古田武彦
一
昨年(一九九六年)三月、定年退職の日を迎えた。昭和薬科大学(東京都)である。今は竹林の間、洛外に朝夕を迎える。
初心に帰し、第一歩より学びはじめたこの一年間、思わざる発見に遭うた。日本の歴史の根源にかかわるテーマであるから、各界の諸賢に御報告申し上げたい。
昨秋、ある方(古賀達也氏)からの質疑が発端となった。旧唐書に「日本国王(桓武天皇)夫妻が唐に来た」旨の記事がある。どう思うか、との問いだった。かつて聞いたことのある話だったけれど、聞きすごしていた。今回は、取り組んでみた。
「(貞元二十一年、八〇五)甲寅、釋仗内厳懐志、呂温等一十六人。(中略)至是方釋之。日本國王并妻還蕃、賜物遣之。」《旧唐書、順宗紀。(中華書局、表点本)》
確かに「日本国王并(なら)びに妻、蕃に還る。」というのは、「八〇五」とあれば、桓武天皇の延暦二十四年だ。だが、桓武天皇夫妻の渡唐など、聞いたこともない。そこで旧唐書内の用語追跡に没頭した。判明した。何のことはない、表点本の「誤読」だった。「方(まさ)に釋(ゆる)す日、本国王(吐蕃国王)并(なら)びに妻(めと)り蕃(吐蕃)に還る。」が「正解」だった。吐蕃伝に頻出する「本国」の用例、「妻」は動詞、「妃」は名詞、の用法、吐蕃王の唐朝への女性要求(親戚関係の構築)等の史実を追う中で疑いようもなく明白となった。第一、実録性の高い続日本紀にその気配すらないのである。
一件落着のあと、新たな疑いが生じた。「あの新唐書日本伝も、新中国側(表点本)の誤読なのではないか」と。“中国側の読んだ漢文の「読み方」は正しい”、この「信仰」がわたしの脳裏から崩れ落ちたのである。
二
やはり、そうだった。第一の不審は、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。」〈新唐書、日本伝(中華書局、表点本)〉
だった。「次に用明、亦(また)目多利思比孤と曰(い)う。隋の開皇の末(六〇〇)に直(あた)り、始めて中国と通ず。」だが、用明天皇(五八五〜五八七)とは、時間帯が“ずれ”ていたのである。これも「誤読」だった。「次に用明、」で上文は終る。次に、
「亦、目多利思比孤と曰く。隋の開皇の末に直り、始めて中国と通ず。次は崇峻、崇峻死し、欽明之孫、雄古(「推古」。忌避字※か。)立つ。」(※中国の皇族の名を避ける)
こう読むと、崇峻天皇(五八七〜五九二)推古天皇(五九二〜六二八)の時間帯と“矛盾”がなくなったのだ。この「亦」以下の“前提”のもとに「崇峻・推古の時代」を“解説”していたのである。
三
本番は、その直後だった。
右に現れている「目多利思比孤」とは何か。隋書イ妥(たい)国伝に有名な一節がある。「開皇二十年(六〇〇)、イ妥王あり、姓は阿毎(あま)、字(あざな)は多利思比孤、」(「南史」では「多利思比孤」)
隋書は、唐の魏徴(五八○〜六四三)、南史は同じく唐の李延寿の撰。後代の宋の宋祁(九九八〜一〇六一)らの撰である新唐書は、“隋書・南史”を見た上で作られている。読者も当然、右の二書を見ている。とすると、
(A)多利思比孤×目多利思比孤
(B)多利思比孤=目多利思比孤
いずれと考えるか。これが問題だ。当然(A)と見なすのが“筋”であろう。なぜなら、もし(B)だったとしたら、「今まで知られていた“多利思比孤”はまちがいだ。本当は“目多利思比孤”である。」
といった、一説明ほしいところ、と思うのは、果して無いものねだりだろうか。
「大統領=副大統領」
などという道理がないように、(A)の理解、それが文章理解の“本筋”なのではあるまいか。
四
その点、この日本伝全体の構造を読み直してみると、一層明白となってきた。
〈第一系〉(「日本は古の倭奴なり」につづき)其の王の姓、阿毎(あま)氏、自ら言う、初主は天の御中主と号す。彦激(ひこなぎさ)に至る、凡そ三十二世、皆「尊」を以て号と為し、筑紫城に居す。
〈第二系〉彦瀲の子、神武立ち、更に「天皇」を以て号と為し、徒(うつ)りて大和州に治す。(以下、綏靖以降の歴代を記し、先述「用明」に至る。)
すなわち、新唐書日本伝の記述は、この日本に「新古、二系の王家」がある、と明記しているのだ。
〈第一系〉「阿毎家」ーー筑紫
〈第二系〉「天皇家」ーー大和
そして肝心の一点、それは七世紀(隋代)になっても、この「阿毎家」は断絶していない。その証拠が、「先行の正史」である隋書の、
「開皇二十年、イ妥王あり、姓は阿毎、字は多利思比孤、」
の一節なのである。とすれば、
〈第一系〉多利思比孤(或いは多利思北孤)
〈第二系〉目多利思比孤
これが、新唐書の主張なのである。
五
明治以降の「学校教育」で日本の歴史を習ってきた、そういう歴史素養の方には、或いは右の論述は“奇異”に見えるかもしれない。当然だ。
だが、これを決定づけるもの、それは「始」の一語である。先述の、
「隋の開皇の末に直り、始めて中国と通じ、」
の一節だ。
「神武」から「用明」までの、歴代の「天皇家」は、われわれ中国側と「国交」を結んでは来なかった、と言っているのだ。
そして「六〇〇」年頃、すなわち七世紀のはじめ、隋代になって、「はじめて」われわれ中国の王朝と「国交」を結びにやってきた。その「資格」(名乗り)は、「目、多利思比孤」としてであった。そう言っているのである。
中国側、新唐書の著者も、読者も、もちろん、あの三国志を読んでいる。知っている。すなわち、魏朝へ国使を送り、「親魏倭王」の金印をもらった、高名な女王「卑弥呼」の存在を知っている。中国歴代、対外交流の中でも、外国(夷蛮)の王者として、卑弥呼はまことにユニークな、“輝ける女王”なのであるから。
しかし、新唐書は「あの女王は、『天皇家』(大和)の王者ではなかった。」そう言っているのである。
次いで、倭の五王。五世紀の宋書だ。ここにも、有名な「倭王武の上表文」がある。あれほどの長文、見事な漢文で書かれた、外国(夷蛮)の王者の国書、それを中国の正史に掲載した例は、史記以来の歴代の史書中、数多くはない。新唐書本伝の著者は、もちろん読んでいる。この日本伝を読むような、インテリの読者も、もちろん知っている。
「しかし、あの『倭の五王』は『天皇家』ではなかった。」
そう言っているのである。「始めて」という一語のもつ意味は、それほど重い。それほど深いのである。
ーーそして「六〇〇」年になって、わたしたち中国側は、“はじめて”この〈第二系〉に当る「天皇家」の使者に面接することとなった。
新唐書日本伝は、そう主張していたのである。
六
「しかし」と、ある人は言うであろう。「そんなのは、ただ、その新唐書という本の主張がそうだというだけじゃないか。その主張が正しい、という証拠がどこにある。」
まことに、その通り、と見えよう。しかし、実は、そうはいかないのだ。なぜなら、この新唐書に「先行した史書」として、先にも名の出た、旧唐書がある。そこでは、
「倭国は古の倭奴国なり。(中略)其の王、姓は阿毎氏(下略)」(倭国伝)
「日本国は倭国の別種なり。(中略)或は云う、日本は旧小国、倭国之地を併(あわ)せたり」(日本国伝)
というように、「倭国」と「日本国」と、別伝が立てられ、次の事項が明記されている。
(一)古の倭奴国(五七、後漢)から近年の白村江の戦(六六二※、唐)までは、終始“九州中心”の「倭国」であった。(※日本書紀では六六三)
(二)八世紀はじめ(七〇二、唐の則天武后の時)以降、はじめて“大和中心”の「日本国」となった(「倭国併合」倭併述)。
この点、わたしが昭和四十八年に朝日新聞社から上梓し、一時角川文庫を経て、今再び朝日文庫(増補版)に入っている『失われた九州王朝』をお読みの方は、先刻御承知のところであろう。
「しかし、新唐書がある。そこでは“正しく”『日本伝』だけに統一されているではないか。」
これが、従来の「一元」論者にとって、最後の拠点、よりどころだったのである。
だが、それは「皮相」の見方だった。なぜなら新唐書の百済伝で白村江の戦を叙述する時、「(龍朔二年、六六二・七月)〈百済王の余豊〉高麗・倭と連和す。(中略)残衆及び倭人相率いて命を請う。」と、すべて「倭」と書き、「日本」とは全く書いていないからである。
すなわち「七世紀末までは倭国、八世紀初からは日本国」という歴史の骨組み、その大筋の理解において新唐書は旧唐書と、全く同じ世界理解に立っているのである。
のみならず新唐書は、旧唐書の未だ及ばなかったところを記録した。すなわち〈第一系〉の倭国の歴代の王者は「阿毎(=天)」を以て姓としていたこと、それは一世紀(後漢)から七世紀末(唐)まで一貫して筑紫を中心域としていたこと、一方、その“分家筋”に当る〈第二系〉の天皇家は、七世紀初頭(六〇〇、隋)まで、われわれ中国の王朝とは“没交渉”であり、少なくとも「正規の国交」はなかった(「倭国」の一部であった)。
アジア最大の文字文明たる中国、特にわが国と最も国交関係の深く長かった唐朝は、以上を自明の史実として確認していたのである。
「旧唐書も、新唐書もなくてもいいさ。古事記、日本書紀がある。」
そのようになお、言いつづけようとする人々があるだろうか。その通り、当面は教科書も、学界も、その立場を崩さないであろう。なぜなら明治維新以来、薩長政権の樹立した「国是」とそのような「歴史素養」を培養されてきた大量の人々と、四代の“有権、歴史解釈者”たちがみずからを保身しつづけようとするからである。
その人々は言うであろう。「もしそれがまちがっていても、わたしはそう信じる」と。
七
歴史を恐れてはならない。そのような必要は全くない。なぜなら歴史の真実を知ることは、人間を知ることであり、われわれの国家を知り、真に愛することだからである。明治維新当時の「国家事情」、敗戦当時の「国家事情」、さらには現代の日本国家を取り巻く政治事情、それらによって「教科書の歴史」は書き変えられるであろう。当然のことだ。
だが、わたしは一回も心配したことがない。一刻とて憂えたこともない。なぜならそれらは「一時いっときの事情」が過ぎ去れば、台風一過、人間の歴史の面前ではかなく消え去る運命以外にありえないからである。いかなる「有権解釈」も、人間の「目」の前にあっては、時として太陽光の前の、氷のひとかけらにすぎぬ。わたしは敗戦の時、青年の「目」でまざまざとそれを見たのである。
「聖人、腹と為し、目と為さず。〈注〉腹、内なり。目、外なり。聖人内を務め、外を務めず。」〈老子、十二〉」
「目」には“かしら”“支配するもの”“長官”の意義がある。わたしの中学時代(広島二中)の友人に「目(さっか)」君がいた。“左官”の意であろうか。学士会にも故・目(さがん)武雄氏がおられた。「目代」(朝野羣載、二十二)も後代にあった。
古くは、旧唐書経籍志上(巻四十六)に「四萬巻目」と言い、「名目首尾」と言う。今問題の「目」は「多利思比孤」という「名」(字)に対して、「目(もく)」の立場を称する「漢字称号」だったのであろうか。
或いは「目」という“職名”の横下に「多利思比孤」という、倭国王の自署名が付せられていた。その国書の記載様式(唐側に贈られた、倭国側の国書)の反映かもしれぬ。楽しき今後の課題としたい。(倭国側の漢語使用については前掲書及び『日本列島の大王たち』第四部〈朝日文庫〉参照)
八
先人の書に親しみ、竹間の小道を逍遙する毎日であるが、東北大学時代の恩師、村岡典嗣(つねつぐ)先生の玉稿「日本学者としての故チャンブレン教授」(昭和十年「文化」第二巻第五号)を読み、愕然とした。
チャンブレン(バージル・チェンバレン Chamberlain Basil Hall 1850〜1935)の著述には、わたしが求めていた一視点(明治国家に対する観察)が、滞日時代の研究に基づき、クールに語られていた。後にわたしが『神の運命』(昨年明石書店刊)で探求した問題意識を、英国に生まれ、スイスのジュネーブで没した一碩学があかあかとすでに見通していたように見える。「先人!恐るべし」と言う他はない。だから竹林の日々の勉学は楽しいのである。(一九九七・五月八日記了)
本論文は「学士会会報」(第816号)に掲載されたものを転載させていただきました。(編集部)