0古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 2 歎異抄の歴史的意義

 インターネット事務局注記 2003.5.31
 これは論文のコピーです。本来は縦書きの文書を、また史料批判の対象である漢文そのものが、表示が困難なため一部略しております。論証には影響ありませんが、これを元にして史料批判は 
おやめ下さい。古田氏の著作を閲覧して下さい。

親鸞思想

その史料批判
古 田 武 彦 著

明石書店

 

第二章 歎異抄
第一節 歎異抄の思想史的意義

   一

 歎異抄は親鸞の思想といかなる関係にあるか。これが本論文の主題である。この主題は、歎異抄の構成上、二つの局面より、追跡せられねばならぬ。
 一に、歎異抄の著者が親鸞の言説として記載するものが、はたして親鸞自身の思想を正確に伝承しているか、という問題である。ただし、この際にも、つぎの二点が検討されねばならぬ。

(A)著者によって記載された言説自身の信憑性。
(B)著者が、言説記載に際して、親鸞自身の思想系中の重要要素を脱落せしめていないか、という点。すなわち、言説選択の妥当性。

 歎異抄は、無目的な、もしくは単純な意図に基づく親鸞言説の記載ではない。著者の「歎異」的見地の根拠づけとして、有目的の引用である。したがって、前記A点が肯定せられても、B点が看過せられてはならぬ。けだし一思想系中の一要素を提示して、他の要素を抜き去る時、表面、原思想に忠実のごとくにして、その実、本来の意義を変容し得るからである。
 さて第二の局面を見よう。歎異抄の後半には著者自身の思想表明が存する。もちろん著者自身は、親鸞の思想と同一の立場にあると信じている。しかしそれを客観的に親鸞自身の思想と対比する時、両者の間に誤差なきやという問題である。もしその誤差が存する時は、その思想史的意義如何という問題である。
 以上の諸点が明らかにされる時、歎異抄の文献的意義が確定されるであろう。


    二

 歎異抄に記載された親鸞言説は、形式において断片的、内容において直感的、印象的である。しかしながらそれは、著者自身の思想系中に適正な位置を有する。この事は、すでに筆者の他の論文において論述された(1) 。すなわち、歎異抄第三節のいわゆる悪人正機説は、体系的・論理的に、より徹底した形で親鸞自身の著述にも存在するのである。換言すれば、この第三節は親鸞の思惟様式と合致しているのである。本論究では、第三節と並んで歎異抄中重要な位置を占める第二節を検討する(2)。 ここでは、思惟様式はもとより表現様式においてさえ、歎異抄記載が親鸞のそれに合致している事実が認められるであろう。

 この第二節において、まず注目を引くのは、導入部における親鸞の皮肉な口吻である。

おのおの十餘ケ國のさかひをこえて、身命をかえりみずして、たづねきたらしめたまふ御こゝろざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。しかるに、念佛よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こゝろにくゝおぼしめしておはしましてはべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゝしき學生たち、おほく座せられてさふらうなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり
(七七三〜四頁、頁数はすべて真宗聖教全書二宗祖部に拠る)

 親鸞が「法文等」の連結より成る教行信証の著者であることは、さて置く。南都北嶺の「ゆゝしき学生たち」に往生の要を聞くべしと言うに到っては、親鸞の本心にもあらぬ手厳しい皮肉と言わざるを得ない。これを親鸞著述における表明と対比しよう。

いかなるひとまふしさふらふとも、ゆめゆめもちゐさせたまふべからずさふらふ。聖道にまふすことを、あしざまにきゝなして、浄土宗にまふすにてぞさふらん、さらさらゆめゆめ、もちゐさせたまふまじくさふらふ
(御消息集三、(教忍へ)六九九頁)

南都北嶺の聖道的言説を徹底的にしりぞけているのである。また、

法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゝしき學生などなどおもひあたるひとびとも、この世には、みなやうやうに法文をいひかへて、身をまどひひとをまどはして、わづらひあふてさふらふめり。
(末燈鈔二〇、六九〇頁)

「ゆゝしき学生」という表現は、法然門下の場合さえ明らかに風刺的に用いられている。しかも、

よくしられんひとにたづね申たまふべし。またくはしくはこのふみにて申べくも候はず。目も見えず候。なにごともみなわすれて候うへに、ひとにあきらかにまふすべき身にもあらず候。よくよく浄土の學生にとひ申たまふべし。
(末燈鈔八、六六九頁)

 のごとく、必要に応じては、「浄土の」学生に問うことを懇切に勧めているのである。これら消息文に一貫する弟子たちの素直な態度と、この第二節の訪問客への皮肉な態度との著しい相違は、何によるのであろうか。この疑問を解く鍵は第二節末尾に存する。

詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは念佛をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云云。(七七五頁)

これを次の諸文と対比しよう。

大小の聖人だにも、ともかくもはからはで、たゞ願力にまかせてこそおはしますことにてさふらふへ。ましてをのをののやうにおはしますひとびとは、たゞこのちかひありきときゝ、南旡阿彌陀佛にあひまいらせたまふこそ、ありがたくめでたくさふらふ御果報にてはさふらふなれ。とかくはからはせたまふこと、ゆめゆめさふらふべからず
(末燈鈔一九、六八五〜六頁)

ひとびとにすかされさせたまはで、御信心たぢろかせたまはずして、をのをの御往生候べきなり。たゞし、ひとにすかされさせたまひ候はずとも、信心のさだまらぬ人は正定聚に往したまはずして、うかれたまひたる人なり
(末燈鈔六、六六五頁)

 この種の例は数多いが、いずれも一貫して念仏を勧め、念仏よりの背反動揺を言葉をきわめて戒めている。第二節末尾の現代読者には「自由主義的」とも見える寛容な態度は、発見し得ないのである。この両者の差異を解明すべき照明は、教行信証信巻序の末尾に存する。

 浄邦ヲ徒衆、厭フ穢城ヲ庶類、雖モ加フト取捨ヲ、莫レトナリ生コト毀謗ヲ矣。(四七頁)

 ここではまさに第二節末尾と一致する。この際重要なのは、この文の主語である。親鸞の表現様式において、「厭離」の語は聖道門を指し、「忻求」の語は、自力的浄土門を象徴する。化身土巻(一四七頁)浄土三経往生文類(五五四〜五頁)等にその使用例を見るが、もっとも明白な表明は、愚禿鈔巻下(四六六頁)であろう。
 「一者厭離真実」として、難行道的自力の聖道門を「以テ厭離ヲ為ス本ト」とする。また「二者忻求真実」として、横出(他力中之自力ナリ定散諸行也と註す)の浄土門を「求テ忻求ヲ為ス本ト」とする。いずれも、絶対他力の道にあらざるもの、として定義するのである。このことは、「雖加取捨」という行為の主語が、聖道もしくは自力的浄土門の徒であるを示す。先の信巻序の文の初めに

 末代ノ道俗、近世ノ宗師、沈(シズミテ)自性唯心貶(ヘンス)浄土ノ真証ヲ、迷(マドヒテ)定散ノ自心昏(クラシ)、金剛ノ真信ニ

 とある。かかる人々に対して、如来の真義を開顕せんとして、この書を記するというのである。この表現もまた、「厭離忻求」の徒に合致する。論じてここに到れば、親しき弟子らに与えた消息文と第二節との口吻との相違、勧説論法の差違の原因は明らかであろう。第二節の始めに、「念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんとこゝろにくゝおぼしめして」とあるように、この人々は、「厭離忻求」の徒として応接せられているのである。
 如上の論旨を確定するために、さらに一箇の論証を附する。第二節の文頭に、この遠来客は、「身命をかえりみずして」訪ね来ったものである、と親鸞が述べている。中世的表現形式に無頓着な現代の読者は、ここにこの訪問客が純粋無垢なる(と親鸞に認められている)を信じる。しかしわれわれは、親鸞著述につぎの文を有する。

 此等三品、雖モ有ト差別、是レ久ク種タル解脱分ノ善根人ナリ。到ス使ムルトヲ今生ニ敬ヒ法ヲ重クシ人ヲ身命・・・。(化身土巻、礼讃、一五二頁)

 また、前出の「忻求真実」を定義した愚禿鈔の部分に、つぎの文が見出される。

 何ヲ以ノ故ニ、由テ願力ニ令ムルガ離生死ヲ之故ヘ也(ナリ)ト(愚禿鈔巻下、四六六頁)

 親鸞によって、絶対他力の道に反するとされる、「種善根」「忻求真実」の徒に対して、かかる表明が存するのを見る。これと照合すれば、第二節文頭の「身命・・・」の語も、必ずしも手離しの讃辞とは言えぬ。やはり、それに続く、文及び末尾の文に共通する、やや皮肉な表明と見るべきであろう。(3)
 以上の論証によって、われわれはつぎの帰結に達する。すなわち第二節の訪問客は、聖道、自力浄土門的立場の人々と見なされている。親鸞はかかる人々に対し、手厳しい反語的表現をとっているのである。さらにわれわれは、つぎの事実を肯定せざるを得ない。この親鸞言説は、思惟様式のみならず (4)表現様式においても親鸞(5) に忠実である、という事実を。


         三

 この際、第二節に関する家永氏の論点を顧みることは有益であろう(6)。氏によれば、この当時の社会情勢において東国より遠路上京し得る者は武士であろうとされる。この点は、蓋然性に富んだ推定である。しかし、さらに進んで親鸞の思想形成の社会的主要基盤を武士とせられる時、疑点を生じる。筆者が他の論文に示したごとく (7)、親鸞は、耕作農民、下人、商人、猟師ら「文字のこゝろもしらぬ」人々に信頼を示した。下級武士らをそれに加うるは妥当であるが、少なくとも、「法文等を知りたるらんと」求め来るごとき、第二節訪問客のごとき人々が、親鸞の信頼の中枢をなしたのではなかった。しかるに、われわれは、歎異抄後半部の序というべき部分(七七八頁)につぎの証言を有する。「あゆみを遼遠の洛陽にはげまし」た人々が念仏集団の中心となり、歎異抄の著者によって攻撃されているような異議(善根主義、財物主義等)を生んでいる、というのである(8) 。ここに、われわれは、親鸞の陥った最大の悲劇を見出す。親鸞が信頼したのは、彼の仮名文さえ「よみきかせ (9)」られねばならぬ「あさましき愚痴きはまりなき」人々であった。しかるに、実際に、親鸞没後の(生前にもそのきざしは着々形成されつつあったであろうが)念仏集団の中核となったのは、一般庶民に比して身分的、教養的に実力を有する武士階層を含む有識者たちであった。家永氏も指摘される門弟交名牒もこれを証する。また歎異抄著者の指摘する傾向ー「一文普通のともがら」を「いひおどろかし」、「経釈をよみ学せざるともがら往生不定」とし、「施入物の多少」で往生を量り、また戒律規制的教団道場の成立のごとき。これらはすべて、親鸞没後の念仏集団の変質を証言するものである。


      四

 さて、われわれは、歎異抄の著者自身の思想を俎上にのぼすべき段階に立ち到った。第十二説に、つぎの文が存する。

當時専修念佛のひとゝ聖道門のひと、法論をくはだてゝ、わが宗こそすぐたれ、ひとの宗はおとりなりといふほどに、法敵もいできたり、謗法もおこる。これしかしながら、みずからわが法を破謗するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、念佛はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものゝ、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくくともわれらがためには最上の法にてまします。たとひ自餘の教法すぐれたりとも、みづからがためには器量およばざればつとめがたし、われもひとも生死をはなれんことこそ諸佛の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくひ気せずば、たれのひとかありて、あだをなすべきや。(七八〇〜一頁)

 もちろんこの著者は、親鸞の思想態度をそのまま受け継いでいると信じている。口調論法が、前記第二節のそれには表面的には類似しているのも興味深い。しかし、われわれは教行信証化身土巻末後序の文頭につぎの文を有する。

窮(ヒソカニ) 以(オモンミレバ)、聖道ノ諸教ハ行證久シク廢(スタレ)、浄土ノ眞宗ハ證道今盛(サカリナリ)。然ニ諸寺ノ釋門昏(クラク)教ニ兮 シテ、不知ラ眞假ノ門戸ヲ。洛都ノ儒林迷フ行ニ兮テ、無シ辯(ワキマルコト)邪正ノ道路ヲ。(二〇一頁)

同じ化身土巻の三願転入釈の所ではさらに手厳しい。

信ニ知ヌ、聖道ノ諸教ハ、為ニ在世正法ノ而シテ全(アマタ)非ズ像末法滅之時機ニ(ソムケル)ニ也。浄土眞宗者(ハ)、在世正法、像末法滅、濁悪ノ群萠、齋(ヒトシク)悲シ引也(タマフヲヤ)。

かかる論鋒は、晩年の著述にも一貫している。(10)

末法五濁の衆生は、聖道の修行せしむとも、ひとりも證をえじとこそ、教主世尊はときたまへ。(高僧和讃、道綽讃、五〇八頁)

当然、末法における意義は完全に否定せられている。また、

像法のときの智人も、自力の諸教をさしおきて、時機相應の法なれば、念佛門にぞいたりたまふ。(正像末和讃、三時讃、五一九頁)

像法もしかり。さらに、

三恒河沙の諸佛の、出世のみもとにありしとき、大菩提心おこせども、自力かなはで流轉せり(正像末和讃、三時讃、五一八頁)

 ここに到って、聖道の意義は諸仏出世時にも否定される。教行信証以上に徹底し、いかなる場合にも聖道は許容されないのである。「穏和なる」歎異抄の著者は、かかる親鸞をわれわれに紹介しない。もちろん親鸞の愚禿の思想に見られるごとき、鋭利な自己批判に基づく内面的謙虚さは比類無い。しかしそれ故にこそ、倨傲の既成宗教に向かって仮借無き否認を行う。悪人正機説よりする善人批判は、善人ぶる既成宗教、世俗権力と結託する聖道の聖者と妥協する道を有しないのである。

この世の本寺本山のいみじき僧とまふすも法師とまふすも、うきことなり(正像末和讃、愚禿悲歎述懐、五二九頁)

 この親鸞晩年の述懐に、名利を厭う高潔さを見出すはよかろう。しかし、その「いみじき」という形容詞が、いかに深い反語的陰影(ニュアンス)に満ちているかを見過ごすことは許されぬ。この鋭利な聖者批判こそ、第二節の文章の皮肉な陰影(ニュアンス)の根源であり、前記歎異抄著者の文に欠除しているところである。

 かかる親鸞の非妥協性に比べれば、この著者の示す謙虚さは類を異にする。上根下根妥協の上に立つ。ことにこの著者の言明が、聖道教団と浄土教団との妥協的な区劃整理の論理たるところに、親鸞没後の教団の変質を示す史的意義を有するのである。彼はその卑下的な謙虚さによって、「たれのひとかありて、あだをなすべきや」という事態を予想する。しかし、親鸞は言う。

五濁[土曾]のときいたり、疑謗ともがらおほくして、道俗ともにあひきらひ、修するをみてはあだをなす。(高僧和讃、善導讃、五一一頁)

有情の邪見熾盛にて、叢林棘刺のごとくなり、念佛の信者を疑謗して、破壊瞋毒さかりなり(正像末和讃、三時讃、五一七頁)

 聖道を上根が為とし、念仏を下根が為と卑下するぐらいで収まる「あだ」ではないのである。さらに親鸞は極言する。

菩提をうまじきひとはみな、専修念佛にあだをなす(正像末和讃、三時讃、五一八頁)

 ここにおいて、歎異抄の著者が、親鸞のいかなる局面を脱落せしめたかは明らかである。もっとも、この第十二節において、前にあげた著者の文に続いて親鸞言説の引用が存する。

またひとありてそしるにて、佛説まことなりけりと、しられさふらう。しかれば往生はいよいよ一定とおもひたまふべきなり(正像末和讃、三時讃、七八一頁)
(「おもひたまふべきなり」の「べき」は蓮如本なしー古田後注)

を中心とする一段である。これは明らかに、親鸞にとって五濁邪悪の末法の、念仏迫害必死論と結びついた言説である。しかるにこの著者は、この生々しい言説から、「學文してひとのそしりをやめ、ひとへに論議問答」せんとする者をしりぞけんがための教訓を、得ているに過ぎない。「人は一般に、ただ己の分相応のものしか、看取し、理解するを得ない。」親鸞の表現様式さえ忠実に伝録した著者にも、ついにこの格言を超えることはできなかったのである。
 この点、興深い対照を示すのは、親鸞の対法然態度であろう。彼はみずからの著述に、法然の文章言説を記載することが驚くほど少ない。厖大な引用文の集積たる教行信証において、法然よりの引用は、『選択本願念仏集』(巻上)源空集云。「南旡阿弥陀仏往生之業念仏ヲ為スト本ヲ」(行巻三二頁)の一文を引くに過ぎない。(この点奇しくも、かの第二節の「親鸞におきては、たゞ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに、別の子細なきなり。」の表白に一致する。)親鸞の法然観は、他に論ずべき重大な問題点を有するが、今は、本論旨に必要なつぎの点を指摘すれば足りる。右の一点を自己思惟の出発点とし、法然を勢至弥陀に代わらぬ神秘的崇拝の対象とした(高僧和讃源空讃)親鸞にとって、自己の思惟は、すべて法然継受の所以と考えられた。客観的には史的法然より離れゆく独創的思惟の発展が、主観的には法然に限りなく近接して行く道と、見なされていたのであった。
 これに対し歎異抄の著者は、親鸞を継受すると信じつつ、その本質的な善人・聖者批判を脱落せしめた。そして、その地点に、親鸞を偶像とする権威主義を確立せしめたのであった。実に、この点においても彼は、後世本願寺教団の伝統的権威主義への懸橋の役割を有する。彼は本書の序文において、「歎先師口伝之真言」と述べ、「口伝」を伝えたるをもってみずからを正統化した。絶対的権威たる親鸞の「口伝」こそ、この著者の「歎異」の拠点なのである。しかし、この著者との同時代にさまざまの「口伝」が存在したことは、著者みずからが証言している。「ひとのくちをふさぎ、相論をたゝんがために またおほせにてなきことをも、おほせとのみまふす」(正像末和讃、三時讃、七九三頁)状況であった。ここに、親鸞をめぐる権威主義の大勢が成立しているを見る。
 現代の読者にとって、歎異抄の著者の良心を信ずるはたやすい。しかし当時の念仏者にとって、どの口伝を正しいと判定し得たのであろうか。生前の親鸞に親しく接触し得た者は、歎異抄の著者のみではなかったはずである。権威主義の基盤の上に、各種口伝の乱立する時、その帰着点はいずこであろうか。その時、鎌倉政権領導の下、新しき家父長制的家族主義が整備させつつあった。念仏集団も武士らが中核を占めつつあった。当然、親鸞血縁という優越性をもつ覚如らが、口伝を乱立せしめた門弟らを乗り越える。(親鸞生前すら、慈信はみずからの血縁という優越性によって、親鸞の秘義を伝えたと称して、他の門弟を脅し得たのである。)「口伝鈔」「本願寺聖人伝絵」等に「正統的口伝」を定着せしめ、「神聖なる血縁の正統性」の上によって、権威主義的本願寺教団を創造する。歎異抄を貫く親鸞を偶像とする権威主義は、みずから意識せずして覚如らへの道を準備したのである。歎異抄は、この間の事情を象徴するつぎの句で終わっている。いわく、「外見あるべからず (11)」と。さらに蓮如は本願寺教団権威主義の完成者として、申し分なくふさわしい奥書を附した。

右其聖教者、為當流大事聖教也。無宿善機左右之者也

 こっけいにも、かかる態度が親鸞への背反であることを、蓮如自身まったく意識していない。しかし、これらの句と奥書ほど親鸞の悲劇を立証する者はないであろう。革命的批判精神の創造者が、みずからの門弟や子孫によって、権威主義の偶像として祭られ終わった運命を。


     五

 最後に、歎異抄の著者が、内面的自己省察の面においても、親鸞を充分に理解し得なかったことを指摘したい。第十三説に、つぎの文が存する。

當時は後世者ぶりして、よからんものばかり念佛まふすべきやうに、あるひは道場にはりぶみして、なむなむのことしたらんものをば道場へいるべからずなんどゝいふこと、ひとへに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚假をいだけるものか。(七八四頁)

 傍点部(赤色部分 ひとへに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚假をいだけるものか)は善導の散善義の引用である。「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」とある。したがって、当然

「不レ外ニ現シテ賢善精進之相ヲ内ニ懐クヲ虚仮ヲ

と読み得る。内外相反の偽善を戒めた、と見るのである。歎異抄の著者の引用もこの解に沿っている。ところが親鸞は、教行信証信巻本大信釈に、つぎのごとく訓読する。

不レ現コトヲ賢善精進之相ヲ内ニ懐ウダイテ虚假ヲ、(五一頁)

さらに、再び愚禿鈔下に引用して、つぎのごとく訓読する。

不レ下外ニ現ズルコトヲ二賢善精進之相ヲ一内ニ懐レバナリ虚假ヲ。(四六四頁)

「内懐虚仮」は、末法の基本事実、善人批判の根拠とせられた。実は、唯心抄と唯心抄文意にもこの差は存する。まず、唯心抄には、

内心にはふかく今生の名利に著しながら、外相にはよをいとふよしをもてなし、ほかには善心ありたうときよしをあらはして、うちには不善のこゝろもある、放逸のこゝろもあるなり。これを虚假のこゝろとなづけて眞實心にたがえるを相とす。これをひるがえして真實心おばこゝろつえべし。(七四七頁)

これを註して、親鸞は唯心抄文意に言う。

「不得外現賢善精進之相」(散善義)といふは、浄土をねがふひとは、あらはにかしこきすがた、善人のかたちをふるまはざれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆへは「内懐虚假」なればなりと。(六三五頁)

 これに続いて、末法悪世の我々は、「善人にもあらず、賢人にもあらず、精進のこゝろもなし」なるを説く。かくして「内懐虚仮」は自己批判、社会批判の原理となる。「不得外現賢善精進之相」の根拠となる。註解者は、まさに原著者を乗り越えたのである。しかし、親鸞のこの八十五歳の境地も、さらに親鸞自身によって乗り越えられてゆく。

浄土眞宗に帰すれども、實の心はありがたし、虚假不實のわが身にて、清浄の心もさらになし。外儀のすがたはひとごとに、賢善精進現ぜしむ。貧瞋邪偽おほきゆえ、奸*詐もゝはし身にみてり。(正像末和讃、愚禿悲嘆述懐、五二七頁)

ここでは、「外現賢善精進之相」すら、五逆悪世の自己の実相と認識される。したがって、つぎのごとき表白が見られる。

是非しらず邪正もわかぬこのみなり、小慈小悲もなけれども、名利に人師をこのむなり。(正像末和讃、末尾、五三一頁)

 このはげしい自己批判に比て、歎異抄の著者は、

本願ぼこりといましめらるゝひとびとも、煩悩不浄具足せられてこそさふらふげなれ(七八五頁)

と他を揶揄するを出でぬ。

 歎異抄の著者の微温的偶像的親鸞理解に対して(12)、われわれはつぎのように言わねばならない。親鸞の透徹せる善人・聖者批判は、外なる本寺本山のいみじき僧たちの権威主義に向けられると共に、はげしく内なる底の独断(ドグマ)化、内面の権威主義を破壊しつづけていた、九十歳の死に至るまで、と。

     六

 本論究の結論は、つぎのとおりである。

 (一)歎異抄の親鸞言説記載は、親鸞自身の思惟様式、表現様式に忠実である。

 (二)しかし、その記載題材の選択においては、著者の思想に合致し得る範囲で撰ばれている。

 (三)著者の思想は、親鸞自身の思想と重大な差違を有する。悪人正機説の上に立つ鋭角的、非妥協的な善人・聖者批判という、親鸞思想の本質的な契機は喪失された。それに代わって、聖道との穏和な妥協の道が示される。(13)

 (四)右の事態は、念仏迫害期たる親鸞生前の社会条件の変移と共に、親鸞没後、念仏教団が、聖道教団との妥協の上に教団勢力を安定せんとした必要と相応じている。

 (五)没後教団において、その中核をして教団内の身分的上層者ー武士らの影響力が強まっていった。彼らが教団内の農民一般庶民らへの支配力を増すにつれ、教団は、鎌倉政権にとっても許容し得べき存在になりはじめる。これは親鸞生存時にも、彼自身の意図に反して、成長し始めていた傾向の完成であった。

 (六)歎異抄は、かかる情勢の下、親鸞の権威化のために文献上最初のイデオロギーを提出した。これは著者の立つ史的位置を示すと共に、本願寺教団的権威主義への道を開くものであった。(14)



(1)日本歴史、昭和三十一年五月号「親鸞の悪人正機説について」

(2)歎異抄記載のすべての言説記載を、思惟様式表現様式の両面より批判するは、本小論の紙幅に余る。後日、いっそう包括的な論文にそれを期したい。本論分では追跡すべき論旨に必要な最小限の題材に限られねばならぬ。

(3)道元にも不惜身命但惜身命の説がある。さらに正法眼蔵随聞記においても武士的不惜身命主義への風刺批判が存する。けだし不惜身命主義の超克は、これら鎌倉新仏教の思想家に共通して到達せられた境位であった。

(4)第二節の根底をなす思想は、論理的につぎの点に帰着する。「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」(七七四頁)この一点より、他の諸点が導き出されているのである。この思想は、教行信証信巻末、逆謗摂取釈に論拠を有する。すなわち、「下品下生」たる末法の悪人は「五逆已ニ作レリ」であり、「必定堕シテ无限地獄」の身であるが、「以仏願力」「得生」「皆往」のである。かかる思想が、散善義最勝王経琉巻五意・法事讃等の引文の連結によって示されているのである。(一〇〇〜一〇一頁)。第二節が親鸞の思惟様式に合致せる一証左である。今、紙幅の関係上、簡略の指摘にとどめる。

(5)表現様式まで正確であることは、つぎのごとき歎異抄の叙述に比すれば不思議ですらある。「仍故親鸞聖人御物語之趣、所耳底、聊注之。」(七〇三頁)「古親鸞のおほせごとさふらひしおもむき、百分が一、かたはしばかりをおもひいでまひらせて、かきつけさふらふなり。」(七九三頁)しかし、筆者が悪人正機説についての論文(注 (1)参照)に示したごとく、「なり」の漢文訓読流の使用法が、歎異抄の親鸞言説と親鸞自身の著述に共有せられてあり、歎異抄著者の地の文に無いのを見ても、歎異抄の親鸞言説記載が意外に正確なことは傍証せらるるであろう。親鸞への絶対的帰依が、綿密な記憶を保持せしめたものであろうか。あるいは、「所耳底」等は文飾であって、実際にはメモの類が存したものか。「大切の証文ども云々」(七九二頁)とあって、各種言説の記録の存したらしいことが記されている。いずれにせよ、親鸞言説の文と、地の文との文調の著しい相違は、一読明らかであるのみならず、前述のごとき諸論証が実際に成立するのである。また、本論文の後に論述せられるごとく、歎異抄記載の親鸞言説の意義を、著者自身は(地の文に見られるごとく)必ずしも充分に把握していないように見えることは、この際、かえって親鸞言説の独立性絶粋性のために有利である。

(6)『中世仏教思想史研究』増補版所収「親鸞の宗教の社会的基盤」

(7) 注 (1)参照

(8)歎異抄の著者は、彼らを親鸞生前は「信をひとつにして、心を當来の報土にかけしともがら」であった、と言っている。しかしすでに親鸞の彼らに対する態度は前述のごとくであった。いったん「信をひとつ」にしたごとく見えながら、ひっきょうそのたどる道をたどったものと言えよう。

(9)親鸞の消息文にしばしば現れるつぎのごとき表現は、われわれの注目を引く。「このふみもて、かしま・なめかたの荘、いづかたもこれにこゝろざしもおはしまさんひとにはおなじ御こゝろによみきかせたまふべくさふらふ。」(末燈南鈔二〇、六九三頁)「いづかたのひとびとにもこのこゝろおほせられさふらふべし。・・・鹿島・行方、そのならびのひとびとにも、このこゝろをよくよくおほせられるべし」(御消息集一、六九五頁)「このふみをひとびとにもよみてきかせたまふべし。」(御消息集五、七〇三頁)これに対して「やうやうのふみどもをかきてもてるを、いかにみなしてさふらふやらん、かへすがえすおぼつかなくさふらふ。」(御消息集六、七〇五頁)のごとき人々があった。もちろん、前者に対して後者のごとき文字を知る人々の媒介は不可欠である。ことに関東より離れた晩年の親鸞にとっては。しかし、その晩年において、彼はことに文字を知らぬ人々に対する信頼を示すを好んだ。一念他念文意、唯心抄文意等が「ゐなかのひとびとの、文字のこゝろもしらず」という人々のためのものだという彼自身の証言や、正像末和讃の「よしあしの文字をもしらぬひとびとはみな、まことのこゝろなりけるを、善悪の字しりがほは、おほそらごとのかたちなり」(五三一頁)のごときはそれを示す。かかる親鸞自身の意識(「文字を知らぬ人々」は下級武士を含むことは可能であるが、当然、より以上に、耕作農民・下人・猟師・貧商人等が含まれねばならない)。それに対して親鸞の文書媒介伝達者としての「文字を知る」有識者(この場合、下級武士・富裕商人・僧職者等が優勢となろう。)の指導者的存在という客観的事実。この両者の対比こそ、親鸞没後、その念仏集団の変質(親鸞思想の本質たる鋭角的批判精神の変容)を導く潜在契機にほかならない。

(10)筆者は、教行信証の原形成立を中年の時機に求めるものであるが、(筆者論文「教行信証成立年代について」参照)その際も晩年の補正加筆状況より見て、同書が晩年の親鸞においても肯定承認せられあるものとなることが、史料的に確認せられねばならぬ。したがって、同書の思想内容を初期もしくは中期の思想として晩期と峻別せんとすることは史料取扱い上の独断と言わねばならぬ。

(11)この語は、多屋氏も「歎異抄新註」において言われるごとく、「秘密にせよ」の意ではなく、単に「私的のもの」たるを示す謙辞かも知れない。しかし、親鸞自身の著述にはかかる謙辞は存しないのである。やはり歎異抄の著者にふさわしい語と言うべきであろう。

(12)歎異抄の著者が、親鸞を偶像とし、その思想に背馳せざるごとく見えながら、微妙にその力点をずらし、その本来的意義が変容され、微温化された例をつぎに見る。彼は、第十七節(七八九頁)に、辺地往生を遂ぐる善人について、「信心をかけたる行者は、本願をうたがうによりて、辺地に生じてうたがひのつみをつぐのひてのち、報土のさとりをひらくことこそ、うけたまりさふらへ。」と述べている。善人が化土往生の後、究極的には報土往生をなすと言うは、教理の形式論理的整合からは、到着すべき帰結かも知れぬ。また、それを親鸞の口伝と称するについても、われわれはこれを否定すべき充分な権利を有しない。しかし、少なくとも親鸞の第一史料には宣明せざる所である。逆に親鸞の宣明する点は、「・・・略・・・」(化身土巻本、三願転入釈、一六五頁)と言うにある。さらに、正像末和讃疑惑讃(五二三〜五頁)に、化土往生の善人の「仏智うたがふつみふかし」と言い、「罪福ふかく信じつゝ、善本修習するひとは、疑心の善人なるゆへに、方便化土にとまるなり」と述べるごとき、「その阿陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせん」ことこそ親鸞の強調点であって、第三節に善人主義を「本願他力の意趣にそむけり」と言うも、それが絶対他力主義に準ずるとの意でなく、背反しているを示すのである。善人の報土往生を保証しているがごときは、その関心の主点ではなかった。ここに、親鸞の鋭角的な善人・聖者批判の力点が、教理主義的に変容されゆく姿を見得るであろう。

(13)なお、この書の「鋭角的な善人・聖者批判精神を抜きにした穏和主義」が、現代教養人の歎異抄愛好の風潮と、いかに契合しているかは興味深き問題であろう。

(14)本論究は、通説の、歎異抄の著者が親鸞の精神を素直に受け継いでいる面を軽視していると、と言われるかも知れぬ。たしかに、第十三節に「本願ぼこり」を戒むる徒に対し、「いかなる悪かほこらぬにしてさふらふべきぞ」と言うごとき、親鸞の「くすりあらばとて毒をこのむべからず」の言を引きながらも、その真意をあやまらぬものと言えよう。しかし親鸞の背景をなすは、悪人往生説を直接的行動的に受け取るほどの奔放な民主的昂揚期であり、この著者のあるは、戒律規制的教団の成立期である。聖道との妥協の上に発言された彼の悪人往生主義は、悪人正機説が対権力・対聖道の鋭い批判の原理であった親鸞の革新的批判精神を喪失していると、言わざるを得ない。かかる原初的精神の脱落において、この著者は、彼の「歎異」の対象たる人々に対して、彼自身が信じているほど、遠い地点に立っているわけではないのである。この著者の「良心的」「善意」ある態度にかかわらず、それが彼の立つ客観的位置と言わざるを得ぬ。しかしながら、この著者と覚如らとを対比せしめる時は、問題は異なって来る。親鸞からこの両者への距離を、比較測定することが一課題となるであろうから。かかる際は、本論究を通して追跡された見地と、おのずから主題を異にするのである。

インターネット事務局注記2003.6.20

奸*は、異体字です。


論文は古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編2 親鸞思想ーその史料批判ーと同じです。

新古代学の扉 事務局  E-mail sinkodai@furutasigaku.jp


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