、記録する係だから「帳下督」の頭の上にあるのだ)で、全体の理解と合致するわけです。
 なお、一番最後に私にとり興味深い問題があらわれました。
 「斃官」です。辞書にないのですが、初め官に斃ると理解した。「斃れてのち止む」という言葉がありますように、“官を遂行中に死んだ”という意味に考えざるを得ない。そうすると「官」というのは、その直前に長ったらしい「冬寿」の官が書いてありますから、あの官の途中に死んだというふうに文章を読まざるを得ないわけです。“あれは、過去の昔の「官」でありまして、亡命してきまして、今、侍従武官に拾ってもらいまして、その侍従武官の「帳下督」の時に死にました。”ということでは、「官に斃れる」とはいえないわけです。
 官に斃るを、上の文章の続きを無視して、朱で書いた横の人物「帳下督」の真最中に斃れたんですというのは、やはり、文章の読解としてあまりにも不自然だと考えます。したがってこの人物は先程の高位の任務を遂行中に死んだ、こう考えたのです。「帳下督」ではなくて「楽浪相」がなにか真最中に死んだ、と理解したのです。と納得しておったんです。このあと、よく見てみると、とんでもない問題があらわれてきました。

 『高句麗文化展』をよく見ますと、「帳下督」の上に墨で書いた字がかなりよくでております。「斃(こう)」が「薨*」なのです。「薨*」は古くは「薨(こう)」が正式な字なのです。すると、どうもこれは「薨」という字じゃないか。

 これは、私だけの独断ではなくて韓国側の金元竜が(金さんが読まれたのか、それまで読まれたのを受けつがれたのか知りません)「薨」と読まれている。

 写真版がないと判断できかねるのですが有難いことにピントの合った写真版を図録で共和国側が提供してくれましたので、これを見ますと、私の目には「薨」なんです。「斃官」ではなく「薨官」だとすると、「薨官」は辞書には無い(辞書というのはそれなりのまとめた知識ですから、辞書に無いから嘘だとはいえないのですが、辞書に無いことが私には気にかかっておったのです。辞書に無いなら無いで論証がいるわけです)
 「薨官」も無いのですが、『宋書』、『晋書』をみていきますと、文章の中に「卒官」がでてまいります。これも辞書にはないのですが、文章前後をみると間違いなくこの人物は真面目で、二四時間仕事に勤務精励していたがついに「卒官」。つまり「官に卒す」、仕事をしている真最中に死んだ。職務遂行中の死ということで、「昔そういう官職にいた時に死んだ」というのではないでしょう。まさに、「自分の任務の真最中に死んだ」というのを現わすのに「卒官」と表現している。
 そうしますと、「卒」と「薨」では意味は同じで位が違うわけです。つまり死ぬことには違いない。だれでも「薨」とはいえない。一定の身分がないと「薨」とはいえない。時代によって「薨」を使う身分は変化しております。唐は唐の用例がありますが、古くは、そんな細かい用例ではなくて、諸侯が死んだ時に「薨」という。
御存知のように、天子が死んだら「薨」ではないですね。「崩」です。諸侯等に「崩」といったらえらいことです。「崩」というのは天子しか使えないというように、同じく「薨」というのは「諸侯」が使うのです。
 私はまだ「薨官」というのを発見しておりませんが、「卒官」というのははっきりありますので、身分が違えば、「卒官」があれば「薨官」という用法があっても不思議ではない。辞書にはないけれど、これでいいと、私は考えたのです。
ながながと私が言っている意味はお分りでしょうか。つまり、この死んだ人物は諸侯である。「帳下督」ではない。「帳下督」で死んだら、侍従武官です。こんなものを「薨官」とは表現できない。
 「亡命」等という大事な事を推定して、引っぱりこむのではなくて、あの墨字の文面だけで読めば、どうみたって「楽浪相、昌黎、玄菟、帯方太守、都郷侯」の真最中に死んでいるわけです。これは「薨官」になるわけです。
 だから、この墨字の人物は侍従武官ではない。諸侯である。しかも、東晋の天子を原点とした諸侯である。それが死んだ、こうなるわけです。
 だから「薨」の判読は非常に重大なわけですよ。「聖上幡」に並ぶというか、それ以上の決め手になるわけです。
 これから先は言うと言い過ぎになるかもしれませんが、遠慮なく言わせてもらえば、共和国側がなぜ「斃官」と読んだか。「薨官」と読めば、「帳下督」の説明にならないと知って読み変えたとすると、ちょっと具合い悪いですね。「斃」と書いてあるのは誤植があるかもしれませんので、このへんは、共和国側の論文とか、そういうもので見たいと思います。ハングルの読み方を習って読みたいと思います。そういうものを見た後でないと、正確な判断はできません。
 ともあれ、この活字が「斃官」なら、同じく辞書にはないが、「帳下督」の説明でいけるわけですが、私が写真判読で見たように「薨官」であるとすれば絶対に「帳下督」の死亡記事ではあり得ない。この古墳の中心人物「楽浪相、昌黎、玄菟、帯方太守」で、出身は「遼東半島」の「冬寿」の墓である。
 これは、言ってみれば東晋墓、東晋配下の墓、言いかえれば楽浪墓である。
 「相」というのは「宋書百官志」にいきさつが書いてある。「宰相」というのは皆様御存知ですね。総理大臣を意味するものとして知っていますね。ところが、総理大臣だけではなく、各将軍にも「宰相」がいたと書かれています。その後、都も各将軍の所も「宰相」では具合いが悪いから、「宰相」は都だけにし、よそは「相」と呼ぶことにしたと書いてある。この「相」ですね。ちゃんと南朝の呼び名に「相」があるわけなんです。
 この場合、楽浪の太守が別にいたのかも知れません。それはちょっと分りませんが、『宋書』にでてくる「相」という東晋の官職を名乗っている人物なのです。
 「楽浪相」であると同時に「昌黎、玄菟、帯方太守」を兼ねている。兼ねている場合、申し上げなきゃならない大事な問題があるのです。「帯方」は「楽浪」から分れたのですが、「楽浪」より位が低いというとへんですが、より由緒があるのは「楽浪」なんです。
 ところが「昌黎、玄菟」という所を東晋が支配していたということは、まず私の理解では無いと思います。当然、北朝側の支配下です。南朝側ではない。それでは、「おかしいじゃたいか」と思われるでしょうが、そうではない。当時の南北朝というのはややこしくて、東晋から言えば(我々が東晋といっているだけで、洛陽(都)を中心とした晋が建康に移っただけで、北半分は「反乱軍の占領下にあるというだけ」の立場)本来晋の一部なんですから、その領地の官職名も任命されているわけです。
 逆も又真なりで、北朝側の魏書を見ますと、南の方、揚子江流域の官職名もでてくるわけです。本当に北が支配していたかというとそうではない。虚名といいますか、形式的に官職名を任命しているわけです。
 例えば、『宋書』をみていきますと、こういう官職を書く場合、ややこしいですわね。こういう場合ちゃんとうまい言葉がありまして、「偽○○大将軍△△」つまり「偽者の○○大将軍△△」というわけです。南朝にでてくると北朝側の、北朝側にでてくると南朝側のと分る仕組みになっているわけです。
 余計なことを申しますと、今年二回中国に参りましたが長春の博物館に行きますと、いわゆる日本軍の侵略を問題として展示した博物館がありまして、藤田さんや山田宗睦さんと見学したのです。解説に「満州国帝云云」という言葉がでてくるのですが、この場合「偽満州国皇帝云云」。この「偽」がなかったらえらいことです。この「偽」というのは、はじめは「ギョッ」としますが、中国の伝統のある「偽」の用例なんですね。似たようた現象が、大陸の中国と台湾の中国とであるのではないでしょうか。私は知りませんけれど、おそらく、あるんじゃないでしょうか。
 日本ではあまりこういう形の経験が比較的少なかったかもしれませんが、中国では書式まで歴史書の伝統があるわけです。と、いうことで、ここの「昌黎、玄菟」というのは実際に東晋がここを支配したということではなくて、形式的な授号であろうと、私は理解しているわけであります。
 と、いうことで、この高句麗画の筆頭にきます最も有名なといいますか、大事な高句麗壁画といわれるものは、実は高句麗壁画ではない。東晋系列の楽浪墓であるという答になってきました。
 しかし、私が言ってきたことはそう不思議な議論ではないと思います。おそらく、従来はそう理解されることが多かったのではないかと思うのです。先程言ったように、私は戦前の研究を再検討しなおすという作業をまだ出来ずにいますので、来年度はまたそういうことをお話できるかもしれません。梅原末治さんの本等をみましても、必ずしも粗雑な意見ではたいと思うのです。ところが、何十年来か、しばしば耳に入ってきた共和国側の研究によると、「楽浪文化といってきたけれどあれは間違いだ。あれは元々朝鮮文化だというのが大変はっきりしてきた。」という話が何回か耳に入ってきておったのです。しかし、それは何を意味するのか、楽浪郡というのがちゃんとあるのにどうしてそんなことがいえるのだろうと不思議に思っていたんです。ところが今の問題などは、楽浪墓と考えるのは間違いで高句麗墓、高句麗文化、朝鮮文化であるという主張を共和国側が共同理解として日本にもってきたものであったようでございます。
 もちろん、私の方は楽浪郡をひいきするいわれもないのですが、問題はどちらに有利とかどちらをひいきとかいうのではなく、歴史学はあくまで実証である。実証のおもむくところは、どちらが有利になろうと、不利になろうと(こちらが歴史を作るわけではございませんので)どちらでもいい、というのが日本列島の中の『古事記』、『日本書紀』を扱う場合の私の姿勢であることは、皆様御存知いただいているとおりであります。
 この問題でも、実証的に文献を処理するかぎりは、さっき申したような結論にならざるをえない。これは、東晋配下の楽浪墓という形で理解せざるをえないのではないかということでございます。

徳興里壁画古墳

 さて、次に安岳三号墳につづいて重要とされている高句麗壁画がございます。」レジュメNo.2の「徳興里壁画古墳」というものでございます。ピョンヤンの南にあたる徳興里にある壁画古墳です。
 この古墳にふくよかな顔の人物が描かれておりまして、これが葬られた中心人物でありますことは、まず疑いがないわけです。この人物の墓誌が壁に書かれているのです。日本のいわゆる「天皇陵古墳」といわれているものを開けてこういうのがでてくると本当にうれしいですけれど、そういうのがちゃんと書かれている。

参考表示(これを元に史料批判は論外です。少しは、文章が分かりやすいと考えて表示しています。

□□郡信都[杲*彡]都郷□甘里
釈加文佛弟子□□氏鎮仕
位建威将軍国小大兄左将軍
龍驤将軍遼東太守使持
節東夷校尉幽州刺史鎮
年七十七薨 [口人]永杲*十八年
太歳在戊申十二月辛西朔廿五日
乙襾*成遷移玉柩周公相地
孔子擇日武王選時歳使一
良葬送之 (後) 富及七世子孫
番昌仕宦日遷位至侯*王
造[土蔵]萬功日[急攵*]牛羊酒宍米粲
不可盡[手□]旦食監[豆攵]食一椋記
之後世寓寄無[弓亘*]

(後) は、不鮮明。「後」と読んだものです。

[杲*彡]は、杲の「日」の代わりに「白」。さんづくり。
[口人]は、口偏に人。
杲*は、杲の「日」の代わりに「白」。
襾*は、襾の下に一。
侯*は、異体字、JIS第4水準ユニコード77E6
[土蔵]は、土偏に蔵。
[急攵*]は、心の代わりによつてん。JIS第4水準ユニコード715E
[手□]は、表示不可。手偏にほぼヨと田と一。
[豆攵]は、豆偏に攵。
[弓亘*]は、弓偏に「亘」を書き、中の「日」の代わりに「田」。

 一行目は、この人の出身地なんでしょう。二行目「釈加文佛弟子」と仏教の弟子であることがでてまいります。そして「□□氏鎮」、この「鎮」が名前で、姓にあたるのが「□□氏」ですが、消えている。
 三行目「国小大兄」は疑いのない高句麗の官職名(解説にもでてまいります)です。六行目「薨」がでてまいります。将軍であり太守であり刺史でもありますから、諸侯扱いの「薨」でいいわけです。「永杲*」は好太王碑にでてくるので有名な「永楽」です。好太王碑にでてくる年号と同じ年号がでてくるので、非常に注目されるところです。
 八行目「周公相地」、周公というのは周の第一代武王の弟で、第二代成王の叔父さんで「左治天下」摂政の役をした有名な周公です。「相地」、周公は土地が、いい土地かどうか見分けるのがうまかった。
 九行目「孔子擇日」、孔子はこの日はいい日かどうかを見分けるのがうまかった。「武王選時」、周の第一代の武王は時を選び、殷を打ち倒した。革命の時をよく選んで成功した。土地と日と時を選ぶ名人を書いてある。「歳使一良葬送之後富及七世子孫」、土地を選び、日を選び、時を選んで葬ったので、その報いは七世の子孫にまで及ぶであろう、ということが書かれています。
 これの解説をみますと、「信都は今の博川、雲田地方で、鎮という人は建威将軍から始まって国小大兄、左将軍、龍驤将軍、遼東太守等をえて使持節東校尉、幽州刺史の官職を歴任した。二番目の国小大兄は、高句麗だけにある固有の官職である。彼は高句麗第一九代の広開土王(好太王)の臣下であり、年令七七才で死去し、永楽十八年(四〇八)十二月二五日、ここに葬られたのである。
 ここに見える永楽という年号は、広開土王が独自に用いた高句麗の年号である。この墓誌銘を通じで、高句麗にも幽州があり、その版図が遼河を越えて実に広大であったという極めて重要な事実が初めて明らかにたった。」と書かれている。
 つまり、この解説の主張は、「幽州の刺史(幽州だけでなく、周辺のいくつかの太守を支配する、監督する役目をもっている)という重要な役目をもっているのだが、この幽州というのは高句麗の中の幽州であった。」というのです。
 幽州というのは中国で有名な場所です。この幽州ではなくて、高句麗の中に別な幽州があったという重大な事実が分ったという説明になっているのです。どの辺になるかしりませんが、高句麗にも幽州があったんだという重要な事実があったという解説になっているのです。
 ところで、皆様もお感じになるでしょうが、東アジアの世界で幽州といえば中国の中です。それを知らなきゃモグリであるという感じです。それに接近して、高句麗にも幽州があったという解釈をしているわけです。そこの官職名だといっているわけです。
 同じ時代に、倭国が一つ、である。高句麗が一つ、百済が一つであるように、倭国が一つであると申しましたね。
 ここでは、幽州が二つあります。中国の幽州と高句麗の幽州が二つ並んでいたということになるわけです。本当にそうだろうか、というのが私の疑問となったわけです。
 ところで、皆様もお気付きでしょうが、「永楽十八年」というのは、好太王が十八才で位についてから十八年目、三十六才くらいですね。好太王が位についた時は、この人物は七七引くと十八ですから五九才、今の私ぐらいの年令で位についた。言いかえると、好太王が位についた時は、大体この人物は自分の生涯のかなりの部分を終えていたわけです。
 すると、ここに書いてある彼の麗々しい官職名は、もしかしたら、四十代、五十代の官職名ではないだろうか、という問題があるわけです。
 しかし、「永楽」という年号があるわけですし、これが高句麗の年号であることは間違いないわけです。安岳三号墳は、東晋の年号がでていながら、それを原点に理解するという立場を共和国側がとっていたかったわけです。私はおかしいと生意気にも手厳しく申し上げたわけです。
 今度は、「永楽」という好太王の年号がでているから、この文面にでてくる官職名は全部高句麗の官職名である。だから、幽州も中国ではなく高句麗の幽州である。それだけではなくて、国小大兄以外、全部中国にあるわけです。建威将軍、左将軍、龍驤将軍、遼東太守、使持節東夷校尉等、特に使持節は完全な中国の有名な官職名です。倭の五王、倭国伝で御存知のように、中国側の有名な官職名の表現法です。それ等とそっくり同じものが高句麗内部にあったという解釈になっているわけです。
 すると、地理的に幽州が並んでいるだけではなくて、龍驤将軍というのも中国製の龍驤将軍と高句麗製の龍驤将軍、中国製の左将軍と高句麗製の左将軍、中国製の使持節東夷校尉と高句麗製の使持節東夷校尉というふうに、しょっちゅう同じ名前で並んでいたという解釈になるわけです。
 そうあってはいけないとは申しませんが、本当にそうだろうか。高句麗側は永楽以外に年号を使った例はそう多くありません。延嘉という仏像にでてくるのがありまして、これがいつかというのが悩みの種になっているのですが、他に全く年号がないとはいえませんがあまりみられないわけです。
 逆に、集安県の国内城の壁の中から東晋の年号をもった磚(せん 瓦)があらわれてきております。好太王以前に、四世紀後半に東晋の年号のもとにいたということが分かる。もちろん、好太王のあとの長寿王になると、両頭外交というのですか、北朝と南朝の両方に使いを送って、交々に将軍というのを貰っております。自分を天子とみなし、自分で年号を作った形跡は全くありません。というようなことで、この人物の称号というのは、この年号からすぐ感じられるような永楽、好太王配下の官職名なのか。これは一つの仮説ですね。この文面だけみていると自然な仮説かもしれませんね。
 もう一つの仮説は、好太王が位につく前の、彼の生涯の四十代、五十代の時に貰ったものではないかという問題を私は疑問点としてもつわけです。
 これに対する答を与えるものは、同じ徳興里壁画古墳の中のもう一つの文章です。レジュメにある人物の両側に壁画みたいなのがありまして、人物が沢山あらわれてきています。皆これに○○大守○○大守と肩書がついている。燕郡太守、范陽太守、上谷太守、代郡太守、北平太守、遼西太守、昌黎太守等が衣冠束帯を正してやってきているわけです。その先頭に、四行の縦書きの文章が書いてある。これがやはり一つの決め手になると私は思ったわけです。

参考表示(これを元に史料批判は論外です。図を見て下さい。少しは、文章が分かりやすいと考えて表示しています。)
[口□]十三郡属幽州部[杲*彡]七十五州
治廣薊*今治燕国去洛陽二千三百
里都尉一部并十三郡

[口□]は、表示不可。口偏。叱か?。
[杲*彡]は、杲の「日」の代わりに「白」。さんづくり。
薊*(かい)は、表示不可。草冠に魚の旁のよつてんなし。

 ここで大事なのは「今」という言葉です。つまり、「今」は「燕国」に属している。ここでは二つの時点にわたっての文章です。
 一つは、この人物は廣薊*(こうかい)にいて幽州を統治していた時です。この人物の活躍期。廣薊*にいて幽州の刺史であった。
 今は、永楽十八年(十八年か、一、二年経っているか、今はそこまで問題にしないとしまして)で、この人物の活躍期とは政治情勢は変っている。今、廣薊*(こうかい)は燕国の行政区域になっている。
 ところが、その当時は彼の統治中心であったということをいっているわけです。
 明らかに、永楽十八年の話とこの人物の活躍期とは時期が違う、といっているわけです。それが「今」という重要な言葉の意味するところだと、私は思うわけです。
 先程、私が疑問をもちましたように、七七才で死んだ人物が、六十以後にわかにバタバタと、好太王から高句麗なりの幽州、高句麗なりの左将軍、高句麗なりの使持節を貰ったという(一つの仮説)のではないのじゃなかろうか。六十才くらいになるまでに、そういう官職名をもっていたのではないか、という疑いがこの文章によって明らかになる。
 つまり、彼のこういう官職名は、高句麗内の別の幽州でもっていたのではたくて、北京に近い幽州でもっていたということが分ります。ですから、「二つの幽州」説はどうにも無理です。
 しかも、それを最後に決定するものが、「去洛陽二千三百里」です。つまり、洛陽を原点にしてこの距離が書かれているわけです。
 ところが、この時期、南朝と北朝が対立しまして、この洛陽は北朝に属していた。南朝、東晋側には洛陽はなかった、ということがはっきりしているわけです。
 とすると、北朝系の古都を原点に廣薊*(こうかい)までの距離をかいているのはなぜか?
 彼に幽州の刺史を与えた原点は北朝である。もし、彼が南朝に属しておれば、建康からの距離をかくわけです。洛陽からの距離は分ったけれど、建康からの距離は分りませんでしたのでかきません、などということではないわけです。分らないからかかないのではなく、原点とするものが建康ではなく洛陽である。
 もしこれが、共和国側の解読のように、集安(この時、好太王は集安に都をおいておりました)を原点とする官職名であったなら、集安(当時は集安とはいわなかったでしょうが)を去る○○里とかけばいいのに、洛陽までの距離をかいているということは、この官職名は北朝系の官職名であるということを意味している。
 先程、後ででますが、と申しました『魏書』(『宋書』等と比べると注目されることは少ないですが、北朝系の同時代史書として常に重要な本だと思います)をみますと、さっき古墳の中心人物の両側にズラーと太守が衣冠を正してといいますか(何か幽州の刺史に任官したのをお祝いにやってきて、盛大な儀式が行われた、そういう姿を再現しているんだと思いますが)そういう太守達の名が(『魏書』に)九割がたでてきます。「広蜜*」とか「玄菟」「帯方」がでてこないのですが、他は『魏書』の行政区画にでてくるのです。『魏書』は四世紀の終りです。この人物とはちょっとズレています。この人物は魏につかえたのではなくて、おそらく燕につかえたのだと思います。『魏書』という、北朝系の直前の時代の史料で推定しているだけなんです。

蜜*は、虫の代わりに冉。

 だから、ここに集まってきている太守達というのは、どうも北朝系の太守達、燕国系の太守達であるらしい。又、「帯方太守」なんかは例によって虚名である可能性がありますね。北朝が実際に帯方郡を支配していた証拠と考えるのは、あさはかです。「ちゃんと当局に『帯方太守』はいますが、反乱軍が今は帯方郡を支配しております。あの倭国がその反乱軍を助けております。」というようなことであってもいいわけですね。
 ということで、ここにでてくる太守名が北朝系の『魏書』の行政区画とほぼ一致する。又、権威の原点が洛陽(この時の洛陽は荒廃していたというのですが、よくは分らんのですよ。五胡十六国の国々が『魏書』のようにそれぞれ同時代史料を作っていますといいのですが、後代史料〔唐代〕しかないので、正確には把握できない状態です。)にある。姓は分らないが「鎮」という人物は北朝系の官職名をもち、いた場所はほぼ北京に近い「廣薊*(こうかい)」で「幽州」の「刺史」として、君臨していた人物であるということが分かってくるわけです。
 ということで、共和国側の「幽州」が二つあるというのはどうにも無理です。「幽州」は一つで、この人物は北朝系の官職名の「幽州」の「刺史」であった「鎮」である。この「鎮」という人物が「永楽十八年」に死んだ、ということです。
 この人物と好太王の関係はよく分りませんが、臣下といえば臣下でいいんでしょう、永楽年間では。ただ、単なる臣下というよりも、「好太王のおじさんである」とかいったような人物ではないか、という気がします。それは、高句麗好太王側で墓が作られているからです。
この場合、高句麗墓といっていえないわけではないですが、その内容からしまして(洛陽原点の表記)、北朝系の色彩が大変強い高句麗墓である。前半北朝系、後半高句麗編入という感じであるということが分るわけです。
 問題は、この分析にとって一番大事な問題は、好太王がおそらく北朝系の「鎮」の勢力を吸収して、好太王の領域が成立していた。又、完全に吸収できないから、絶えず燕との衝突がおこっていた、ということが考えられる。
 要は、好太王は北朝系の大義名分の継承者ではないか。つまり、好太王の三六才の頃に作った古墳に、「永楽十八年」という年号もあらわれているが、「洛陽」原点の表記もあらわれている。二段階の表記を残しているということは、北朝系列の色彩が大変強いのが、高句麗好太王の時代である、という問題がでてくるわけです。
 「この『鎮』という人物のもっていた称号は、私(好太王)が継承するのだ」という立場をとっていたのでしょう。好太王は年号を作っています。自分を天子に準ずる位置においているわけですから、仮に「おじさん」とすると、「この人物のもっていた勢力範囲は、私が受け継ぐ」という立場に好太王はたっている。
 好太王は、北朝の大義名分をバックに登場しているわけです。楽浪を原点にした人物の古墳を作っているわけですから、壁画に並んでいる「帯方太守」等は、先程とは逆の意味の形式的な虚名だと思うのです。実際は東晋側の勢力範囲ですから。
 高句麗の好太王が北朝系の大義名分(遺産相続)をバックに登場してきているのに対して、倭国は、あの倭の五王は終始一貫して南朝系なんですね。
 『晋書』をみますと、「高句麗伝」がないのです。『晋書』だけを読むと「高句麗はなかった」ということになるのです。逆に『魏書』という北魏の同時代史書をみますと、なんと倭国がないのです。当時、東アジアに「倭国はなかった」というふうにみえるのです。これは、倭国が北魏に朝貢していなかったから、あくまで南朝側にたっていたからですね。
 高句麗が平壌から帯方郡へ侵入してきたのは、北朝側の大義名分、朝鮮半島部分の遺産相続権限者としてである。そして、倭国は南朝側の大義名分にたって、高句麗に相対していたという状況が考えられる。
 となりますと、ここで大事なことは、好太王碑にでてくる好太王の大義名分は「当然楽浪郡、帯方郡は『鎮』という人物の支配下にあるべき場所だった、それを私は継承しているのだ」という立場で書かれている。
 ところが、倭国は南朝側にたっているから、それとは逆に、「楽浪郡、帯方郡は南朝の支配下にあるはずだ。私が南朝の天子のかわりに、楽浪、帯方を安定するんだ。」という立場にたっているんですね。
 そうしますと、だからこそ高句麗好太王碑では、倭国の正規軍のことを「倭賊」とよぶわけです。倭冠という表現がでてくるわけです。
 こういう私の理解が正しいとしますと、好太王碑に「倭賊」とあるから海賊だ。倭は海賊だと、共和国側が最初にだした見解、あるいは、最近の王健群(中国)さんの倭=海賊説はやはり、文字の大義名分の使用法、東アジアの「衝突する大義名分」という内容を、実態を理解されなかったのではないか、というふうに私は考えるわけでございます。
 好太王碑だけをみていたのでは、こう解釈できる、ああ解釈できるというものであったのですが、やはりこういう安岳三号墳、徳興里壁画古墳の前後する文章と、それら三点をセットにして、その上にたって安定した理解をたてないと、真の史料価値が見出せないことになっているのではないか、そう思うわけでございます。



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