富永長三
「其国本亦以男子爲王、住七八十年、倭国亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大無夫壻、有男弟佐治国。」
これは、どなたも御存知の『三国志』魏志倭人伝、卑弥呼登場の一節だが、ここで使用されている「男弟」、という用語は有名なわりにはその意味について深く追求された形跡を知らない。通常、「おとうと」の意とされているようである。しかし、それならば何故他に使用されていないのであろうか。『三国志』では、おとうとの意には少数の昆弟、少弟等をのぞいてはほとんどが弟であり、男弟は使われていないようである。男弟に特別な意味があるからではないだろうか。考えてみたい。
さて『史記』巻五、秦本紀第五、に次のような文がある。
「荘公居其故西犬丘、生子三人、其長男世父。世父曰・・・戎殺我大父仲、我非殺戎王則不敢入邑。・・・遂將撃戎、譲其弟襄公。襄公爲太子。將公立四十四年、卒、太子襄公元年、以女弟繆贏*爲豊王妻。」
贏*は、貝の代わりに女 JIS第4水準ユニコード5B34
ここでは「女弟」が使用されている。さきほどの男弟と女弟を並べてみると、この二つは対応した用法であることが窺われる。
『諸橋大漢和』によれば、
男弟 弟をいう。(漢書、衞青法)
子夫男弟歩廣、皆冒二衞氏一。
女弟妹、女妹(説文)妹、女弟也。
とあり、女弟についてはさらにいくつかの用例を載せている。しかし、この説明では男弟について、弟の意、以上にはわからない。
『漢書』巻五十五、衞青霍去病伝第二十五を見ると以下のようである。
「青有同母兄衞長君及姉子夫、子夫自平陽公主家得幸武帝、故青冒姓爲衞氏。衞媼長女君孺、次女少兒、次女則子夫、子夫男弟歩廣、皆冒衞氏。」
衞青とは子夫の弟であり、霍去病とは子夫の姉の少見の子兒である。二人共、武帝の下で旬奴との戦いに勇名を馳せた将軍である。そして子夫とは、皇后に子が無い武帝に愛され男子を生み、元朔元年に皇后になった女性である。そこで先の倭人伝の卑弥呼の例と並べてみよう。
女王、卑弥呼(姉) ーー男弟、
皇后、衞子夫(姉) ーー男弟、歩廣
となる。すると男弟とは、姉、弟、という関係を表わす用語ではないだろうか(女王、皇后、という身分も限定されているのかも知れない。それゆえ多用されないのであろうか)。
するともう一例の男弟が使用されている文章がある。和歌山県にある隅田八幡神社伝来の人物画像鏡の銘文だ。
「・・・癸巳八日、日十大王年、男弟王、意柴沙加宮・・・」
この銘文の解読についてはすでに古田武彦氏が『失われた九州王朝』で詳細に論証されている。「日十大王年」とは、大王の年、日は十日、と時間帯を表わしているのではなく、「日十」和風名称、「年」中国風一字名称、であり、大王の名であること、男弟王とは魏志倭人伝の用法と同じであるとされている。それでは先の二例と並べてみよう。
女王、卑弥呼(姉) ーー男弟
皇后、衞子夫(姉) ーー男弟歩廣
日十大王、年(?) ーー男弟王
となり、(?)には姉、が入ることになろう。日十大王年は、男弟の用例からすれば姉、女王であったのではなかろうか。
それでは次に別の側面から日十大王年、女王説を検証してみよう。
倭国の歴史において、女王が擁立された経緯はどのようであったのであろうか。倭人伝が伝える卑弥呼擁立の場合は、その国は本は男王であったが倭国乱れて相攻伐歴年であったと、そこで女王が擁立されたと記している。また、壹與の場合は、
「卑弥呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴碑百餘人、更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人、復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。」
と記され、壹與の場合も卑彌呼と同じように国中が乱れ、収拾がつかなくなるという危機にあたって女王が擁立された事が知られる。
それでは日十大王年が擁立された時にはどのような危機、あるいは画期が倭国にあったのであろうか。幸い癸巳の年、とは西暦五〇三年であったことが古田氏の先の本で論証されている。五〇三年とはどのような年であったのであろうか。
『宋書』は、高祖永初二(四二一)年「倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」から、順帝昇明二(四七八)年「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬環甲冑、跋渉山川不遑處」の武の遣使まで倭の五王の遣使を伝える。次に『南斉書』は建元元(四七九)年倭王武への鎮東大将軍任命記事を記し、『梁書』は天監元(五〇二)年倭王武を征東将軍への進号記事を伝える。しかし、その後『隋書』倭国伝の記事、「開皇二十年(六〇〇)倭王、姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩鶏彌、遣使詣闕」のあいだ空白となる。日十大王年の擁立から多利思北孤までのおよそ百年、中国正史はなにも伝えない。
一方、丸山晋司氏紹介の『二中歴』によれば、五一七年、継体という年号が最初の年号として記されている(丸山氏は継体年号を後世の誤伝と否定されている)。また、古田武彦氏は『筑後風土記』の分析、岩戸山古墳=磐井の墓、の分析を通して、六世紀倭国に律令が制定、施行されていたと『古代は輝いていたIII』で論証されている。
中国正史における、日十大王年の擁立から百年の空白=遣使の断絶。倭国における年号の創設。律令の判定・施行。以上三点を結び合せた時、見えてくるものは何か。それは中国の笠=冊封体制からの離脱、を意昧してはいまいか。
西晋滅亡によって、倭国が天子と仰ぐ朝廷は大陸の南半に逼塞し、朝鮮半島の楽浪郡、帯方郡は消滅し、その空白を埋めるべく倭国と高句麗の激突が始まった。その後の情勢は「好太王碑文」、あるいは『宋書』にみえる倭王武の上表文等によって窺うことが出来る。そして四七五年、百済の首都、漢城が落城し熊津城への遷都が象徴するようにこの時代高句麗の優位があきらかになってきたようである。そのような時にあたって高句麗との戦いに後盾ともたのむ南朝は、中国統一をはたし得ないばかりか、高句麗と対抗すべく求めた倭国の大義名分である開府儀同三司を否定し、征東大将軍ではなく、征東将軍としてしか遇しない(高句麗王は、開府儀同三司・征東大将軍であった)南朝に倭国は見切りをつけたのではなかろうか。そして、百済、新羅を糾合し、みずからが中心となって新たな東アジアの秩序を創造せんと決意したのではないか。その決意の表われが、女王、日十大王年の擁立であったのであろう。
そしてその延長線上にあるのが『隋書』の記す大業三(六〇七)年多利思北孤の国書、「日出處天子致書日没處天子。無恙」ではなかったか。『隋書』はさらに記す。「新羅、百済皆以イ妥爲大國、多珍物、並故迎之、恒通便往来」と。
女王、年の擁立以来百年、その実績と自信が多利思北孤をしていわしめたのであろう。
そしてその画期は、五〇三年、日十大王年の擁立にあったのではなかろうか。
イ妥(たい)国のイ妥*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO
男弟の用例の検討から日十大王年、が女王であったことを推定し、女王擁立の条件の検討から、五〇三年に倭国は大きな転換点を迎えたと推定してみた。
以上述べてきた観点に立つ時、その後の出来事の一つ一つが別の姿を見せてくれるようである。曰、継体年号の持つ意味、曰、磐井の乱の実体、等々考えてみたい問題はあるが、それらは別の機会に譲って、ひとまず、日十大王年・女王説について諸兄姉の教えを乞いたい。
〈付記〉
(一) 引用漢文は中華書局本に依った。
(二) 『市民の古代』第六集「倭王武の和名とその系譜」で草川英昭氏は人物画像鏡の銘文の年を「武」と読んで日十大王は武であるとしているが、「年」を「武」と読むのは無理と思われる。
(三) 古田武彦氏は『古代は輝いていたIII』で「大王 ーー 男弟王」は「兄(姉)弟統治」とされている。大王年が女性である可能性を示唆されているようである。