『古代に真実を求めて』 第二十集
九州年号「大長」の考察 古賀達也


「九州年号(倭国年号)」が語る

「大和朝廷以前の王朝」

正木裕

一、 日本における紀年法(年号)

 日本では、紀年法として西暦とは別に「元号」が用いられてきた。現在は「一世一元の制」が採用され、天皇の「皇位の継承」があつた場合に限り改元されることになっている。これは一八六八年の「明治改元の詔」で採用され、一九七九年の「元号法」により改めて法制化されたものだ。
 ただ、明治以前は在位中でも天災や疫病、瑞兆等によりしばしば改元されており、こうした「天皇の元号」は、七〇一年に大和朝廷によって「大宝」が建元されて以来、南北朝時代に二系列の元号が並行した時期もあったが、ともかく途切れることなく今日の「平成」まで続いている。

 

二、「大宝建元」以前の年号

 しかし、七〇〇年以前はどうかというと、『日本書紀』には「大化・白雉はくち・朱鳥」の三年号が記されるが、これらは「無年号期間」をはさんだ「不連続」な年号群となっている。
 例えば、大化(六四五~六四九)・白雉(六五〇~六五四)が終わった後には年号の空白期間があり、三十二年後の六八六年七月に朱鳥と「改元」されている(「戊午、改元曰朱鳥元年」)。直前が無年号なのに「改元」というのも奇妙だが、加えて、朱鳥は一年間しか無く、大宝までの十四年間がまたもや無年号となっているのだ。
 一方、『二中歴』(平安末~鎌倉初期)、『如是院年代記』(十六世紀後半)、『帝王編年記』(十四世紀)、『扶桑略記』(皇円著とも。一〇九四)、『和漢年契』(高安蘆屋たかやすろおく著。一七八九)、『日本帝皇年代記』(薩摩入来院家文書。年代不詳)などの我が国の辞典や年代記の類、さらに『海東諸国記』(申叔舟しん しゅくしゅう著。一四七一)、『日本大文典』(ポルトガルの宣教師ジョアン・ロドリゲス著。一六〇四~一六〇八)などの海外資料には、 多少の異同はあるが、「継体」(五一七)あるいは「善記」(五二二)に始まり、「大宝元年」直前の七〇〇年まで連続する年号群が記されている。
 そればかりか、「年号単体」としては、大和朝廷の「正史」である『続日本紀』の聖武天皇の詔報や、平安時代に書かれた法令集『類聚三代格』にも、『書紀』にはない「白鳳・朱雀」という年号が記されている。
◆神亀元年(七二四)十月一日「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。」
◆『類従三代格』「太政官符謹奏」天平九年三月十日(七三七)「白鳳年より、淡海天朝まで(略)」

 

三、「九州年号」と名付けられた古代年号

 これらの年号は江戸時代の国学者鶴峯戊申(つるみね しげのぶ一七八八~一八五九)が、その著『襲国偽潜考そのくにぎせんこう』において、古写本「九州年号」から写したと述べているところから、一般に「九州年号」と呼ばれている。また、『二中歴』では、「九州年号」は大化六年(七〇〇)までで終わり、大和朝廷の年号である「大宝」に続いている。
*表では、近年古賀氏の発掘した七〇一年以降の「大長九年(七一二)」に至るまでの年号を付加している。なお、本誌にはこれに関する古賀氏の論考が掲載されている。

九州年号表

 この中には、『書紀』に記す三年号も含まれるが、「白雉」の前は「大化」ではなく「常色」であり、「白雉」の後は聖武天皇の詔報にある「白鳳・朱雀」と続き、六八六年に「朱鳥」と「改元」され、さらに六九五年の「大化元年」に続く。つまり九州年号であれば『書紀』の「三年号」は連続する年号群にピタリとおさまるのだ。
 こうしたことから、①本来、七〇〇年以前には「九州年号」が用いられていた。②そのうち『書紀』には「三年号」のみが取り込まれ、③「大化・白雉」は六四五年から六五四年の孝徳天皇の時代におさまるように、④「朱鳥」は元年のみ六八六年に挿入されたと推測できよう。そうすれば、「三年号」が不連続なことや『続日本紀』に「白鳳・朱雀」があることがよく説明できるのだ。

 

四、江戸時代以前「九州年号」は一般に認識されていた

 先述の『日本大文典』には、「我が主キリシトのこの世界に出生後五二二年までは、日本人はNengo(年号)と呼ぶものを使はなかった。この年に始めてIenbui(善記)といふのが用ゐられ、それ以後現在まで年号が続いてゐる。」と書かれ、ポルトガル語で年号群が列記されている。また、鎌倉時代の『吾妻鏡(朱雀)』、江戸時代の『玉勝間(教倒)』や『平家物語(金光)』など庶民の間でもよく読まれていた書物にも見え、江戸時代以前は倭国の古代年号として一般にも広く知られていたことが分かる。
 また宗教の分野では、『宇佐八幡文書(善紀・教到・大長)』(大分)、『善光寺文書(貴楽・師安・金光・命長)』(長野)、『開聞故事縁起(白雉・白鳳・大化・大長)』(鹿児島)、『伊予三島縁起(金光・端政・願転(転願)・常色・白雉・白鳳・大長)』(愛媛)ほか全国の有力な寺社の縁起に広く記されている。
 特に、平安時代に遡る聖徳太子の伝記類には、太子の生涯が九州年号を用いて書かれていることが知られており(註1)、寺社に掲げられた「絵伝」には「金光三誕生」などと書かれ、庶民の尊拝するところとなっていた。(*奈良談山神社等)。
 こうした事例は、明治政府が編纂した百科事典『古事類苑』(歳時部四、年號下、逸年號)にも多数収録され、ネット上で公開されており、多くは古田史学の会のホームページ「新・古代学の扉」の九州年号の項にも掲載しているところだ。
 こうした「九州年号」資料は、各地で発掘が進み、最近も兵庫の「赤渕神社縁起(常色・朱雀)」(兵庫県朝来市)や「江の島縁起絵巻(貴楽)」(神奈川県江の島)にも記されていることが確認されている。

 

五、「九州年号」が示す大和朝廷以前の王朝

 「九州年号」について「鎌倉時代の僧侶の偽作」などとする論者もいるようだが、先述の聖武天皇の詔勅や『類聚三代格』を見れば、そうした「偽作説」が成立しないことは明白だ(註2)。また「元号」はその国の主権者(最高権力者)しか建て得ないから、使用例が全国に及ぶことは、「全国に及ぶ権力」の存在を示すものだ。
 そして「元号の継続」は「権力の継続」を示すから、二百年近く九州年号を建て続けた権力・勢力は「王朝」と言えることになる。大和朝廷には、このように連続した元号を建てた記録も資料もないから、「九州年号」は大和朝廷以前の「別王朝」の元号となろう。
 そして中国の史書を見ると、我が国の九州には、紀元五七年に後漢の光武帝から「志賀島の金印」を授かった「委奴ゐど国」(『後漢書』)があり、三世紀の邪馬壹国・俾弥呼は「漢の時朝見する者あり」(『魏志倭人伝』)と書かれるようにその後継国だった。また、『隋書』俀(倭)国伝に見える六世紀末から七世紀初頭の「俀たゐ(倭)国」も、「王の姓は阿毎」「漢の光武の時、使を遣し入朝し、自ら大夫と称す。安帝の時、又遣使朝貢す。これを俀奴国と謂う」「魏より斉、梁に至り、代々中国と相通ず」とされ、さらに同国には「阿蘇山有り」とある。従って、一世紀の「委奴国」から七世紀の「俀(倭)国」まで「九州」を拠点とする「王朝」が連続したことになる。
 そして表のように「九州年号」は「隋(五八一~六一八)」の年代を「まるまる」含んで継続しているから、「九州に存在した王朝」即ち「九州王朝」の年号だということになる。これを初めて明らかにしたのが古田武彦氏で、その卓見には敬服するばかりだ(*『失われた九州王朝』一九七三年朝日新聞社ほか)。

 

六、「九州年号」は「倭国年号」

 さらに古田氏は、『法隆寺の中の九州王朝』(「古代は輝いていたⅢ」一九八五年朝日新聞社ほか)において、

◆「九州年号」とは“九州を都とした権力のもうけた年号”の意であって、“九州だけに用いられた年号”の意ではない。この点からいえば、「倭国年号」の称が一段とふさわしいかもしれぬ。

 と述べている。つまり「九州年号」とは「九州王朝がもうけた、倭国全体で用いられていた年号」だという意味だ。このことは先述の通り全国の寺社の縁起で用いられ、かつ大和朝廷の正史や法令にも見えることからも知られよう。そこで、古田氏の言を借りて、以降はこの年号を「九州年号(倭国年号)」と表記する。
 その後の研究の中で、九州年号(倭国年号)の最も整った資料は『二中歴』にちゅうれきであることも分かってきた。『二中歴』は平安時代に成立した「掌中歴しょうちゅうれき」と「懐中歴かいちゅうれき」をあわせて鎌倉時代に編集された辞典で、九州年号(倭国年号)はその中の「年代歴」にあり、各年号には「細注」が付記され、これは九州王朝の事績の記録と考えられている。

 

七、「年号の交代」は「倭国から日本国」への「王朝の交代」を示す

 『二中歴』では、九州年号(倭国年号)は大化六年(七〇〇)で終わり、七〇一年には大和朝廷の年号である「大宝」が「建元」されるが、「建元」とは言うまでもなく「初めて元号を建てる」という意味だ(*『続日本紀』に「建元為大宝元年」とある)。また律令(大宝律令)が制定され、我が国の地方制度が「評」から「郡」に変わったのも七〇一年であることが藤原宮木簡から確認されている。このことから、「評」は九州王朝の制度、「郡」は大和朝廷の制度と考えることができ、ここでわが国の主権者つまり「王朝の交代」があったことになるのだ。
 『旧唐書』には「倭国伝」と「日本国伝」が別に建てられ、「倭国伝」には「倭国は、古の倭奴国なり」「世、中国と通ず」「其王の姓は阿毎氏」とある。これは先述の通り九州王朝のことを指すから、九州王朝は唐や歴代中国の王朝からは「倭国」と認識されていたことになる。
 一方、「日本国伝」には「長安三年(七〇三)、其の大臣朝臣真人(*粟田真人)来りて方物を貢ぐ」とあり、これは疑いなく大和朝廷のことで、しかも「日本国は、倭国の別種なり」「或いは云う。日本は元小国。倭国の地を併せたり」とあるから、八世紀初頭には大和朝廷(日本国)が九州王朝(倭国)を併合していたことになり、「九州年号(倭国年号)」の終了と大宝建元はまさにこれと軌を一にしているのだ。
 古田氏が「九州年号」を「倭国年号」とすることは、用いられた地域が九州のみならず「倭国全体」だったということだけでなく、国を代表する権力が「倭国から日本国へ」交代したという意味でも、正鵠を得たものと言える。

 

八、九州年号(倭国年号)の完全消滅は九州王朝(倭国)の滅亡を示す

 ただ、『運歩色葉集』(室町時代の辞書。十六世紀)、『伊豫三嶋縁起』等によれば、九州年号(倭国年号)「大化」は七〇三年まで続き、七〇四年に「大長」と改元され、七一二年まで続いた後消滅している。(註3)
 そして、『続日本紀』の慶雲四年(七〇七)には、「山沢に亡命して軍器を挾藏し、百日首 もうせずんば復またつみなふこと初の如くせよ」とあり、武器を備えて大和朝廷に抵抗した勢力がいたことが知られる。さらに、“九州王朝は九州を都とした権力”であるところ、七一三年には「隼人の賊を征した将軍」たちへ大規模に恩賞が与えられ、同年に大和朝廷(日本国)により南九州に「大隅国」が設置されている。

◆『続日本紀』和銅六年(七一三)夏四月乙未(三日)、(略)日向国の肝坏きもつき、贈於そお、大隅、姶羅あひらの四郡を割きて、始めて大隅国を置く。大倭国疫す。薬を給ひて救はしむ。(略)
秋七月丙寅(五日)、詔して曰はく、(略)「今、隼の賊を討つ将軍、并せて士卒等、戦陣に功有る者一千二百八十余人に、並びに労に随ひて勲を授くべし」とのたまふ。

 ここから、中央では王朝交代があったが、九州王朝(倭国)の残存勢力は南九州に割拠し、新政権に抵抗していたと考えられ、その、いわば「最後の九州王朝」の人々が七一三年に「隼人の賊」として討伐され亡びたため、九州年号(倭国年号)も終了したのだと考えられている。
 また、『続日本紀』和銅元年(七〇八)記事によれば、「山沢に亡命」していた勢力は「禁書を挟蔵」していたとある。この「禁書」が九州王朝(倭国)の史書等であれば、そこには九州年号(倭国年号)が付された記録が書かれていたはずだ。大和朝廷は、これらを入手し、九州王朝(倭国)の事績や年号を一部は取り込み(盗用し)、他は抹消することによって『書紀』を編纂し七二〇年に撰上した。九州王朝(倭国)滅亡前の七一二年に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された『古事記』には存在しない記事が、『書紀』には大量に存在するのは、こうした「盗用」手法による編纂の経過によるものだ。(*大化・白雉・朱鳥の三年号が『書記』に盗用された理由についてはコラム「『書紀』三年号の盗用理由について」を参照されたい)
 そのようにして、「我が国の始源から天皇家が統治していた」という歴史像を作り上げていったと考えられる。

 

九、九州年号(倭国年号)の発掘・研究で失われた歴史の復元を

 志賀島の金印が示すように、大和朝廷に先行し、遅くとも紀元一世紀から七世紀末まで我が国の主権者だった九州王朝(倭国)は、ここに年号と共に消滅し、以降「日本国」の天皇とその元号が今日まで続いていることになる。
 しかし、九州年号(倭国年号)の発掘・研究を進め、『書紀』ほかの古文書等と比較対照することによって、失われた九州王朝(倭国)の歴史の一端を再構築できる、私たちはそう確信する。この本を読まれた方々には、各地にまだまだ残っていると思われる九州年号(倭国年号)の情報を寄せていただくなど、共にこの作業に参加されることを切に願うものだ。

(註1)『聖徳太子伝記』「聖徳太子ノ御誕生之時代ヲ上古ニ相尋侍レバ年号ハ金光三年壬辰(五七二)歳也」「太子十六歳御時、守屋御合戦事勝照三年(五八七)」「太子十七歳御時、勝照四年戊申(五八八)」「太子廿二歳御時年号ハ端政五年癸丑(五九三)春ノ比 」ほか。

(註2)坂本太郎氏は「白雉を白鳳と称するに至った」とし、その理由は、「白雉が中瑞であるのに鳳(白鳳)が大瑞であることによる」ことや「文化の外面形式を装飾しようとの欲求及び文字使用上の衒学的傾向による」「朱鳥を朱雀とするのも同じ」などとするが、それなら「聖武天皇が、孝徳天皇が定めた白雉年号を白鳳に、天武天皇が定めた朱鳥を朱雀に変えた」ことになり、到底考え難い。また、変えられたはずの白雉・朱鳥年号が残っているのはおかしいことになろう。

(註3)『運歩色葉集』に「大長四年丁未(七〇七)」、『伊豫三嶋縁起』に「天(大か)長九年壬子(七一二)」とあり、何れも元年は七〇四年甲辰。
*本誌「九州年号『大長』の考察」(古賀達也)に詳しい。

(参考)『失われた九州王朝』『法隆寺の中の九州王朝』ほかの古田武彦氏の著作は、近年ミネルヴァ書房で復刊されている。また、「『九州年号』の研究-近畿天皇家以前の古代史」(ミネルヴァ書房二〇一二年)では、古田氏ほかによる新たな九州年号(倭国年号)の研究が紹介されている。


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