『新・古代学』 第6集 へ
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今井俊圀
図一は、「神功紀」における神功皇后の筑後平定説話の解釈の代表的なものを図式化したものですが、どう見ても不自然さを感じるのは私だけでしょうか?従来説ではこの図のように解釈されてきましたが、果たして本当にこれで正しいのでしょうか? 私はそうは思いません。
まず、この説話の前半部分の「羽白熊鷲」との戦争部分について、少しおかしなことに気が付きました。それは「層増岐野」と「安」との関係です。従来説のように、太宰府付近の「御笠」を通って朝倉郡三輪町栗田にあったとされる「松峡宮」に至り、そこを発して「羽白熊鷲」の本拠である甘木市の「荷持田村」に向かったのに、なぜ、突然そこからずっと離れた糸島郡雷山付近の「層増岐野」で戦闘が始まり、そこで「羽白熊鷲」を撃滅したのでしょうか?
従来説では、「荷持田村」で戦闘があり、そこから逃げた「羽白熊鷲」を追って雷山付近の「層増岐野」で討ち取ったとされていますが、『紀』を見る限り「荷持田村」で戦闘が行われた形跡がありません。「故、時人、其の処を号けて御笠と曰う。辛卯に、層増岐野に至りて、即ち兵を挙りて羽白熊鷲を撃ちて滅しつ。左右に請りて曰はく、「熊鷲を取り得つ。我が心則ち安し」とのたまふ。故、其の処を号けて安と曰ふ。」とあります。これは、「御笠」を発して「層増岐野」に至り、「羽白熊鷲」と戦闘をして討ち取ったから、心が安心したのでその地を「安」と名付けたと言う地名説話であり、「層増岐野」と「安」は同一地ということになります。まず「層増岐野」という地名があり、「羽白熊鷲」との戦闘後、そこは「安」と呼ばれるようになったという地名説話なのです。
そうなると、「安」を現在の朝倉郡夜須町あたりと考えると、「層増岐野」もこのあたりということになります。吉田東吾氏は『大日本地名辞書』の中で「今中津屋の西南を安野村と曰う、神功紀に見ゆる層増岐野蓋此なり(中略)筑前名寄云、長者町と四三島(今安野村大字)の間を安野と曰ふ」と述べています。これは、現在の夜須町安野付近に当たります。そして、夜須町の長者町、安野、四三島(しそじま)の西側を曽根田川(そねだがわ)が流れています。この曽根田川とその東側にある草場川に挟まれた一帯に八並夜須遺跡群と呼ばれる弥生遺跡群があります。そして、四三島の西にある小郡市三沢付近で支石墓と思われる大石が発見されており、また、小郡市大保にある御勢大霊石神社という式内社には景行等が祀られていますが、名前が示す通りに大石伝説(巨石伝説、支石墓)と関係が深そうな神社です。私は曽根田川の東側のこの一帯が「層増岐野」であったと考えています。そして、この曽根田川を挟んで、御笠から進軍してきた神功軍と甘木市の「荷持田村」にある本拠から出撃してきた羽白熊鷲との最終決戦が行われたのだと思います。この様に考えると地理的に見て流れがスムーズになるのではないでしょうか。
それと従来説ではもう一つおかしなことがあります。それは、もし仮に、御笠から進軍してきた神功軍と「荷持田村」で戦闘があって、そこで負けたとしても、なぜ、羽白熊鷲は糸島半島の雷山方面へ逃げたのでしょう? 雷山付近は神功軍(九州王朝)の本拠地であり、戦闘に敗れた羽白熊鷲が敵の本拠地へ向けて逃げるでしょうか?常識的にみて、そんなことは考えられません。第一、どういったルートで逃げたのでしょう?「荷持田村」の西は神功軍によって完全に塞がれていたはずです。逃げるのであれば、敵の勢力下にない所へ向かうのが常識です。この時点で甘木市の東の杷木町方面や、南の久留米市方面が神功軍(九州王朝)の支配下にあったとは思えません。ですから、東か南へ逃げればよい訳で、わざわざリスクを冒してまで、敵中を突破して敵の本拠地へ逃げる必然性がないのです。やはり、「層増岐野」を雷山付近とする従来説には無理があるのではないでしょうか。
このようにみてくると、「羽白熊鷲」の本拠である「荷持田村」は、『和名抄』の筑前国夜須郡賀美郷野鳥村、すなわち、現在の甘木市野鳥付近と考えてもよいのではないでしょうか。この野鳥にある古処山の山頂には白山権現神社という神社があり、その名前からも「羽白熊鷲」と関係があるのではないかと思われます。この野鳥の南には、後代の秋月城があり、軍事的にみて山城として適した場所であったことがわかります。なお、この「荷持田村」に関して、吉田東吾氏は『大日本地名辞書』の中で、「夫婦石、秋月と弥長村との間に夜須河辺にある。大石二つが、あい対している」と述べられています。これは、現在の甘木市千手の地であり、野鳥や秋月城の南に当たり、その東には、「日向石」という地名もあります。この地にも巨石信仰(大石伝説)があった証拠と考えてもよいのではないでしょうか。
さて、角川の『日本地名大辞典』の福岡県甘木市の条には、「荷持田村は三奈木とも野鳥ともいう」とあります。私は宗教的な聖地でもあり、いざという時に逃げ込むための山城でもあるのが野鳥であり、経済的な中心地が三奈木ではないかと考えています。それを示すものが、図二の今山石斧の分布図です。これを見ると、甘木市の佐田川の東側の三奈木から、その南にかけて分布しているのがわかります。弥生前期から中期にかけて、この付近に経済的な中心があったことを図は示しています。
また、三奈木の北東に荷原(にないばる)という地があり、そこには「美奈宜神社」という式内社があり、祭神として天照、住吉、春日等が祀られています。しかし、その南の林田にも同名の「美奈宜神社」があり、素戔鳴尊、大己貴命、事代主命が祀られています。そして、林田の「美奈宜神社」の方が本来の式内社であったとされています。これは、羽白熊鷲の死後、その本拠であった三奈木を治めるために荷原に天照を主神とする社が建てられ、征服された熊鷲配下の人々の宣撫のために、林田に新しく熊鷲等が奉じていた新羅系の素戔鳴尊を主神とする社が建てられたと考えると説明がつきます。
この三奈木は、『和名抄』の筑前国下座郡七郷の一つの美嚢郷に当たる地と考えられていて、「続風土記拾遺」には、神功が熊襲を討った時、ここに十万石の蜷をもって高十丈の城を築いたことにちなむという伝説がのっています。宇田中原に縄文早期〜晩期の田中原遺蹟が、宇久保鳥には弥生中期の甕棺墓があります。また、荷原の字池辺から弥生時代の銅弋が出土しています。
このように見てくると、熊鷲の勢力圏は現在の夜須町、三輪町、甘木市辺りに広がっていたのではないでしょうか。宮崎康平氏は『まぼろしの邪馬台国』の中で、邪馬臺国の中の三十国の一つの「巴利国」がこのあたりであり、「羽白熊鷲」との関係が深いとされています。私もそう思います。宮崎氏によると、夜須町の西、筑紫野市の原田や針摺辺りも「巴利国」に入るとされているので、針摺、原田あたりで、御笠から進出してきた神功軍とまず戦闘になり、その後、曽根田川の東に布陣した熊鷲軍との間で最終決戦が行われて、熊鷲が敗死したというのが真相かもしれません。
そして、宮崎氏も指摘されているように、倭建命の東伐伝説に出てくる「尾張国」がこの地に当たるとも思っています。
さて、そうなると、「松峡宮」の位置が問題になります。「層増岐野」=「安」の位置が現在の夜須町あたりとすると、「松峡宮」を三輪町栗田(筑前国夜須郡栗田村)あたりとする従来説ではおかしなことになります。熊鷲の勢力圏のど真ん中に「松峡宮」があることになるからです。仮にも、「宮」と呼ばれている以上、天孫族の勢力下にある政治的、または祭祀的中心地と考えてよいでしょう。それが、敵の勢力圏のど真ん中にあるとはどうしても考えられません。また、「橿日宮」から「松峡宮」までの間で戦闘記事がないことを考えると「松峡宮」は少なくとも夜須町以西にあるとするのが自然ではないでしょうか?
これについて古田先生は『盗まれた神話』(八九頁)において、「神功の進路は、「橿日宮→御笠→松峡宮」となっている。この間には、戦闘はない。すなわち、ここは「討伐対象」ではなく、いわば自己の勢力圏内なのである。」とされています。やはり、「松峡宮」は夜須町以西にあるのです。そして、この説話を素直に見る限り、「松峡宮」は御笠の近くにあるとするのが妥当ではないでしょうか。
以上のような視点で御笠付近を見てみると、太宰府市には「松」のつく地名が多数見受けられます。西から、吉松に字松本、国分に字松本字松倉、坂本に字松倉、観世音寺に字松ヶ浦、太宰府に松川と、太宰府政庁跡を中心にして東西に「松」のつく地名が点在しています。政庁跡の北にある池は松ヶ浦池と名付けられています。この一帯が「松」の地であったと考えられます。
古田先生は、この政庁跡を「九州王朝の天子の宮殿跡」とされています。そして、昭和四三年に発掘調査された時に発見された、政庁跡の遺構の下の堀立柱建物の遺構について『ここに古代王朝ありき』の中で、坂田武彦氏の考古学的出土遺物の自然科学的測定の結果として、「太宰府の遺構及び近辺の(木炭の)測定値はいずれも、それが、「倭の五王」、さらに「耶馬一国」とそれ以前の時代に遡ることを証明していたのである。」とされています。坂田氏の測定結果はBC一四〇〜AD一〇〇位の数値を示しており、まさに弥生中期に相当します。つまり、この遺構が「松峡宮」の可能性があるのです。
また、この政庁跡は、四王寺山の南麓の、東西を「月山」と「蔵司」と呼ばれる四王寺山から派生した小丘陵にはさまれた平地にあり、「松峡宮」という名称に相応しい地形の中にあります。
以上のように解釈すると、「橿日宮」である福岡市東区の香椎宮から、「御笠」の地である大野城市の山田付近を経て、太宰府市の太宰府政庁跡の「松峡宮」に至り、さらにそこから、羽白熊鷲の本拠である甘木市三奈木の「荷持田村」へ向かう途中、朝倉郡夜須町の「層増岐野」において最終決戦になり、熊鷲を討ち取ったという説話になり、地理的にもスムーズな流れの説話になるのではないでしょうか。そして、太宰府付近まで進出していた天孫族が、さらに朝倉方面まで勢力圏を広げた、九州王朝初期の発展史の一部とみることができるのではないでしょうか。
次に後半部分の説話ですが、層増岐野で羽白熊鷲を討ち取った後、「丙申に、転りまして山門県に至りて、則ち土蜘蛛田油津媛を誅ふ。時に田油津媛が兄夏羽、軍を興して迎へ来く。然るに其の妹の誅されたることを聞きて逃げぬ。」となる訳ですが、熊鷲を討ち取った後、五日後に山門県に至るまでの間の説話がまったくない訳で、夜須町や甘木市から山門郡瀬高町(山門県)の間には、敵も味方もまったくいなかったのでしょうか?
そこで考えられることは大きく分けて二つあります。
まず一つ目は、朝倉方面を征服した後、そこを拠点にして筑後川を渡って、小郡市、大刀洗町、北野町、久留米市方面に進出し、さらにまた、そこを拠点にして、瀬高町方面を征服した説話とみる考え方です。なぜそのように考えたかというと、太宰府付近から朝倉方面に進出する以前に、久留米市方面が天孫族の支配下にあったとは考えられないからです。この場合、途中の久留米市方面の説話がカットされている訳で、時間的にみて、前半の説話からかなり後の説話だと思います。
二つ目の考え方は、筑後の山門の説話ではなく、筑前の山門の説話とみる考え方です。福岡市西区の下山門の東、早良区の小田部から南に、有田、田、田限と続く一帯は、『和名抄』の筑前国早良郡田部郷に当たる所で、その南には、油山もあります。「田油津媛」は「タ・フレ・ツ・ヒメ」で、「田の村の港の媛」であり、室見川の河口付近の港とその一帯を支配していた女王ではないでしょうか。そして、救援に出てきた「夏羽」は、「ナ・ツ・ハ」で「那津羽」であり、博多付近の港とその周辺を支配していた王者ではないでしょうか。そのように考えると、この後半部分は前半の朝倉方面への征服戦よりも以前の、天孫降臨直後の室見川の東側への征服戦の説話と見ることができます。
私は、この二つ目の方が説得力を持っているのではないかと思います。いずれにしても前半と後半の説話は、九州王朝の史書の中の二つの別々の説話をくっつけて一つにしたものだと思います。
以上が私の解釈した「神功説話」です。『日本書紀』に記されているような神功皇后の征服説話ではなく、九州王朝の史書の中の、あちらこちらから切り取って一つに繋げたものであり、古田先生の仰せの通り、近畿天皇家による盗作であることはいうまでもありません。私達が見聞きしてきた通説というものが、いかに不確実なものであるかを、この勉強を通して改めて感じました。
(二〇〇二・一・二五)
『日本書紀』(岩波文庫)
『盗まれた神話』古田武彦著、(角川文庫)
『大日本地名辞書』吉田東吾著、(富山房)
『日本地名辞書』(角川書店)
『ここに古代王朝ありき』古田武彦著、(朝日新聞社)
『明治前期全国村名小字調査書』(ゆまに書房)
『古代史をゆるがす真実への七つの鍵』古田武彦著、(原書房)
『倭名類聚鈔』(風間書房)
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