古代史と国家権力 津田史学を批判する 古田武彦
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グラフィケーションNo.56 (通巻245号) 1991年(平成3年)8月発行
対談・知の交差点 4

古代史研究の方法をめぐって

山田宗睦 古田武彦

(昭和薬科大学教授 日本思想史)古田武彦氏
(関東学院大学教授 哲学)山田宗睦氏

 物に即して考える

編集部
 現在は、政治、経済をはじめとして、さまざまな分野で近代の枠組みが崩れ、新しい思想や文化の展開を求めて学際的な交流、交換が盛んになっていますね。きょうは、古代史の世界に広く市民の目を組織し、アカデミズムの枠の外からユニークな論を展開されておられる古田さんと、哲学者のお立場から日本人の精神のありようを古代の文化から探ろうとされている山田さんに、研究の方法論といったことを中心に、枠を外すことの意味についてお聞きしたいと思います。

 山田
 もう十数年になるでしょうか。ひところパラダイムという言葉が流行り、ポストモダン、脱近代というテーマと重ねて、パラダイム論争というものがありましたね。近代を十七、八世紀から今日までとすると、その近代の中に、いかにも近代らしい、近代という時代の特徴だと言える枠組みがあったわけです。その枠組みを、現在、二十世紀の終わりになって少し変えなくてはならなくなってきた。例えば、経済的成長を第一義にやってきたら、地球環境がめちゃくちゃになってしまった。それも結局、近代理論の枠組みの中にどこかまずいところがあるからなので、ここで一度、これまでの枠組みを検討し直して、新しい枠組みを作り直さなければいけないのではないか。そういう趣旨でパラダイム論争が起こったわけですね。しかし、やはり、ミネルバのフクロウは日暮れと共に飛び立つわけで、新しいパラダイムはこうですと時代に先駆けて言うことはできず、一つの時代の区切りに、はじめてこの時代はこうでしたと言うしかないので、どこかで末すぼまりになったような気がするんです。
 それはともかく、そういう動きを通して学問というものを見ていくと、ある一つの考え方が突如出現したり、変わったりするものではないと思えるんです。例えば、古田さんの場合もそうですね。これまでの大和中心の一王朝支配説に対し、さまざまな王朝が支配していたという多元的な古代国家論を展開されて、皆をアッと言わせた。しかし、一見いままでと全く違った考え方が出されているように見えても、古田古代学の源流を遡って行くと、やはり古田さんの先生、村岡典嗣さんが切り開いた道があるんですね。どこかでガラリと変わったように見える事柄でも、よくよく検討してみると少しずつ変わっていって、ある日、大きく変わるものだと思います。
 古田さんは、古代史研究の上でも大きな変革をなさったわけですが、私などは古田さんの一読者として、それ以前の親鸞の研究がとても忘れ難いのです。
 きょう古田さんにぜひお伺いしたいと思っていたのは、その親鸞の研究の中で、親鸞の筆跡を厳密に調べて、どれが彼の若い頃のもので、どれが年を取った時のものかを確定するため、文字の筆圧を調べたということがありましたね。これは小さいことのようですが、その結果によってそれまでの親鸞解釈の枠をはずすことになったわけですから、非常に重要な研究だったと思います。そこでお伺いしたかったのは、なぜ親鸞に関心を持たれたのかということなんです。

 古田
 私の青年時代は、山田さんより二年ばかり遅れておりまして、ちょうど敗戦から戦後にかけてという時期でした。
 戦争中、旧制高校にいた時から、世の中の仕組みや考え方に対し、どうもこれはおかしいということを常に考えておったんです。それが敗戦になって、よき時代がきたと世間では言われ、また学校教育でもそういうことになったわけですが、正直言って、いやこれもまたどこかおかしいぞという感覚を持ったわけですね。その辺りが私の問題探究の基礎になったような気がします。
 要するに『歎異抄』の中の親鸞の言葉、「親鸞は弟子一人も持たず候」とか、法然上人と一緒に皆で地獄に落ちても後悔しないとか、ああいう類の言葉にひかれて、もしいま「あの人」が生きていたらどうするだろうと考えたんです。戦前軍国主義を言っていた人たちが、口をぬぐって民主主義を言い出している。こちらは青春時代のはじめですから、そういう大人たちの様子が耐え難かったんですね。それで非常に思い詰めていたんですが、その中で、親鸞という人は時代が変わったからと言って口をぬぐって新しいことを言い始めるような人じゃなかったに違いない、もしそういう人がこの地上に一人でもいたのなら、自分も生きてみてもいいんじゃないかと、そういう感じで親鸞に興味を持ち始めたわけなんです。
 ところが、親鸞をめぐる評価はさまざまで、戦中はまさに“護国の念仏者親鸞”と言われておったのが、戦後その同じ人の口から今度は“民主主義の先覚者親鸞”という言葉が聞かれるようになった。そこで、やはり青年らしい潔癖性から、もう親鸞について書かれたものを読む気がしなくなったんです。しかし、一方では『歎異抄』の中の親鸞の姿が本当なのか、それともやはり彼もいまの大人たちと同じように結構ずるい、保身の術にたけた人なのか、それを確かめてみたいという気持ちが強くなった。
 でも親鸞研究の権威者を信用していませんでしたから、自分で直接、親鸞の書いたものに当たって確かめるということを始めたわけです。何かひっかかる言葉が出てきたら、同類の言葉を同時代かその前の時代の他の文献に当たって、それがどのような意昧で使われていたか確かめるという、非常にたどたどしい方法なんですが、そうやってしか親鸞の実像に迫れないと思ってやっていたんです。いまお話しに出た筆跡の問題なども、さまざまな研究は出ていたんですが、やはり自分で確かめてみたいと思い思案していたわけです。そして、私の義兄が神戸大学で工学部教授をしておりましたので相談したところ、デンシトメーターと言うものがあるから、それで筆圧を計ったらどうだろうということになったんです。
 その結果がどう展開していくのか、その時の自分には全く見当がつかなかったんですが、しかし、とにかく自分で直接、原資料に当たって確かめるしかないという、そういう立場に置かれたことが、よかれあしかれ私のその後の研究姿勢を決めていったんじゃないかと思います。恐らく古代史研究に入ってからも、その点は同じだったような気がしているんですが。

 編集部
 工学的知識が歴史研究に生かされたというのも面白いですね。

 山田
 われわれ哲学の世界で育った人聞は、もともと哲学は観念の学ですから、どうしても現物より観念を重く見る傾向があるんですね。しかし、観念というのはコピーですから、コピーの世界で概念を操作して、それで物事を考えていくわけです。そこでゲーテに『ファウスト』の中で「哲学者なんてやつは、緑の野で枯れ草を探すようなやつだ」(笑)とこっびどく言われるわけなんですけどね。いろいろな人の説や論を相互に比較して、ある人の論文からこの点を受け継ぎ、こっちの論文からはここを受け継いで、自分の論を構築する。こういうやり方をすると、つまり緑の野で枯れ草を摘むことになるわけです。
 ところが、古田さんは、学者の書いたものではなく、親鸞自身が書いた現物に即して考えていこうとされた。これが、古田史学の出発点なんですね。つまり、緑の野で緑の草を摘もうとされている。さまざまな研究を寄せ集めて論を構築するという考え方からは、物事を変える、固定した枠組みを変えるような成果は出てこないんじゃないか。物事を大きく変えていくような研究には、どうしても現物に即して具体的に見ていくという方法が必要になってくると思うんです。

 古田
 そうです、そのとおりですね。

 山田
 先学からのさまざまな理屈、理論を受け継いでいる方が楽なんです。研究の見通しはつきますから。でも、現物に即してやっていくのは、なんとなくたどたどしく、古田さんもそうだったと思いますが、果してこれでうまくいくのかなという不安がついてまわります。しかし、結局はそういうやり方が枠組みを変え、新しい世界を切り開くことになるんですね。
 いまもって、古田さんの書かれた古代史についての論を学界の方がなかなか受け止めないのは、枠組みを変えられては困るということがあるんでしょう。

 古田
 そうおっしゃっていただくと、私が無我夢中でたどってきた道を照らしていただいたような気がします。
 私にとってありがたかったのは、広島の旧制高校時代、岡田甫(はじめ)という先生に大きな影響を受けたことです。岡田先生は、「まず第一級の人物のものを読め」とたえず言っておられた。解説ではなく、生のものをね。それで、聖書とか『歎異抄』、あるいはソクラテスの『弁明』といったものに触れていった。そこから得た印象が基本ですね。少年は誰もが天才ですから、そういう東西の古典から強烈に感じ取るものがあったんだと思います。
 もう一人、大きな影響を受けたのは、東北大学での村岡典嗣先生との出会いです。しかし、三カ月足らず接して、あと亡くなられてしまったので、先生に教えていただいたのはごくわずかな期間でした。私が学問上の師と思い定めた人なきあとの探求は、非常に孤独になってしまった。しかもやがて敗戦で、その後は先ほど言ったように、戦後は多くの学者が言葉を翻してきたという絶望の中で ーーそう青年の目に映っただけで、本当はそういう方ばかりではなかったと思いますがーー 、もうこの先は自分一人でやっていかなくてはならない、自分の手と目と足しか信用できないということになったんですね。それは、あの敗戦後の状況の中で青春を歩み始めた人間の宿命みたいなものだろうと思っているんです。

 

 アナロゴスの論理

 山田
 村岡さんというのは、岩波から『日本思想史概説』という本を出され、東北に村岡典嗣ありと、当時の旧制高校の生徒に広く知られた方でした。
 日本ではテキスト・クリティーク(文献批判)という方法は発達しませんでしたね。ヨーロッパでは中世以来、写本というのが非常に盛んでしたから、テキスト・クリティーオクというものなしには何事も先に進まなかった。しかし、日本では『万葉集』だとか『源氏物語』などの写本と言ってもそれほど多様なものはなく、そのため文献批判という学問の方法はあまり深まらなかった。しかし、村岡さんは、日木の思想史の世界で文献批判ということを厳密におっしゃった方ですね。
 当時の東北大学は、村岡さんだけでなく、阿部次郎とか・・・・。

 古田
 小宮豊隆さんとか。

 山田
 そういう夏目漱石とかケーベルの弟子だった人がたくさんいて、日本文化の研究をみんなが協力してやっていたという学風がありましたね。

 古田
 ありました。

 山田
 そういう意昧で、東北大学は一個の学派のようなものを形成し、その中で文献批判の方法というものを確立していた。しかし、日本の事大主義によるのでしょうが、あまり評価されませんでした。やはり東大、京大の学問の方が正統で、東北大学は何となくはずれという感じで(笑)。
 でも、本当は村岡さんたちの方法は、もっと早くから耳を傾けられるべきものを持っていたんじゃないかと思うんです。

 古田
 おっしゃるとおりだと思います。そもそも東大、京大で頭を押えられ、伸び悩んでいた若い学者が大勢、東北大学ができたので移ってきた。その方々の最晩年の頃に私が入学したわけです。ですから、いい時期に、そういういい雰囲気を学びとれたということはあったでしょうね。
 その村岡先生に、最初「単位は何を取ったらいいんですか」とお聞きしたら、「何取ってもいいですよ。ただギリシア語とラテン語だけは取ってください」と言われたんです。私はびっくりしましてね。日本思想史を勉強しようと思ったのに、なぜギリシア語とラテン語が必要なのか(笑)。後でわかったんですが、戦時中ですから、日本思想史というと神がかり的なのが多かったんです。「あれでは駄目だ、ソクラテス、プラトンの方法を学ばなくては」と先生はおっしゃりたかったんですが、そういうことを言うと憲兵が飛んでくる時代ですから、ともかく語学としてギリシア語、ラテン語をやれと。そうすれば、いやでもソクラテス、プラトンを読むことになりますからね(笑)。
 それから、先生はドイツの文献学者、アウグスト・べーグを非常に尊敬しておられました。アウグスト・べーグは、ありとあらゆるものを学問の対象にするんです。人間が産出したものならば、全部対象になると言うんですね。ですから、文献学というと何か狭い、つまらない学問のように見えますが、べーグのはそんな狭いものではないんです。文献は人間の認識の再認識だというわけですね。そういう視点を持つことの重要性を知ったのも村岡先生を通してですし、人間を離れた学問はありえないということを学んだわけです。

 山田
 なるほど。

 古田
 それから、研究の方法という面で大きな教示を受けたのは、実は哲学の方からなんですよ。
 私が二十代の終わりから三十代のはじめでしたが、親鸞の『教行信証』をめぐる論争があったんです。いわゆる新巻別先論というのですが、『教行信証』の「新の巻」が実は先にできていたんだという説が出され、それを否定する本願寺派の学者との間で論争が繰広げられたものです。その論争をまとめた本の序文に、京大の山内得立さんという哲学者が序文を書かれた。

 山田
 なつかしいですね。私は得立さんのお陰で、京都学派の哲学の絶対否定の論理を批判した卒論がパスして、無事卒業できたんです。

 古田
 その中で得立さんは、「親鸞の『教行信証』についていろいろ論議が交わされている。それは結構なことだと思うが、あまり理論を先立てて議論するより、実証して確かめていくほうがいいんじゃないかしと言われて、“アリストテレスの転覆”という事件のことを述べられた。
 これは、アリストテレスについて古典学の方で前後関係をつけて理論が重ねられてきていたわけですが、ある時、若いドイツの学者が、単純にソクラテスの書いたものについて、主語はどんなものを使っているか、動詞はどいうかということを実証的に調べたら、言葉遣いが変化していますから、書かれた年代の順序がそれまで信じられていたものと違ってきてしまい、体系が覆ってしまった。こういう哲学上の経験から言わせてもらえば、『教行信証』もあまり観念から議論するより、実地に立った実証から始めたほうがいいのではないかと、こうおっしゃっていたんです。これを説んで私は非常にショックを受け、後に親鸞の語法や筆跡を調べるという方法に入っていくヒントを得たわけです。

 山田
 京都学派の哲学は、西田幾多郎、田辺元という流れが正統派としてあって、これは「無の哲学」ということで、何事も絶対無が自己限定するんだとか、すべてのことが決まるのは無の媒介によるんだという考え方ですね。無一元論です。それに対し、山内得立さんはその流れから外れているんです。それが得立さんのいいところで、一つのオーソドキシーがある時に、それに沿っていくほうが楽なんだろうけど、やはりそれに異を唱えて屹然としているというのは、立派だと思うんです。
 田辺さんに対して得立さんが出してきたのは、アナロゴスの論理というものです。これは似たようなものが二つあったら、推理ではなく類似したものを同時に眺めて、それで両者の関係を類推的に捉えていくという、そういうものなんです。
 西田哲学という強固な学派の流れのあるところに、得立さんのようなちょっと違った立場の人がいるということは、やはりわれわれ学生たちにとって一色に染まらないでいられる、「無の哲学」はちょっとおかしいぞと思える、そういう批判精神の拠りどころを与えてくれるということがありましたね。そういう意昧で、得立さんの位置はとても大事だと思っているんです。

 

 論争を避ける風潮

 山田
 学閥の弊害ということで言うと、和辻哲郎という人のことが思い出されますね。
 あの人は、京大にくる前に『日本古代文化』という書物を大正九年頃出しますが、その中で邪馬台国は北九州にあったと書いています。

 古田
 そうです。

 山田
 われわれが学生の時に買った『日本古代文化』では、それが大和説になっているんですよ。
 なぜそうなったかと言うと、和辻さんが京大に就職すると、日本中世史の原勝郎がある時、「和辻君、君も京都大学へ来たんだから、内藤(湖南)先生の書かれたものを読みたまえ」と、こう一言言うんです。内藤湖南は大和説の提唱者ですね。それで、和辻さんは自分の主張だった北九州説を曲げて、大和説になったと言われているんです。つまり、京都の学派に合わせたんですね。

 古田
 へぇぇ、そうなんですか。

 山田
 和辻さんはたしか昭和十年代のはじめに東大の倫理学教授に戻るんですが、戦後出た『日本古代文化』の版は、私は自分で読んではいないので伝聞ですが、「筑肥」に求めても「大和」に求めても、いずれも「ありうべからざること」を認めなくてはならず、「現形のまま」の倭人伝では「どうにも理解のしようはないのである」と書いたらしいです。
 もしこれが本当だすると、やはり由々しきことですね。和辻さんは、大抵の人がヨーロッパだけを問題にしていた時に、日本の文化に着眼し、研究したという点でとても偉い人だと尊敬しているんですが、学派によって自分の考えを変えるというのは困るんです。その辺は、やはり得立さんのような、学派に沿わないで屹然と別のところにいるというあり方から見ると、ちょっと遺憾の点があるんじゃないかという気がしますね。

 古田
 私が和辻さんに抱いていた疑問が、いまのお話で納得がいきました。しかし、和辻さんの変節の話はともかく、当時はいろいろな論争がありましたね。いまのお話に出た内藤湖南と白鳥庫吉の両氏は、邪馬台国がどこにあづたかで丁々発止の論戦をやりました。明治四十三年でしたか。

 山田
 ええ。

 古田
 非常に壮観でしたね。ところが、最近は片や東大教授、片や京大教授が正面衝突して丁々発止とやるということがあまりありませんね。他の領域は知りませんが、少なくとも古代史の方では。

 山田
 ありませんね。

 古田
 どうしたんですかと、以前、京大出身の学者に聞いたんですよ。そうしたら「あれは新幹線が悪いんですよ」(笑)と。要するに、新幹線ができてから、東京に学会があると京都の学者が呼ばれて行って懇親会で飲む。京都で学会があると、東京の学者が行ってまた飲む。そうやって絶えず一緒に飲んでいるから、いまさら大上段からお前の説は間違っているという論文は書けないんだと(笑)。
 そんな、冗談みたいな、ちょっと本当みたいな話があるんですが、そういう意味では、かつての学派や派閥には、欠点と同時に、それぞれの派閥を代表して丁々発止とやるいいところもあったんですね。どうも、そういう面が最近、失われているんじゃないかと思うんですよ。

 山田
 論争を避けるという風は確かにありますね。

 古田
 ええ。

 山田
 これは、いまの学生がそうなんです。ゼミでは順ぐりに発言させるんですが、そうするといろいろ違った意見が出る。十人いれば十の意見が出るんです。それが、順ぐりではなく自由に発言させようとすると、「俺はあいつとは意見が違うが、ここで違う意見を言うと、あいつと気まずい思いをしなければならない。黙っている方が無難だ」という感じで、あえて何も言わなくなってしまうんです。
 これは学生だけではなくて、かなり前から世の中全体がそうなっているんですね。これはどういうことだろうと思いますが、みんな、お互いの枠組みを戦わせて、より強固な、より試練に耐える枠組みをつくっていくということをしない。そういう風潮なんですね。

 古田
 私は、これまで派閥の枠組みの外で自分の勉強をやってきたし、いまもそうですね。そういう意味では派閥の対立とは無縁なんですが、しかし私としては、従来の学説に異を唱えているつもりなのに、あまり反応がないんです。
 もしアカデミズムというものがあるなら、そちらの方がもう少ししっかり主張して、反論でも攻撃でもしてもらいたいんですが。というのは、最近、私自身の説に間違いというか思い違いが見つかったんです。これも、もし論争なり批判なりがあれば、もっと早く気がついていたんじゃないかと思うんですね。
 例えば、私は神武天皇の実在ということをもう二十年近く言っているんですが、誰も反対も賛成もしてくれないという状況だったんです。ところが、実在したという点は変わらないんですが、最近、神武に対する考え方が大きく違ってきたんです。これまで、私は神武は宮崎県の方の一部族の長だと言ってきたんですが、実は神武は福岡県の久米部の長かもしれないと。その根拠は戦争中に流行した「撃ちてし止まん」という歌です。
 「みつみつし久米の子等は栗生に・・・・」

 というあれですが、なぜこの歌には久米部しか出てこないのかがひっかかっていたんです。いろいろ考えた末、私に唯一可能と思われた解釈は、要するに神武天皇は ーー天皇というのは後世の呼び名で、もとは九州の中の一部族の長だったんですが、その一部族とは久米部、部があったかどうかは問題ですが、久米部に当たる集団があって、そのリーダーが神武だったのではないか。

 山田
 なるほど。

 古田
 と考えれば、話がすっきりする。久米部は、古代国家の中の、いわゆる親衛隊みたいなものですからね。次に、ではその久米とはどこだろうということになりますね。で、調べてみると、西日本には久米という地名がかなりあるんですが、宮崎県にはない。ところが、熊本県の南の方には球磨川があり、球磨町というところがある。その近くに久米があるんですね。『和名抄』にも出てきます。それから豊前(大分県)に久米があり、もう一つ、福岡県の糸島郡志摩町に久米があるんですよ。
 それで、別の歌に「島つ鳥鵜養が伴いま助けに来ね」というのがあるんです。その島つ鳥が志摩町の「しま」だとすると、志摩町に久米がありますので、話が非常に合ってくるんです。そこで、一所懸命、古代史の好きな人たちに電話をかけて、鵜飼いの鵜はそちらにいますかと聞いたら、いますと。あの辺の海岸にはウミウがたくさんいるんです。そこで、どうも久米は糸島郡の志摩町の辺りらしいということになってきたんです。そうしますと、神武が宮埼県から出たという自説は改めなければならなくなったんです。

 山田
 それは貴重な発見ですね。実は私も、古田さんの神武=宮崎出身説には疑問を持っていたんですよ(笑)。

 

 多元的歴史観に向けて

 山田
 私は古田さんの古代史の考え方に大体賛成なんです。しかし、先ほどの得立さんのように、賛成のところは賛成、でもここは納得いかないということはどんどん言った方がいいだろうと思っているんです。いま古田さんの考えは、学会からは無視されていますね。一方で、現在は古代史ブームと言われ、戦後は市民の間に古代史への関心が非常に育ってきていますから、レベルも大変上がってきています。そこで、古田さんの考え方は、市民の間には非常に強固な支持がある。古田さんが、何か、「これは、こういうふうに考えるんだが・・・・」と言うと、すぐいろいろなところから報告が入るということで、そこが古田さんの非常に強い支えになっていると思います。

 古田
 そうです。そのとおりです。

 山田
 いまは大学の中に学派というものがなくなって、市民の中に古田学派のようなものができているというのは、いいことだと思います。これは戦前のような、知的な特権の場としての大学が成立しなくなり、戦後の大衆社会状況とか民主主義といった条件の中で、知の世界がずっと一般市民の方にまで広がってきたということですね。そういう面では非常にいいことだと思っているんですが、同時に、市民的な広がりを持った中で、やはり異論は異論として出していける自由な雰囲気がないといけないと思うんです。
 いつも古田さんが何かのたまわって、市民の方が「はあ、さようでございますか」と聞いているのではね(笑)。

 古田
 それはいけませんね。

 山田
 それは、学派としては健全じゃありませんから。
 だから、やはり古田学派の中で論争があるのはいいことだろうと思うんです。そこで、私もこれから少し古田さんに論争を挑もうと思っているんですよ(笑)。そのうち本を書くつもりです。
 私が古田さんの本をどう見ているかということを正直に言いますと、古田さんの本は、最初の三冊、『邪馬台国はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』という、この三部作が原点だと思うんです。そのあとは、それが発展して、当然、通史的なところへ伸びていく、そういう推移の仕方をしているわけですね。
 私は一番最初の『邪馬台国はなかった』いう本については、殆んど一〇〇%異論がないんです。見事だという気がしました。その見事さを生んだのは、『魏志「楼人伝」』というテキストについてのテキスト・クリティークがきちんとなされていて、倭人伝だけではなく、『魏志』全体、『三国志』全体についての検討が遺漏なくなされているものだから、それで第一作の立論は殆んど元壁に近い形になっていると思うんです。
 二作目の『失われた九州王朝』。これは、中国側の文献を扱っておられるので、私はとてもそこまで目配りできませんから、これはちょっと括弧にくくっておきます。面白いという点で言えば、恐らく第二作が一番面白かったんじゃないかという気がします。
 それから、第三作目の『盗まれた神話』。これは基本的には賛成なんですが、個々の点について、例えば神武の実在も含め東征のスタート地点とか考古学上の問題とか、いくつかの点で疑問に感じるところがあるんです。それがどこから出てくるかと言うと、『古事記』とか『日本書紀』についてのテキスト・クリティークが、第一作ほど周到かつ普遍的、まんべんなく行われていないのではないかという感じを持っているからです。それで、『盗まれた神話』について論争を挑もうと思っているわけなんですが(笑)。

 古田
 私は、外国の歴史書の研究から、いわゆる大和中心という一元説ではなく、多数の王朝が古代にはあったという多元説からもう一度『古事記』『日本書紀』を見直さないといけないのではないかという問いかけを、『盗まれた神話』でしたつもりです。ですから、あの本で、『古事記』『日本書紀』は全部わかったと言うつもりはないんです。『古事記』『日本書紀』というのは、いろんな問題をおびただしく含んでおりますからね。

 山田
 古田さんの強みは文献だけでなく、考古学的な事実とも照らし合わせて、ご自分の学説の基礎事実の確認をされているという点ですね。

 古田
 本当は毎年発掘されるもののリストなどがきちんと整理されているといいんですが、考古学の方はそこまで手がまわらないので、めぼしい物が発掘されると現場まで駆けつけているんです。やはり、現物に接しておきませんと判断を誤ることがありますのでね。

 

 誰でも参加できる古代史研究

 編集部
 最後に、市民の間で古代史がどんなふうに研究されているかを少しお話しいただけますか。

 古田
 この春、古代史のツアーで博多へ行ったんですが、久留米の近くの高良大社の記録に「神はクマと読む」と書いてありましてねでは熊本のクマ、球磨川のクマ、球磨町のクマもそうだろう、だから熊襲というのは神の国という意味なんだと話したんです。
 そのあと志賀海神社へ行った時、参加者の一人が「先生あれは?」と言うので見たら、その神社の隅に末社というか小さな社があって、そこに「熊四郎稲荷」と書いてあるんです。宮司さんは、熊四郎という人が寄進したからこの名がついたと言うんですが、別の参加者が「いや、私は長野県飯田の出身だけど、うちの方には神代(クマシロ)神社というのがある」と言い出したんです。これは稲を祭る神様だそうです。そこで、よく考えてみると、稲は中国を通って九州に入り、全国に広がったと思うんです。その時、稲だけではなくて、神様付きで入ったに違いない。それが九州に入った時、九州の言葉で「クマシロ稲荷」あるいは「クマシロ神社」ということになったのではないか。「神の社やしろ」ですね。
 古代人の文化の取り入れ方は、お祭り付き、神様付きだったと思うんですね。稲も神様付きで入ってきたから、九州弁がそのまま信州にも伝わり、「クマシロ神社」と言われるようになったんじゃないか。断定はできませんが、その可能性はありますね。

 山田
 あります。

 古田
 そこから出てきた新しいテーマは、縄文であれだけ栄えた信州ですから、縄文時代の神社がないわけはない。きっと信州弁の神社がどこかにあるはずだ。それを探してみましょうということになっています。

 編集部
 信州と書えば、在野の考古学者の故藤森栄一さんを思い出しますね。

 山田
 藤森さんは、古本屋をやったり、旅館の主だったり、いろいろなことをされていて、あれがいいですね。

 古田
 いいですね。あちこちから人が来られても、すぐ泊まってもらえるから(笑)。

 山田
 藤森さんの縄文農耕説を相変わらず誰も認めないけど、稲作を中心にした農耕というイメージが考古学者の中に強すぎるんじやないでしょうか。それを払拭すれば、縄文時代は狩猟と採取だけで成り立っていたという荒っぽい説は不自然だということがわかってくると思うんですがね。
 ですから、藤森さんの縄文農耕説が早く公認されないと、間違えると思うんです。古田さんも「縄文都市」という言葉を使っておられますが、とてもいい試みだと思いますね。一万年にもわたる時代を、一つの概念だけで括ってしまうのはどだい無理な話ですからね。

 古田
 最近もまだ縄文前期の住居跡が次々に出ていますね。それも一つや二つの単位ではなく、何十とかたまって出ているんです。まん中に大きな木造建築物群があって、周りを小さい家が取り巻いている。これをどう解釈するかですね。狩猟採取の段階に止まっている人々のものなのか、農耕生活を始めている人々のものなのか。みんな、さあどうしようと言っているんですよ。

 編集部
 場所はやはり信州ですか。

 古田
 ええ、八ケ岳山麓の阿久尻遺跡です。

 山田
 あの八ケ岳山麓というのは面白いところですね。

 編集部
 かつてヒッピーの人たちが八ケ岳山麓にコミューンをつくろうとしたのも、何かあそこに引きつけられるものがあったからでしょうね。「原始に帰れ」と言っていたのも、縄文人と通じる心情があったのもしれませんね(笑)。

 古田
 やはり縄文人が住んでいたところは、見晴らしから何からいい場所なんです。

 山田
 中部地方の縄文人は、千メートルの高さのところに回遊路を持っていたんですね。これは藤森さんが初めて言い出したことなんですが、本当に尾根をつなぐ道があるんです。その高さの縄文遺跡をつないでいくと、道が見えてくる。伊豆半島や八ケ岳山麓などにありますね。
 その時、彼らは背中に尖底土器という底が尖った土器を背負って歩くんです。置く時は地面に少し穴を掘って置く。定着するようになると底が平らな土器になりますが、その時にはもう農耕が始まっていると見なければいけないと思うんです。移動が普通だった時期は縄文の早期で、前期に入るともうそろそろ定着し始めていたと思うんです。

 古田
 ですから、九州王朝も、やはり縄文を背景に考えないといけないと思うんですよ。
 いま、「市民の古代研究会」では、盛んに「日向」「日の本」という地名をもとに、九州王朝をめぐる調査を続けているんです。なんと言っても、地元の人の土地勘や熱意にはかないませんからね。

 山田
 古代史ブームで、誰でも自分たちに身近なところで歴史や遺跡の調査に参加できるようになったのは、とてもいいことですね。これは古田さんの功績だと思いますが、これから古代史の世界ももっといくつものグループができて、自由に討論していくようになるといいと思うんです。

 編集部
 この小誌が出る頃は、古田先生は信州で「邪馬台国」をめぐる大シンポジウムを開かれるそうで、今年の夏も古代史ブームで熱くなりそうですね。

(やまだむねむつ/ふるたたけひこ)


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