『古代に真実を求めて』 第二十一集

 


大宰府の政治思想

大墨伸明

 近年、大宰府に関する発掘調査の進展により、新たな研究成果が明らかにされている。中でも、太宰府市教育委員会の研究者井上信正氏の研究には、都城太宰府の解明にとって画期的な指摘あり、倭国から日本国に推移する歴史過程に関係する重要な問題が提起されている。ここでは、氏の指摘する太宰府条坊が藤原京と併行する時期に造営された可能性から、両者に共通する中央宮闕きゅうけつ型の設計思想に注目し、その意味を考えた。(注1)

 

一 井上信正氏の大宰府条坊論

 大宰府はこれまでの発掘調査により、政治の中心である大宰府政庁の前面に、方格地割の街区が広がっていたことが明らかにされ、大宰府条坊と呼ばれている。その遺構は第Ⅰ期掘立柱建物、第Ⅱ期の礎石建物、そして、第Ⅲ期の礎石建物と三層にわたり、その年代は一般に、第Ⅰ期が「古段階」から「7世紀末~8世紀初頭頃の新段階」、第Ⅱ期は「8世紀第1四半紀から」、そして第Ⅲ期は10世紀中葉以降と区分される。
 この年代観にあって、井上氏により興味深い新たな点が、左記のように指摘されている。第一は、氏の条坊1区画90m案である。小尺30cmなら300尺、大尺36cmなら250尺であり、小尺は『続日本紀』和銅六年二月条の格により採用されているものだ。問題は、観世音寺の配置や朱雀大路の配置など太宰府の象徴である第Ⅱ期の主要施設と、この条坊とにズレがあり、主要施設より大宰府条坊区画が古く、大尺で設計施工されたとする。このように、第Ⅱ期主要施設と太宰府条坊区画とが整合していないことを明らかにし、大宰府条坊の造営時期は政庁Ⅰ期新段階の「藤原京併行期」にあるとした。(注2)
 第二は、中央部に宮城をもつ藤原京との関係に着目し、大宰府も条坊中央部の王城おうぎ神社のある通古賀地区を意識した設計ではないかと指摘していることだ。(注3) 第Ⅰ期に中央宮闕型の条坊造営があり、第Ⅱ期に政庁や朱雀大路など主要な施設が造営されたとするのである。こうして、大宰府政庁を北の中央に置き、その中軸線をもとに条坊区画が設計されているという通説的な認識は、見直しが必要という。
 こうした藤原京との共通性から、『日本書紀』天武紀の複都制の詔に、筑紫における「都城創出の意図」をみる。これが第三の点である。こうした、新たな諸点が井上氏から提起されている。
 この井上説には、重大な可能性が潜んでいると考える。その第一が、藤原京との同一時間軸である。第Ⅰ期の大宰府条坊が「藤原京併行期」にあり、第Ⅱ期の北闕型政庁・朱雀大路など中心的遺構が八世紀初頭とする氏に従えば、近畿の都城と歩調を合わせた変化がうかがえる。近畿では、礎石と瓦屋根をもつ本格的都城である藤原京が、六七〇年代に計画され、六九四年に遷都した。ところが、わずか十六年で廃止され、七一〇年に平城京に遷都している。大宰府では改造という形で、近畿では遷都と言う形で同様の変化が、同じ時間帯に起きたことになる。
 第二に、改造後の大宰府と平城京との政治思想の共通性である。諸研究により、平城京は長安をモデルにしたことは疑いない。大宰府政庁の配置も典型的な北闕型であり、同じ政治思想のもと設計されたと考えられている。太宰府の朱雀大路は路面幅35.8mで、平城京74.5m(210大尺)の二分の一を意識しているとも指摘されており、同一の政治思想のもと、八世紀の二つの都城の序列関係も見て取れる。
 第三に、こうした大宰府と藤原京の変化の時間帯がちょうど倭国・日本国の境界に重なる点である。七〇一年に大宝律令が施行され、七〇二年、再開された遣唐使は中国に日本国誕生を伝え、友好的な外交関係が始まった。また、『日本書紀』は伝えないが、全国の出土木簡により、「評制」に代わり「郡制」が歴史の表舞台に登場した時期でもある。古田武彦氏が「701」と特筆する節目を前後するもので、この政治的転換と都城の様式変化には関連があるに違いない。
 このように、大宰府Ⅰ期とⅡ期にあるズレは興味深い問題につながる。

 

二 周代に由来する「王城」

 大宰府条坊の中央部に位置することから注目される王城神社だが、神社屋敷中央から真南に基山が位置し、条坊の設計起点と指摘される。王城神社の『縁起』によれば、天智天皇四年(六六五)、都府楼を建てた際に現在の地に遷されたとされるが、その前から「王城」と名づけられていたと考えていいだろう。『漢書』地理志上の河南郡河南の下注には、「もと郟鄏こうじょくの地。周の武王、九鼎を遷し、周公、太平を致し、営んで都となし、これを王城とす。平王に至りてここに居す。」とある。「王城」は周代に由来する用語である。
 次に、『日本書紀』をみたい。「王城」は雄略天皇二〇年冬「王城降陷す」(百済の王都漢城のこと)、斉明天皇六年(六六〇)九月「始めて王城を破る」ほか2か所(百済泗沘城のこと)、天智二年(六六三)秋八月「其の王城を繞くむ」(州柔城か)と合計5回出現する。すべて百済の王の居城に関する引用記事である。また、『続日本紀』にも一か所ある。天平七年(七三五)二月記事に「新羅使の入朝の旨を問はしむ。而るに新羅国、輙たやすく本の号を改めて王城国と曰う。茲に因りて其の使を返し却しりぞく。」と。新羅の「王城国」への国号変更のいきさつは不明だが、「王城」が朝鮮半島で雅称として生きていたのは確かであろう。
 朝鮮半島記事で見いだせる王城は、大宰府の王城と同じ政治思想を思わせる。

 

三 『周礼』の政治思想

 藤原京が『周礼』考工記に基づく、中央宮闕型の都城であることは、岸俊男氏以来多くの論者から指摘されている。しかし、考工記以外の記述への言及は多くなく、日本における古代国家の政治思想として議論されることはまったくない。大宰府に関係する記述が潜んではいないか、『周礼』の全体を概観してみた。
 『周礼』は『儀礼』『礼記』と共に三礼の一つとされ、歴代中国王朝で重要視されてきたという。下記のとおり、天官から冬官までの長官職(六卿)が各分野の官職を所管し、その全体を統括するのが大宰である。各長官には六〇人の職官が属し、理念的な職官書として表されているという。
官職 長官名 属 分野
天官 大宰   治 国政を統括
地官 大司徒 教 教育・土地
春官 大宗伯 礼 礼法・祭祀
夏官 大司馬 政 軍政・兵馬
秋官 大司寇 刑 刑罰
冬官 大司空 事 土木・工作
 「天官」から見ていきたい。国政全体を統括する長官に大宰が登場する。「大宰の職、邦の六典を建てるを掌り、以て王の邦國を治めるを佐く」とあり、全体を統括し、王を補佐する最高位の官職として位置づけられている。
 次にあるのが、土地などを所管する「地官」である。「大司徒の職、邦の土地の図と其の人民の数を建てるを掌り、以て王の邦國を安擾あんじょうするを佐く。天下の土地の図を以て、九州の地域・廣輪(地形の縦横)の数を周知し、其の山林、川沢、丘陵、墳衍(ふんえん 丘と平地)、原隰(げんしゅう 高原と低い湿地)の名物を弁ず。」とある。地図を手に東西南北の距離をあまねく調べ、九州各地の地形が把握されていたことがわかる。このように、九州は単に領域ではなく、領域を管理する長官の職掌の中に描かれている。
 では、「春官」はどうだろう。「大宗伯の職、邦の天神・人鬼・地示の礼を建てるを掌り、以て王の邦國を建て保ずるを佐く。吉礼を以て邦國の鬼・神・示に事つかえる。」とある。ここでは、祭祀を所管する春官が祀る天神が冒頭に登場する。このように百官を統括する大宰が王を補佐し、地官・大司徒が国土九州を管理し、春官・大宗伯が天神を祀ることが『周礼』では記されている。
 大宰・九州・天神と続く、この一連の記述から九州大宰府を想起せざるを得ない。もしや、『周礼』の理想的な職官体制により造営された大宰の府だったのだろうか。これまでは経書等の断片的な引用によって、太宰・九州などが指摘されてきたが、これらはひとつながりの連関を持つ政治思想と言えるかもしれない。そして、この大宰府の王城が『周礼』考工記・匠人「営国」の項の設計思想により、中央宮闕型の都城として造られたという現実性を浮かび上がらせる。その意訳を見たい。

 一辺九里の正方形で、側面にはそれぞれ三つずつ門を開く。城内には南北と東西に九条ずつ街路を交差させ、その道幅は車のわだち(八尺)の九倍とする。中央に天子のいる宮闕の左つまり東に祖先の霊をまつる宗廟をおき、右つまり西には土地の神をまつる社稷をおく。前方つまり南には朝廷を、後方つまり北には市場をおき、その市場と朝廷はともに一夫つまり百歩平方の面積を占める。(注4)

 ここで記された、九条の道路、中央の宮闕、北の市などほぼ完璧に一致するのが藤原京だが、大宰府も関係する可能性がある。今後の発掘調査に期待したい。

 

四 大宰府条坊の政治思想

 大宰府は、律令制国家の地方官衙という常識にあって、井上氏は「都城創出」の可能性に言及した。その問題提起を受け、第Ⅰ期大宰府に『周礼』の理想的国家の政治思想がある可能性を見た。もし、中央宮闕型のⅠ期大宰府が妥当するとすれば、Ⅰ期からⅡ期への変容の意味が重要な問題として浮かび上がるはずである。
 中国周王朝に由来する理想的政治思想の都城が、Ⅰ期大宰府と藤原京で確認され、時期をおなじくして二都は「北闕型」の都城に生まれ変わる。それは、「天から地上にいたる階層的秩序を都城構造によって示す政治目的で造営」されたとされ、隋・唐の政治思想が端的な都城にほかならない。『周礼』思想の重視から、北朝隋唐の思想に傾倒した変化の質的意味は何なのか。Ⅰ期大宰府と藤原京とが併行的に造営されていたとすれば、そこに通底するものは何か。これらに、親唐国家日本国誕生とともに消えた倭国の政治思想をみることができないだろうか。
 七世紀末までの倭国と八世紀冒頭からの日本国は連続性を装っている。しかし、顕在化した政治思想の相克が確かなものになれば、九州に実在した「倭国・九州王朝」の軌跡が、隠し絵のように大宰府に浮かび上がるだろう。

 

(1)「大宰府」表記について
    太宰府市ではこれまでの研究をもとに、一般には古代律令時代の役所、およびその遺跡に関するダザイフは「宰府」、中世以降の地名や天満宮については「宰府」と表記している。古田武彦氏は,『宋書』の江夏義恭が任ぜられた「太宰」から『日本書紀』の「大宰」表記を批判し、古代の表記も「太宰府」としている。氏はそれを説く『邪馬一国の道標』「太宰府の素性すじょう」で訂正されたように、『宋書』の「太宰」は、」周制を採用(復古)した」ものでなく、「三公」のそれであった。古田氏が「総理府」とも表現したダザイフは、『周礼』の原点や注釈の多くで「大宰之職」とされるが、唐代以降は「周官曰太宰之職」(芸文類聚)などと変化が確認される。また中国における変化に対応するかのように「七〇一年」以降の日本でも「太宰」という表記がはじめて登場する。以上から、本稿では歴史地名として,「大宰府」と記す。なお大宰と太宰の表記の変化については、『多元』一三八号の拙稿「『大宰府』と『太宰府』 -- 表記の淵源を探る」を参照されたい。

(2)井上信正『年報大宰府』第5号「大宰府条坊の基礎的考察」2009年

(3)井上信正『考古学ジャーナル』№588「大宰府条坊区画の成立」2009年

(4)礪波護『日本の古代9』「中国都城の思想」中央公論社1987年


新古代学の扉事務局へのE-mailはここから


『古代に真実を求めて』 第二十一集

ホームページへ


制作 古田史学の会