二つの試金石 九州年号金石文の再検討 古賀達也 参照
九州年号総覧
『市民の古代』第11集


市民の古代第11集 1989年 市民の古代研究会編
  古田武彦講演録2 ●特集「九州年号」とは何か

九州年号

ー古文書の証言ー

古田武彦

 古田でございます。日曜日で、晴れわたったすばらしい秋空ですね。こんな日にわたくしの話を聞きにお出でいただいて、大変有難く存じます。
 今、ここに入ってきて、ちょっと変な気がしたのですが。わたしの名前のところに「昭和薬科大学教授」とありましたので、その通りなのですが、何か、“場ちがい”な感じが一瞬いたしました。大阪の皆さんには、特にそういう感じがします。京都の一隅で、孤独の一研究者として、皆さんにお会いしていたときと、全く同じわたし。いわば「古田さん」ですか。とても、「東京から来た、何々教授」といった感じてはありませんね。 ーー当然のことですが。
 幸いにも、今年一年間、とても収穫の多い一年間でした。わたしが関西から東京へ行くとき、“この是非を決めるのは、東京へ行ってから、研究がすすむかどうかです。わたしが死んでからあとで判定されることです。”と申して、東京へ参る決心をしたのですが。幸いに、次々と新しい研究上の発展がありました。ことに、この一年間は、それに恵まれたのです。それを今日は報告させていただくことを幸いと存じています。
 さて、昨年、わたしに明らかになった、重要なテーマがございました。九州年号の問題です。この五月、金石文を主とする報告をさせていただいたとき申したことですが、そのときいらっしゃらなかった方もあると思いますので、簡単にその要点を申させていただきます。

「大化」年号について

 わたくしにとって、『失われた九州王朝』を書いて以来、一貫して“気にかかって”きたテーマがございました。課題です。それは「大化」という年号の問題でした。『日本書紀』『続日本紀』の中で、「大宝」以後、現在に至る“連続年号”は一応問題ないとして、問題は、それ以前に「三つの飛び飛び年号」があることです。「大化」と「白雉」と「朱鳥」ですね。孝徳天皇の前半が「大化」、後半が「白雉」ですね。七世紀の半ば(六四五〜五〇、六五〇〜五四)です。それからしばらく飛んで、天武天皇の最後の年、六八六年に、一年だけ「朱鳥」です。それから、また飛んで、七〇一年から「大宝」以降の“連続年号”がはじまるわけです。
 しかし、考えてみると、「年号」が“飛び飛びに”ある、というのは、おかしいですよ。「年号」というのは、「時の基準尺」になるものですから、そのためには、“連続してつける”ということが、最低の必要条件。それなしには、ナンセンスです。
 また、権力者が「年号」をつけうる状態にあるときには、これほど簡単なことはない。学者に命じれば、その学者は一晩あれば、「年号」ぐらい作れますよね。慎重に考えてみたにしても、一週間もあれば楽に作れるんじゃないですかね。そして権力者はそれを「公布」すればいいだけです。ですから、これほど権力者にとって、何の苦労もなしに“できる”ものはないわけです。それなのに、いったん作って、またやめる。やめて、しばらくして、また作る、なんていうことは、考えられないわけです。ですから『日本書紀』の“飛び飛び年号”の存在は、理解できない。人間の理性から見て、理解できない史料の状態であるわけです。
 さて、右の三つの中の二つについては、『失われた九州王朝』で論じました。「白雉」と「朱鳥」ですね。どちらも、九州年号にある年号です。そこから“飛びこんだ”わけです。九州年号とは、六世紀前半から七世紀末まで、三十幾つの年号があるのですが、その中に「白雉」と「朱鳥」があるわけです。
 この二つの年号が一方で九州年号にあり、他方で近畿天皇家の年号(『日本書紀』)にある。とすれば、どっちかが本物で、どっちかが“にせもの”。まかりまちがっても、両方とも本物、ということはないわけです。いうなれば、「共に天をいただかず」ということになりますね。
 とすると、わたしが九州年号を「実在」と考えた場合、「白雉」は本来、九州年号側の「白雉」、「朱鳥」も本来、九州年号側の「朱鳥」、当然そうなるわけです。これをいいかえますと、近畿天皇家側はこれらの年号を「引用」した。ハッキリ言えば、「盗用」したことになるわけです。
 ところが、そのように考えると、「大化」も当然、同じように考えるべきであった。なぜかというと、「大化」という年号も、九州年号の中に出てくる年号だからです。もっとも、古写本の中にいろいろちがいがあって、「大化」のあるものも、ないものもあるのですが、ともかく「ある」ものが存在することは、事実です。
 ところが、わたしは、『失われた九州王朝』では、この「大化」だけは、ふれませんでした。保留課題だったのです。というのは、一つの「障害物」があって、そのため、ふれることができなかったのです。それは、京都の宇治にある、「宇治橋断碑」でした。そこに「大化二年丙午之歳」と書かれた金石文があった。金石文ですよ。これを簡単に否定するわけにはいかない。しかし、先ほどの論理からすると、これも当然九州年号の「盗用」と考えざるをえない。そう見るべきであるし、また金石文は無視できないし、ということで、これはあとであつかう保留テーマにしよう、ということだったのです。
 ところが、この点、鋭く着目されたのが、丸山晋司さんでした。『市民の古代』の第五集( 一九八三年)に載った「『大化』年号への疑問」という論文がそれです。今回、新泉社から出された『合本、市民の古代』第二巻にも収録されています。この合本はすばらしい企画ですね。
 ここで丸山さんは、「古田は、『白雉』と『朱鳥』だけ扱って、『大化』は扱っていない。しかし『大化』も全体の進行と同じように考えるべきではないか。『大化』だけをその時代の年号として考えるのおかしい」。こういう主旨だったと思います。わたしはその論文を読んで、まさにその通りだと、わたしの本をよく読んで下さったと思ったわけです。だから、「反論して下さい」と丸山さんから言われると、「反論どころではありません。問題はあの『宇治橋断碑』を越えることです」というふうにお答えしたのを覚えております。
 さてその後、去年の秋ですが、藤田友治さんがわたしのところへ来られたことがきっかけとなり、この問題をわたしの家で検討させてもらったところ、不思議にも話をしているうちにその歴年の障害物がとれてしまった。といいますのはこの前言いましたように、今問題になっていた「大化二年丙午之歳」という表現は石碑の表に書いてある。つまり、記載文面の中に出てくる年代である。かんじんのあの石碑ができた年代、普通だったら石碑の裏にあるべきものですが、それは現在残念ながら見つかっていない。断碑であって、上部三分の一ぐらいしか現物は残っていないのですから。そのために石碑ができた年代を知ることができない。それで同時代史料として使うことができない。従来の古代史の学者はプロの研究者を含めてほとんど全部の方がこれを今の「大化年代」の同時代史料としてみているのが通説だったわけですが、もし同時代史料として使いたいなら、そのためには、最小限「七二〇年以前」にこの石碑ができていたことを証明しないといけない。もちろん「大化二年」に石碑ができたということを証明できればもっといいわけです。しかし、どんなに遅れても、まず「七二〇年以前」にこの石碑はできていたということをまず証明すべきである。七二〇年というのはもちろん『日本書紀』ができた年であります。『日本書紀』ができた後の段階でしたら、『日本書紀』に、三つの飛び入り年号(大化・白雉・朱鳥)が七世紀半ば以後にありますので、当然「大化二年丙午之歳」といった形式で書かなければいけないわけです。京都のおひざ元近くで、『日本書紀』のルールに全く反する書き方ができるはずがない、この方が原則なのです。いわば『日本書紀』に従わざるをえない段階の書き方で、『日本書紀』を裏づける金石文(同時代史料)では、何らないわけです。ところが誰も今までこれを使用する場合に、「この石碑が七二〇年以前に造られた」という論証をしてから使った研究者は、大学の学者もふくめて誰もいないのです。まんぜんと「大化二年」銘の石碑がここにもある、という文脈で使っているのがほとんどである。ですから、これは本来、同時代史料とみなすべきではなかったのです。ということがわかってきました。
 そうするとこの「大化」は、本来やはり「九州年号」にある「大化」ーー 年代が少し後で七世紀の終り近くにあるのですが、 ーーこれが実在の「大化」である。これをもってきて『日本書紀』の編者は、六四五年の記事を書いたということになるのです。では『日本書紀」は「三つの年号」をなぜ使ったかというと、その秘密は「神功紀」をみればわかる。「神功紀」でも『三国志』の魏志倭人伝の中から三つだけ卑弥呼の記事をもってきて使っているのです。そしてこれを神功皇后にあてている。と同じに壱与の記事も一つだけもってきて、同じく神功皇后にあてているわけです。ということは、卑弥呼、壱与の業績は「ヤマト」とは別の倭国の女王であると、『日本書紀』の編者たちはあきらかにそのことを知っていたわけですが、たしかに二人がひとりの人物でありえないことを、嘘であることを知りながら、“神功皇后ひとりにあてる”ことをやったわけです。同じく、今度は天皇家の年号でないことを、嘘であることを知りながら年号を三つだけもってきてあてているのです。
 こういう新しい偽りの歴史づくり、これをやることが『日本書紀』にとって一番重要な目的の一つである。耐えられないことではあるけれど、そう判断せざるを得ない。だから『日本書紀』ができた「七二〇年以後」は、近畿天皇家以外に卑弥呼や壱与がいるなどと言うものがいたら、これは偽りの歴史を語る者である。また、問題の三つの年号を、本来は「九州年号」として実在だったなどという人がいたら、それは「偽りの歴史」を述べる者である。 ーーこういう立場に立つことを宣言したのが、七二〇年『日本書紀』という「一大偽書」の成立である。
 「偽書」・・・偽りの本という言葉の定義が今まで本気で行われてはいなかったわけです。はっきり言うと、要するに『日本書紀』に書いてあること、あるいは近畿天皇家一元主義に従っている内容でないものは「偽書」であると、こういう「偽書」の使い方が一般的であったと、わたしは思うのです。いまは時間が無いので詳しくは論じませんけれども。ずばり結論的に言えば。それはもうイデオロギー的な判断に立つ、ものさしに立つ「偽書」の定義である。本当の「偽書」とは、「故意の偽り」いわば一種の「犯意」があるものです。嘘と本人が知っていながら、なおかつこれが正しい歴史であると称して書いたら、これはまさに「偽書」です。まちがう場合、本人が正しいと思って書いたが今見るとそれはまちがいでしたと。このケースは「偽書」とは言えません。“判断がまちがっていた”だけですから。ところが、書いている本人がそれは真赤な嘘とわかっておりながら、それを本当の歴史であると称して書いたら、これは「偽書」です。わたしは「偽書」の定義を議論する時間は無いのですが、ズバリ言えばこれが「偽書」の、地球上どこへ行っても通る定義だと思います。その定義によれば、『日本書紀』は残念ながら「一大偽書」なのです。もう本人が嘘だと知りながら書いている景行天皇の九州大遠征、あれも筑紫の国の九州平定統一譚を、主語を切りかえて書いてある、とわたしは判断するわけです。これも完全に「偽書」の手法ですが、こういう「偽書」の手法が『日本書紀』には各処に見られるわけです。もちろん、ここで使われた材料その他において『日本書紀』は、ひじょうに重要な、人類にとっても非常に重要な意味をもっていることを、わたしは最近痛感しているのですが、今日はそれを申し上げる時間がないのが残念ですが、またつぎの折にでもお話できることと思います。
 『日本書紀』は、史料としては「古いもの」を使っておりますから、それは非常に貴重な意味を持つのですが、歴史書としての構成自体はやはり「一大偽書」である。いわば「偽書」の見本のような存在である、と言わざるをえないとわたしは思います。以上「大化」問題は、まさに丸山晋司さんがかつて指摘された通りだったのですが、ここから『日本書紀』の「偽書」としての手法を一段と明瞭に認識することがわたしにとってはできたわけです。

安本美典氏との対談

 さて、次にわたしにとって大きな発見がありましたのは今年の四月の終わりでした。それは博多で安本美典さんとシンポジウムというか討論会が現地のヤマタイ国研究会・九州王朝文化研究会主催で行われ、その詳細については『歴史読本』(新人物往来社)十二月号に紹介されています。わたしはその内容を見るまでは何となく偏見を持っており、一応は紹介されるとしても、それほど正確ではないだろう、新人物往来社は、安本さんがわたしを批判した本を二冊出版しているところですし(『邪馬壹国はなかった』『古代九州王朝はなかった』)、と思っていたのです。それはまったくわたしの偏見でした。その内容はひじょうに正確で、わたしがその記事を読んでまったくその通りである、というかたちで紹介されていました。記事で紹介された方についてはわたしのご存知ない方でしたがその方(そこで速記ないしテープ起しされた方)に対し、また『歴史読本』の編集部に対し、深い敬意を持ったわけです。(後日、偶然担当者〈博多在〉にお会いした。またテープ起しが塩屋直子さんであることを知った。ーー後記)
 かつて安本美典さんと討論を行った、中央公論社の『歴史と人物』とを比較してみてこういうふうに、わたしは思ったしだいです。あの時のことと言うと一言お話ししないといけないのですが、あの時は常に“対等になる”ような編集をした。常にあらゆるところが五分五分にみえるということは、ある意味では公平にみえます。しかし、実際に行われたところの「対談」が五分五分であれば公平であったと言えるのですが、ところが実際に行われたものが七対三とか六対四とか、八対二という感じの形勢でありながら、それを誌面で“五分五分に直す”というのは、一見紳士的で「公平」だけど、フェアーではありません。そういう現象をあの時にはひじょうに感じました。あの時は大変苦心して何回も何回も直されたのです。だからその後「創世記」という出版社が、その討論の時のテープから起した、そのままの内容を記録の本として残したい、という要望がありました。わたしはすぐに承知したのですが、安本さんの方が承知しないのではないですかと言ったのです。すると、果たして忙しいからあとにしよう、またあとにしようと次々安本さんから後にされて、そのうち「創世記」社が無くなってしまいましたので、その「打ち合せ」もできなくなってしまったわけです。
 けれども、幸いにもそのテープは東京の研究会の田島さんがテープ起しして事務局においてあります。それを今も聞くことはできますが、相手の安本さんの承諾がなければ勝手に本にすることはできません。そのような状況にあったわけです。
 この時、わたしはなるほど有名な雑誌というのは、こういうかたちで対談を「修正」するのだということを始めて知りました。おそらくわたしの対談だけでなく、あのような雑誌に載っている対談というのはたいていこういう配慮が加えられていると思います。そこで大変不信感を持ったものです。あれ以来、そういうものを信用しない癖がついたのですが、今回『歴史読本』を拝見しますと、ひじょうに正確に書かれておりました。

「天孫降臨」について

 この安本さんとの対談で問題になったひとつのテーマ「天孫降臨」をめぐるテーマです。安本さんもわたしも、「天孫降臨」は偽りのもの、架空のつくりものである、と津田左右吉などが考えたようなものではないと、考える、その点においては、共通しているわけです。ところが、その場所が全くちがう、ということです。安本さんは本居宣長に従って、宮崎県と鹿児島県のあいだの霧島連峰、高千穂山系のあたりであろうと考えています。それに対してわたしは、原田大六さんと同じく、福岡県の高祖山連峰、東に博多湾岸、西に糸島郡に囲まれた高祖山連峰であろうと考えているわけです。
 その時の論争ではあくまでも史料上の分析からの結論にわたしは終始、立ちました。筑紫(現地音はチクシ)の日向の高千穂のクシフルタケ、こうなっている。ですから、筑紫となっているので今の福岡県と考えるべきである。そして最終到着地はクシフルタケとあるのだから、「クシフルタケという地点」であったはずだと。途中の「日向」というのは、現地高祖山連峰に日向峠(ヒナタトウゲ)、そこから博多の方に流れだしている日向川(ヒナタガワ)があります。高千穂とあるのは、高祖山連峰の形容として、「高千穂」のと表現している。こういうふうにわたしはその時述べました。安本さんの方は、本居宣長説が良いのだという立場からの地名分析の論証は、あまり述べられませんでした。
 ところが東京への帰りがけの、ひとりだけの汽車の中でわたしは「重要な論証」がここに成立することに気が付きました。といいますのは、天照大神が『古事記』『日本書紀』の神代の巻に現われてくる時に、しばしば「三種の神器」、「勾玉」「鏡」「剣」。この三種のセットを身につけて現われてくることは、よくご存知のとうりです。いつもとは限りませんで、中には二種、「勾玉と鏡」とか、「勾玉と剣」とかにもなりますが。要するに「三種の神器セット」的なものを身につけて現われてきます。これは天照大神にとっては「三種の神器セット」的なものが政治的シンボルであると考えられる。そうすると、孫のニニギノミコトを筑紫のクシフルタケに派遣した。その場合にやはりニニギノミコトも三種の神器セットを政治的シンボルとしていたと考えてよい。
 さてその次ですがニニギの後で、ヒコホホデミノミコトというのがあって、それは「五百八十歳ましき」と。五百八十年いらっしやったというのです。原文は
「かれ日子穂穂出見の命、高千穂の宮に五百八拾歳ましき。御陵はその高千穂の山の西にあり」、

 『古事記』の本文にはこう書いてあります。五百八十歳というのは一人の人間が生きる年代では決してございません。これをわたしの言うところの二倍年暦にしましても二百九十年になります。二百九十年にしても一人の人間が生きる年代ではありません。そうしますと、ヒコホホデミノミコトとは個人名ではなくていわる称号である。天皇が二百年も三百年もつぎつぎといましたが、その「天皇」にあたる、称号である。その称号の人物が二百九十年続いたと、そういうことを言っているのです。これが大事であると考えられます。安本さんはこれを一人だと考えて五百八十年生きた、一人の時代としてしまうのですが、わたしはこのように時代を分けるわけです。すると二百九十年の間、仮に安本さん流に王の在位平均が十年であるとしますと、二百九十年だから約三十人くらいになり、一人が平均二十年としますと、十四〜十五ぐらいとなります。そのような十五人から三十人ぐらいの王者の時代が、相継いだ、ということになります。
 問題はその次で、「御陵はその高千穂の山の西にあり。」ということを、帰りの汽車の中で思い出したのです。その高千穂は、年来、わたしの持論では、高祖山連峰になります。高祖山連峰にはっきりとクシフルタケがあるわけです。宮崎県の方にはありません。この高祖山連峰を高千穂と言っているのです。さきほど高千穂の宮と言いましたが、高祖山連峰の糸島側にある高祖神社ではないかと思います。これをわたしは高千穂の宮と考えているのですが、この高千穂の山の西にあり、言いかえれば、高祖山連峰の西側に代々の御陵はある、こう書いてあるのです。
 そうしますと、この代々というのはさきほどの理解の上に立つと三種の神器セットを持った御陵なのである。王墓ですから、かなり豪勢な墓で王墓らしい墓で、三種の神器を持っている墓でなければなりません。時代は弥生時代ですから、そのような弥生墓があるのかと言うと、文字どおりあるのです。つまり、三雲・井原・平原。三雲・井原は江戸時代に見つかって、平原はごく最近に見つかったものです。いずれもその三種の神器セットを豪勢に持っているわけです。鏡を三〇面、四〇面と持っている、平原など最大の鏡が五面ですが出土しています。原田大六さんが発掘されました。江戸時代の場合は農民が畑を耕していて、カチンとぶつかってきて見つけているわけです。平原の場合には原田大六さんが発見し、幸いにも現在は資料館ができましてそこに保存されております。資料館ができる前に原田大六さんは亡くなり、現在は名誉館長になっておられますがそこに全部展示されています。
 さて、同志社大学の森浩一さんが言っておられるテーマ、「森の定理」と言っても良いのですが、それをお話ししてみたいと思います。それは、ひとつ物が出てきた場合に決してひとつしか無かったと考えてはいけない、必ずそこにはその五倍ないし十倍はあったと考えなければいけませんよ、と。これは森さんの本を読めばたびたび出てまいります。わたしも京都におりました時、しょっちゅう森さんの研究室に飛び込んでは、いろいろお聞きしていたのですが、その時、そういう話が出て「ああその通りです」といってお互いに握手するような感じの場面があったのを覚えていますが、わたしも深くそう思います。これは森さんがすでに「書いて」おられることに敬意を表して「森の定理」と名前をつけさせていただいて、この定理を、さきほどの年代の問題に代入してみますと、ここに王墓が三つあった、ということは何を意味するのか。これらの王墓はまったく偶然に三つとも見つかった。ということは、こういう豪勢な王墓が三つしかないから、三つ出た、つまり、三つが百パーセントであると考えてはいけない。これはおわかりのことと思います。つまり、その五倍、十倍の王墓が糸島郡の地下にはまだ眠っている、と考えないといけません。五倍とすれば十五、十倍とすれば三十、つまり十五ないし三十の王墓が糸島郡にはまだ眠っていると考えられるのです。そうすると、さきほどの墓域を示した、高千穂の西には十五人ないし三十人の王墓があるということになります。あまりに合致しすぎて気持ちが悪いほどでございますが・・・。数そのものはともかくとしても、大筋のところで一致している、ということは疑いようがないのではないでしょうか。
 これに対して、本居宣長および安本さんの説に立った場合、高千穂、これは霧島山脈ですと、その西といいますと鹿児島県の東部であるわけです。そこの弥生時代の墓は何か、そういうもの(三種の神器セット類)が出てくるのか。まったくそのようなものは出てきておりません。これはいわゆる隼人塚といわれる世界であります。半地下式と言って独特の墓制が存在します。
 そこには「三種の神器セット」なんてものは無いわけです。無いということは「貧弱だ」ということではありません。逆に「三種の神器セット」というのは、勾玉は日本列島の縄文から出ますが、鏡と剣は少なくともそれが金属文化であるかぎりにおいては、大陸朝鮮半島の金属文明の伝幡した、その影響下にある。日本列島の勾玉と大陸・朝鮮半島からきた剣、鏡のふたつを合わせた、新しいセットをつくったわけです。
 そういうものはまだ南九州には及んでいない、あるいは「及んでいない」という言い方をもっとはっきり言えば、彼らは「そういう新しいセットなんかはわれわれには採用できない、われわれにはもっと古くからの誇るべき文化・伝統があるから。」と、隼人の地においては、古くから伝統文明が存在しており、そういう新来の文明を受け入れようとしなかったという、固有の文明の存在を意味するものである。決して金属が出ないからといって、「たいした文明ではないよ」という判断をするのは、わたしはまちがいだと思います。ともあれ、この地域から三種の神器セットが出ないことは、まちがいありません。
 しかも大事なことは、糸島郡の場合、ただ三つの王墓だけが、ぽっと出ているわけではなくいちぢるしいほど他にも、鏡だけ出ているとか、勾玉だけ出ているとか、剣のみの墓などが出ているのです。そういうものがやたらに出てきています。そんな中に三種の神器をセットとして持った王墓が三つ出てきているのです。ところが鹿児島県の東半分の場合は三つの王墓クラスのものが無いだけでなくて、その他大勢という墓、それが無いのです。これは別の世界・別の文明地帯なのです。というような事実からするとこれはもうはっきりしているのではないか。今までに話してきた「天孫降臨」の地が高祖山連峰という、原田大六さんやわたしの立場が正しいか、それとも本居宣長や安本さんらの立場が正しいか、それは考古学的出土物によって判定されることなのです。
 これは文献だけでも、言うまでもないのですが、到着地点がクシフルタケで、そこにはクシフルタケが無ければおかしいわけです。第一に、宮崎県の場合は筑紫ではないのですが、九州自体を筑紫といったのだろうとした。二番目に出てくる筑紫の一部分である「日向」を日向の国と解釈した。そして三番目の「高千穂」をいきなり宮崎県の高千穂連峰にあてているのです。四番目の[クシフルタケ」はないまま。
 このようなムチャを宣長はなぜ行ったか。その理由ははっきりしています。つまり、アマテラスがその孫であるニニギを宮崎県に「天孫降臨」させなければ、神武をその直系にすることができなかった。神武は「日向の国から出発したのだ」ということは、はっきり書いてあるからです。宮崎県出発であったことはまちがいありません。なのに「天孫降臨」が福岡県であれば、神武はわたしが解釈したように傍系にならざるをえないのです。それは本居宣長には耐えがたいことでした。実は宣長の国学というのは文献的な実証以前に、天皇家の神聖さを証明するための学問だったわけです。だからそれに合うように文献を読みかえることは誤りでないと、宣長には思えたのです。だから、これは一種の宗教学みたいなものです。宣長以前には福岡県の筑紫と考えた学者もいたようですが、宣長が新しい解釈を示した。その宣長の弟子のまた弟子が彼の説の立場でずっと解釈した。明治の教部省も、その系列です。だから明治以後、学校教育にも、「天孫降臨」は宮崎県高千穂の方だという常識がまかり通るようになってしまった。敗戦後も、地理認識としては、そのままだった。しかしそれがさき程申し上げてきましたように大きな誤りであるということがわかってきたのです。文献解読と同時にそういう考古学的な裏づけ、それが宣長らには考古学的な裏づけがまったく欠落していたということがここに証明されたわけです。宣長らの文献解読は、やはり事実に反していたということです。
 これらのことにもっと早く気がつけば、安本さんとの討論の時に、もっと言えたのになあと思った次第です。ところが、これは安本さんとわたしの論議がどうか、どちらがただしいかを決定するだけのものではなかった。津田左右吉を受けついだ戦後の歴史学、また教科書において、「神話というものは、六世紀から八世紀の天皇家の史官が勝手につくったものである。歴史的事実とは関係がない」という考え方が、まったくまちがっているということを証明する論証である。これが六世紀から八世紀につくられたものなら、考古学的出土物の分布との一致をどう考えるのか。わたしは『古事記』の文面を真正直に解読をしたわけです。その結果、「高千穂の西に代々の、三種の神器セットの陵墓がある」という、分布上の事実にぶつかったわけです。『古事記』『日本書紀』に書かれている「天孫降臨」関連の記述が、実は津田左右吉が言ったような、現在の教科書の採用しているような、嘘・偽りのものではなくて、やはり歴史事実そのものを反映する話であった、そういうことが証明されたことになったわけです。考えてみると、今さらこんなことに時間を費やして興奮しているというのもおかしな話でして、本当は情けない話であります。一方で「高千穂の山の西に・・・」という『古事記』も読んできている、他方で三雲・井原・平原の弥生遺跡のこともさんざん読んで触れている。しかし、その両者が対応して「戦後史学はついに学問的に成立できない、津田左右吉の立場は成立できない。」というこの論証。またいわゆる皇国史観の、あのもとになった「本居宣長などの一連の読解もダメだ。」という論証になっていたのを知らずに来たのです。さっきの「大化問題」と同じように、ずっと気がつかずにいたことに、わたしはむしろ唖然とした。しかし、やはりこれは貴重な論証である。
 だから、いぜんとして「津田左右吉の論証」が正しい、という人は、いまわたしの言った論証が、どこがどうまちがっているかを明らかにしなければならない。そして本居宣長のあの説ーー 観光名所地にもなっているようですが ーー宮崎・鹿児島説が正しいといまだに主張する人は、やはり、いまわたしのいった論証のどこがどうまちがっているかを明らかにしないといけない。こういう、ひじょうに重要な、自分の説に自信を持って伝えるのは自由ですが、しかしその人が誠実に学問を進めているかどうかが判定される、ことは重大な論証であると、わたしには感じられるものです。

『二中歴』の成立問題

 いま申し上げましたふたつの問題、「大化年号」と「天孫降臨の論証」の間題、このふたつは、この後にあらわれた論証の前提になっていたわけです、これは『二中歴』についての問題です。『二中歴』は平安の中期末、堀河天皇の時、あるいはその次の代あたりに成立した本であるとわたしは思います。なぜかというと、この全体の中にいろんなものから文献を引用しているのですが、その合い間に、「今案ずるに」という形で、くり返し、その編者自身の意見が書かれております。残念ながら編者の名前はわかっていませんが「今案ずるに」という形で自分の意見を挿入しているのです。これが全体で百近くあります。この中のひとつに、この冒頭部の「人代歴」のところで、神武天皇から現在の堀河天皇のところまで、「千七百五十九年」たっていると、年代計算をしているところがあります。「今案ずるに・・・」という中で計算をしているわけてす。とすると、今というのは、ーー 堀河天皇の次の段階だから、前の天皇までと計算したと考えても良いのですが、 ーーほぼ、堀河天皇(一〇八六〜一一〇七)の段階を指している、というふうに理解できます。その点が、この『二中歴』というのは、平安中期の成立であると、わたしが言った論証です。
 これについて、この『二中歴」の現在の一番古い写本があるのは「前田尊経閣文庫」です。東京の駒場のところにあり、東大の教養部のそばにあります。前田百万石が持っていた書物のようで、ひじょうに良い史料をたくさん持っている私立の図書館です。そこにある『二中歴』は鎌倉時代の成立、その頃書写されたものであります。貴重な史料ですので、全文がコロタイプ版でできており、その解読では、これを鎌倉時代の書写だということと、この本は、鎌倉初期に成立した、ということが述べてあります。といいますのは、鎌倉初期の順徳天皇(一二一〇〜一二二一)を「当今」、近衛家實を「當時殿」と呼んでいる、等いくつかの理由をあげている。これは誤りではないが、十分ではないと、わたしには思われます。なぜかと言うと、これは、さきほど言いましたように、やはり「今案ずるに」という編纂者自身の文で、その中に、堀河天皇を今として計算しているわけですが、そこでこの本は、編集が成立したということになります。これは「書き継ぎ文書」です。つぎつぎと、つぎの人が書き足していくわけです。そして、今の鎌倉初期の天皇を「当今」と呼んでいるのは、鎌倉初期に書き足した部分の文章です。親驚を探究した時も、ひじょうによく似た問題が出てきまして、「今上(きんじょう)問題」というものにとり組んで「今上(きんじょう)」という言葉を平安、鎌倉期の記事をぜんぶ抜いて、抜いて、抜きまくった経験があった。そういう経験からしても、この「当今」が出てくるから、ここが成立時期と考えた、コロタイプ版の解説は、十分ではなかったようです。

図1 二中歴図版

(参考)
二中歴  年代暦  (付西暦年数)

年始五百六十九年内丗拾九年無号不記干支其
間結縄刻木以成政

継体  五 元丁酉 五一七〜五二一    善記  四 元壬寅 五二二〜五二五
                     (同三年発誰成始文善記以前武烈即位)

正和  五 元丙午 五二六〜五三〇    教倒  五 元辛亥 五三一〜五三五
                     (舞遊始)

僧聴  五 元丙辰 五三六〜五四〇    明要 十一 元辛酉 五四一〜五五一
                     (文書始出来結縄刻木止了)

貴楽  二 元壬申 五五二〜五五三    法清  四 元甲戌 五五四〜五五七
                     (法文〃唐渡僧善知傳)

兄弟  六 戊寅  五五八〜五五八    蔵和  五 己卯  五五九〜五六三
                     (此年老人死)

師安  一 甲申  五六四〜五六四    和僧  五 乙酉  五六五〜五六九
                     (此年法師始成)

金光  六 庚寅  五七〇〜五七五    賢称  五 丙申  五七六〜五八〇

鏡當  四 辛丑  五八一〜五八四    勝照  四 乙巳  五八五〜五八八
(新羅人来従筑紫至播磨焼之)

端政  五 己酉  五八九〜五九三    告貴  七 甲寅  五九四〜六〇〇
(自唐法華経始渡)

願転  四 辛酉  六〇一〜六〇四    光元  六 乙丑  六〇五〜六一〇

定居  七 辛未  六一一〜六一七    倭京  五 戊寅  六一八〜六二二
(注文五十具従唐渡)           (二年難波天王寺聖徳造)

仁王 十二 癸未  六二三〜六三四    僧要  五 乙未  六三五〜六三九
(自唐仁王経渡仁王会始)         (自唐一切経三千余巻渡)

命長  七 庚子  六四〇〜六四六    常色  五 丁未  六四七〜六五一

白雉  九 壬子  六五二〜六六〇    白鳳 二三 辛酉  六六一〜六八三
(国々最勝会始行之)           (対馬採銀観世音寺東院造)

朱雀  二 甲申  六八四〜六八五    朱鳥  九 丙戌  六八六〜六九四
(兵乱海賊始起又安居始行)        (仟陌町収始又方始)

大化  六 乙未  六九五〜七〇〇

覧初要集皇極天皇四年為大化元年(六四五)

     己上百八十四年々号丗一代(欠)記年号只人傳言
     自大宝始立年号而己

翻刻追文 飯田満麿
監修校訂 古賀達也
平成十四年五月二二日


「九州年号」

 さて、この『二中歴』の中に問題の「九州年号」が出てきます。丸山晋司さんが『季節』の第十二号に掲載の論文「『二中歴』に見る古代年号」で表示された年号関係の古写本には、室町から江戸時代にかけて成立したものが多いのです。これに対して、平安時代の成立となると、この『二中歴』が唯一の古文献となるわけです。(古写本としては、鎌倉末期の成立)。
 これに対して、まず問題をクローズアップされた方が、所功(ところ・いさお)さんという方であることを、わたしは忘れてはならないと思っております。この方は名古屋大学の国史学を出られ、それから神宮皇学館大学の助教授になられ、それから、現在は京都産業大学の教授になっておられます。この方は、『季刊邪馬台国』(第十八号)、安本美典さん編集の雑誌ですが、そこで「古田武彦説を批判する」という特集がありましたが、その中にかなり長い分量の論文を書かれて、古田の言う「九州年号」というのは駄目だ、とんでもない偽物である、という主旨の論文を書かれたわけです。
 その論拠にされたのが、この『二中歴』でした。さすがに、やはり、「九州年号」の載った一番古い写本である『二中歴』をクローズアップして議論されました。そこで取り上げた内容は、ここで詳しく申し上げる必要はないのですが、ポイントを述べさせていただくと、例えば、古田は「九州年号」が実在した証拠として、「九州年号」が始まった年が、近畿天皇家の天皇の即位年代と一致しない、三十いくつの中で、一致するのは二つだけ、あとは全部一致しない、こういうところから見ると、これは「天皇家の中で、天皇家のために作られた年号」とは思われない、ということを論じている。
 ところが、実はそうではない。なぜかと言えば『二中歴』の成立年代から見て、「九州年号」は南北朝時代におそらく作られたものであろう。南北朝の頃は、天皇の即位と年号の成立とが一致しない例が必ずしも珍しくない。その時代にこのような偽物がつくられたのだろう、という議論を書かれたわけです。あるいは、わたしが神武天皇から年号を「偽作」するのならわかるが、六世紀前半のなかばくらいのところ、継体天皇の十六年(五二二)頃から、いきなり年号を“偽作しはじめる”というのはおかしい。さらに、こんどは僧聴(五三六ーー六年)という、『日本書紀」にかかれた仏教伝来(五五二)という最初の記事より、十六年古く、仏教を背景にした年号が浮かびあがった。これも「後代偽作」とすれば、ありえないことだ。
 わたしのあげた、これらの点に対して、所氏は批判された。第一に『扶桑略記』の中に、司馬達人が大和の坂田原で草堂を作った、という記事があり、その本尊として小さな仏像を安置した、という記事がある。この年代が「九州年号」の始まりと言われている「善記元年」(五二二)つまり、継体十六年にあたっている。だから、これをもとにして作ったのであろう、ということを議論されました。これに対して、さきほど申しました丸山晋司さんがこれを批判する論文を、先にあげた『季節』(エスエル出版会)第十二号という雑誌ーー わたしの特集号を組んでいただいたのてすが ーーそこに長い論文を載せて、所さんを批判されました。その基本が、ようするに所さんはまちがっている。所さんは「鎌倉末期書写」と書くべきところを、「鎌倉末期成立」と誤解された。そして「鎌倉末期成立」なら南北朝に、と考えてもいいだろうということで議論している。ところがこのコロタイプ版の解説でわかるように、鎌倉初期の成立である。これはもう所さんとしてはひじょうに反論ができにくい点、事実問題なのです。丸山さんも指摘しておられますが、所さんが見られたのは、和田英松『本朝書籍目録考證』(一九三六)といった書誌解説書みたいな本を見られたのでしょう。そこに「鎌倉末」と書いてあったのを、書いた方の著者は「鎌倉末の書写」という意味で書いたのを、所さんは「鎌倉末成立」と誤解されたのです。そこでわたしに対する批判を行うにあたって、ひじょうに初歩的なミスを犯されたらしい。この点も、丸山さんがするどく指摘して批判されたわけですから、所さんとしては全面的に「わたしのミスでした」と言うほかにないのではないか、と、わたしは拝見して、そう感じました。そのように、丸山さんのひじょうにすぐれた「年号論」がございました。
 ところが、それに続いて丸山さんが「附論」として、『二中歴』の中の九州年号の、その最初に、非常に不思議な文章があることに注目されました。所さんはこれについて、「自分にはよくわからないからパスする」と、こう言ってふれられなかったのですが、丸山さんはこれに対して執拗に食いさがられたわけです。“執拗に”とは、もちろん良い意味でです。『二中歴』の本文に「年代歴」とあります中に、二行の文章があります。

  年始五百六十九年内卅九年無号不記支干其
  間結縄刻木以成政

 読みーー
  年始、五百六十九年。内三十九年、号無く支干を記さず。
  其間結縄刻木、以って政を成す。

 そういう文章があるのです。丸山さんはこれに対していろいろ考えられた結果、こういう解釈を行いました。つまり、「九州年号」の始まりが五一七年である、内三十九とあるから、そこから三十九を引くと、四七八という数が出てきます。これを、この著者が「年始」“年の始まり”ととかんがえた。五世紀の終わり近くの四七八年を年始と考えたわけです。ところが、そこから「五百六十九足す四百七十八」は「一〇四七」という、十一世紀半ばになりますが、この時に、この文章は書かれたのだ、平安朝の十一世紀半ばに書かれたのだと、こういう解釈をされたのです。
 この結論自身は、わたしがさきほど申しましたように、「今案ずるに・・・」というところから理解した点からしても、大きくズレてはいないわけで、べつにこの「結論」を、“そんなことはない”と否定するつもりはありませんが、つまりこの『二中歴』が平安時代の半ば頃に書かれたという話自体には反対ではないのですが、しかしこの「計算方法」については、わたしはどうも違うのではないか、という感想を持ったわけです。なぜかと言うと、まず、「年始」という言葉自身が“五世紀の終わり”というのは、言葉としても、ふさわしくないような感じがしました。それは感じに過ぎません。もっとはっきりしている問題は、その三十九年間は年号が無いというかたちで、丸山さんは表に現わしておられますが、この文章ではそれだけではありません。「年号は無く、かつ干支も記さない。」つまり「干支(えと)を書かない」と、こう言っているのです。まあ、程よく解釈すれば、“干支は知っていたけれども、わざと書きませんよ”という意味にもとれないことはないのですが、これは自然ではありません。要するに「干支も知らなかったから、干支もまだ書いていない」と、つまり“中国の「干支文化」にまだ接触していなかった”と、こういう意味の文章だと、わたしは思うのです。
 ところが、これが今の五世紀の終わりから六世紀の始めにかけて、年号というのは、もちろん「倭国の年号」であり、「中国の年号」ではありませんから、「九州王朝の年号」ですから、これが無いのは当然としても、干支を知らないとか、知っていても書かないとか、というようなことはちょっと理解できません。なぜかと言えば、皆さまご存知の埼玉の稲荷山の鉄剣に書いてある干支(辛亥)は、もう五世紀の終りのものですから。大陸に近い九州で、まだ干支を知っていない、とはちょっと考えられない(近畿でも同じ)。さらに、こんどは「倭の五王」、これをわたしは「九州王朝の王」と考えているのですが、この「倭の五王」のあのみごとな漢文が書かれているのが五世紀の終りですから、あれだけみごとな漢文を中国に送って、しかも干支を知らないとか、知っていても書かないということは、わたしには理解できない。また、「結縄刻木」という点について、「其間」というのは三九年間のことです。「結縄刻木、もって政を成す」これはいかにも「政治の中心に結縄刻木があった」という感じの文章です。政治のわき道に結縄刻木も残っていました、という文面ではない。やはり文章というのは解釈と同時に、文章の持つ勢い、ニュアンスが大事だと思うのですが、この文章の勢いからすると、やはり政治の根本に「結縄刻木の制度」があったと、こういう感じの文章にわたしには読めるのです。それが“五世紀の終りから六世紀の始め”というのでは、少し時間がズレているのではないか。やはり、もっと古い縄文なり弥生時代、そういう時間帯ならわかるのですが、五世紀終りから六世紀始めでは、おかしいのじゃないか。わたしはそのように理解したわけです。
 そこでわたしなりにもう一回読んでみました。つまり、五六九年というのは次に表われる「九州年号」の始まり、五一七年(継体元年)これをさかのぼる五六九年前が「年始」である、こういう意味なのです。この年始から九州年号開始まで五六九年経ったということですね、この年号ができるまで。だから、計算で言うと五六九、マイナス・五一七、つまり「紀元前五二年」、これが「年始」である。年始というのはその国の始まりの年である。言いかえると、「九州年号」の話ですから「九州王朝」の建国時点である。これをまた言いかえますと、「九州王朝」はいかにして始まったかというと、アマテル(アマテラスオホミカミ)がニニギを筑紫に派遣して、そこで「九州王朝」を建て、筑紫の王朝は始まったのです。つまり、「天孫降臨」の時点である。
 「天孫降臨」は実在の事件です。筑紫のクシフルタケに壱岐・対馬からやってきた。そのアマテルたちの勢力の拠点は、壱岐・対馬の海人族だと思われます。この海人族が大陸からの武器を手にして、船という、当時もっとも大量の運搬具をあやつって、つまり最強の軍事力を持ちえたために、今までは中心権力者だったオオクニヌシに対し、主権の譲渡を「強制」し、それに成功した。そしてこの縄文水田・弥生水田として、日本列島で稲作のもっとも豊穰な筑紫を狙ったわけです。「国譲り」で狙った目的は菜畑・板付の縄文・弥生水田であった。というのがわたしの理解です。そこで「九州王朝」は始まった。それが実は「紀元前五二年」であった。これは東京の立川のカルチャーに行っている方に話をしたらご注意がありまして、「前五三年」かもしれない、紀元0年がないのでとのこと。そういう問題はあるとしても一応単純計算で、五六九年引く五一七年で、紀元前五二年といたします。それから三九年たったところ、つまり五二年引く三九年のところ、「紀元前一三年」この時まで年号は当然ありません。年号は五一七年に至るまで無いのですから、しかも中国の干支すら筑紫に伝わってきていなかった。この時間帯ならわたしは不思議はないと思います。紀元前の時間帯ですから。ところが、言いかえると、この紀元前一三年から中国の干支を採用し始めた。つまり干支を採用するということは中国の文明を知ったことを意味します。単に知っただけではなく、中国の暦計算に時間を合わせるということになります。つまり中国文明の圏内に入った、といいますか、そういうことの表現なのです。それが紀元前一三年からであるということです。
 その次にある計算は、わたしがかってに考えた計算ですが、「十三年プラス五七年」この五七とは何かというと、後漢の光武帝の建武中元二年です。金印授与の年。そこまで何年たっているか、がわかるのがこの計算です。ちょうど七〇年になります。と言うと、つまり干支を採用した時点で中国文明と同じ暦の中に入って、ちょうど七〇年たった時点で志賀島の金印が付与された。わたしは思うのですが、金印をくれるということは、こちらが使いを送った、始めて送った。アッそれでは金印をあげよう、と、そんなことはまずありえません。そんなに簡単に金印をあげておれば、東アジアは金印だらけになってしまいます。東アジアで中国以外の国で金印が出てきている例はごくわずかです。そんなものではなく、やはり金印をくれるということは、それ以前に、その国とかなり長い国交史があり、交流の歴史があって、その結果、中国側からみてその国はどこにあり、どんな国か、そしていま使いを送ってくれる連中は、その同じ種族の中でどれくらいの支配力を持っているか、しかも安定した支配権を持っているか、という認識が十二分に成立して、はじめて金印を与えるという行為があるのです。もちろん中国側の事情もあるでしょうが、少なくともそのような前提が無ければ金印はそう簡単には与えられません。このように考えるのが筋だとわたしは思うのですが、どうでございましょう。常識から見て、あの金印を与えるまでに中国と倭国との間にかなり長い「国交史」が前提として存在した、といえると思います。ところが、この、いまの計算によると、まさにその通りで「七〇年の前史」があった。そして金印が付与された、ということですから、ひじょうに話として筋が通っているのではないかと思います。直接ではないのですが、間接に志賀島の金印という出土物、しかもあれは九州から出たものですが、筑紫から出たのですが、その出土物と、この計算とは、対応しているのです。
 ということで、十分ではないけれども、出土物との対応もおかしくない、またいまの、ここの三九年間だったら、“この時間帯には年号も無いし干支も使われていなかった建国いらい三九年間は。”という記載として理解できるわけです。ところが干支も書いていないのにどうして三九年というのがわかったのか、ということが問題になるということを、この執筆者は知っておりまして、実は「倭国」側に、つまり「九州王朝」側に、暦を数える手段があったのだ、と。それは「結縄刻木」、“縄を結び木に刻む”と『隋書』イ妥国(たいこく)伝に書いてある記事、倭国は中国から暦が入るまでは、結縄刻木を行っていた、という記事と対応しているわけです。まさにその通りに「結縄刻木」をやっていたのです。それによって「三九年」というのが明らかにわかっていたわけです。この場合、皆さんがすぐ頭にえがかれるのは、この「結縄刻木」は当然ながら「二倍年暦」によるものであるということです。だから三九年とかいてあるが、「二倍暦」では「七八年」となるであろう、ということも、すぐ頭に浮かんでくることです。ともかく、そういう「結縄刻木」という暦法の倭国の中に、「干支」が入ってきた。中国風の太陰暦によるもの、それと並立し始めたのが紀元前十三年頃のことである、と、そう言っているのです。
 以上のように、わたしは理解をしました。もちろん、これはわたしの解読の「仮説」ですから、これが絶対に正しいということは言えません。志賀島の金印と対応が納得できるという程度です。これが絶対に正しいのだ、ということは、今後に委ねないといけませんが、わたしとしては、少なくとも、この文章の解読として納得できるものは、これです。歴史的な状況とも、バランスよく対応している解読だと思われています。「天孫降臨」が史実である、という論証に四月にぶつかった、そして八月にはその「天孫降臨」の絶対年代を明らかにするという史料に逢う、という、望外の幸運にめぐまれたわけでございます。

九州側の年号論

 さて、その次にもうひとつおもしろいテーマがございます。これは「九州年号」について書かれている最後のぺージ、そこに「大化」が出てきます。「九州」の最後は「大化」、もちろん「朱鳥」もその前の下の段にあり、「白雉」も上の段の最後から三つ目に出てきます。「大化」・「白雉」・「朱鳥」というのが並んで出ています。その次にまた二行あり、それを正確に読んでみると、

巳上百八十四年々号卅一代□年号只有人傳言
自大宝始立年号而巳
「以上百八十四年、年号三十一代、読めない字があって、年号ただ人有りて傳え、大宝より始めて年号を立つと言うのみ。」

 これが正確な読みであろう、とわたしは思います。この部分、実はさきほどの所功さんが論じられまして、「・・・ただ人有りて傳言するのみ。大宝より始めて年号を立つるのみ。」と読まれ、そこをクローズアップされて、「大化」以前は、この「九州年号」はただ人がうわさで言っているだけだ、こんなものは信用できないと、こう書いてあるではないか。それを古田が信用するのはおかしいではないか、というかたちで論じられたのです。
 わたしは『古代は輝いていた』(朝日新聞社)の第三巻のところでこれを論じ、「所さんはそう言っているが、逆にこれから見ると、これを書いた人が勝手に作ったものではなく、それ以前からこういう傳承・傳来があったことを示しているのではないか、だから簡単に軽視するのはおかしいのではないか」というかたちで反論をしたわけです。
 ところが、今になってみますと、これは所さんの文章解釈にのっかって反論したわけで、実は、二人ともまちがっていた、つまり基本的な文章解読がまちがっていた、ということに気がつきました。つまり「ただ」という言葉が最後の「のみ」という言葉と呼応する、熟語形である。「ただ〜のみ」という文型なのです。
 この場合、「ただ〜のみ」の間の内容を、書いた、その人は信用していない。「ただこんなことを言っているだけのことだ」と、いう形の文型です。“近畿から九州へやってきた官僚”でしょう。名前はわかっているのでしょうが、それを遠慮して「人有りて」という表現にしてます。「傳え」という表現も、この人独特の用法で、“A地点からB地点へある考え方をもっていく”“品物を持っていく”という意味で、この人はこの表現を使っています。その人が傳えてどういうことを言うかというと「大宝」から始めて年号はできたのだ、それ以前は年号というものは無かったのだ。こういうことを彼はよそ(大和)から九州の地にやってきて言っている、と、しかし“彼がそんなことを言っているだけなのだ。われわれにはちゃんと巳上百八十四年間、三一代にわたる年号が確かにあったのだ。”と語っているのです。だから最初に書いた ーー「巳上百八十四年々号卅一代」というのは、この大和から来た偉そぶった人の言い草に対し、「事実」を以って行う反論になっているのです。
 ここで、実は、この二行の文章、さらにはさきほど言いました、“年始云々から始まる「九州年号」を含む文章がかかれた、”その全体の成立時点が判明するのです。なぜかというと、まず「大宝」という言葉が書かれていますので、まず「七〇一年以後」に書かれた文章であることはまちがいありません。大宝元年が七〇一年ですから、この「七〇一年以後」でないとこのような文章は書けません。同時に、この人も、またこの人が反感をもった大和の官僚か、と思われる或る人の言葉からしても、(この人も官僚も)両者ともに『日本書紀』を読んでいないのです。なぜかというと『日本書紀』を読んでおれば、さっき言いましたように、「『大宝』から年号は始まった」などと言えるはずがないのです。なぜなら「大宝」の前に三つ年号が書いてあるのですから・・・。「大化」あり、「白雉」あり、「朱鳥」ありですから。だからこのよそから来た官僚は“まだ『日本書紀」の内容を見ていない”のです。またそれを聞いている方も当然そのかたちで理解している。ということは何かと言うと、この文章は七二〇年以前に書かれた、例の『日本書紀」成立の「七二〇年以前」に書かれた文章である、ということです。
 これはまさに一年前にわたしが丸山晋司さんや藤田友治さんのおかげで、幸いにも長年の懸案を解消することができまして、まさに晴れて「『大化』『白雉』『朱鳥』ともに『九州年号』から盗用した」ということがわかったのです。
 これらの年号は近畿天皇家の年号ではなかったわけです。『日本書紀』をつくるときに『日本書紀』という一大偽書を作るさいに、実在の「九州年号」表を横において、そこから一・二つだけ抜いた。一つだけであれば何かまちがっている、と思われるが、三つも共通しておればかえって言いにくくなります。「三つを抜いて使う」という、例の手法がここにも行われたわけです。逆に言うと、年来の宿題を解決していたからこそ、この文章を見たとき、わたしはすっきりと理解できた、ということになるわけです。さらに『日本書紀』の「三つの飛び入り年号」はやはり「七二〇年以前」には、近畿の人にもそう考えられていなかったし、まして近畿から九州へ来た官僚も、そういう理解はしていなかった、ということがわかるのです。
 以上のことで、一年前の障害物の撤去ということが、今年の八月四日の、この発見にとって、大きな「前提条件」となっていたことを知ったわけです。ですから、この文章は『日本書紀』より早く書かれた文章である、八世紀始めに書かれた文章である、それも「九州王朝」の筑紫の現地で書かれた文章である。それを『二中歴』が「年代歴」の先頭に採用していたということがわかってきたのです。今まで「天孫降臨」について九州王朝側で書かれた文章が、 ーーもちろん神代の巻の一書がそうである、とわたしは理解していたのですが、他にも無いかと思い続けてきたのですが、計らずもそれが見出された。しかも「九州王朝」の始まりと「天孫降臨」時点の年時を含むかたちで、それが表わされていたわけです。

「九州年号」の始まり

 なお、第三番目に問題とすべきところは、この「九州年号」なるものは、さきほど言いましたように、「白雉」「朱鳥」「大化」という年号を含んでいると同時に、大きな特色として、一番最初が違うのです。つまり、継体五年から始まっており、その次に善記四年と記載されたかたちで記述されているのです。今までわたしが『失われた九州王朝』や『古代は輝いていた』第三巻に書いたものでは「善記」ないし「善化」というのが最初になっています。その点は丸山晋司さんが多く集められ、室町から江戸時代にかけての異年号、倭国年号の史料群ーー 丸山さんは「古代年号」という言い方をされていますが、 ーーこの史料群でも同じく「善記」「善化」で始まっているわけです。
 ところが、この『二中歴』では、そうではないのです。「継体」から始まっています。しかも「継体」というのはここで見るかぎり「天皇名」ではないわけです。「年号名」であり、「五年間」だけなのです。継体天皇即位(五〇七)は、五一七年から十年前に属しているわけです。その後の五年間だけを「継体」という年号でかいてあるという、ひじょうに奇妙なすがたを示しています。
 わたしはこの問題をこういうふうに考えてみました。つまり、これはA型の「九州年号」のタイプである。数が圧倒的に多いB型、つまり「善記」ないし「善化」から始まる、こういうものをB型と考えることにします。すると、どちらがより古い形であるのか、どちらが改ざん形であるのか、書き足したのか、書き消したのか、こう考えてみました。
 この場合だいじなことは、神武・綏靖・安寧・懿徳という「漢風諡号」は八世紀の終りか九世紀の終りくらいにまとめて作られたものと言われています。つまり、これは後で作られたものなのです。これは『日本書紀』などを見ても、八世紀段階(断簡類)には神武や綏靖はでてきません。カムヤマトイワレヒコの系統はでてきます。ところが九世紀以後(写本)のところに、神武・綏靖系統の言葉がでてくるのです。誰が作ったかについては異論があるかもしれないが、とにかく、あれが“後になって作りだされた”ということは、誰も疑ってないわけです。だから古い話を考える場合この「漢風諡号」という話はいちおう横において、保留して考える必要があります。そうしてみると、この形式から見て「継体」は年号である、と、見ざるをえない。
 さて、もしB型の方をより古い形で、A型は改ざん形である。多数と小数で多数の方が正しいのだという結果で考えてみるとどうなるのか。これはB型に「継体」という年号を後で五年間だけ前に作り加えたのだということになります。そんなことがあり得るのだろうか。この場合、後でこういうことは継体天皇の存在、「漢風諡号」を知った時代だと思うのですが、その後に継体天皇の存在を知っていながら天皇名と同じ年号を五年間だけ、それも二十四年間(五〇七〜五三一)ならまだしも五年間だけ年号名として作り加える、ということは、わたしには理解しにくい。そんなことをして何になるのかと理解することができないのです。このケースはありにくいのではないかということになります。
 ではその逆のケースはどうか。A型が本来の形だが、それを見た後世の人、その人は「継体天皇」という名前を知っている人が「継体」という年号は変だ、しかもそれが五年間だけというのはどうもおかしいと、カットを行い、そして第二番目にあった「善記」からを年号として書いた。この方が、わたしはありやすいと思うのです。後世の人のやり方として。そういう基本的なわたしの判断からすると、やはりA型が本来の形である、そしてB型が改ざん形であるという判断に到達せざるをえません。この判断がおかしいというならば、いまわたしが言った論理的な判断が、どこでどうまちがっているのか、それをはっきり示してもらえば、もちろんこれにこだわる必要はありませんが、わたしにはそうとしか考えることができません。
 これにはあと二つ理由があります。もうひとつは、本来はいちばん最初にお話しすべき、大事な点ですが、史料自身、『二中歴』が圧倒的に古いのです。平安の中期末に成立している。他の「多数」とはいいながら、B型の方はずっと後の室町から江戸時代にかけて成立したものです。このようにみますと、やはり古い史料のものを、まず重視すべきである。もちろんその史料の順序が即改ざん型・本来型になっていれば別ですが、新しい方がより古いものを表現しているケースもありうるのですが、その場合は慎重に、まさに「必要にして十分な論証」を的確に行わないといけないわけです。基礎的に言えば、古い段階に成立した史料がいちばん本来型であり、後に出てきた方が改ざん型というのが、いちばん普通のケース、原則です。
 だからこの史料の成立新古という問題がまず、何よりも第一なのです。そして第二が、はじめにのべた論理判断です。第三は『二中歴」を見てわかるように、これは近畿の天皇の名前とぜんぜん「セット」になっていません。
 ところが、実はB型の方は「セット」になっているのです。つまり、“倭国年号では何年、これは誰々天皇の何年にあたるという形。”例えば孝徳天皇の何年とか、持統天皇の何年とか、近畿天皇家の名前とこの倭国年号の名前が「セット」にして使われているのが、室町以後に出てくる写本の圧倒的多数なのです。ところが『二中歴』はまったく「セット」になっていません。近畿天皇家の年号は「大宝」から後でてきますが、「九州年号」の部分はまったく純粋に、近畿の天皇名とは独立に書かれています。しかも下に詳細の資料を記載しており、特に最後の行が示すように、近畿からの官僚だと思いますが、その「『大宝」から年号は始まる」という見方に対して、おもしろい反発を示しています。そういう姿勢がしめされているのです。そういう近畿天皇家側の主張に対して反対である姿と、近畿天皇家を「こみ」にして、年表として便利だから、といった形で使われているものと、どちらが本来の型かと考えると、当然「九州年号」である以上は近畿の天皇とは別個に置かれるべきものです。「こみ」にするのは後世の手で「こみ」にして使っているだけのことです。年表として使っているのです。史料として持っている姿からみると、先に述べたように、A型の方が純粋な本来の姿であり、B型はそれを改ざんしたものでしょう。これはおそらく近畿天皇家の天皇名と「セット」にする上で「継体」という年号が五年間だけ(継体天皇の時代に)入り込んでいるためおかしくなってしまった、ことと、おそらく無関係ではないのではないかと思われます(B型の、多くのケース)。
 とにかく『二中歴』の示す姿の方が純粋である。以上、三つの点から判断し、この『二中歴』の示す「九州年号」が本来の姿を示すものであろうと考えます。だからわたしは『失われた九州王朝』『古代は輝いていた』でしめした「九州年号」の表はここで訂正させていただかないといけないという、思わざる、嬉しい、新しい局面にぶつかる結果となったわけです。

「大化」の刻書土器

 さて、続いてのテーマですが、『二中歴』の「九州年号」の下に小さな字で「注」が付いています。各年号の何年間と書いた後に小さい字で書いてあります。これはみんな「九州王朝」関係のひじょうにおもしろい問題をいろいろと含んでいますが、これをまず話していますとあとのテーマを話す時間が無くなりますのでこれは後にまわして、時間が残れば「注」の問題にふれることにいたします。
 それに対して、ひとつだけ前半の話の補足をさせていただきたい点があります。それはこの「九州年号」とみられる年号を持った土器が出てきております。これは思いがけない場所からですが、関東・茨城県の水海道のそばの岩井市の矢作(やはぎ)、そこの富山さんのお宅に、江戸時代・天保九年に出てきた壷が残されています。八つか九つほど畑から出てきたらしいのですが、その中のひとつに文字が書いてありました。どういう文字が書かれていたかと言うと、書くというより刻まれていたのですが、「大化五(子)年二月十日」という文字が刻まれていました。この現物を拝見しましたが、字ははっきりと見えているのですが、「子(し)」という字は消されているのです。他の字ははっきりしているのに、この字は擦り消してあるのです。
 ひじょうに残念に思ったところ、幸いにもその同じお宅に掛軸があり、それは壼が出てきた天保年間に土地の殿様が珍しいものが出てきたというので家に見に来られ、その時に南海という絵描きを連れて来られて、その南海が書いた軸物が残っていたのです。もちろん殿様の方にも残したでしょうから、あわせて二幅造ったと思われますが、その上三分の一に壷の出てきたいわれが記されているのです。天保九年に出てきた、すばらしい古物であると歌も最後につけた、風雅な文章が書かれています。その真中のところに南海という署名と赤い判が押してあります。そして、下三分の一のところにひじょうに上手な筆致でこの壼がえがかれています。そこには文字が書き込まれておりまして、はっきりと「大化五子年二月十日」と書いてあります。だから擦り消す前が子供の「子」であるということが南海の表記によってはっきりとわかります。この殿様はたいしたものです。絵描きを連れてきたということは、今のカメラマンを同行しているようなものです。
 さらにもうひとつ証拠がありました。同じ茨城県に土浦というところがありますが、そこに色川三中さんという、お醤油屋さんだそうですが、そのご主人が醤油屋さんをずっとやりながら、同時に古代研究をされた。江戸時代には、そういう気運があるのです。本居宣長だって医者でありながら、古事記伝研究をやったのですから。その方が書かれた文章が保存されており今年の四月から始まった土浦市の資料館、そこに保存されています。それをわたしは十分に拝見し、写真に撮らせていただいたのですが、そこに、富山家に行かれて拓本をとり、その拓本を自分の本に貼りつけているのです。さらに、念入りに自分で見取図を書いておられる。いずれも「大化五子年二月十日」となっています。疑いようがないのですね、拓本ですから。カメラの無い時代の最高の手段ですから。そういう偉い研究者が江戸時代におられたのです。
 だから、おそらくこれは明治以後になって何らかの理由で擦り消したと思われます。なぜ擦り消したかというと『日本書紀』に合わないからでしょう。『日本書紀』には、「大化五年、子の年」は無いのです。その近所にも無いのです。だから、これはおかしいというので擦り消したのです。擦り消し犯行自身が、いかに明治以後『日本書紀」に合わないものが「偽書偽作」であるということを前提にしていたか、という、その証拠の資料になると思います。ところが幸いにも、江戸時代の殿様や、江戸時代の学者たちがそれをちゃんと画や拓本にとっておいてくれたので、それは「完全犯行」にはなりえなかったということです。
 なお、わたしにとって幸いだったのは、この茨城県の水戸市に県の歴史館の史料課長をしておられる佐藤次男さんにお逢いしたのですが、この方は考古学者であり、土師器の専門家なのです。だから県で『土師器集成』という本を二冊も出版しておられる。そこに書いてあるのをみまして、お逢いした時、まずこう聞いたものです。そこに出てくるあの壷はわたしには土師器とみえましたが、それは七世紀の土師器とみてまちがいないでしょうか、こうお聞きしました。すると「七世紀の土師器という言い方は問題ありません、その通りです。」と即答されました。その次にもう少し詳しくお聞きしますが、「七世紀の半ばと、七世紀の終り頃に分けてどっちに近いのでしょうか。」と、こう聞いたのです。「そういうふうに半ばと終わりに分けるのでしたら、それは七世紀の終りか八世紀の始めです。」こういうご返事でした。「あ、そうですか。」とわたし。 ーーそこまでわたしは何の注釈もしておらず、いきなりご挨拶した後にそういう質問をしたわけです。
 それからさきほどの話を、いっしょうけんめいお話したのです。するとひじょうに喜ばれました。この土師器はどうみても七世紀終りから八世紀の始めのものとしてしかみえないのに、「大化」とでてくるし、干支も関係がないし、これはおかしいと今までもう十年ぐらいずっと思っていらしたようです。「いろいろ書いて、偽作と書いてみたりもしましたが、それでわかりました。」とひじょうにスッキリしたお顔でした。それからわたしが見せていただきたい資料を次々と出して、協力して下さいました。ようするに、この壼は七世紀終りから八世紀始めの土師器であると、そこに「大化五子年・・・」とあると。これも、実は「一年の誤差」問題がからむようですが、これはまた改めてのテーマにして、ともかく『日本書紀』の「大化」ではない大化です。
 宇治橋断碑の場合は『日本書紀』に合致した「大化」でしたが『日本書紀』に合わず、むしろ「九州年号」の「大化」とあう時間帯の「大化」が土師器に刻まれた文字として残っていた。従来これは、「偽作」とさえ扱われていた。こういうものを見てまいりましたので、お話しさせていただきました。このようなものは、他でもこれから出てくるものと思われます。『日本書紀」に合わないから「偽作」だと言われて、みんなの、人前には出せない、というかたちで存在するものが、他にもまだあるのではないでしょうか。
(拍手)


『市民の古代』第11集

九州年号総覧

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