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新・古代学 古田武彦とともに 第6集 2002年 新泉社

「太安万侶墓誌」干支の謎を解く

洞田一典

 一九七九年一月二十三日、『古事記』の編者として名高い太安万侶の墓が奈良市東部にある茶畑から発見された旨の発表がなされました。安万侶のものだと判明したのは、長さ二十九センチ・幅六センチばかりの銅板に刻まれた、左記の墓誌銘からです。
 発見の当初から話題になったのは、そこにある二つの日付けについてでした。

________________________

 左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
 年七月六日卒之  養老七年十二月十五日乙巳

________________________

 (1) 癸亥年七月六日
 (2) 養老七年十二月十五日乙巳
『続日本紀』(以下続紀と略記します)によれば、元正天皇の養老七年(七二三)は癸亥の年で、その記事に、
 《秋七月庚午、民部卿従四位下太朝臣安麻呂卒》
とあります。大宝元年以降は、年を表すのに、(2)のように年号で呼ぶことになっていたにもかかわらず、(1)にあえて干支を用いたのは、(2)の養老七年の重複使用を避けたためでしょうか。
 さて、続紀の干支は儀鳳暦(定朔)によっています。七月朔は甲子ですから庚午は七日となり、墓誌の六日とは異なっています。墓誌には六日の干支が記してありませんので、続紀と矛盾する理由は不明です。おそらく、役所への届けの受付日と、死亡届にあった日付けの差ではないかと考えます。
 百家争鳴の騒ぎとなったのは、(2)の方でした。十二月は壬辰朔でしたからその十五日は丙午のはずです。乙巳では前日の十四日になってしまいます。これがいわゆる「太安万侶の墓の謎」の一つになりました。国立博物館刊行『MUSEUM』第三六五号(一九八一年八月)に、李家正文氏による右の表題の文が載っています。
 さて、この日付けの食い違いを合理的に説明するのには、当然のことながら暦学からのアプローチが最有力だと考えられます。ここで、有坂隆道氏の『古代史を解く鍵 ーー暦と高松塚古墳』(講談社学術文庫、一九九九年二月)、第八章「太安万侶墓誌の年月日をめぐって」から少々辛口な文章を引用させていただきます。

「これ(日付けの相異のことー引用者注)についても、新聞や雑誌に諸氏がいろいろな解釈を提案しておられます。しかし、少なくとも私が読みましたかぎりでは、それらはすべて単なる思いつきや当て推量で、間違いだらけだ、といわねばなりません。(中略)ところが、「暦の違い」を口にされた方は多いのですが、それではいったいどんな暦が使われていたのか、それを証明できた人はありません。それを明らかにせず「暦の違い」を唱えて、なんとなく納得がいったような気になってみても、まったく意味がないでしょう。いろいろな説がありますが、全部成立しがたい説ばかりなのです。ですから、結論的にいえば、この墓誌の問題は、いまだにまったく解決をみておりません。」

 随分以前の文章ですから、その後に新しい進展が見られたかも知れません。しかし、今回私もその解答らしきものを得ましたので、有坂先生のご叱責を覚悟の上で披露させていただきます。ご覧ください。
 養老七年(七二三)までに、わが国に招来された可能性のある中国暦をつぎに挙げます。
 なお、益山健氏のホームページ『暦入門』にはたいへんお世話になりました。厚くお礼申し上げます。

 (1) 太初暦  前漢の武帝は太初元年(一〇四BC )新しい暦「太初暦」を制定しました。前漢も終わりの頃に劉[音欠](りゅうきん)が「三統暦」を作りましたが、少なくとも月朔に関しては太初暦と同一と見られています。
 『漢書2』(ちくま学芸文庫、小林武夫訳)律暦志第一下には、注釈付きのくわしい解説があります。
劉[音欠](りゅうきん)の[音欠]は、音編に欠。JIS第三水準ユニコード6846

 (2) 後漢四分暦  一年の長さを365+1/4日とします。端数が一日の四分の一であることが名の由来です。章帝の元和元年(八四)以降に行用されました。

 (3) 乾象暦  『晋書』・『宋書』の律暦志によりますと、後漢末には天文観測に基づいて、年の端数を1/4から145/589=0.24618 に改めた新しい暦が劉洪によって創始されます。他の定数も変わっています。呉の孫氏はその滅亡(天紀四年、二八〇)までこれを用いました。

 (4) 景初暦  これも同じ頃、楊偉により作られ、(曹)魏で行われます。名前を変えながら、晋・宋と使われ続けました。年の端数は455/1843=0.24688です。

 (5) 元嘉暦  宋の文帝元嘉二十二年(四四五)何承天によります。南朝斉・梁でも使われました。倭国へも割合早く伝来したようですが、はっきりしたことは分りません。『日本書紀』の雄略紀以降、日の干支が元嘉暦で書かれていることはよく知られています。

 (6) 大明暦  おなじく宋の祖沖之が始めました。閏月の置き方に新工夫があります。彼の死後、梁の武帝が天監九年(五一〇)に採用、陳の滅亡まで南朝で使われました。

 (7) 大業暦  隋の煬帝大業四年(六〇八)、劉[火卓]が生前作成していた暦を公布、唐の高祖武徳元年(六一八)まで。
劉[火卓]の[火卓]は、火偏に卓。JIS第四水準ユニコード712F

 (8) 戌寅暦(平朔)  はじめ定朔法を採用していましたがクレームがついて、唐の太宗貞観十九年(六四五)から平朔に戻ります。高宗の麟徳二年(六六五)まで使用。

 (9) 麟徳暦  唐の李淳風作。持統四年(六九一)頃「儀鳳暦」の名でわが国へ伝来。本来は定朔法で『続日本紀』はこれによります。平朔として、『日本書紀』の神武紀から允恭紀まで月朔干支に使用されていることが、昭和二十一年(一九四六)八月、小川清彦氏により明らかにされました。

 墓誌にある養老七年十二月十五日の干支をこれら九種の暦により推算してみた結果が次ぺージにある表です。ただ麟徳暦の定朔だけ『日本暦日原典』(内田正男、雄山閣)から引用したほかは、いずれも筆者が計算を行いました。したがって数値についての一切の責任は筆者にあります。
 なお、カッコ内の数字の整数部分は干支番号(甲子は00、癸亥は59、後出の干支表を参照)、小数部分は時刻(午前六時は、0.25、正午は0.50)です。

 

養老七年十二月

暦 名 十二月朔の干支 十五日の干支
太 初 乙未(31.2099) 己酉
後漢四分 甲午(30.3255) 戊申
乾象 辛卯(27.9163) 乙巳
景初 壬辰(28.1860) 丙午
元嘉 壬辰(28.1343) 丙午
大明 壬辰(28.1505) 丙午
大業 壬辰(28.1997) 丙午
戊寅平朔 壬辰(28.1695) 丙午
麟徳平朔 壬辰(28.1513) 丙午
麟徳定朔 壬辰(28.5679) 丙午

 ご覧のように乾象暦のみが、墓誌の十五日の干支「乙巳」に一致しています。念のため七月朔も調べてみました。乾象暦も続紀の儀鳳暦も、ともに甲子で日付けの相違を暦から説明することはできませんでした。
 続紀に載る太安万侶の官人としての経歴は、慶運元年(七〇四)従五位下。その後累進して霊亀元年(七一五)従四位下、ついで氏上(うじのかみ)となり、さらに民部卿に任じられ在任のまま死亡しています。
 安万侶は氏上として太氏一族を束ねる立場にありました。彼の葬儀に際し墓誌の干支にあえて呉の暦を用いたことは、この一族のアイデンティテイを確保するために欠かせない行為であったと思われます。
 さらに穿った見方をすれば、太氏一族は呉国滅亡を原因とする、わが国への亡命者でした。渡来の時期についてははっきりしません。いずれの土地にいたとしても、故国に寄せる想いをこの暦に託してかたくなに、しかもひそやかに長い年月守り続けてきたのでしょう。古事記序文の見事な漢文とか、乾象暦の暦算能力を見れば、彼等が当時最高の知能集団であったのがわかります。

 いささか歴史のロマンに浸りすぎたようです。三角縁神獣鏡の呉工人作製説もあることです。この小論が、呉からの渡来人研究の一助になれるなら、筆者にとっても喜ばしい限りです。
     (二〇〇一・五・三〇)

 

〈付録その一〉 月朔計算のための基本定数

 元嘉暦を除けば、他の八暦(平朔)はすべて月朔干支計算の基点を「上元の前年十一月朔が甲子の夜半(午前〇時)で、かつ冬至でもある」時点に置いています。この時点は簡単に「甲子朔旦冬至」と呼ばれます。このような条件完備の年は勝手に決められるわけはなく、観測値にもとづく二元一次不定方程式を解いて得られるものです。
 元嘉暦では、冬至の代わりに一月中気の「雨水」を採用し、上元の正月朔が甲子朔旦雨水になるとします。なお、ここでいう「上元」は、暦によって呼び名が変わります。
 各月の平朔を求めることだけに限定すれば、
  (1) 上元(暦の元となる年)
  (2) 一ヶ年(冬至からつぎの冬至までの日数の平均値)
  (3) 一ヶ月(月の満ち欠け周期の平均値、単位は日)
の三つが判明すれば可能です。
 具体的な平朔計算の方法は、「(付録その二)平朔計算法」をご覧下さい。数値については、古代中国では小数点記数法はありません。端数はすべて分数で表します。しかし、本稿での実際の計算は小数形式で行いました。

 (1) 太初暦
    上元=武帝太初元年(104 B.C.)
    一年=365+385/1539=562120/1539
    一月=29+43/81=2392/81

 (2) 後漢四分暦
    上元=文帝後元三年(161 B.C.)
    一年=365+1/4=1461/4
    一月=29+499/940=27759/940

 (3) 乾象暦
    上元=7172 B.C.
    一年=365+145/589=215130/589
    一月=29+773/1457=43026/1457

 (4) 景初暦
    上元=3809 B.C.
    一年=365+455/1843=673150/1843
    一月=29+2419/4559=134630/4559

 (5) 元嘉暦
    上元=5261 B.C.
    一年=365+75/304=111035/304
    一月=29+399/752=22207/752

 (6) 大明暦
    上元=51477 B.C.
    一年=365+9589/39491=14423804/39491
    一月=29+2090/3939=116321/3939

 (7) 大業暦
    上元=1427037 B.C.
    一年=365+10363/42640=15573963/42640
    一月=29+607/1144=33783/1144

 (8) 戊寅暦平朔
    上元=163723 B.C.
    一年=365+2315/9464=3456675/9464
    一月=29+6901/13006=384075/13006

 (9) 麟徳暦平朔
    上元=269217 B.C.
    一年=365+328/1340=489428/1340
    一月=29+711/1340=39571/1340

 暦定数が、すべて右のように原書に書かれているわけではありません。統一的に扱うため、筆者の方で計算して示したものもあります。百衲本二十四史は律暦志に誤記がきわめて多いのには悩まされました。中華書局標点本や暦学史の専門書などにより、正しいと思われる数値に直してあります。


〈付録その二〉  平朔計算法

 中国暦法については、
 『増補 改訂中国の天文暦法』(藪内清、平凡社)
 『増訂 隋唐暦法史の研究』(藪内清、臨川書店)
があります。いずれも現在出版社に在庫はないそうですが、日本語で書かれた中国暦についての書物の中では、代表的なものだと思われます。
 これらは本格的なものですが、容易な平朔に限定しても入手可能な本は意外に少ないようなので、煩項を厭わず以下に解説いたします。例として「乾象暦」をとり上げます。

〔1〕月朔を求める年を西暦N年とし、上元(7172 B.C.)の前年の冬至からN年の前年の冬至までの経過年数S=N+7171を「積年」といいます。面倒ですから、「ある年の前年の冬至」のことを「天正冬至」と呼んでおきます。
 一日の長さを時間の基本単位にとると、上元の天正冬至の日が甲子(干支番号00)の日、二日が乙丑(01)以下数えていって六十日目は癸亥(59)の日となります。六十一日目はもとへもどって甲子(00)の日になります。

干支番号表

00 甲子 01 己丑 02 丙寅 03 丁卯 04 戊辰
05 己巳 06 庚午 07 辛未 08 壬申 09 癸酉
10 甲戌 11 乙亥 12 丙子 13 丁丑 14 戊寅
15 己卯 16 庚辰 17 辛巳 18 壬午 19 癸未
20 甲申 21 己酉 22 丙戌 23 丁亥 24 戊子
25 乙丑 26 庚寅 27 辛卯 28 壬辰 29 癸巳
30 甲午 31 己未 32 丙申 33 丁酉 34 戊戌
35 己亥 36 庚子 37 辛丑 38 壬寅 39 癸卯
40 甲辰 41 乙巳 42 丙午 43 丁未 44 戊申
45 乙酉 46 庚戌 47 辛亥 48 壬子 49 癸丑
50 甲寅 51 乙卯 52 丙辰 53 丁巳 54 戊午
55 己未 56 庚申 57 辛酉 58 壬戌 59 癸亥

 一年の長さ(=Y)は冬至とつぎの冬至との間隔です。Y=365+145/589から60の整数倍を引けるだけ引いて、残りを5+145/589=5.246179966=Zと置きます。
 これは上元の天正冬至(干支0) の翌年冬至が十一月六日己巳(5は右表から己巳) の日の24 × 0.246179966=5.9083・・・(時)すなわち午前五時五十四分頃であることを示します。この場合干支は整数とは限りませんから、番号とは呼ばずに「干支指数」とでも云っておきましょう。求めるN年の天正冬至は、Z × S=(365+145/589) × Sとなり、これも 60 の倍数は除いて残った数をTと置きます。TがN年の天正冬至指数です。
 《例》 N=723(養老七年)のときは、
   S=723+7171=7894
   Z × S=(5+145/589) × 7894=41413.3446519
   ゆえにT=13.3446519を得ます。

〔2〕つぎは月の出番です。一ヶ月の長さ(=M) とは月の満ち欠け周期のことでした。乾象暦の場合は、
  M=29.53054221となります。
 十二ヶ月では 29.53054221 × 12=354.36650652 = 10.879673446 = U
 毎月の朔においては、太陽と月とが同じ方向にあり(重なれば日食。日中は眩しくて月は見えませんし、夜中は当然見られません)上元の天正冬至が甲子朔で干支指数0(十一月一日午前0時) ですから、十二ヶ月後も朔のはずです。
 翌年の冬至の干支指数は、
  Y - U =365.246179966 - 354.36650652 = 10.879673446 (=J)
 これを「一年の閏余」といい、Jとします。
  J =10.879673446
 これは一年間に冬至の干支が進む日数になります。
 J × 3=32.639020338 > 29.5305・・・
 つまり三年に一度、一年を十三ヶ月として、つじつまを合わせます。増えた月を「閏月」といいますが、どこへ入れるかは後で述べます。
 S年間にはJ × S これを一ヶ月 M=29.53054221で割れば、商が閏月の個数(これは不用)、割った余りの日数(=K)が 年天正冬至の月(十一月)の朔から冬至までの日数になります。
 このKを「十一月の閏余」と呼びます。したがって、〔1〕で求めた天正冬至のTからKを引けば、十一月朔の干支指数が求まります。
  《例》N=七二三の場合
   S=723+7171=7894 , T=13.3446519 , J × S=10.879673446 × 7894 = 85884.1421827 これをM=29.53054221 で割ると商は 2908 余りはK=9.3254361

 したがって前年七二二年十一月朔は、TからKを引いて
  T - K =13.3446519 - 9.3254361 = 4.0192158

〔3〕中気と節気
 一年を二十四等分し、冬至からはじめて順につぎのように名前がつけられています。

冬至(十一月中気) 小寒(十二月節気) 大寒(十二月中気)
立春(一月節気) 雨水(一月中気) 啓蟄(二月節気)
春分(二月中気) 清明(三月節気) 穀雨(三月中気)
立夏(四月節気) 小満(四月中気) 芒種(五月節気)
夏至(五月中気) 小暑(六月節気) 大暑(六月中気)
立秋(七月節気) 処暑(七月中気) 白露(八月節気)
秋分(八月中気) 寒露(九月節気) 霜降(九月中気)
立冬(十月節気) 小雪(十月中気) 大雪(十一月節気)

 冬至の干支指数に一年の二十四分の一を加えていけば、中気・節気の指数が得られます。ただし、六十以上になれば六十を引きます。閏月に関しては節気は省いて中気だけを考えます。
 この場合、一年の十二分の一は、
  Y/12 = 365.246179966/12 = 30.4371816638 = P

 Pをさきに求めておいたN年天正冬至の指数Tに順に加えていけば、各月の中気が求まります。
 朔は十一月朔に一ヶ月 M=29.53054221を順に加えます。後のぺージに養老七年の月朔と中気のすべてをしめした表があります。

〔4〕閏月の決め方
 ここで前年の養老六年(七二二)について同様な計算をしてみましょう。
  N=722 , S=722+7171=7893 , Z=5+145/589
  Z × S = 5.246179966 × 7893 = 41408.0984716
  60の倍数を引いた余りは T=8.0984716
 これが天正冬至の指数です。
  J × S = 10.879673446 × 7893 = 85873.2625092
 これをM=29.53054221で割ると商は2907 余りは、
  K=27.9763048
 これが閏余です。天正冬至から引いて、
 T - K = 8.0984716 - 27.9763048 = −(マイナス)19.8778332
 この例のように、負数になったときは60を加えて正数にします。
 -19.8778332 + 60 = 40.1221668
 これが十一月朔の指数になります。
 十二月朔はMを加えて、
 40.1221668 + 29.53054221 = 69.65270901
 60を引いて9.65270901
 一月朔は9.65270901 + 29.53054221 = 39.18325122
以下同様です。

 つぎに中気を見ます。
 十二月中気(大寒)は、
 T + P = 8.0984716 + 30.4371816638 = 38.5356532638
つぎの一月中気(雨水)は、さらにPを加えて8.9728349276となりますが、ここで困ったことが起きました。つぎを見てください。

   (朔)  (中気)
十一月 40.1222  8.0985
十二月  9.9527 38.5357
 一月 39.1833  8.9728
 二月  8.7138 39.4100

 (干支指数は小数点以下第五位で四捨五入)
 一月中気が二月朔と同じ日になっています。したがって、この中気は二月のものとし、一月は中気の無い月にします。
 「中気のない月は、前月の月名に閏字を冠する」
というのが暦法の規約です。この場合旧一月は「閏十二月」に変わります。当然、旧の二月以下は順に一月・二月・・・と名前がずれます。完成した表は左の通り。

 

   (朔)  (中気)
【養老五年(七二一)】  十一月 40.1222  8.0985
   十二月  9.6527 38.5357
閏十二月 39.1833  
【養老六年(七二二)】  一月  8.7138  8.9728
   二月 38.2443 39.4100
・・・    
十一月  4.0192 13.3447
十二月 33.5498 43.7818
【養老七年(七二三)】  一月  3.0803 14.2190
   二月  32.6108 44.6562
 三月  2.1414 15.0934
 四月 31.6719 45.5306
 五月  1.2025 15.9677
 六月 30.7330 46.4049
 七月  0.2636 16.8421
 八月 29.7941 47.2793
 九月 59.3246 17.7165
 十月  29.8552 48.1537
十一月 58.3857 18.5908
十二月 27.9163 49.0280

           
 ただ一つの例外だった「元嘉暦」は、原点を上元年一月中気の「甲子朔旦雨水」に置いています。天正冬至がその年の雨水に代わっただけで、すべてが平行移動し、計算の仕方は全く同様です。
            (付録その二おわり)

 

あとがき

 本稿では、正月を一月と書いてあります。新の王莽や三国魏の明帝は十二月を、唐の武則天は十一月を正月にしました。いずれも短期間ですがこんな例もあるのです。
 月朔計算は本来分数のままで行うべきですが、電卓を使うため小数表示に直して計算します。累積誤差を考えて、できれば十二桁のものを使用するのが安全です。これなら数十年間の表を作れます。
 それをいうならコンピュータのほうが定数を変えるだけで「天正甲子朔旦冬至」暦全部に利用できますから便利です。それにしても、はるか以前に制定された、「乾象暦」という名の古代暦が、文字通り「アンダーグラウンド」の状況下で日本国養老年間に使われ、朔がたった一日の誤差でしかなかったことは、大きな驚きです(中気は、ずれがもっと大きくなります)。
 インド・エジプト・バビロニアをも含めて、天文・暦学など古代自然科学における数値精度の高さには敬服するばかりです。


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