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『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社
◎研究報告

三内人の末商

鎌田武志

 問題提起

 昨年七月保存が決まる前の三内丸山遺跡を訪れた時、野球場になるはずの広大なスペースに五〜六〇〇人の作業員がシャベルを持って山全体に張り付くようにしゃがんでいました。数十年ぶりの猛暑のなか、全員つば付の帽子をかぶり顔に手拭を巻き肌を隠した服装です。すぐ側ではダンプカーが砂埃りをあげて行き交っていました。野球場の一塁側と三塁側スタンドができつつあった。壊されるために発掘が急がれていたのです。一大パノラマを見ているようだと司馬遼太郎は表現しています。その後遺跡の保存が決定しスタンドは鉄骨をむき出しにしたまま成長をやめ、その残骸は遺跡保護のシンボルとなった。
 そうなるはずでした。全国へはこのことだけがニュースとして発信されたので、遺跡がかつて破壊され今も破壊され続けていることが伝えられていません。四〇万平方メートルと言われる遺跡全体はもともと都市計画の一環として壊されるために緊急発掘されていたのです。したがって周辺部の遺跡は壊され埋められ跡形もありません。沢部、浪館、近野、三内等と現代入の都合で名前こそ違うけれど、五〇〇〇年前は一つの名前を持った一つの都市であったと思われます。その半分は壊されその上に野球場、陸上グランド、テニスコート等スポーツ施設が立ち並んでいます。わずかに大型住居跡が一軒、コンクリートで固められて残されただけです。
 青森市は今年一月一二日、都市計画道路建設を再開することをあきらかにしました。その道路は野球場予定地とサッカースタジアム予定地の間を通ることになり、土坑墓、配石遺構、盛土遺構などが消えてしまうことになります。たいして価値のあるものではないと判断されたからだと伝えられています。サッカースタジアムの移転先にも遺跡がある可能性は高いのです。全国の皆さんのご支援をいただいて、すべての破壊から「三内国」を守り後世に残すことをぜひお願いします。
 さて一般的に一つの文明の興亡を目の前にした時「なぜ滅びたのか。その人たちはどこへ行ったのか」ということに興味を持ちかつ論じられるようです。三内丸山遺跡を目の前にしてやはり人々の関心は「三内人はどこへいったか」にあるようです。このことについて自説を展開するのではなく、問題提起をして広く皆さんに論じてもらうことを本稿の目的としたい。

 

 二つの世界

知名度
 「青空と馬」から何県を想像しますか。これは相当な難問です。まさか青森県を思い浮かべる人はいないでしょう。先日全国放送のテレビ番組の中で青森県のイメージが述べられていました。それは「雪と林檎」でした。相反するこの二つのイメージはどちらも青森県の半分を表すことにおいて正解なのです。青森県の西半分を「津軽」と言い東半分を「南部」と言います。南部地方でも北と南では違いがありますが、まったく違う国を二つ並べているにすぎないのが青森県です。
 ですが「林檎の唄」や「津軽海峡冬景色」などの流行歌、太宰治の「津軽」など全国的に知られているのは西半分の方です。毎年三〇〇万人という観光客を集める「ねぶた祭り」も津軽の風物詩です。民謡も津軽はプロ化しており津軽三味線とともに名を知られています。南部にももちろんお祭りや民謡はありますが規模が小さく地味で知名度がありません。
 「津軽」と言う名は古く由来もはっきりしません。津刈、都加留などとも書かれ日本書紀などにも登場します。古代すでに津軽は名を知られた存在でした。津軽を治めた大浦為信は土地の名を取り津軽為信と名乗りましたが、糠部を支配したのが甲斐の国から来たと言われる南部氏であったので、後にその土地が南部と呼ばれたのです。名付けられかたが逆なのも二つの世界を象徴していておもしろい。
 最近地元新聞の投書欄に南部は津軽から離れて岩手県と合流すべきであると言う意見が掲載されました。明治維新の時、南部は幕府方、津軽は勤皇方としてその境界線で衝突しました。「野辺地戦争」と呼ばれる後で思えば実に無意味な出来事がありました。南部が勤皇方であったなら津軽藩や佐竹藩に領土をとられなかったろうと言う思いは今でも南部人にあるようです。気候風土歴史からみて現在なお津軽と南部は異質の世界なのです。

気候
 先日青森市から八戸市まで、時間電車に乗りました。野辺地町までの半分の道のりは猛吹雪のなかを灰色の世界に吸い込まれるように電車は進みます。野辺地を過ぎると空は青く晴れ渡り白い雲が小さく浮かび、見通しのきく明るい世界が行く手に広がっていました。これが同じ青森県なのです。
 津軽は日本海型の気候で日本海を渡ってくる北西風が大雪を降らせ、風を伴うと地吹雪となって下から雪が舞い上がります。木造町では近年「地吹雪観光ツアー」を売り物にしているくらいです。青森市は三〇万都市としては世界一の積雪はを誇り、七月まで除雪のために積みしげた雪が市街地に見られる年もあります。ところが同じ時に太平洋型の気候である南部では晴天が続き雪は積もっていません。風と寒さがきつい程度です。しかし夏に吹く北東風「やませ」と言われ、そのために温度が上がらず冷夏となり凶作をもたらします。青森県は日木海と太平洋の両方に面している唯一の県です。言い替えると分けられるべき二つの地域を人為的に合わせたにすぎないと言えます。

産物
 こういう気候の違いは作物の違いとなって現れます。津軽は平野部で稲作、山沿いで林檎が作られ、南部では畑作を主とし山間部では放牧が行われています。稲作が本格化し始めたころ津軽と南部が世界を異にしたのでしょうか。しかし、南部の風張遺跡から三〇〇〇年前といわれる米粒が出土しています。

気質
 津軽人の気資としては積極的、社交的、えふりこぎ(見栄っぱり)、じょっぱり(強情)、感情をすぐ衣に出す、などであると、言われ、南部人は消極的、無口、地味、粘り強い、感情を内部に貯める気質と言われています。私自身教師として生徒をあつかってみてかなり違うことに戸惑いを覚えています。津軽の生徒は感情をすぐ表面に出すぶん荒っぽいけれども、なにを考えているかみてとれます。南部の生徒は感情的にならない分紳士的であるが、なかなか心の中に入り込めません。長い間の気候風土歴史がこのような違いを形成したのでしょうか。

言語
 地元テレビのニュース番組で、津軽の女性が街角でインタビューされ何か話をしていました。その番組を南部のある家族が見ていましたが、何を話しているのかさっぱり解らないので、津軽弁に素養のある嫁が通訳しました、私も授業に熱中してつい津軽弁になると生徒にはまったく通用せず、「先生何を怒っているの」と、言われた事があります。現在隣り合っている地域で言葉がまったく通じないところがあるでしょうか。もっとも津軽弁はどこへいっても理解されないようですが。
 津軽弁には古語がたくさん出てきます。わ(我)、な(汝)、はだる(徴る)、すげね(すげなし)、かじける(かじく)等。また平安時代のハ行音のF音が残っていてまだ生きて使われています。サ行音ザ行音はシャ行音ジャ行音になりますが、これは現在でも明瞭に聞き取ることができます。じえんに(銭)、じゃしき(座敷)等です。えぞ(蝦曳)も私が若いころは「えんじょ」と発声していました。それほんど(それ程)、まんど(窓)等鼻濁音は若い世代にも残っていて田舎弁と言われる原因となっています。しかし関智恵子さんの源氏物語の音声を復元した朗読を聴くと、津軽弁に似ていて大変親しみやすいのです。
 南部へ住居を移した時私はどのような古語を聴くことができるか楽しみだったのですが、残念ながら一つも耳に人って来ませんでした。今の南部地方の言語は標準語に近く、わずかに文末の抑揚に特色がある程度なのです。だから私の話は生徒には解らず、生徒の話は私には解るのです。中央の言葉や文化が地方に波及し、本州の果てに行きどまって現代に生き残ったという理論はどうも成立しないようです。

ブラキストン線
 北限の猿として下北の猿は有名です。かもしか、いのしし、もぐら、むささび等が津軽海峡を渡らないほ乳類です。北海道から出土した猪は食料として青森から渡ったものであろうと思われています。ひぐま、なきうさぎ、えぞしか、くろてん等が北海道に生息し本州にいません。この生態系の境界をブラキストン線と言います。最近では宗谷海峡の方が生態系のラインとして重要であると言われていますが、それにしても津軽海峡を挟んでかなりの違いがあります。

 共通文化圏

 さて、前章では青森県を二分する違いを論じましたが、考古学的には両地方にはほとんど差異がみられないのです。旧石器時代から縄文早期にかけては、南部地方に居住の痕跡が多くみられますが、その後は県内全域に遺跡が散らばっています。今から一万二〇〇〇年前に温暖化が進み針葉樹林から落葉樹林に代わり胡桃、どんぐり等食料を手に入れやすくなったせいでしょう。また、円筒式土器文化をはじめとしてほとんどの時代にも、津軽海峡を越えて文化の交流がみられます。むしろ青森県は陸続きである東北の南の文化よりも、津軽海峡を越えて北と交流していると言えるのです。
 時代は違いますがたとえて言うならば、円筒式文化が津軽蝦夷国であり、東北南部の大木式文化が荒蝦夷国となるでしょうか。つまり青森県と北海道は長い間同質の文化圏といってさしつかえないのです。今のところ円筒式文化圏の中心を「三内丸山」とみていいように思います。北海道から東日本一帯に分布している亀が岡文化の中心地は青森県とみてまちがいないのですが、青森県のどこに中心を求めるかというと決めがたいのです。
 津軽の亀が岡遺跡は江戸時代から知られていたのが災いして、学問の手が入る前にほとんどが壊され散逸してしまいました。しかし今日残されたものからでも、なお縄文晩期の成熟された文化をうかがうことができます。南部の是川遺跡は個人が私費を投じて発掘した結果、全資料が出土地である八戸是川に残されました。その結果、数百点が国の重要文化財に指定され、見応えのある遺跡となっています。
 各地との交流交易の点でも三内丸山遺跡にみられるような特色は津軽にも南部にもみられます。コハク、アスファルト、黒曜石、ヒスイなど交易品の出土も両地域の差はとくにみられません。
 違う点もあります。青森県でも七世紀の終末期の古墳が数ヵ所発見されています。鹿島沢や丹後平など今のところ南部がその特色を見せています。また馬の生産地として八世紀には知られています。津軽の特色としては、九〜一〇世紀ごろ栄えた擦文土器があげられます。刷毛でこすったような文様を持つこの土器は、北海道から下北、津軽に分布し、南部にはほとんどみられません。時代はくだりますが、鎌倉以降津軽では亡くなった人が成仏するようにと板碑が盛んに建立されます。南部にはほとんどないのです。
 時代が下るにつれて津軽と南部はその文化を異にし始めました。下北地方は南部地方でもやや異なります。擦文土器やねぶたなどがみられ、気候面でも津軽に似ています。一般的には江戸時代の幕藩体制が津軽と南部を特色付けたと言われていますが、それ以前からこの二つの地域は分かれ始めたようです。

 日本中央碑

 津軽と南部の境界線は平内町と野辺地町の間にあります。今も江戸時代からの藩境塚が残っていて、二つの文化の接点を示しています。そこからやや南部よりの地に東北町があります。ここに謎の石碑「日本中央碑」があります。「中央」には地理的に中心であるという意味の他に政治的文化的に中心であるという意味があると思います。「中央政府」などという場合です。地理的には津軽と南部の中間と言えなくもないのですが、政治的にはなにも特色のあるものが出土していないのです。建立された時期も馬の放牧が始まってからとすれば、青森県が日本海型の文化と太平洋型の文化に分かれてからのようです。
 かつて同じ文化圏であったことを知っているものが建てた記念碑なのでしょうか。日本はどこからどこまでを指していたのでしょうか。現在の石碑だけではなく、日本中央の碑そのものを伝説にすぎなかったこととする考えをする人もいます。しかし古文献に見る限りでは、青森の地を日本の中央だという発想をとがめだてする表現が見あたらないのは何か理由があるような気がしてならないのです。


 アイヌ

 アイヌ民族がかつて本州にいたということは知っていても、江戸時代から明治にかけて津軽から下北の海岸沿いに居住しており、八戸南部にはいなかったということはあまり知られていません。アイヌヘの認識もそう古くはなく、津軽と南部がそれぞれ独自の文化を形成し始めたころからのような気がします。それ以前の蝦夷時代にはアイヌと和人の区別は見いだされません。アイヌ起源説もヨーロッパ、モンゴル、南洋方面などさまざまあります。石器時代人とアイヌに差はないとする説もあり、鎌倉時代以降日本人から分かれたとする説まで、ヤマタイ国の所在説を思わせるくらいあります。ただ擦文土器の分布とアイヌの居住域とかなりの精度で重なりをみせているので、将来考古学の面から解明が期待できるでしょう。

 

 三内人の行方

 それでは三内文明を築いた人々はどこへ消えたのでしょうか。三内人の血を受け継いだ人々は誰なのでしょうか。三内人の子孫が亀が岡文明を築いたのでしょうか。そうであるならば木造亀が岡へ移動したのでしょうか、それとも八戸是川へ流れたのでしょうか。または、まだ発掘されていない亀が岡文明の中心都市を作り上げたのでしょうか。古代の青森に住み蝦夷と呼ばれた人々は三内人の末裔だったのでしょうか。そしてアイヌは何を先祖とする民族なのでしょうか。三内人はアイヌの先祖なのでしょうか。三内人は津軽人の先祖なのでしょうか。それとも南部人の先祖なのでしょうか。
 鹿角やヒスイの加工技術などのように途中で途切れたらしいものもありますが、三内丸山遺跡からは後代まで伝えられた文化や技術の跡が見いだされます。漆細工の技術は三内人からどのような経路をたどって現代に伝えられ津軽塗りとなったのでしょうか。三内人は遠く日本各地と交易していたようです。交通輸送手段は船だったと思いますが、その航海技術はどこへどのようにして伝えられたのでしょうか。農耕技術、酒造技術、建築技術などかならず後世の文明に影響しているはずです。そういう技術にともなって言葉もまた後世へ伝えられたはずです。文字がなくとも技術を伝えることはできますが、言葉がなければ伝えることはできません。技術とともに三内人の言葉も日本各地に伝ぱしていっただろうと思います。現代語のなかにその痕跡を見つけ出すことはもはや不可能でしょうか。
 三内丸山遺跡のあまりにも豊富な三内人の遺品をみるにつけ、その文化や人が後世へどのように影響を及ぼしたのか興味はつきません。発掘されたのは三内文明の数パーセントにすぎません。今後一〇〇年かかっても整理しつくせないだろうと言われる豊かな遺跡は、将来すべての謎を解きあかしてくれることと思います。



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