『古代に真実を求めて』 第二十集

 


『書紀』三年号の盗用理由について 

正木裕

 『書紀』では九州年号(倭国年号)のうち大化・白雉・朱鳥の「三年号」のみが記され(盗用され)ています。その理由は全て解明されたわけではありませんが、概ね次の通りではないかと考えられています。

 

1、「朱鳥」年号

 「朱鳥」元年(六八六)七月二十日の朱鳥改元にあたり、七月十九日に貸稲(出挙)・資財の返還を免除する「徳政令」が詔されました。
◆七月丁巳(十九日)に詔して曰はく、「天下の百姓の貧乏まずしきに由りて稻及び貨財たからを貸へし者は、乙酉の年の十二月卅日より以前は、公私を問はず皆免原ゆるせ」とのたまふ。

 さらに持統元年(六八七)七月に、利息免除令が出されています。

◆七月甲子(二日)に、詔して曰はく、『凡そ負債者、乙酉年(*朱鳥元年)より以前の物は、利収ること莫。若し既に身を役つかへらば、利に役ふこと得ざれ』とのたまふ。」(*「利に役ふ」とは労働による利息返還のこと)

 これらは九州年号(倭国年号)朱鳥改元に伴う徳政令ですから、九州王朝(倭国)の事績となるでしょう。また、布告日やその内容から見て、朱鳥改元令と一体のものとして、借用書を持つ貸し付け側の公私人や、借り手の「天下の百姓」にも告知されたものと考えられます。

 これにつき、古賀達也氏は「近畿天皇家は九州王朝(倭国)による徳政令の効果を認め引き継いだ」としたうえで、次のように述べています。

◆両詔勅を記した「徳政令」通達文書中には「朱鳥元年」「朱鳥二年」という発行年次や「乙酉以前」という免除年次が記入されていたはずであるから、『日本書紀』にも乙酉の翌年である六八六年に正しく朱鳥元年を記さざるを得ないという、動かすべからざる事情を有したのである。

 結局、「朱鳥」が盗用された理由は、「朱鳥の徳政令」の効果を活かすためだったことになるでしょう。

 

2、「大化」年号

 「大化」は九州年号(倭国年号)では六九五年が元年であるところ、『書紀』では六四五年で「五十年のずれ」が見られます。
 『書紀』大化の時代は九州年号(倭国年号)では主に「常色」(六四七~六五一)期にあたり、九州王朝(倭国)では、新羅や蝦夷との抗争に備え、全国に「評制」を施行(六四九年ごろ)し、「七色十三階の冠(六四七年)」「八省・百官設置(六四九年)」等の官僚制整備をおこない「九州王朝を中心とした集権体制」を強化・確立していきました。
 一方、九州年号(倭国年号)の大化期(六九五~七〇〇、『伊豫三嶋縁起』等では七〇三年まで)は九州王朝(倭国)の末期で、近畿天皇家では、持統・文武が「近畿天皇家を中心とした集権体制」を作るため、「評制から郡制への移行」や「律令制定(大宝律令)」「大宝建元」(何れも七〇一年)を始めとする「政権移行」に向けた準備・改革を進めていた時期でした。
 『書紀』編者は、この天皇家の改革記事を、「大化」年号ごと九州王朝の改革期と重なる孝徳期(六四五~六四九)の五年間に移しました。そして、九州王朝の制度の「評」を近畿天皇家の制度の「郡」と書き換えるなどの手法で、「主体(九州王朝=倭国と近畿天皇家)」と、「時代(約五〇年)」を異にする、「集権体制確立に向けての二つの改革」を「混合・融合」させました。
 こうした手法により、九州年号(倭国年号)大化期の近畿天皇家の事績と、「常色」期の九州王朝の事績を併せて「『書紀』大化期の天皇家(孝徳)の事績」とし、「倭国」の主権者は「従前から」近畿天皇家であるという歴史を創作したと考えられるのです。

 

3、「白雉」年号

 『書紀』の白雉元年は六五〇年で、二月の「白雉献上」による瑞祥(吉祥)改元とされ、『書紀』では唯一かつ最大の改元儀典記事となっています。
◆左右の大臣、百官人等、四列を紫門の外に為す。粟田臣飯蟲等四人を以て雉の輿を執らしめ、在前さいだちて去く。左右大臣、乃ち百官及び百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等を率て中庭おほばに至る。三國公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太四人をして、代りて雉の輿を執りて殿前に進む。時に、左右大臣就きて輿の前頭を執り、伊勢王・三國公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭を執り、御座の前に置く。天皇、即ち皇太子を召し共に執りて觀みそなはす。

 九州年号(倭国年号)の改元ですから、「改元行事」は当然九州王朝(倭国)の事績となります。この、かつてなかったほどの盛事を、近畿天皇家の孝徳の事績とするため、「白雉」年号を改元の由来や儀典とともに盗用したものと考えられるのです。
 さらに、改元詔中「我が祖神祖の知らす穴戸(長門)国の中に此の嘉瑞有り」とあり、これは『書紀』における景行・仲哀・神功皇后らによる穴戸経由の九州遠征を指し、その時代には当然穴戸は近畿天皇家が「統治(知らす)」していたことを言うものと思われます。しかし、古田武彦氏は、これを九州王朝(倭国)の「前つ君」の九州一円の平定事業だとしています。そうであれば「穴戸」を統治していたのも九州王朝(倭国)となります。
 従って、改元詔は本来九州王朝のものであるところ、『書紀』編者は、これを盗用し、九州への遠征・九州平定は景行ら「近畿天皇家の祖」の事績だと念を押し、強く印象付けたことになるでしょう。また、改元詔では孝徳の「有徳」を讃える句が連ねられていますが、「大化」の直後にこれらの賛辞を盗用し、『書紀』に記す「大化時代の改新」が事実であり、また大きな成果を生んだと偽ったのです。

 但し、九州年号(倭国年号)「白雉」は元年が六五二年で『書紀』と二年ずれています。六五二年は難波宮完成年ですから、本来は九州王朝(倭国)による難波宮遷居が白雉改元の理由になるでしょう。これを『書紀』編者が六五〇年に「二年繰り上げ」たのは、「大化」で述べたように、
〇「常色」(六四七~六五一)の「五年間」の九州王朝(倭国)による改革内容を、二年前の孝徳即位(六四五)から始まる、俗に「大化の改新」とされる『書紀』「大化」(六四五~六四九)の「五年間」に繰り上げたため、これに続く白雉元年も「二年間」繰り上げられた、ということになるでしょう。
 ただ、「二年繰り上げ」れば、白雉改元の儀式は「難波宮完成以前のこと」になります。ところが、宮城南門から朝堂院南門(紫門)の間に整列し、中庭(朝堂院)に入り、さらに殿前(内裏前殿)に入り、御座の前に置くという記述は「朝堂院形式」を備えた前期難波宮にしかあてはまりません。
 当時近畿天皇家には、記事にあるような「盛大な白雉改元儀式」を実施できる朝堂院形式の宮は存在しませんでした。従って、実際の白雉改元の儀礼は、宮が完成する六五二年に「前期難波宮」で行われたことになり、『書紀』がこれを六五〇年に盗用し、孝徳の事績としたことが明らかになったのです。

 *こうした盗用の手法については、古賀達也「朱鳥改元の史料批判」(『古代に真実を求めて』第四集二〇〇〇一年十月明石書店)、「白雉改元の史料批判ー盗用された改元記事」(古田史学会報七六号二〇〇六年十月)に詳しく、また『九州年号の研究―近畿天皇家以前の古代史』(ミネルヴァ書房。二〇一二年一月)にも収録されています。


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