梅となにはと仁徳と
富永長三
是に天皇、高山に登りて、四方の国を見たまひて詔りたまひしく、「国の中に烟発たず。国皆貧窮し。故、今より三年に至るまで、悉に人民の課、役を除せ。」とのりたまひき。・・・是を以ちて百姓栄えて、[イ殳]使に苦しまざりき。故、其の御世を稱へて聖帝の世と謂ふなり。(岩波古典文学大系本、以下同じ)
これは『古事記」下巻、仁徳、聖帝の所以を述べたくだりだが、そもそも三年も課役を課すことができないほど、人民の生活を困窮させたのは、ほかならない仁徳自身ではなかったか。そのことを抜きにして、三年の免税をもって聖帝と称讃するのはオーバーにすぎはしまいか。仁徳記は、仁徳の実像をいかほど伝えているのであろうか。いささかの分析を試みてみよう。
さきの聖帝記事に続いて、仁徳と吉備の黒日売をめぐる歌物語りがある。
其の大后石之日売命、甚多く嫉妬(ねた)みたまひき。故、天皇の使はせる妾は、宮の中に得臨(えゆ)かず、言立ては、足母阿賀迦迩(あしもあがかに)嫉妬みたまひき。爾に天皇、吉備の海部直の女、名は黒日売、其の容姿端正(うるは)しと聞こし看して、喚上(めさ)けて使ひたまひき。然るに其の大后の嫉みを畏(かしこ)みて本つ国に逃げ下りき。
以下、黒日売を追って吉備に行く仁徳。この間の状況を、五首の歌をはさんで物語る。その歌の中に、「なには」「やまと」が歌われている。もちろん今日まで、それが近畿大和であり、大阪・難波であることは疑われてはこなかった。だが今日『古事記』『日本書紀』の記述が虚偽にみちており、論証をへずして史実とは認めがたいことは、古田武彦氏の『盗まれた神話』以来明らかにされてきた。(邪馬壱国の女王卑弥呼以来、列島の覇権は筑紫にあり、白村江の敗戦を契機として、八世紀初頭、それは近畿に移動した。倭国から日本国へ、列島史における一大画期がそこにあったのであると)。
そこで、歌にそくして黒日売歌物語りを考えてみたい。五首の歌、それぞれに興味深い問題があるのだが、ここでは次の二首にしぼって考えてみることにする。
(A).淤志弖流夜 那爾波能佐伎用 伊伝多知弖 和賀久邇美礼婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遅摩佐能志摩母美由 佐氣都志摩美由
おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島 自凝島 檳榔の島も見ゆ放つ島見ゆ
(B).夜麻登弊迩 邇斯布岐阿宜弖 玖毛婆那禮 曽岐袁理登母 和禮和須禮米夜
倭方に 西風吹き上げて 雲離れ退き居りとも 我忘れめや
まず(A).の歌から考えみよう。
「是に天皇、其の黒日売を恋ひたまひて大后を欺きて曰(の)りたまひしく「淡道島を見むと欲ふ。」とのりたまひて、幸行でましし時、淡道島に坐して、遥に望(みさ)けて歌ひたまひしく、」
と説明されている。歌には淡島・自凝島・檳榔の島・放つ島の四島が歌われている。一見して多島海の景観が目に浮かぶ。「なには」を大阪としては相応しくない光景だ。だが、なにはを大阪から切り離すことができなければそれは妄想にすぎない。しかし『和名類聚紗』(復刻本・日本古典全集)には、「讃岐国、寒川郡、難破・石田・長尾・造田・鴨部・神崎・多知」とある。「なには」は大阪以外にも知られていた。それゆえ、「なには」は大阪という既成概念から離れて考えてみなければならない。
さてこの「なには」を推定することはそれほどむずかしいことはない。ヒントは「おのごろ島」だ。この島が『古事記』に初めて出てくるのは、伊邪那岐・伊邪那美二神による国生み神話の場面だ。「其の矛の末より垂り落つる塩、累り積もりて島と成りき。是れ淤能碁呂島なり。」ここに登場して以後、途中淤能碁呂島の移動、変更は記されていない。したがって、国生み神話の淤能碁呂島と、黒日売歌謡の淤能碁呂志摩とは、同じ島とみてさしつかえなかろう。用字もまた双方同じなのだから。
さて、この国生み神話の淤能碁呂島が、博多湾にある能古島であったことは、先の『盗まれた神話』で明らかにされている。ならば一連の島々もその近辺であることは道理であろう。(淡島もまた国生み神話に登場する)。
すなわち黒日売歌謡の「なにはの崎」も、淤能碁呂島の論理から博多湾にあったことになろう。淤能碁呂島が、なにはの崎から見えているのだから。またこの歌は多島海の景観を歌っているのでは、と先程述べた。大阪では相応しくなかったが、博多湾の光景としてはよろしいのではないか。かつての博多湾がより深く陸に湾入していたことは、万葉歌の故地が、埋立てによって著しく変っていることでも知られている(『九州の万葉』桜風社、等々)。また最近九州の灰塚照明氏は、住吉神社絵馬による博多古図なるものを紹介しておられる。それによっても古代の博多湾の状況が窺われる(なお青山富士夫氏より、檳榔の島が植物のアジマサによるのであるならば、アジマサとはビロウ〈ビンロウではない〉であるらしく、その分布は、福岡県沖の島、四国の足摺岬以南にあることを教えて戴いた)。
次に(B).の歌について考えてみよう。この歌は仁徳が吉備に行き、黒日売と楽しく遊んだ後、やまとへ帰る時、黒日売が仁徳に献った歌だ。「天皇上り幸でます時、黒目売御歌を献りて曰しく」と説明がある。
この歌は上三句、雲離れ、までが序で、歌意は、大和の方向に西風が吹いて、雲が離ればなれになるように、遠く離れて(退いて)いても、私はあなたを忘れようか、忘れはしません、等と解釈されている。なるほど、退きおりとも、以下はこれで問題はなかろう。しかし上三句には異論がある。
まず雲離れ、だが、この句の意味は二通りあろう。一つには雲と雲とが離れる意。もう一つには山(峯)から雲が離れる場合も雲離れではないか。この歌の場合は、西風が吹き上げて、と歌っている。西風に吹かれて雲と雲とが離ればなれ、ならいいのだが、吹き上げて、であるから、下から上に風が吹く状態だ。高い山の頂きにつく雲、そこに風が吹き上げて雲が頂きから離れる様、それがこの歌の情景ではないか。
それよりも問題なのは「やまとへ」の「へ」の解釈だ。「へ」の用法には、(イ)場所を指す場合「辺」と、(ロ)方向を示す場合「方」の二通りがある。従来の解釈、(ロ)の用法では、この歌の場合不自然なのだ。なぜなら、西風に吹かれて行く雲、その雲の行く先は近畿だ。仁徳のいる場所だ。したがって、東に流れる雲を見て、東にいるあなたを思い出します、と歌うのなら自然なのだ。しかしあなたのいる場所に向かって流れる雲、それによってあなたを忘れません、と歌うのはどうもしっくりしないではないか。そこで(イ)の用法「辺」(倭辺に)によって解釈すると素直に読めるのだ。倭に西風が吹き上げたのだ。雲は吹き飛ばされて吉備にいるのだ。
あなたと一緒に暮らした倭、その倭の高い山(あなた)に寄り添う雲(わたし)、そこに(倭に)西風が吹き上げて引き離される雲、そして今わたしは退いて吉備におります。あなたは倭にお帰りになりますけれども、わたしはあなたのことは決して忘れはいたしません。そう黒日売は歌っているのではないか。
したがって倭は吉備よりも西でなければならない。近畿ではなく筑紫だ。ついでにいえば西風は大后石之日売の嫉妬の嵐であろう。この物語りは、「其の大后石之日売命、甚多く嫉妬みたまひき」で始まる。この歌は筑紫と古備の関係を物語っている歌だ。
従来この歌が、(ロ)の用法で解釈されてきたのは、実は歌そのものによってではなく、仁徳記にあることによって解釈されてきたのではないか。仁徳=なには=大阪であり、常に権力中心は近畿にあり、という先入観に囚われてきたからだ。歌そのものが持つ意味と、歌が置かれている場所との矛盾、そこに目が向かなかったからではないか。見出された矛盾は解かれねばならない。
黒日売歌謡における「やまと」「なには」はいずれもが近畿ではなく筑紫であった。ならばこの物語りの主人公は仁徳ではない。筑紫の大王伝承だ。それが仁徳記に盗用されていたのだ。
なには、が大阪に限定した地名ではないことは先にふれた。黒日売歌謡のなにはも筑紫であったことも述べた。それではなにはとは如何なる意味を持つ地名なのであろうか。すこし考えてみよう。
なには、とは「ナ・ニハ」の意ではなかろうか。「ナ」とは、肴・菜・魚であり、熟して、酒肴・御菜・真名等々に記される。
酒肴の酒は、古代において、今日わたしたちが日常茶飯に飲むそれではなく、神への捧物ではなかったか。
この御酒(みき)は 吾が御酒ならず 酒(くし)の神 常世に坐(いま)す 石(いわ)立たす 少名御神の 神[示壽](ほ)ぎ 寿ぎ狂(くる)ほし 豊寿ぎ 寿き廻(もとほ)し 献(まつ)り来し 御酒ぞ 乾(あさ)さず食(を)せ ささ(仲哀記)
[示壽](ほ)は、JIS第3水準ユニコード79B1
その酒とともに供物として、肴があったのではないか。「肴は饌と同じ、饌は供え物、神饌」(『諸橋大漢和辞典』)
また「菜」も今日の野菜の意ではあるまい。黒日売物語りにも大御羮としての菜があった。また神に供える若布も菜であった(万葉歌)。
一方真魚とは、「ナ」のうちの真の供物が魚であることをいうのではないか。中国では酒肴とは、酒と獣肉であり、わが国の酒魚と同じであるという(『字訓』)。ここには海に生きる列島人と大陸人の違いがあらわれているのであろうか。「ナ」とは、もと神への供え物、神饌をさす言葉ではなかったか。
「ニハ」は、齊庭・沙庭等々記される。神を祭る場所を「ニハ」という(『字訓』)。
仲哀記には、「天皇筑紫の詞志比宮に坐しまして、熊曽国を撃たむとしたまひし時、天皇御琴を控かして、建内宿弥大臣沙庭に居て神の命を講ひき」とある。
「ナニハ」とは、もと神饌を捧げ、神まつりする場所をさす言葉ではなかったか。なには津、とはその神饌を集積する港の意だ。そうであるならば筑紫に、なにはがあって何の不思議もない。それゆえ筑紫には、儺縣・儺河・那之津等々「ナ」地名が残存したのではないのか。宣化紀は「それ筑紫の国は、遐(とほ)く迩(ちか)く朝(もう)で届(いた)る所、去来の関門にする所なり。是を以て海表(わたのほか)の国、海水(しほ)を候ひて来賓き、天雲を望(おせ)りて貢奉る」と記す。国内に限らず、海外の国も奉貢する場所として那津を上げている。さらに継体紀は「夫れ住吉神社、初めて海表の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那等を以って胎中譽田天皇に授けまつれり」と記す(この宣化紀・継体紀の記事が一連のものであり、胎中の君が磐井を指すことは既に古田武彦氏によって明らかにされている。『古代史60の証言』)。
朝鮮半島の国々を倭国に授けたのは住吉大神であるという。したがって、海表の国々は住吉大神に奉貢するのだ。つまり、神まつりする場所=住吉神社。神饌を集積する港=那津、の関係がここにみられるのではなかろうか。しかしなには津は消される運命にあった。それを推定せしめる記事が斉明紀にある。「御船、還りて娜大津に至る。・・・天皇此を改めて、名をば長津と曰ふ。」なには津=那津=娜大津であるならば。現在も住吉神社は博多に鎮座する。先程らい述べてきたことが誤りでないならば、なには津の故地はその近辺に求められるのではないだろうか。
仁徳紀の黒日売歌謡の解釈から、そこにある「やまと」「なには」が筑紫にあったと述べてきた。またその物詰が盗用であるとも推定した。ここに有名な、なにはづの歌がある。
この歌の真実はいかがであろうか。
なにはづに さくやこのはな 冬ごもり いまははるべと さくやこの花(『古今和歌集』仮名序)
この歌を考えることによって、先に述べた盗まれた大王伝承をさらに深めてみよう。
なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり(おほささぎのみかど、なにはづにて、みこときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、くらゐにつきたまはで、三とせになりにければ、王仁といふ人のいぶかり思ひて、よみてたてまつりける歌也。この花はむめの花をいふなるべし。)(『仮名序』)
仮名序古註によって、この歌が大雀=仁徳にまつわる歌であることが知られる。梅の花が冬をすぎて春に咲いた。唯それだけの歌とみるならば何の感動も覚えまい。しかし「冬ごもりいまは春べ」がただ季節のみをさしているのではなかろうことは容易に想像がつこう。仁徳治世には『記紀』ともに「国中烟発たず、国皆貧窮し」と、困難な時代があったことを記す。「五穀実らず」であったという。
その要因は何か。天候不順、伝染病の流行等々が考えられよう。しかし『記紀」はそれについて語らない。いや一つだけある。応神の死後、宇遅能和紀郎子、大山守命、大雀命の三兄弟によって、王位継承戦争があったことを記す。仕掛人は仁徳であろう。
まず宇遅能和紀郎子と大山守命を闘わせ、大山守命を倒す。その後宇遅能和紀郎子もなぜか死亡する。死の理由は不明だ。あまりにも仁徳にとってうまくできすぎている。仁徳仕掛人たる所以だ。なぜ大雀は大山守が郎子を殺そうと考えているのかを知り得たのか。なぜ大山守の計画を郎子に告げたのか。その答は、大雀がそのストーリーを描いたからではないか。なぜ郎子の死因が不明なのか。大雀が殺したからではないのか。
さて、その王位継承戦によって国は荒廃した。その時代が「冬ごもり」なのではないのか。仮名序古註は「くらゐにつきたまはで三とせになりにければ」と記す。三年間の免税は、じつはこの期間のことではないか。王位継承戦とその後の荒廃は、とても課役など無理な状況ではなかったか。また免税は人気取り政策の側面もあろう。ともかく仁徳はライバル二人を倒し王位に就いた。その晴れがましい喜びの時、それが「今ははるべ」なのではないか。「なにはづの歌」は仁徳雌伏の時代と、その後に迎へた絶頂の時を歌っている。
さてこの歌が、仮名序にいうがごとく仁徳の時代のものかどうか、古くから疑いがもたれてきた。仮名序の記載をそのまま信ずる藤原清輔(一一〇四〜一一七七)の説。『記紀』『万葉集』に記載のないことから疑う契沖(一六四〇〜一七〇一)。賀茂真淵(一六九七〜一七六九)は「奈良の都の末の人、古を思ひては読みつらん」と推定した。また加藤宇万伎(一七二一〜一七七七)は『日本紀竟<饗?>宴歌』で、「大雀天皇を題したもので、嵯峨天皇、弘仁三年(八一二)の御講の際の歌であろう」とし、その後この説が通行したという(『書道全集・日本I』 平凡社)。現代に至って法隆寺の昭和大修理によって、五重塔が解体され多数の落書が発見された。そのうちの一つ天井裏組木に「奈爾波都爾佐久夜己」と書かれてあった。「なにはづにさくやこ」で始まる歌は『古今集』仮名序にしかなく、仮名序の歌の時代比定に混迷を来したようである。
さて法隆寺に関しては、米田良三氏は、それが筑紫観世音寺から移築されたとし、観世音寺での建築年代を七世紀初めとしておられる(『法隆寺は移築された』)。この説に従えば、なにはづの歌は六、七世紀に筑紫で通行していたことになる。
ここにもう一つ「なにはづの歌」がある。青山富士夫氏は同じ歌が筑紫の志賀海神社に伝存していることを見つけ、民俗学的視点から、この歌の原郷が筑紫であろうと推定し、そこから難波・博多説を展開しておられる。
仮名序にある「なにはづの歌」と、志賀海神社、法隆寺落書のそれと、いずれが元なのか、仮名序にもどってさらに検討してみよう。
仮名序は、なにはづの歌がみかどの始めである大雀に奉られた歌だという。みかど、を古典に求めると、御門・国家・皇宮・朝廷・宝祚・闕等がある。『字訓』によれば「御門・廷」皇居の門、また天子をいう、とある。
いづれにしてもこれらの文字で表現されるものが、仁徳によって始められたということにはなるまい。『記紀』ともにそのような徴証はない。王権は神武以来一貫していると主張している。またこの歌には梅が歌われている。梅の伝来は、万葉歌等によって七、八世紀といわれている。するとみかどの始めであり、梅を類えて歌われる王は仁徳ではあるまい。
この時代、朝廷を開き、梅を中国からもたらすことができた大王は誰か。それは『宋書』が記す倭の五王、その最初の大王、倭讃ではないか。
高祖永初二年(四二一)詔して曰く「倭讃万里貢を修む、遠誠宜しく甄(あらわ)すべく除授を賜う可し」(『宋書』倭伝)
壱与以来途絶えていた中国との国交を回復した大王だ。当然『宋書』に記された事柄だけが中国との交流のすべてではあるまい。倭人伝の例を引くまでもなく、さまざまな文物がもたらされたであろう。倭国史に画期をなす時代だ。それが「なにはづの歌」=倭讃の時代ではなかったか。
以上のような理解に立つと「今ははるべと咲くやこの花」の背景が鮮やかに見えてくる。さきほど仁徳雌伏と成功の時代を歌った歌だと述べた。当然それは仁徳に仮託された倭讃の姿だ。朝廷を始めたという仁徳像は、王権一貫を主張する『記紀』には書けなかった。それが歌集の序文として、この伝承が残った理由ではないか。さらに思い至るのは、九州王朝への讃歌「君が代」もまた一連の歌ではなかったかと(『「君が代」は九州王朝の讃歌』)。『古今和歌集』・志賀海神社と、二つの歌のたどった運命がそのように語っていると思えてならない。
仁徳記への疑問は冒頭にふれた。聖帝の世の意味が、唯三年の免税だけを指すのではなく、今まで述べてきたような、仁徳に盗まれた倭讃の業績、とりわけ中国との関係を重ね合わせて見ると、聖帝と呼ばれる理由が理解できるように思う。また『万葉集』のもっとも古い歌が磐姫の歌であることの意味もこのあたりにあるのではなかろうか。
以前わたしは『万葉集』巻五・梅花の宴の歌々が、梅=九州王朝のシンボル、というキーワードを挿入することによって、新たな解釈が生まれてくることを述べた。
また鈴鹿千代乃氏の『筑紫舞聞き書き』からヒントを得て、梅花の宴の淵源が、九州王朝の「神事=梅まつり」に始まるだろうことも述べたことがある。その「梅まつりしも「なにはづの歌」の新たな解釈から、倭讃の時代に始まるのではないかと今は考えている。
倭讃によってもたらされた倭国史の画期、その大王の業績は、じつは仁徳記その他に盗用され、まだまだ埋れているのではないだろうか。
仁徳記・黒日売歌謡に歌われている、やまと・なにはの検証にはじまり、なにはづの歌の解釈を通して、ついに倭讃に行き合うこととなった。わたしはどこかで道をまちがえているのであろうか、そうでないならば『古事記』が描く仁徳像を、さらに追求してゆきたい。