『古代に真実を求めて』 第二十集


初めて「倭国年号」に触れられる皆様へ

古田史学の会 西村秀己

    一

 「年号」或いは「元号」とは自らを「天子」と認める者が時間をも支配する手段の一つです。「年号」は元来その「天子」の即位の年若しくはその翌年を「元年」として順次数字を以って呼ばれていました。その「天子」が崩ずるとその「天子」の諡号しごうを使い、例えば「穆王ぼくおう二年」と呼ばれていました。これが固有の漢字二文字(三文字・四文字・六文字の例もあります)で呼ばれるようになったのは前漢の武帝の時です。武帝の時代でもそれまでは六年或いは四年おきに一元〇年、二元〇年と呼ばれていましたが、「元はよろしく天瑞をもって命ずべし」(史記孝武本紀)という進言に従って一元を「建元」、二元を「元光」、三元を「元朔」、四元を「元狩」と遡って命名されたのです。以来「年号」は支配の方法の一つとなりました。その「年号」を発布した者を「天子」と認める者たちは、その「天子」の「暦法」と「年号」を使用することを義務付けられました。これを「正朔せいさくを奉ほうずる」と言います。

 従って、その者を「天子」とは認められない者は独自の「年号」を建てることになります。中国の三国時代には当然三つの「年号」が並立していたのです。また「天子」の支配力が弱まったときにはその冊封国も時には「年号」を建てることがあります。新羅は法興王の二十三年を「建元元年」(五三六年)としましたが、真徳王の「太和」年間に唐からの抗議を受けて独自の「年号」を廃止する(六五〇年)ことになりました。百十五年間使い続けたことになります。

 さて日本ではどうだったのでしょうか。日本書紀に最初に登場するのは「大化」(元年は六四五年)です。

 天豊財重日足姫天皇(皇極)の四年を改めて、大化元年とす。(孝徳即位前紀)

 「大化」は五年続き次の「白雉はくち」は五年続きます。ところが孝徳天皇の死後「年号」建てられなくなります。それどころか、日本書紀には次のような記述になります。

 天萬豊日天皇(孝徳)、後の五年の十月に崩かむあがりましぬ。(斉明即位前紀)

 「白雉五年」とするべきところを「後五年」としているのです。この後日本では「年号」は途絶えます。そして次に登場するのは天武天皇の十五年(六八六年)の七月です。「朱鳥」と「改元」されました。しかしこの「朱鳥」は一年も続かないのです。そして七〇一年三月、

 元を建てて大宝元年としたまふ。(続日本紀文武紀)

と、「大宝」が「建元」され以来「平成」に至るまで途切れることなく千三百年以上続いています。

 賢明なる皆様にはすでにお気づきのことと思います。
① 年号は続かないと意味がないが、最初の頃は途切れ途切れである。
② 最初の「年号」である「大化」を「改元」として扱っている。
③ 「白雉」を無かったかのように扱っている。
④ 四番目の「年号」である「大宝」を「建元」したとしている。

 ある王朝が最初の「年号」を造ることを「建元」といいますから「大宝」はヤマト朝廷の最初の「年号」だと言っているようなものです。最もおかしいことは次の項目です。
⑤ 隋書ずいしょ俀国伝たいこくでんによれば、隋の大業三年(六〇七年)に日本の多利思北孤たりしほこは自らを「日出處天子」として国書を送っている。「天子」と自称している者が、尚且つ隣国の新羅が既に七十年以上も使い続けている「年号」を持っていない。

 大業三年は新羅の「建福二十四年」です。そして日本書紀に年号が現れるのはこれより三十八年後なのです。これを見る限り、そして多利思北孤が日本書紀に登場する誰かである限り多利思北孤に「天子」を称する資格はありません。

 

     二

 ところが実は我が国には日本書紀や続日本紀には登場しない年号群が存在するのです。この年号群を載せる書物は『二中歴』『海東諸国記』『襲国偽僭考そのくにぎせんこう』『善光寺縁起』などなど枚挙にいとまはありません。勿論様々な書物に登場しますからその異同も少なからず存在しますが、概ね「継体元年」(五一七年)から「大化六年」(七〇〇年)まで百八十四年間途切れること無く続いています。先の六〇七年は光充三年に中あたります。この年号群の中には「大化」「白雉」「朱鳥」は全て存在します。この年号群は江戸時代の学者である鶴峯戊申つるみねしげのぶ

今本文に引所は九州年號と題したる古寫本によるものなり(襲国偽僭考)

により、一般には「九州年号」と呼ばれて来ました。例えば京都産業大学名誉教授の所功氏は古田武彦氏の「九州年号」に関する著作を検討した上で、

 〝古代年号〟の創作者は、おそらく鎌倉時代(末期)の僧侶か仏教に関係の深い人物と推測して大過ないと思われる。(年号の歴史―元号制度の史的研究―第2章まぼろしの〝九州年号〟)

と偽作年号として退けています。

 ところが、奈良時代の聖武天皇は神亀元年(七二四年)十月一日の詔勅の中で、

 白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。(続日本紀)

と発言しています。「白鳳」も「朱雀」も「九州年号」に含まれるものです。

 所氏に代表される「九州年号偽作説」が正しいか我々の主張が正しいかは、この本の読者たる皆様の判断に委ねられます。公正な目でご判断戴きますようお願いします。
 尚、この本では「九州年号」ではなく敢えて「倭国年号」という言葉を使用しています。我々の主張は主に九州北部を首都にしていた「倭国」という国家が七〇〇年までは近畿王権に先んじて日本列島の主権者であったというものです。従って「九州年号」よりも「倭国年号」がより実態を表しているという考え方に基づくものです。従来より「九州年号」という単語に親しんで来られた読者の方々には次の一文をご紹介して本稿を終わります。

 問題は「倭国年号」だ。(中略)これが「倭国(九州王朝)の年号」である点からすれば、(古田武彦著『壬申大乱』第五章壬申大乱の真相 十、十二)


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