講演記録 壬申の乱の大道 古田武彦へ
記紀の史料批判 古田武彦(講演集)へ
古田武彦講演会
福岡県福岡市
二〇〇〇年一月九日
講演 九州王朝の秘密<倭国の史料批判>
『日本書紀』を考える
一 郡評論争
私が昨年の八月から九月にかけてぶつかってきた非常に大きなテーマは「評」と「郡」の問題です。皆さんご存じのように郡評論争という論争が(第二次世界大戦)敗戦後長らく行われてきました。
これは同じ東大の坂本太郎教授とお弟子さんである井上光貞氏との間で激しい論争が行われたのです。
まず井上光貞さんの言い分を言いますと、どうも『日本書紀』はおかしい。そのように東大の史学会で発表された。『日本書紀』に書いてあるのは、大化改新以後七世紀の後半あたりは皆「郡」という形で書いて有る。大化改新の詔勅でも盛んに「郡司」という言葉が出てくる。しかし、あれはおかしい。七世紀の後半は「評」という行政単位であったはずだ。なぜかというと、金石文や系図(たとえば阿蘇神宮系図)であるとか、その他残っているものは「評」と書いてある。長官は「評造」と書いてある。国造の「造」です。だから『日本書紀』で「郡」や「郡司」と書いてあるのはおかしいのではないか。そのような「大化改新の信憑性を疑う」という発表をされた。
その時の司会者が、井上光貞さんの恩師であり東大の主任教授である坂本太郎さんだった。その発表が終わった後、司会者であった坂本太郎さんがこう言われた。「今の研究には私は全く反対です。しかし今は司会者であるから、立場上その反対の言葉は述べません。改めて論文をもって正否を明らかにします。」と言った。これも珍しいですね。司会者であったにしてもそこでバーンと言われないのは。坂本さんの温厚な人柄が現れていますね。それで坂本さんは約束通り「『日本書紀』に書いてあるとおり郡で良い。」とする長い論文を書かれた。それに対しお弟子さんである井上光貞さんが、さらに再反論を行った。そこから論争が始まった。天下の学者は二分されまして、どちらかに付いた。
その論争、郡評論争が決着が付いたのは、ちょうど私が昭和四十六年『「邪馬台国」はなかった』を出す二・三年前です。なぜ決着が付いたかというと、奈良県藤原宮から出た木簡が「評」と「郡」両方出てきた。地層その他から見ると「七世紀の終わりまでは評」という制度を反映した木簡である。八世紀の初めからは「郡」という行政制度に替わっていることが疑えなくなってきた。さらに静岡県浜松市伊場、国鉄の操車場構内。そこの遺跡から出てきた木簡も藤原宮と同じ姿を示した。木簡は直接史料ですから、その示すところは疑えない。だからお弟子さんの勝ちというか、井上光貞さん側が言っていた通りだったという事で決着が付いた。
ところで学会は、もうそれで決着が付いたという立場ですから、その立場で講演を聴かれたり、古代史の本を読まれた人は多いと思う。しかし私は決着は着いていないと考えていた。確かに事実関係は分かったが。同様に坂本太郎さんも考えられていたらしい。温厚で真摯な方で、その後論文で書いておられる。
確かに木簡など史料事実から見ると、井上君のいうとおり私は間違っていたと考えざるを得ない。しかし、なお私は不審がある。実際は七世紀後半は「評」という行政単位の時代だったのに、なぜ『日本書紀』は全部「郡」と書き直したのか。
そういう疑問を持たれた。事実として一回や二回ではない。書紀に出るところ全部「郡」と書いてある。大化改新の詔勅など本当に信憑性があるはずのものである。しかも『日本書紀』が出来た七百二十年からそんなに昔ではない。つい最近の話である。それを実際の「評」でなくて、なぜ「郡」と書き換えたのか。「評」と「郡」だけの話ではなくて、「評」であれば「評造」であり、「郡」は「郡司」である。「評司」という言葉がないように「郡造」という言葉もない。「こおり」という言葉に、ただ「評」と「郡」のどの字を当てるかというような問題ではない。読みを換えただけで良いという訳にはいかない。だから「評」という制度をなぜ「郡」という制度に書き直したのか、私には未だ不明である。この疑問は、さすが坂本さんらしく非常に率直な言葉である。
坂本太郎さんのお話は、私との関わりでも重要な話がありますが、一つだけ申しますと、私は何時も次々と本を坂本さんにお送りしていました。その中で坂本さんから葉書で御返事を頂いた。「今あなたの本を読みました。大変いま困って居ります。」、そう書いてあった。後は葉書ですから何も書いてはいませんが。これはなかなか凄い葉書です。なかなかそういう学者はいません。私などもそうですが普通、当たり障りのない返事を出します。ところが坂本さんは「いま困って居ります。」と。そういう一言を発する学者は、面子を重んずる学者では、なかなか言えない。それを書くような人柄である。
その坂本さんの言われた以下の一言は、私は非常に大事であると考える。
「郡」と「評」の事実関係は分かった。なぜ『日本書紀』が「評」を「郡」と書き直したのは分からない。
坂本さん以外の誰も本当は分かっていない。しかし現在では九大でも東大でも京大でも学者は全て、六百四十五年あたりに孝徳天皇が「評」という制度を始められた。それがいわゆる定説に成っている。今新聞で「定説」という言葉が使われて騒がれていますが、あれと使われ方が似ていると思いますが。京大の方がその説を唱え有名になられた。
ところが皆さんのように、古代史はそれほど詳しくはなく、専門家ではないが、一般の問題で非常に修練を積んでいる。そういう方々の目で見れば、それはおかしいのではないか。孝徳天皇が「評」と言う制度をお作りになったのなら、それをなぜ『日本書紀』が隠して皆「郡」であるという嘘をなぜ吐かなければならないの。当然その疑問を持たれる。その疑問には九大・東大・京大を含めたどの学者も答えていない。答えていないままで「評」は孝徳天皇が造ったというのが定説になっている。
これはやはり坂本太郎さんの鋭い疑問に学会は答えていない。
これに対し私の立場は本をお読みの方は明確である。「評」という制度の上に立つ支配者というのは「評造」もありますが「評督」というのがいちばん多い。「評造」は少ない。「評督」というものが「評」の上に立つ官職・地域支配者の職名であることは誰も疑っていない。金石文その他に出てきますから。
そこから先は私の判断です。「評督」という制度は関東から九州までたくさん有る。そのたくさん有る評督のもう一段上のトップは誰か。私は「都督」であると考える。都督というのは倭の五王で、「使持節都督・・・」という形で宋書に出てくる五世紀からある東アジアの常識の官職名である。倭の五王が、その「都督」という官職を貰ったというのは有名な話です。日本列島の中に都督が居たことは間違いがない。その間違いがない都督が居た日本列島の中に、「評督」という官職名が造られたことも、また間違いがない。その「評督」という官職名は、「都督」という官職名を忘れて偶然同じ「○督」という官職名になりました、そのようなことを誰が信じますか。評督の上に立つ一つのポイントは当然都督である。その都督は倭の五王である。倭王しか都督はいない。私一人しか言っていないが、そう考えるのが一番自然だと思っている。そうすると都督が居た場所はハッキリしていまして、中国の歴史書を見るかぎり都督府に居る。中国北朝は北朝で、都があり、いくつか都督府がある。都は天子がおり、天子の元に都督が何人か居る。都督府がある。南朝には南朝の都督府がある。これは東アジアの常識である。そうすると倭王の都督も南朝から与えられた都督ですから、居るところを「都督府」と言っていなければおかしい。その都督府と呼ばれている場所はどこにあるかと言えば、日本列島に一カ所しかない。九州福岡県太宰府市に筑紫都府楼跡。中近世文書で「太府」と言えば太宰府の省略で、同じように「都府」と言えば都府楼の省略である。
だから「都府楼跡」というのは都督府の建物があった跡という言葉である。九州の人はよくご存じです。そして都府楼というのは都督府の建物を指す言葉である。都督が居なくて都督府だけあるということはあり得ない。都督は九州筑紫太宰府にいた。そう考えざるを得ない。もちろん筑紫都督府と言葉が『日本書紀』天智紀にも一回出てきます。近江都督府や飛鳥都督府というのはない。難波都督府もない。
そうすると記録や文献から見ても、また現地で残っている伝承からみても、都督がいたのは九州筑紫太宰府である。言い換えると任命された倭の五王が居たのは太宰府である。そうすると各地で任命された「評督」は太宰府から任命された。こう考えざるを得ない。
自分で言って置いて、当然というのも変ですが、理の当然というか、それ以外の考え方があれば教えて下さい。ところが何回言っても九大や京大の学者は知らない顔をして応答しようとはしません。そして倭の五王は天皇家だということで、論文や教科書や単行本などから、私の説は閉め出されている。
そこまでは長く言わなくとも、私の本をお読みになれば分かりますが、今の問題に関連して言えば、『日本書紀』というのは八世紀初め、七百二十年以後に出来た本である。白村江の後である。もっと言いますと五百八十九年以後に出来た本である。五百八十九年、それは一体何だ。そう言われる方が多いと思いますが、大事な年代である。中国南朝の滅亡。宋・済・梁・珍という南京(建康)に都があった南朝が滅亡した年です。北朝隋が南下して来て南朝を征服した。そして南朝の天子は奴隷のような身分に落とされたと書かれている。
それで問題になるのは、倭国の都督は南朝から都督に任命されていた。南朝が滅亡し、南朝の元にいた倭の五王(の後継者)が、日出ずる処の天子を称した。
<中略 ヤヒタイの件>
それで今の日出ずる処の天子は九州太宰府である。太宰府に紫宸殿という字地名がありまして、また大裏岡(だいりおか)という所があり(内)裏もある。都督府跡の石碑の前に立ったら、目の前に見えている低い丘が大裏岡。この前行ったときに、脇に住んでいる人に教えて貰いました。だから天子が住んでいるのは太宰府である。
南朝が滅亡したから、今までの倭王が替わって天子を称し始める。都督府というのは、五八九年までは中国の天子の配下の都督府でしたが、七世紀前半の阿毎多利思北孤の時代は、今度は倭国の天子のもとの都督府に変わってきている。とにかく私の言いたいのは南朝系の都督府であって、北朝から任命された都督府ではない。当たり前ですが。
ところが白村江以後、唐が倭国を完全に叩き潰した。そして唐の進駐軍か占領軍が二千人・二千人と二回も筑紫に来ている。なるべく少なくしようと思って、同じ記事が二回も出ているという注釈をしている人がいるがとんでもないことで、そんな重要な軍勢のことを『日本書紀』が間違えて書くはずがない。四千人筑紫に進駐している。そういう状況の中で『日本書紀』が出来ている。『日本書紀』が出来た七二〇年では結局北朝全盛真っ盛りの時代。南朝は影も形もない。「日出ずる処の天子」も影も形もない時代である。
そうすると南朝系の都督や都督府は言っては駄目。『日本書紀』はそれを書くことは許されないという言い方をしても良いし、書くことをしない。要するに北朝である唐に咎められることが恐いから。そういう形で「評」は全部消された。
そういう認識に立ったとき、私にとっての郡評論争は、はじめて終わった。坂本太郎さんにぜひともそのような御報告をしたかった。坂本太郎さんも率直な方ですから、きっとその通りだと、おっしゃって下さっただろうと思う。
2 北『魏書』と『日本書紀』
(岩波古典大系)
『日本書紀』上 神功紀
三十九年。是年。太歳己未。魏志に云はく。明帝の景初三年の六月、倭の女王、太夫難斗米を遣して、郡(こおり)に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝獻す。太守[郁nokawari登]夏、吏を遣して、将て送りて、京都(けいと)に詣らしむ。
・・・
四十年。魏志に云はく。正始の元年に、建忠校尉[木弟]携等を遣して、詔書印綬を奉りて倭國に詣らしむ。
・・・
四十三年。魏志に云はく。正始の四年、倭王、復(また)使太夫伊聲耶掖等を遣して上獻す。
・・・
六十六年。是年。晋の武帝の泰初二年なり。晋の起居の注に云はく。武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、譯を重ねて貢せしむといふ。
さらに面白い問題が展開したのは昨年の八月から九月にかけてです。
唐は北朝です。その北朝の元祖は北魏ですが、四世紀から六世紀にかけて存在した北朝系の王朝の中では一番長く続いた。その北魏というのは、三世紀の魏、皆さんご存じ卑弥呼・壱与の魏、あの魏を受け継いでいるのではなかろうか。
博多の町をうろつきながら、頭で考えて、そうとしか思えなく成っていた。そういう判断に至った。
三世紀の魏が滅亡して、(西)晋に移る。それと北魏が三百八十六年から始まる。その間は百三十一年しかない。百年を上回る年数しかない。今から百三十一年前というのは、明治維新よりもその間は短い。現在から見たら明治中期に三世紀の魏が滅亡するというか、この場合は禅譲して(西)晋になった。魏という国号を消した。それから百年ぐらい立って、(北)魏が魏を名乗った。我々は北魏と行っているけれども、それは歴史学上後の我々が区別
するために呼んでいる名前で、当時は魏と名乗っただけです。そうすると魏と名乗ったのは、三世紀の魏の存在を忘れて、うっかりミスで魏と名乗った。そんなことがあるのでしょうか。あれは実はイデオロギー的な元祖が三世紀の魏ではなかったか。つまり北魏というのはイデオロギー的に三世紀の魏を受け継ぐ。そういう大義名分の上に立っていたのではないか。
これは新幹線で京都に帰り、直ぐ北『魏書』を見たら有った。果たしてその通りだった。
北『魏書』抜粋
六月丙午詔有司議定國号。[君/sita羊]曰..「昔周秦以前, 世居所生之土, ・・・宣[イ乃]先号、以為魏焉。布告天下,
威知朕意。」
北魏の初代皇帝、道武帝が「宣[イ乃]先号、以為魏焉。」(先号を名乗る。よって魏と称す。)とした。
その時南にあったのは東(晋)。『魏志倭人伝』の陳寿が居たのが西(晋)。三百十六年に、鮮卑・凶奴が南下して来て、西(晋)が滅亡した。その時南京に逃れた一派が、東(晋)を建てた。我々が後で区別
するために、西(晋)・東(晋)と呼んでいるだけで、晋という国号には変わりはない。全国統一の西(晋)が、南半分の東(晋)に替わっただけのことです。だから道武帝が北(魏)を名乗ったときの南の相手は、東(晋)なのである。現在の南朝の晋という国号に対して、我々は先号である魏を名乗った。我々は三世紀の魏を受け継いだ。あの東(晋)は偽である。その大義名分上、東(晋)を否定の立場に立った。
それは、頭の中で考えた理屈でしたが、当たり前ですが当然その通りだった。それは、それで決着が付いた。
しかし私の中にはもう一つ大きな疑いがあった。何かというと、その魏の問題を考えた理由は『日本書紀』の皆さんご存じの神功紀。その神功紀は『日本書紀』の編年の基礎になっていますが、あそこに中国の『魏志倭人伝』の記事が「魏志に曰く。」という形で三回引用されています。『魏志』は本の名前ですが、あれはまちがうことのなき三世紀の魏である。三世紀の魏、それと交流があった。そういうことを『日本書紀 神功紀』は言いたいわけでしょう。それを編年の元にしている。あれは実は北朝系のイデオロギー的な元祖が三世紀の魏だから、あれを『日本書紀』は原点にし、強調しようとしたのではないか。そういう疑いを持って、それで京都に帰り北『魏書』を見たらその通りだった。それは、頭で考えた理屈ですが、当然その通りだった。それはそれで決着が付いた。
しかし実は、悩んでいたのは別のところだった。問題は西晋の武帝である。西晋の初代である武帝という名前が実は繰り返し出てくる。「泰始二年」が「泰初二年」になっていますが、これは大したことはない。天子の名前等を避けて変えてある。とにかく「西晋の武帝」が出てくる。
六十六年。是年。晋の武帝の泰初二年なり。晋の起居注に云はく。武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、譯を重ねて貢せしむといふ。
これは先ほどの理屈からいうと、魏を北朝の渕源であるというのは良いとしても、西晋の名前は遠慮がちに使ったのでは、そういう見方では駄目なのか。まだ頭が固かったので疑問を深く持ちながら新幹線に乗って帰ってきた。そして毎日日曜日の有難さで、時間がたっぷりあるので直ぐ調べることが出来た。私は今まで北朝系の『魏書』などを、そんなによく読んだ訳ではないが、北朝の『魏書』をよく読んでみました。そうしたらありましたよ。
まず北朝の『魏書』に、三世紀の魏と四世紀の北朝系の一番目の王朝である(北)魏の先祖とがよく交流を結んだ。深く交流を深めたことが特筆してあって、しかもその友好の証拠として文帝、彼は天子にはなっていないが贈り名として文帝と呼ばれた。この文帝を、十五代目の始祖と呼ばれた力微は、自分の可愛がっていた息子を洛陽に送って魏との友好を深めている。その息子は長期間洛陽に滞在していた。問題の「泰始二年」にも彼は洛陽に滞在していた。ですから北魏は、三世紀の元祖である鮮卑の時代を通じて西晋の武帝と深い友好を結んだ。そういうことを強調している。だから自分たち鮮卑が「魏」を名乗っても全然おかしくはないのだ。そういう友好の歴史に立って我々は「魏」を名乗っている。そのように北『魏書』は主張している。史料にありますから、ご覧下さい。
そうすると、その三世紀の魏と西晋・武帝。西晋全体ではない。これを『日本書紀』神功紀でも持ち出して、魏とは西晋・武帝とは、我々倭国も深い交流関係を結んでおりました。それは神功皇后と申します方でございます。そう大嘘を書いてある。これが大嘘であることは少なくとも『日本書紀』の編者は分かっていたはずだ。それは皆さんもお分かりのように「魏志に云はく。」と書いてある倭の女王のところは卑弥呼(ひみか)である。それはよく知られていることです。我々は「ひみこ」でなく「ひみか」と言いますが。ところが今の西晋の武帝泰初二年のところは、卑弥呼(ひみか)の時代ではない。壱与(いちよ)の時代である。そういうことも我々には良く知られています。だから卑弥呼・壱与二人分を一つにまとめて神功皇后一人に結びつけてしまった。無茶苦茶ですけれども『日本書紀』が出来た当時は『日本書紀』の編者は、ばれないと思った。なぜかというと八世紀『魏志倭人伝』を読んでいる人はいなかった。だから二人を一人に結びつけても、おかしいという人はいなかった。又おかしいというインテリがいたら即座に首を切られたかもしれない。だから『日本書紀』の編者は百も承知である。はっきり言えば『日本書紀』は偽史の要件を備えている。
神功皇后を天皇扱いにしたのは、先ほどの北『魏書』が文帝が天子になっていないのに、先号として天子扱いにした。そういう先例に倣ったことは間違いがないことです。北『魏書』の場合は、ただ西晋武帝と友好・交流した功績者という形で追号を贈っているだけですが。こちらの場合は、追号を贈って神功皇后を天皇扱いにしたことのみならず、神功皇后を卑弥呼・壱与二人を一人に結びつけて、神功皇后は魏と西晋・武帝とも深く交流を結んでおりました。その子孫が我々元正天皇でございます。そういう大嘘を『日本書紀』の根幹に据えている。私はもうやりきれなくなりました。発見は嬉しいですが、一回発見したら、どんな学者が「違うよ。」と言ってみても、私は無理だと思う。なぜならば北『魏書』にハッキリ書いてある。偶然の一致で『日本書紀』の編者が偶然知らずに書いて、ただ偶然一致した。誰がそんなことを言ってみても信じますか。もう古田の意見は見なかったことにする。そう逃げるより仕方がない。逃げても真実は逃げない。『日本書紀』は北朝へのオベンチャラ。はっきり言えば唐へのオベンチャラ。その立場で書かれているという、本当に悔しいし、日本人として残念ですが、そういうことを認めざるを得ない。
と云うことは言い換えますと、『日本書紀』が消そうとしてるのは、南朝の系列を受けた倭国の歴史書を消そうとしている。倭の五王は太宰府の元の都督であった。その都督の元の評督を全部消し去ろうとしている。私が今まで九州王朝の実在を言っていても、古田は変わったことを言っている。いくらそんなことを言ってみてもしようがない。事実から見れば変わりようがない。(表点本 中華書局)(初代)などは書き入れ、異体字などがたくさん有ります。
(北)魏書 巻一 序紀第一
昔黄帝有子二十五人或内列諸華, 或外分荒服昌意少子受封土國有大鮮卑山, 因以為号。獻二帝故人並号曰「推寅」蓋俗云「鑽研」之義。初聖武皇掌率数萬騎田於山澤欲慾見
・・・
(初代)積六十七世, 至成皇帝諱毛立。 聡明武略遠近所推, 東國三十六, 大性九十九人,
威振北方, 莫不率服。崩。
・・・
・・・
(十三代目)獻皇帝諱隣立。時有神人言於國曰..「此土荒遐未足 建都邑宣復徒居。」帝時年衰老 乃以位
授子
(十四代目)聖武皇帝諱詰[言分]。獻帝命南移, 山谷高深, 九南八阻, 於是欲止。有神獣,
其形似馬其声類牛, 先行導引, 暦年乃出。始居凶奴之故地。其遷徒策略, 多出宣, 獻仁帝,
輜[車丼]自天而下。既至, 見美婦人, 侍衛甚盛。帝異而問之, 封曰..「我, 天女也,
受命相会偶。」遂同寝宿。但, 請還曰..「明年周時, 復会此。」言終而別, 去如雨風。及期,
帝至先所田処, 果復相見。天女所生男授帝曰..「此君之子也善養視之。子孫相承當世為帝王。」語而去。子即始祖也。故時人諺曰..「詰[言分]皇帝無婦家,
帝力微皇帝無舅家。」帝崩。
(十五代目)始祖神元皇帝諱帝力微。生而英叡。
元年, ・・・
・・・
二十九年, ・・・
三十九年, 遷於定襄之盛楽。・・・於是魏和親。
四十二年, 遺子文帝如魏, 且観風土。魏景元二年也。
文皇帝諱沙漠汗, 以國太子留洛陽, 為魏賓之冠。・・・魏晋禅代, 和好仍密。始祖春秋 遇,
帝以父求帰, 晋武帝具禮護送。
四十八年, 帝至自晋。
五十六年帝復如晋, 其年冬還國。晋遣帝錦、[四kasira厂炎リ]繪, 綵, 綿, 絹, 諸物,
威出濃厚, 車牛百乗。・・・晋帝従之, 遂留帝。
五十八年, 方遣帝。始祖聞帝帰, 大悦, 使諸部大人詣陰館迎之。・・・矯害帝。既而,
始祖甚悔之。帝身長八尺, 英姿 偉, 在晋之日, 朝士英俊多興親善, 雅為人物帰仰。後乃追諡焉。
其年始祖不豫。烏丸王庫賢, 親近任勢, 受衛[王壊, 土編nasi]之貨, 故欲[水粗, 米編nasi]動諸部,
因在庭中[石廣]斧釜, 諸大人問欲何為, 答曰上恨汝曹讒殺太子, 今欲収大人長子殺之。」大人皆信,
各各散走。始祖尋崩。凡饗國五十八年, 年一百四歳。太祖即位。酋為始祖。
追記 古田史学会報三十六号にも力石巌氏の講演要旨(日本書紀の根本性格)が掲載されています。
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