古田武彦講演会 一九九九年年十一月二十日(土)
於:大阪 北市民教養ルーム
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それで『万葉集』の中で発見した非常に面白い決定的な論証になると考えたテーマに移らさせて頂きます。
『万葉集』巻一の三番と四番の歌(岩波古典文学大系に準拠)
(読み下し文)
天皇、宇智の野に、遊猟(みかり)したまふ時、中皇命の使間人連老をして獻らしめたまふ歌
やすみしし,わごおほきみの,あしたには,とりなでたまひ,
ゆふべには,いよりたたしし,
みとらしの,あづさのゆみの,かなはずの,おとすなり,
あさがりに,いまたたすらし,
ゆふがりに,いまたたすらし,
みとらしの,あづさのゆみの,かなはずの,おとすなり
たまきはる,うちのおほのに,うまなめて,あさふますらむ,そのくさふかの
やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ
夕にはい寄り立たしし
御執らしの 梓の弓の 金弭の 音すなり
朝猟に今立たすらし 夕猟に 今立たすらし
御執らしの 梓の弓の 金弭の音すなり
反歌
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野
(原文)
天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌
八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之
御執<能> <梓>弓之 奈加弭乃音為奈里
反歌
玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野
校異
加奈(吉永登氏説)->奈加
梓能 -> 能梓 [元]
尅 (塙)(楓) 剋
この歌です。斉藤茂吉が万葉最高の歌であると激賞した歌です。ところがこの歌(の解釈)には変なところがある。まず、まえおきの中の「中皇命」が誰か分からない。注釈にいろいろ書いてあり、それ以外にもありますが誰に当たるか分からない。舒明天皇の時の関係する人を総動員して書いてありますが、誰か分からない。現在の万葉学会誌でも「中皇命」は誰に当たるかが、邪馬台国問題のように、又出た、又出たという感じで騒がれている。ところが逆に言うと誰人であるか決着が付かない。間人(はしひと)の后、その他の人を当ててみても決着が付かない。それだけではなくて中皇命の役割が分からない。つまり(舒明)天皇が狩りをしたというのも良いですよ。歌を間人連が作った。これも分かります。しかし中皇命は間人連に歌を献上させる為だけに登場する。歌を献上させるぐらいなら舒明天皇に献上させれば、それで良いではないか。なんとなく中皇命・本人の役割が霞(かすみ)に霞(かす)んでいる。
それで実は前置きばかりではなく、歌の内容にも不思議なことがある。
やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕にはい寄り立たしし
「我が大君の朝には 取り撫でたまひ 朝大君は弓矢を撫でている」、これは良いと考えます。大君が朝に弓矢が好きだから撫でる。これは勝手だから良いのすよ。ところが「夕にはい寄り立たしし
」、これが問題です。高田かつ子さんに総索引を調べていただいたのですが、「い寄り立たしし 」、この表現は『万葉集』の中で女の人が主語の表現しか出てこない。女の人が、男の人や男の人の持っているものに寄り掛かるところしか出てこない表現です。そう言われればそうです。ところがここでは舒明天皇が二役をするのです。朝には弓を撫でる。これは男らしさの表現です。夜には、がぜん女形になって、弓矢に寄り添って喜んでいる。両性具備の人物として登場する。このような歌は万葉集で見たことはない。今までの専門家が変だと言ったことがないのがおかしい。
それから実証的にもう一つおかしいのは、「梓の弓の 金弭の 音すなり」の二回出てくる「金弭」です。これは原文に全くない。まさかと思われるが、岩波古典大系の注を見て頂くと星印がついています。下を御覧になると「金弭」は吉永登氏説と書いてあり、ここで原文は「奈加弭 中弭」と成っています。『万葉集』は写本が多く、しかも良い写本に恵まれている。元暦校本という写本は平安時代の終わりに出来て、六・七割残っています。これだけでも素晴らしい。西本願寺本というのが残っていて、これは鎌倉時代末期、ほとんど全部残っている。その他写本に恵まれているのが、『三国志』などと大分違う。全写本、早い時期の写本もあるが、全写本に「金弭」はない。全部「中弭」なのです。ところが「中弭」では困る。なぜ困るかと言えば、ご存知だと思いますが弓の上と下の端を「弭(ハズ)」という。だから外ハズとか端ハズなら良いけれども「中弭」では意味不明である。ですから仙覚や真淵等いろいろ考えてきたけれども名案は出ない。最近になって、現在の万葉学者である吉永登氏が名案を出した。要するに全写本間違っていた。「金(カナハズ)」の間違いだと、「ナ」と「カ」を、ひっくり返した。「金弭(カナハズ)」なら金属の道具だから、金属製の道具を付けた弭がある。これは吉永登氏の新案特許の写本によっている。ところが肝心の『万葉集』には全部そんな字はない。「奈加弭 中弭(なかはず)」である。これは私の立場から言えばご存知のように、これはいけませんよ。原文にないものを、都合の良いように学者が直して、それを新しく定本として、「定説」という言葉が流行っているようですが、底本だ、定説だと言ってはいけない。そのように私は考える。ではどうしたら良いのか。
ところで、この歌の私の問題の直接の発端は、最初の「八隅知之 我大王乃 朝庭(やすみししわご大君の朝には)」のところでした。
原文を見て頂ければ、「朝庭(ちょうてい)」と書いてある。言うまでもないですが天子が居るところを朝廷(ちょうてい)という。東アジアの常識です。大王の居る所を「朝廷」とは言わない。天子の配下に王がたくさん居て、王の中の有力な王が「大王」である。大王が居るところを「朝廷」と言うのなら中国は朝廷(ちょうてい)だらけになる。中国各省に大王がいる。この朝鮮半島や日本にも大王はたくさん居る。朝鮮半島や日本も大王と朝廷だらけ。こんな事は絶対許されない。「朝廷(ちょうてい)」と呼ぶところは一つ、天子の居るところだけである。このように私は『人麻呂の運命』(原書房)で「ありかよう、とおの・・」という歌で分析したことがある。要するに朝廷は天子の居るところで、大王の居るところを朝廷とは言わない。大王は朝廷の有力並び大名である。そういう立場から見ますと、「朝廷」を表音だけに使っていて、そんな事にめくじらをたてる必要はないという考えもあるが、それは事によりけりである。『万葉集』を作ったのは現代人ではない。あの古代において、うっかり「朝廷」という字を使いました。そういうことは許されない。他にも万葉仮名で書き方は有る。万葉仮名には「二破」で「には」と使うなど、たくさんある。それを現代人の考えで、それを使わずわざわざ天子の神聖な字を使った。それはうっかりミスでは済まない。
これも他にいろいろ検討した問題が御座いますが、ズバリ結論からいきますと、「朝庭」を「みかどには」と読むと考えるべきで御座います。「朝」一字を、「みかど」と読んでいる例もある。
「朝庭」を「帝(みかど)には」と、読むと考えると「夕庭」が問題となる。「朝庭 帝(みかど)には」と読むというのは、常識的と言えば、大変常識的ですが。「夕庭」を、私はこれを「夕廷 后(きさき)には」と読むことを提案する。これは私の新案特許と言えば新案特許である。
「朝庭(みかど)帝」は男の方である。これに対して「夕廷 后(きさき)には」、后(きさき)のことを、洒落(しゃれ)てそう表現をした。
そうすると弓好きの天子で
「朝(みかど)には 取り撫でたまひ」
帝は(弓矢が大好きで)撫でて大事にしておられる。
すると、
「 夕(きさき)には い寄り立たしし 」
后は(弓矢を撫でて大事にしておられる)帝に寄り添っておられる
天子の奥さんである后は弓矢を持っている天子の側にほれぼれと寄り添って居られる。もちろんこれも歌を作った人のオベンチャラでしょうが。朝にも夕べにも夫婦、相和して仲むつまじく居られる。そういうオベンチャラ。
そう考えると、ここの問題が解決できるのではないか。
そう考えていくと、先ほど言った問題も簡単に解けてくる。なぜなら「中皇命(なかつすめらみこと)」は大変な言葉である。「皇」は皇帝の「皇」である。第一権力者、天子を意味する。「命(みこと)」は生きている人間を言う場合は余り無く、大国主命など亡くなった人には言うけれども普通の人には言えない。「皇命」と言ったのは第一権力者、天子に対する称号である。そう私には見える。
そうすると「中 なか」は何か。これは非常に簡単でして、九州には那珂川があり、有名な中洲があり、那珂郡那珂村もある。博多のど真ん中は「中」と呼ばれている。そこで生まれて育ったから「中皇命(なかつすめらみこと)」である。たいてい本人が生まれたり、育ったお母さんの生まれた所の地名を取って呼びますよ。何もおかしくはない。だから彼が今居るところは、現在の九州太宰府跡紫宸殿という地名のある所。内裏跡。プロの学者がみんな嫌な顔をしてソッポを向いているが、太宰府跡に立って真正面に見える低い丘が「内裏丘」。そこの下が「内裏跡」。そこに住んでいる人がボランティアをされていて、案内をして頂いて、初めて知った地名ですが。「内裏(だいり)」は知っていたがそこに小さい丘ですが「丘」がつく地名があるとは知らなかった。それが天子が居るところです。「朱雀門」という地名も残っている。そこに居たのが「中皇命」である。
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野
そして太宰府の東側に宝満山など山一つ越したところに、JR筑豊本線「内野」という駅がある。奈良県には「宇智 うち」という所はある。そこだろうと従来の専門家の解釈があるが、「宇智野 うちの」はない。ところが九州の方はちゃんと駅名にまで成っている。その側に「大野」もある。もちろん大野城も有名である。大野城の大野以外に裏側に「大野」がある。その先に「馬なめて」と「馬敷(ましき)」をバックにしているように見える。ですから「内之大野に馬並めて」というのは、まさにそれは太宰府から見て狩りをするのに絶好の場所です。そこの地名です。
何よりも「那珂 中 なか」がある。とりわけ「中弭(ナカハズ)」というのは「中」で作られた弓矢。「中」特産の弓矢。つまり今の博多ラーメン等のように地名を付けて特産物を呼びます。「中弭」というのは、独特のノウハウを持った弓矢の生産で知られていたのだろう。そこで作られた弓矢だから「中弭」。何もひっくり返して全写本に違反して「金弭(カナハズ)」と直す必要は何処にもない。
それで全ての疑問が全部解けてきた。
有名な雄略天皇とされている第一歌が、そうではなくて押名戸出(あふなとで)さんという大和出身の人物の歌であるとか。第二歌で天香具山が別府の鶴見岳であるという問題を論じてきました。今度はそれとひと味違うのは、九州王朝の天子の名前が、固有名詞がそこに現われた。
間人連(はしひとのむらじ)が、中皇命その人に奉った歌。もちろん間人連が作った歌、もちろん間人連を連れてきたのは大王の舒明でしょうが、一の子分のような大王である。天子ではない。天子は中皇命。それで大王の舒明が連れてきた間人連に、「お前は歌がうまそうだと聞いているが、作らんか。」そう言ったわけです。間人連自身はおそらく日本海の舞鶴あたりの人物ではないか。「間人」と書いて「タイザ」という地名があります。これも面白いですが、今回は詳細は省略します。とにかく中皇命は役割不明どころか、この歌の御主人である。
「やすみしし 我が大君の・・・」は、八方を支配しているのは大王について言えることの表現で、その大王にとっての帝(みかど 皇命 朝庭)、大王がもし舒明天皇なら大王舒明にとっての御主人である帝。その帝に捧げられた。その奥さんである后(きさき 夕庭)が、「い寄り立たしし」 と寄り添っている。この歌は終始中皇命に関する歌である。場所は太宰府近辺を舞台にして、そこの地名が全部出てくる歌であった。そういうことに成ってきたので御座います。
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