古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 2
第二節 原始専修念仏運動における親鸞集団の課題ー史料「流罪目安」の信憑性についてー七〜九

 インターネット事務局注記 2003.7.15
 これは論文のコピーです。本来は縦書きの文書を、横書きにしております。また史料批判の対象である漢文そのものが、表示が困難なため一部略しております。論証には影響ありませんが、これを元にして史料批判は出来ません。古田氏の著作を閲覧して下さい。

親鸞思想

その史料批判
古 田 武 彦 著

明石書店

 

第二章 歎異抄


第二節 原始専修念仏運動における親鸞集団の課題〔序説〕

 ー史料「流罪目安」の信憑性についてー



 
    七

 以上によって、「流罪記録」の原存在性が立証されたのであるが、その上に立ってさらに二つの問題を究明したい。

(一)流罪記録源資料の成立年代について

 流罪記録はつぎの十一部分に分析される

a後鳥羽院御宇・・・人數事
b法然上人・・・オコナハルヽナリ
p聖人ハ・・・藤井元彦男云々(70)
c生年七十六歳ナリ
q親巒ハ・・・藤井善信云々(71)
d生年三十五歳ナリ
r浄聞房・・・旡動寺之善題大僧正コレヲ申アツカルト云々
s遠流之人々已上八人ナリト云々・・・(72)
e被行死罪人々・・・二位法印尊長之沙汰也
t親鸞・・・彼ノ御申シ状〒今外記廳ニ納ルト云々(73)
f流罪以後愚禿親鸞令シメ書給也

(符号は古田、ただしインターネットではそのまま表示できないので記号を変えています。)

 右の中、p・q・r・s・tの5部分がこの流罪記録構成の原資料の直接引用であることは、それぞれの文末の [云々] の語で示されている(74)。今その中のr史料についてその原資料成立年代を検してみよう。(他の史料についてはそれぞれ、注(70),(71),(72),(73)に示した。)このr史料には問題の「旡動寺之善題大僧正」の語が存するのであるが、前述のように「善題」を「前代」の音通とみなし、「旡動寺の検校」にかかわる表現と見なす時は、このr史料の成立年代を細密に確定することができるのである。すなわち「無動寺検*校*次第(75)」によると、慈円は寿永元年と建仁二年の再度にわたって無動寺検校に補任せられている。その中の前者は、承元の弾圧の前であるから、問題の表現「前代」は、後者にかかわるものとせねばならぬ。ところが、その建仁二年の補任のつぎに検校の職を継承したのは、慈円の弟子の真性であった。その真性の検校補佐は健保元年七月であったが、早くも翌健保二年七月には、無動寺の検校を辞した、とせられているのである。とすると、四十余年無動寺にあって寺務を事実上宰領していた慈円ではあるが、「無動寺之前代」と称呼され得るのは、右、健保元年七月より健保二年七月の間の、満一年間に限られるからである。
 この一年間は、親鸞四十一歳より四十二歳の間であるから、三十五歳で配流された親鸞が「坐ツシミテ諸方ノ邊州ニ経(ヘタリキ)五年居諸ヌ一(76)」と言う流罪生活の終結期の直後に当たっているのである。さらにこの健保二年は、親鸞が左貫の地で、三部経を千部「げにげにしく」読まんことを志しながら、「これはなにごとぞ、」「身づから信じ人をおしへて信ぜしむる事、まことの佛おんをむくゐたてまつるものと信じながら、みやうがうのほかにはなにごとのふそくにて、かならずきやうをよまんとするや」と思いかえして読むことを止め、「ひたちへはおはしまして候しなり」と伝えている(77)、その年代なのであった。
 このように伝道の使命感にうながされつつ、親鸞の移住し来った新しきその地こそ、歎異抄の原著者として推されている河和田の唯円の故国なのであった。やがてそこには、妙源寺本門侶交名牒所載の親鸞有力門弟四十四名中の一六名、実に三十六%(諸国にある弟子の四十四%)という最高比率を誇る、常陸国親鸞集団が成長したのである。このようにしてみると、原著者は、このr史料を常陸国親鸞集団の伝来・伝持する古親鸞史料によって書写している、とみなすべき可能性が高まって来るのを覚えざるを得ない。


(二)流罪記録の文書性格について

○大切ノ證文トモ少々ヌキイテマラセサフラフテ目(メ)ヤスニシテコノ書ニソエマヒラセサフラウナリ(十八条結文)

 従来、歎異抄構成論中、もっとも著しい論議の対象となって来たのは、右の文中の、「大切の証文」及び「目ヤス」がそれぞれ何を意味するか、という点であった。諸説は、次の三種に大別される。第一は、「大切ノ証文」散佚説である。香月院深励・妙音院了祥・梅原真隆氏等がこれに属する(78)。第二は、第一条から第九条(又は第十条の初め)までを「大切ノ証文」とする説である。金子大栄氏・増谷文雄氏・姫野誠二氏らであるが、これは明治以降の多数説と言い得よう(79)。この場合、「目ヤス」は「目安書」、つまり箇条書の意と解される。第三は、「大切ノ証文」結文内存在説である。

○弥陀ノ五劫思惟ノ願ヲヨクヨク案スレハヒトヘニ親鸞一人カタメナリケリ・・・

○善悪ノフタツ惣シテモテ存知セサルナリ・・・タヽ念佛ノミソマコトニテオハシマス

 右は多屋頼俊氏の創唱で宮崎圓遒氏が支持される。この場合「目ヤス」は「目標、標識、目印」の意とされる。(80)

 以上を要するに、姫野氏が適切に批評されたように、「古来諸説紛々としていまだに帰一するところがない。」と言うべき現況とすべきであろう。けれども、わたしは前述来の本論文の論証の上に立ちつつ、ここに一個の新説を出し、古来の諸説紛々の現況に対して、あえて対比せしめようと欲するものなのである。今、歎異抄成立時代の古文書を左にかかげ、その形状を「流罪記録」と対比せしめよう。

A南部時長披陳目安(南部文書四)
a   武行以先日弃破状一、自身所帯後日
     配分状、掠申子細罪科遁事(中略)

b 於関東訴陳之上決断所御沙汰[宀/取]中也(中略)

c 如延慶三年御下文者、以亡父南部又二郎法師(法名寶願)遺領配分云々(中略)

d 右子細多、被召決之刻、一烈御下文承伏之上者、武行不依無窮奸*訴仍粗目安

              元弘三年十二月 日

B西大寺長老方空覺以下一門連署起請文(正和五年十二月廿三日)(西大寺文書二)

右起請文元者、就西大寺与秋篠寺相論、沙弥空覺同舎弟僧英寶称秋篠方同意、自西大寺注文由風聞、此条無跡形不實候、縦雖以後、聊奉西大寺狼藉者、不同心合力候、
(下略)

Ca 左右近府駕興庁等三問状并具書案(山科家古文書)
 
   兼治状 (申状書) 如此、子細見状候[与欠]之由(下略)
 
b 平宗度同日一筆譲状、(元享弐年)(朽木家文書)

    右於彼地者、御下文・・・(下略)

 右のA文書は、南部時長が同武行の甲斐国南部郷以下の所領に関する訴状に陳弁するために差し出した、「目安」(=陳状(81))なのである。しかも、古文書訴陳状の諸例を通覧すれば一目判然たるように、その定式として「・・・・・・事」として訴陳の題目を出し、次に一、一と箇条書きして訴陳内容を述べるのが一般であったのである。
 この点、わが、問題の「流罪記録」も、まさにその形式を踏んで書き始められている。すなわち「・・・罪科ニ処セラルヽ人數事(82)」。さらに、従来あまり注意せられなかったけれども、「法然上人并御弟子・・・」として歴然と存する「一」の字はこの箇条書としての「一」だったのである。(83)

 その上、右表Aのbには、従来「意味不明」として多くの刊本で削られてきた「流罪記録」中の「之上」の表現が、一の事由にさらに他の事由を加重する、訴陳状の常用形式として出現するのを見る。(84)

 さらにcを検すれば、「流罪記録」が「藤井元彦云々」として公式流罪状(御下文)を「云々」を附して引くと同じく(85)、ここでも古き御下文が「証文」として引用され、「云々」を附して己が訴陳内容を信あらしめんとされているのである。これ、実は「目安」文書の尋常の形状、慣習形式にほかならない。また、このA「目安」文書と「流罪記録」に共有される「子細」「罪科」等の語が、訴陳内容について指称するための訴訟上の慣用語であることは、訴陳状を通覧する人々にとっての常識と言えよう。

 さらにわれわれは、これらの特徴の偶然ならざる事を知るために、右B文書を検しよう。この文書は、「起請文」の部類に属するものであるが、我々はこの文書が、「風聞」「不実(=旡実)」「狼藉」等の言葉を意味深く「流罪記録」と共有するのを見る。まさにこれらの言葉は、公式文書たる訴陳状や起請文において、自己の側にかけられた嫌疑を否定し、自らの潔白なることを示すための公式文書慣用語だったのである。(86)

 その上、B文書に出ずる「相論」の語について、「訴人」と「論人」が互いに訴状と陳状を出して相争うこと(87)を指す裁判用語であることは疑う人はあるまいかけれども、われわれは歎異抄の十八状結文がこの「相論」の語をめぐる物語ではじまり、同じく再び「相論」の語をもって文末にいたっていること、そしてその両者の中間に最初にあげた、例の「大切ノ証文」「目ヤス」の語を含む文がはさまれていること、を意味深く想起するのである。さらに、「流罪記録」の最後に「彼ノ御申シ状」と言っている「申状」とは、訴陳状そのもののことであることは、多くの日本法制史や古文書研究書の諸書にひとしく説くところにほかならぬ。

 かくして見る時、この「流罪記録」が鎌倉時代公式上訴文書たる「目安」の慣用形式をとり、その慣用語を用いて書かれていることは、もはや疑い得ぬものとせねばならぬ。とすれば、十八条結文に「目ヤスニシテコノ書ニソエマヒラセテサフラウナリ」と言っているのは、まさにこの「流罪記録」そのものにほかならぬ、と言わねばならぬ。かくしてみれば、ここに言う「大切ノ証文」とは、裁判上の挙証力を有する証拠資料について言っていることも疑い得ないところなのである。そして「云々」で引かれた五つの記録が、少なくとも歎異抄原著者にとっては、それぞれ自己集団(同心行者(88))伝持・伝来の古資料(公式文書の写をふくむ)であり、信憑性と証拠力のあるもの、と考えられていたことは、前項までの本論文の論証に微しても明らかであろう。

 今、この論証を堅実ならしめんために、さらに一箇の論証を附する。すなわち、「目ヤスニシテコノ書ニソエマヒラセテサフラウナリ」とあるこの「ソエ」の語のニュアンスについても、従来多くの諸家の疑惑・論議するところとなっていた。(殊に冒頭の九条を「大切ノ証文」に比定する多数説の場合(89))しかし、右のCによって明らかなように(90)、実はこの語も、裁判上の訴陳公式文書類にとって、かかる場合の、一定の慣用句を構成すべき一種の慣用動詞なのである。してみれば、疑うべくもなく、かかる公式文書頻出の慣用的使用法の上に立って、歎異抄原著者は、「目安」を「ソエ」ると言っているのである。したがって、このような公式文書の慣用的使用法の時代の中にあった当時の読者は、歎異抄末尾に「ソエ」られた記録が、「目安」であることを何事もなく了解したであろうと思われるのである。

 以上によって、わたしは江戸時代以来諸説紛々たりしこの問題に対して、この「流罪記録」こそ「目安」にほかならぬ、という、もっとも簡明直裁な結着を得たと信ずるものである。


     八

 今や、この実証的な論述の最後の段階に達した。
 この「流罪記録」こそ「目安」である。この記録の全体が「目安」の書式に属している、との、まがう方なき認識の光に照らされ終わった、その瞬間に、わたしは一箇の大いなる疑問に逢着するのを避けることが出来ないのである。

 その理由は、一言にして、つぎのように表現し得る。すなわち、この記録のすべては「目安」であり得ても、この記録はけっして「目安」のすべてではあり得ないのである。

 前項で表示したA「目安」文書を今一度点検してみよう。それは「・・・子細罪科難遁事」で始まり、「仍粗目安如件」で終わり、「元弘三年十二月 日」と付記してあった。
 この語尾の「如件」と「年月日」との記載を「流罪記録」はまったく欠除しているのである。むろん「年月日」の記載を欠く訴陳状の存することをわれわれは知っている。〔春日神社文書十五〕の「興福寺大乗院以下三院葺工久國陳状」のごときはそれである。けれどもこの文書の首尾は、「欲造葺之状」で終わっているのである。訴陳状古文書を通観してみるに、そのほとんどは「如件」を末尾に有し、しからざる場合も、必ず「以上」「申上」の類の語をもって結ぶのである(91)。けれども、もしかりにきわめて希に、「如件」も「以上」も「申上」も存せぬ場合を許容するとしよう。その時も、われわれは、この「流罪記録」の中(先頭又は後尾)に通常の訴陳状に必須たる訴人・論人の名称を発見するを得ないのである。この点もまた、一種の草案の文なるが故に偶然欠いている、と仮定しょう。けれども、その際にまた、何よりも最大の致命的欠除点が存する。それは「何をいかに訴え陳べるか」という、訴陳内容自体を欠いているということである。この場合、表題が「・・・人數事」であり、「人数」はまさに示されている、と言えるかもしれぬ。しかし、その「人数」が何故、いかにして訴陳の対象とされねばならぬのか、という点こそ、この訴陳状の場合、己が“生命”とせられねばならぬ。そしてまさにその一点を欠いているのである。

 むろん、訴陳状の中にも一箇条の簡単な陳述で終わるものもある。今その例として、先にも一部引用した訴陳状の全文をあげよう。
 
左右近府駕興庁等申竹商賣事、兼治状(副申状具書)如此、子細見状候[与欠]之由、可下知給之旨、被仰下候也、仍執啓如
     永和四年
        十一月廿七日
                            勘解由次官知輔
 謹上 内蔵頭殿
                                    〔山科家古文書〕

 右で副進綸旨案全文であるが、この短文の中に、表題、結語、年月日の具備しているのを見るのである。そしてこのような形状具備は、けっして特殊な例でなく、逆にもっとも一般的な例なのである。
 かく見来る場合、わたしは、この「流罪記録」は明らかに「目安」の一部を構成し得ていても、けっして目安の全部を構成し得ていない、との断定を行なわざるを得ないのである。しかし、われわれは前項までの検証を経ているのであるから、もはや従来のいずれの道をかえすことは許されぬ。そうすると、この認識はわれわれをいったいいかなる地点へと導くのであろうか。けだし、それは論証の許すところ、つぎの二つの道のいずれかを出ぬものでなければならぬ。

 第一の道は、「目ヤスニシテコノ書ニソエ」という文についての解釈にかかわるのである。「シテ」の「シ」は代動詞(サ変動詞)であるから、文の前後関係で種々の意義を帯びることになり得るわけである。したがって、これを通常的に「つくって」「構成して」の異と解さず、「・・・の形をかりて、」「・・・に一部模して」の義と解するのである。この場合、前記のように「流罪記録」が目安の全体を構成し得ていない、という困難点をわれわれはやすやすと脱出し得るであろう。これはまことに「穏健」な解釈であり、蓮如本は、蓮如本もしくは原本自体と一致する、との前提に立つ限り、われわれは厳にこの地点にたちどまなければならぬであろう。

 けれども論理の刃はかかる禁欲の地から、さらに先に進むべき道をわれわれに指し示しているかに見える。論証のおもむく彼方、いかなる所へ到るをも辞せぬ時、われわれは、今や大胆な“仮説”に直面しているみずからを見出さざるを得ないであろう。

 かくして第二の道が開ける。この道へとわれわれをうながすものは、「目ヤスニシテ」の句に対して簡明率直な理解をなすべしという、という要請である。この句を含む文には、全第一説のごとき、屈折した響きは存していない、という見地から率直に「目安として構成して」という意義に解すべし、という要求である。この解釈はもっとも自然であるが、もしこの要請を容認せんか、われわれはつぎのような“仮説”の真只中に立っているみずからを見出すであろう。いわく「それはかってあったにもかかわらず、今はなくなっているのだ」と。すなわち現存蓮如本に存する「流罪記録」は、原著者が作りそえておいたものの“前半部分”にとどまる、との見地である(92)。もっと直裁に言うならば、何れかの時期に、その肝心の訴求内容をもつ後半部は切断され、削除され終わったのだ、という“仮説”なのである。

 わたしは、今、この“仮説”から提起さるべき問題点を明らかにしておこう。

 第一には、「切断の時期」、 第二には、「切断の理由」である。まず、その切断作業がいつ行われたか、との問に対しては形式的に大別して、A蓮如以前、B蓮如自身、C蓮如以後の三期に区分して考察されるべきであろう。

 A期の場合、蓮如本の書写原本が紛失している現在としては、この大約二百年間の中における切断の時期、行為者なども(よう)として不明、追求不可能となっているのであり、真実は永遠に闇に葬り去られた、とせねばならぬ。

 つぎにB期の場合も、書写中における書写対象からの除去ということであれば、原理的にA期の場合と同じケースに属すると言わねばならぬ。又書写後その没年までの間における切断ならば、つぎのC期に準じて考え得よう。

 つぎにC期の場合、この場合には、現存巻子本の実地における徹底的検査によって、相応に究明せられ得る、と言うことができる。多屋氏も言っておられるように、蓮如本は原形袋綴の本であったものをいつか(93)まったく原形を一変し、解体して巻子本に変形せしめられているのである。その際、原文は切り継ぎして貼付せられ、文字が接続するように余白はしばしば除去して、連結せられているのであるから、たとえば丸一枚完全に失われているような場合、認識不可能と言うほかない(94)。けれどもまた半面、その貼布連結の状況以下によっては、B期にまで遡及して推定し得る可能性も存するわけである。(この問題を注に詳記分析した。(95)

 第二の問題点は、「切断の理由」である。この点は、肝心の訴求内容が存しないのであるから、切断理由もまた判じがたい、とせねばならぬけれども、なおつぎの点に注目すべきであろう。「流罪記録」の表題中に「御弟子中狼藉子細アルヨシ旡実風聞ニヨリテ罪科ニ処セラルヽ人數事」とある「子細」の語が、訴陳状において、訴求内容を全体として要約指示する場合の公式文書慣用語であることは、人のよく知るところであろう。

今古文書訴陳状中の実例をあげよう。

○大徳寺塔頭如意庵領土御門敷地三問三答案(天文六年)〔大徳寺文書、如意庵文書〕

當庵領土御門萬里小路四町町内四半町余千秋刑部少輔押領事

子細者、為勅願之地、・・・(以下「押領」の具体的事態を詳述する)

○興福寺大乗院以下三院葺工久國陳状(春日神社文書十五)

守次丸訴申不當子細

夫昔者、雖一座、自中比成三座了・・・(以下、「不当」の内実を詳述する。)

 かかる例は無数に存する。前節にあげたA「目安」文書においても、「掠申子細罪科難遁事」と表題した後、五箇条にわたってその罪科の具体的内容を列挙し、最後に「右子細多・・・」と結んでいる。さらに、先にあげた歎異抄十八条結文の最初に親鸞と誓観房、念仏房との「相論」を記した後、「コノ子細ヲマフシアケ」て法然に判を求めた、と記しているも、訴陳内容(に擬しているもの)を要約指示するという、当時の「子細」という語の用法に従っている点、変わりないのである。

 このように見て来ると、「子細」の語は訴陳状中において現実の訴陳の当該内容を指示するものであることが明らかとなる。

 したがって、この「流罪記録」中の「子細」の語も、従来考えられていたように、単に過去の承元の大弾圧の時点に関するのみではなく、現実に現在の親鸞没後集団に対して投げかけられた汚名、非難に関するものであることが明白になって来る。

 この行文からすれば、それは当然、この集団の育成者親鸞はその「狼藉」の故に流罪にされたのであり、そのためにこそ、その師法然も責任をとらされて流罪されたのだ、との非難が、「訴陳の番ひ」の相手側から親鸞没後集団に向けられているもの、とみなされるのである。

 とすれば、この「目安」としての流罪記録の後半部には、相手側が親鸞没後集団に投げかけた非難の内実、すなわち、そのために親鸞は流罪されたのだ、と相手側の呼称する、親鸞罪科の具体的内容が陳べられてあり、そしてそれらがまったく事実無根の「旡実」であることが陳弁されてあった、と推定して大過ないであろう。とすれば、それは歎異抄原著者の生存した時代の親鸞没後集団にとっては、現実の切実な課題であり、体制側や他集団の圧力に抗して、この集団が生きのびるための必死の戦いの一の文書的表現であったはずなのである。興福寺の僧侶たちの奏状を「敵奉」と明記している点、また、「狼藉」「子細」「旡実」「風聞」「罪科」等の当時の公式慣用語の連結から成った短文であるにもかかわらず、他の通常の訴陳状古文書に見られぬほどの緊迫した反駁の断言が表現されているのを見る時、さらにそれを具体的に詳述した後半部の生々しさは、後世の本願寺教団の成立後親鸞を権威化し、崇敬の対象とする時代になった、その時代に生きている人々にとっては、耐えがたく、また、不名誉なものと感ぜられた、としても偶然ではないであろう。

 われわれは、従来親鸞の真蹟本とされて来た教行信証の高田専修寺本は、その実、化身土巻末の袋綴の半枚、すなわち最後の一葉が切り取られており、そこにこの本が専信の書写本であること(すなわち親鸞の真蹟本でないこと)が明記されてあったことが立証されることを生桑完明氏の直裁な研究によって知られている。(96)
 また、同じく親鸞の真蹟清書本とされて来た教行信証の西本願寺本においても、最後の一葉の裏面の奥書中最後の四行が切断されており、そこには文永十二歳の年記を含む、親鸞没後書写を思わせる文言のあったことが、報告せられているの見る(97)。かかる、古書の一部切断というような行為は、中世・近世的権威主義の時代を経過して来た各種教団共有一般の事情であろうと思われるから、このような事例が現今本願寺教団内部の学者によって明らかにせられたということは、けっして単純に不名誉なこととすべきではない。事実、現今の日本中世思想史の学的研究における真宗部門の進展状況の一の原因が、かかる資料内実の明白化に存することは疑い得ないのである。

 かくして見来る時、わたしはこの流罪記録の後半部切断の動機も、以上のごとく推して大約過まらざるものと言えよう。


     九

 以上によって、わたしは、長き実証論述を経て帰結に達したのであるが、今、終尾に、この流罪記録を含む「目安」成立の意義と、その背景について触れておきたい。
 従来、もっぱら教理的もしくは教養主義的見地より歎異抄に接して来た人々にとっては、この書に何故に訴陳状が添えられねばならなかったのかは、当惑をさそうに十分な疑問であろう。古くは深励より現代の諸大家にいたるまで、「流罪記録」の原存在性不信への出発点をなすものは、実にその内容が本文にふさわしくない、という前提命題にあったのだからである。
 われわれは、この問題の核心に入る前に、この「流罪記録」の末尾にある、親鸞の「御申状」の存在について述べている記事に注目しよう。「申状」、すなわち訴陳状は、本来上申書であり、公家・本所・武家等の上司に向って提出するものであるから、「彼ノ御申シ状〒今外記廳ニ納ルト云々」と言う時、当時「もし疑問ならばお調べいただければ判るはず。」との確信を披瀝していることになろう。

 ところで、われわれは親鸞の第一史料の中にかかる申状提出の痕跡を見出すのである。親鸞御消息集の第二通がそれである。

 六月一日の御文、くわしくみさふらひぬ。さては鎌倉にての御うたへのやうは、おろおろうけたまはりてさふらふ。(中略)おほかたは、このうたへのやうは、御身ひとりのことにはあらずさふらふ。すべて浄土の念佛者のことなり。このやうは、故聖人の御とき、この身どものやうやうにまふされさふうらひしことなり。こともあたらしきうたへにてもさふらはず。(中略)御文のやう、おほかたの陳状よく御はからひどもさふらひけり。(98)

 右の消息は、親鸞の門弟性信が親鸞集団を代表して訴状をもって訴えられて裁判に出されることになり、「訴陳を番(つが)ふ」(当時の裁判用語)ところの「相論」の場におかれ、いわゆる「三問三答」のための陳状を提出せしめられたことに関するものなのである。それに対して親鸞親鸞は、自分も法然在世中「やうやうにまふされ」た、としているが、これは歎異抄「流罪記録」の中に親鸞ら、御弟子が「狼藉」の嫌疑をうけた、との記述と軌を一にするものであろう。ところがその直後の文に、注目すべき発言が現れる。「こともあたらしきうたへにてもさふらはず」ーすなわち、この事(罪科・争点)は格別新しい訴訟ではまったくない、と言うのである。すなわち換言すれば、今まで自分もそのような同じ罪状で「訴陳を番ひ」をさせられ弁明させられて来たのだが、それと変わりなき本質のものだ、と言っているのである。もっともこの箇所は、本派本願寺蔵室町時代書写本では、先の文とは逆に、「こともあたらしきうたへにてもさふらふなり」となっているのである。肯定文と否定文、二者相反する内容を示しているのであるけれども、実は同じき背景を指向する。すなわち、後者の場合、「また新規な訴訟なのだ」の意となり、その前々から行なわれ来った古き訴訟の存在を行文の背景にしている、という点においては、両者全く同一の前提点に帰着するのを見るのである。そして「故聖人の御とき・・・」と言い、この訴訟が「すべて浄土の念仏者のことなり」と言っていることとの関連から見ると、この訴訟の本質はまさに承元の大弾圧という、専修念仏集団全体への迫害につながるものでありながら、今、法然没後の専修念仏運動の一派たる親鸞集団にその訴追が集中されて、この訴訟が提起されているのだ、という立場で堂々とうけとめられているようである。このようにしてみると、親鸞が流罪終了後においても。解決の容易につき難い困難な訴訟・訴追の渦中に置かれていた、という状況が察知されよう。したがってこのような情勢を背景におく時、その親鸞の御申状が提出されたとする「流罪記録」末尾の証言をしりぞけることはなしがたい、とせねばならぬ。とすれば、親鸞はその訴陳状に当然証拠書類を具書し、「相副(そ)へ」ねばならなかったわけであるから、かかる証拠書類文書が、親鸞以後も、親鸞集団に伝持せられて何の不思議もないはずであろう。(「流罪記録」中の「大切ノ証文」がこれにあたる。)

 さらに、この時性信が当面した訴訟は、一応は無事に落着したようではあるけれども、むろん、これが親鸞集団を襲い来った最後の訴訟・訴追であった、という保証はない。むしろ、親鸞の死後は、卓越した指導者を失ったために、その集団(親鸞没後集団)にとってはいっそう複雑な情勢が展開したであろうと思われるのである。この性信の関係した親鸞生前の建長の訴訟において、親鸞が遠隔の地京都にありながら、いかに時に暖かく、時に決然と裁断・指揮したかを想起すれば、如状の点は容易に望見し得るところである。

 他の局面を見よう。われわれにとっては蓮如本の結文に、誓観房・念仏房と信心の議論をする親鸞の物語が、「相論」として描かれているのを見て来た。しかも、それは訴陳「三問三答の番ひ」のごとき筆法で描写されている。法然の「御前」に「子細ヲマフシ」「是非ヲサタム」べしとするごとき、この段の著述が正規の裁判の「相論」の場を模する方法によって描出されていることは疑えない。その上原著者はこの物語について、「当時ノ、一向専修ノヒトヒトノナカニモ親鸞ノ御信心ニヒトツナラヌ御コトモサフラフラントオホエサフラフ」と結論している。この「当時・・・ニモ」の表現の中には、その実、歎異抄執筆時における現実の公的相論もまた存在したこと、暗示しているかもしれないのである。この「誓観房」の「誓」(=勢)の字を「音通」で記述するのも、その実特に配慮をはらっているしるしと見なされ得ることは、先に述べたとおりであるが、それは直接には過去の「勢観房」への配慮であるよりも、現実の勢観房源智集団への配慮と見なされよう。(99)

 このようにしてみると、同じ結文の末近い箇所にあるつぎの文も、新しい光と色を帯びるように思われる。

念佛マフスニツイテ信心ノオモムキヲモタカヒニ問答シヒトニモイヒキカスルトキヒトノクチヲフサキ相論ヲタヽンカタメニマタクオホセニテナキコトヲモオホセトノミマフスコトアサマシクナケキ存シサフラフナリ

 この文は従来単純な信仰上の口論・議論の場合のこととしか見なされなかったけれども、これは現実の公的「相論」の存在を暗示し、それを反映しているかもしれないのである。

 また後世の版本ながら、真宗法要本巻末の校異十三ヶ条の中には、右の文中の「アサマシク」と「ナケキ」の中間に、「ヲノカ自力ニツノリ宗師聖人ノ御悪名マフシナスコト」の二十四字を入れている異本を紹介している。この異本がいかなる存在か不明なことは、多屋氏も説かれるとおりであり(100) 、単に「聖人」ではなく、「宗師聖人」と言い、「オノカ」にあらずして「ヲノカ」と言うごとき、室町以降的性格の歴々たるにもかかわらず、その実質内容は後世讒*(ざん)入として軽々と断定しがたき性質の意味を蔵している。今かりにこの挿入句を存在せしめた場合、その直前の「マタクオホセニテナキコトヲモオホセトノミマフス」の文も、従来解せられて来たように親鸞の言を虚構して自己の立言の証拠・権威づけをするとの意ではなくして、逆に、親鸞の言説を虚構して親鸞の悪名を呼称し、親鸞と親鸞集団攻撃の材料とする、という意になる来るのである。

インターネット事務局2003.7.10 讒*(ざん)は言偏でなく手偏です。

 けれども、われわれは、今は伝来不明の異本によって確言することをさしひかえ、かえって親鸞自署の第一史料を提示して親鸞の置かれた状況を確かめよう。高田専修寺真仏書写「皇太子聖徳奉賛」は親鸞建長七年十一月晦日の書にかかるものの写本であるが、その末尾はつぎのごとき十七条憲法の引用三句によって結ばれている。

○憲章の第二にのたまはく 三寶にあつく恭敬せよ
 四生のついのよりどころ 万國たすけの棟梁なり

○いづれのよいづれのひとか帰せざらむ 三寶よりまつらずば
 いかでかこのよのひとゞとの まがれることをたゞさまし

○とめるものゝうたえは いしをみづにいるゝがごとくなり
 
 ともしきものゝあらそひは みづをいるゝににたりけり(○は古田)(101)

 縷々七十二句にわたって述べて来た伝歴に次いで、急に七十三句よりこの十七条憲法の引用にうつっている。三宝帰依を説く第二条を引いて七十三・四句を構成することはむしろ当然としても、そのあとに、突如、十七条中の第五条の一句「とめるものゝうたえは・・・みづをいしにいるゝににたりけり」を引いてこの長編和讃を閉じる。しかもこの最終の句(七十五句)がここのみ全文平仮名でつづられ、この前の漢字の多い七十三句までと、この後の漢文奥書との間にはさまれて、ひとつ異彩をはなって浮かびあがり、さながら、全長編のしめくくりの観を呈していることを見のがすことはできない。
 われわれはこの一句が十七条憲法において、訴訟に関して述べられたものであることを知っている。しかも訴訟にたづさわる権力者が、勢力ある訴人側「とめるもの」の訴を賄賂の故に勝訴とし、百姓たち「ともしきもの」の陳弁は、「累(カサネテ)歳ヲ」もついにうけ入られず、長年月の困憊の中に置かれる、との指摘の中の印象深き比喩なのである。

有ル財(タカラ)之訴(ウタ)。如シ石(イシ)ヲ投(モテ)、乏者之(トモシキモノヽ)訴(ウタヘ)ハ、似タリ水ヲ投(モテ)ル石(イシ)ヲ。是以貧民(マヅシキタミ)則不ズ知(シラ)所由(ヨドコロヲ)
(京都三千院蔵承安三年写本)

 親鸞がこの句を記する時、建長の訴訟の中で関東の親鸞集団の人々、ことにその中に多く存在する百姓たちの困惑を思い浮かべていたことは確かであるけれども、同時に、承元の大弾圧以来みずからもかかる陳弁甲斐なき訴追の中に困憊し、「累(カサネテ)歳ヲ」苦渋の生涯の中に、かかる詠歎講義のより深い拠り所あったものと見なすことは、今までの考察を経て来たわれわれにとって避けがたい帰結であろう。すなわち、このように、被流罪者たるみずからの集団を長期にわたって疎外し来った体制こそが、「このよのひとゞとのまがれること」という認識を親鸞の骨身に刻んでいったのであった。

 以上のようにして見る時、体制内に適正な位置を獲得し終わった後世本願寺教団の中の人々にとって、それがいかに似つかわしくなく、「内容上の価値」をもたぬように見えるにせよ、それは歎異抄原著者にはとってあずかり知らぬところなのである。親鸞を失って疎外状況のみを遺産として受け継ぐという、歴史的段階に置かれた原著者にはとって、この流罪記録」を含む「目安」こそは、繰りかえし試みられた、体制とその側に立とうとする他集団の攻撃に対する精一杯の抗議の言葉、無罪証明の戦いの微証なのであった。それは、「ともしきもの」の側に立っていた死せる指導者の真意を継ぐためには、親鸞没後集団の払わねばならぬ、苦しき代償なのであった。

 以上によって、歎異抄末尾所載の「流罪記録」の「目安」が存在すべき必然性と、その時代的背景を一応述べたのであるが、かかる疎外状況の中にあって、かえって親鸞とその集団がいかなる思想的対応・宗教的信条を産み出し得たか、ということこそ、原始専修念仏運動中における親鸞集団の個性をあらわにし、日本思想史上におけるその位置を示すものとして、本論文の考究の中心課題をなすであろう。そしてそのような課題への解答を達成した、その地点に立って照顧する時、歎異抄所載の親鸞言説が、以外にも従来と著しく異なった光彩を帯びることとなったが、今は紙数の関係上、その部分を一応切断して、この「序説」ならぬ「本論」に属せしめることとした。



(70)p史料は「藤井元彦」と記しているが、この「男」はすでに注意せられているように、公式文書の罪名に附する慣例用語であるから、この語が公式文書の写しを伝えていることがわかる。したがってここに限って言えば、承元の法難当時の成立になるものの転写と言えよう。

(71)q史料はp史料と体を似せながら、「男」を記さない点、別種の史料であることがわかる。親巒「呼び捨て」呼称からして在世集団参加門弟の記録であることは前述のとおりである。

(72)s史料については、あまりに短文であるため、成立年代はわからないが、あまりに短文であることが次のことを指し示している。

 第一に、流罪総計八人といった事柄も、伝来し来った原資料に基づいてその文の形式のままに記載してることから、その原史料はやはりr史料と同じく流罪当時に近接した、かつ、この原著者にとって、信憑性ありと見なされている資料に基づいているであろう、と思われること。

 第二に、こういった、原著者にとって信憑すべき数字と、実際の人名を校勘・対比せしめている趣があることである。

(73)t史料も、親鸞「呼び捨て」呼称を行っていることから、親鸞在世集団の参加者で、しかも原著者より古い先輩の手になる記録であろうと推定される。しかもその記録者は、「外記庁」といった、都の公の役所の消息にもいささか通じていると、周囲の門弟にも思われていたように見える。

(74)これに対し、a〜fの部分は一応原著者の地の文と見なされ得るものである。しかし、bのごときはpに含ましめられるものとも考え得るし、また、他のa、b、c、e、fの5部分も「直接引用」の形をとっていないだけで、何らかの資料を元にして構成されたものであることは当然である。特にeについてはその観が深い。一方にsのごとき、簡単な人数のみの表記の短文を〔云々〕をもって区切っているのに、反対にeのごとき重大な内容に〔云々〕を附さないで地の文にしているのは、一件不用意に見える。けれどもかえってsの例は、この記録がいかに原資料を忠実克明な態度で引用しているか、を示すものであろう。eの場合はおそらく、より複雑な原資料をみずから取捨してその人名のみを一番ー四番の形に簡明に構成表記したので、原資料の表現構成の形式どおりではない、という意味で〔云々〕を記さなかったのであろう。また、このeをtに含ましめて考えることも、多少の文体の相違にこだわらなければ可能である。

(75)群書類従(第参輯)補任部僧官補任

(76)教行信証化身土巻末

(77)恵信尼文書第五通

(78) 香月院深励「歎異鈔講林記 下」(真宗体系註琉部一一〇頁)
  妙音院了祥「歎異鈔聞記」(続真宗体系別巻二頁)
  梅原真隆氏「歎異鈔」角川文庫版解説一〇六頁

(79)金子大栄「歎異抄」岩波文庫新版九頁
  増谷文雄「 歎異抄」筑摩叢書版一一八頁
  姫野誠二「歎異抄の語学的解釈」一七〇頁

(80)多屋頼俊「 歎異抄新注」解題七〜八頁。同氏『親鸞集・日蓮集』岩波日本古典文学体系版補註二六二頁
  宮崎圓遒「 歎異抄」親鸞聖人全集言行編解説二六二頁

(81)「目安」とは訴陳状のことであって、訴陳の内容を一項目ごとに書き表して了解し安からしむように書くところから生じたものであろうという。(相田二郎氏『日本の古文書』上七九一頁)

(82)健治三年日記一二月一九日項に「一人数事・・・」とある。

(83)多く「一、一」と書き継ぐけれども、中には一箇条だけしかあげなくて「一」と記するものも存する。

(84)今、陳状に用いられている「之上」の例をもう一つあげてみよう。「尤無其謂之上、二度弥*仕者。不共奉之由来、・・・(下略)」
 興福寺大乗院以下三院葺工久國陳状ー鎌倉末と推定さる春日神社文書十五〕

(85)注(70)参照

(86)さらにわれわれは、B文書に「同心合力」とあるのが、歎異抄序文にある、「為同心行者之不審也」とある「同心」と同じ使用例に基づく言葉なのであって、訴陳における自己の側の集団について指す言葉として使用せられているのを見出すのである。

(87)これが訴陳三問三答と称せられる形で行われることは有名である。

(88)注(86)参照

(89)この場合、一〜九(十)の各条が、原著者の地の文よりも、重くにおかれるべき師親鸞の言説であることと、さらにその位置が歎異抄の末尾でなく先頭におかれていることから「ソエ」の語にふさわしくない、との疑問が出され、当然それに対して種々の弁明がなされざるを得なかったからである。

(90)ここにあげた二例は頻出例の一端にすぎない。

(91)古くは「解」

(92)これは後半部分「散佚」説とはなり難いであろう。従来説(前項二の第一説)にあったように「別冊」として添付された聖教類を散佚対象として想定する場合と異なり、この場合一定の文書形式の後半部分なのであるから、偶然散佚した上、つぎの書写者の注意もまったく引かなかった、となすのは、可能性絶無でないにしろ、きわめて成り立ちにくい見地と言わねばならぬであろう。

(93)多屋氏は現装釘から見れば、江戸中期と推定しておられる。

(94)各紙の帖数は記せられていない。

(95)「流罪目安」切断の問題時点について、そのA・B・C各期に区分して摘記する。

 A期(蓮如以前)の場合、本文に述べたように、原本等の出現を待つほかに、この大約二百年間中の切断の時期、行為者などはすべてとして不明に帰していると言わざるを得ない。

 B期(蓮如自身)の場合、蓮如書写に際して、蓮如みずから行ったとすれば、その書写原本が消失している現在、事態はAの場合と軌を一にして、その行為・不行為自体が立証の外に置かれていることになる。何れとも証明不能のケースと言えよう。ただし、蓮如自身は切断せられざる全体を書写したであろう、との推測を支持する些少の痕跡らしきものは存する。すなわち「法然聖人・・・」の上にある「一」の字がそれである。「一」を記しながら、一箇条しか記さない訴陳状の例のあることは、前述のとおり(本論第八項)であるけれども、かかる場合二箇条以上存するほうが大多数であることは当然だからである。(一箇条の場合は「一」を記さないのが普通である。)けれどもこの点は、蓮如本以外の四本もこの「一」を書き継いでいるのであるから、これをもって、蓮如本に最初は後半部の存した確証、となし得ないことはむろんである。
 次いで、書写以後において蓮如みずから切断したというケースも、むろん軽々に立論できないけれども、蓮如本本文および流罪記録の筆致に対して、最後の奥書が著しく異なっている点(前者は楷書風、後者は行草書風)、これを単に奥書の慣例書法と見なすか、或るいは時期を異にしたものと見なすか、が一つのポイントとなるであろう。

  C期(蓮如以後)の場合は、いくつかの問題時点を有している。

 第一は永正本の書写の時点である。永正本に蓮如の奥書を書写しており、その行書書体の酷似から(「歎異抄新註」の写真版参照)少なくともこの部分は蓮如本を見て筆写したらしいことは多屋氏の言われるとおりなのであるが、その永正本には、「流罪記録」の前後を各一頁(前は紙の裏面で、後は紙の表面に当たる)空白にしてあるのである。多屋氏かこれをもって、「流罪記録」の後人裏書讒*入説のささえとされたのであったが、この記録の現存在性が証明された現在、この二箇所の空白部分は別種の意義を帯びることになろう。元来、永正本の書写者がこの記録を後人の裏書讒*入と見なしたならば、龍谷本のごとく単に書写の労をはぶけば、それでいいわけである。かくして見る時、よりとりやすい見地は永正本の書写者は書写原本のこの二箇所の部分において、何物かが脱落していることを見た、そしてその認識を空白部分の設置によって示したのである、との推測であろう。

インターネット事務局2003.7.10 讒*(ざん)は言偏でなく手偏です。
 
この場合、前(全文末と「流罪記録」の間)の空白に存すべきは原著者の奥書である。親鸞自筆本によって検するも、この位置に筆者の名称とこれを書した年月日を記するのが通例である。ことに親鸞よりの「口伝」の伝持・伝来を記するを根本姿勢とするこの書において、それを伝持した筆者みずからの名称をここに記さないのはむしろ不思議不可解と言うほかはない。そして後(「流罪記録」と蓮如奥書の間)の空白こそ問題の「流罪記録」(=流罪目安)後半分の存すべき位置にあたるのである。

 けれども、これも永正本の書写者が何かを見た、のでなく、筆者(古田)と同じく、定例書式からの推測に立ってこの部分の存すべきものの欠除を示したにとどまる、とすることも可能なのであるから、この問題からは何らの実証的断定も得ることはできぬ、とすべきであろう。

 第二の問題時点は、室町時代末とされる龍谷本書写の時点である。多屋氏、姫野氏ともこの龍谷本をもって原形を示すもの、とされたのであったが、「流罪記録」の原存在性が実証された現在においては、この龍谷本こそ「流罪記録」完全削除の現存最初の事例となるわけである。またこのことは流罪記録の意義を解せず、これを削除せんとする傾向が少なくとも室町時代末にはすでに存在していたこと、を指向するものである。

 第三の問題時点は、袋綴であった蓮如本原形を一変せしめて、現存のごとき巻子本二巻として解体せしめた時点である。多屋氏によれば、装釘から見て江戸時代の中期であろうと言われるのであるが、当然提起さるべき疑問は、なぜこのように書物の体裁まで一変せしめて原形を破棄したのであろうか、という点に存する。江戸時代に、巻物の形式を、古くして権威ある書物書体として尊重したこと、よく知られた事実である。このことを巻子本化の理由に擬することも可能であるけれども、けれども、ならばもっとも権威づけを要すべき親鸞の自筆本に対して、(歎異抄と同じ程度の大きさのものも数あるにもかかわらず)かかる巻子本化による権威づけをほとんど見ることができぬのはなぜか、との反問が提起せられるであろう。つぎに原形の破損を理由にするとしても、そのことが巻子本化を必然ならしめたものとは立証し得ぬであろう。そしてかりにそのような自然的破損の存在を推定し得たとしても、これはけっして他の理由(例えば「切断」というような人為的破損)と並立共存し得ぬことを意味するものではないのである。

 ただし、この時点に対する問題点は、相応の解決がなされ得る。すなわち、実地において現存巻子本の徹底的検証が実施されるならば、写真版などとは比較にならぬ明晰な解明が得られると信ずる。ただし、この場合蓮如本原形を解体切り継ぎして貼付連結しているのが現存巻子本なのであるから、丸一枚の完全脱落の如き場合は、検証不可能であろう。(帖数は記入せられていない。)けれども、これに対し巻子本に現存する部分は原蓮如書写本に存したものなのであるから、この検証から前記B・C期中の各問題点に遡って推定し得る、という可能性もまた存するのである。
(A期についてはむろん原理上遡及不可能である。)

 今後、われわれの手に残された、かかる遡及可能性がくまなく追跡され得る日の来らんことを切望するものである。

(96)昭和二三年十一月高田教学第一号、昭和三一年九月真宗研究第二輯、親鸞聖人全集教行信証解説編参照。

(97)親鸞聖人全集教行信証解読。

(98)大谷大学蔵恵空写伝本(親鸞聖人全集一二七〜八頁)

(99)これに対し、念仏房の場合はそのまま記入されている。

(100) 姫野氏は後世の「注解」の混入したもの、とされる。

(101) 親鸞聖人全集和讃編二四八頁(傍訓省略)


インターネット事務局注記2003.7.1
[/henn漢字*] は、異体字など表示できません。近い表現を表しています。なお論証に関係ありません。

**は、異体字です。

讒*(ざん)は、言編でなく手編です。

*も、異体字です。(編は女二つ)


論文は古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編2 親鸞思想ーその史料批判ーと同じです。

新古代学の扉 事務局  E-mail sinkodai@furutasigaku.jp


著作集2目次に戻る

ホームページに戻る


制作 古田史学の会