君が代の源流に戻る
「君が代」は卑弥呼(ひみか)に捧げられた歌 へ
「君が代」と九州王朝 古田武彦(『倭国の源流と九州王朝』)
「日の丸」と「君が代」の歴史と自然認識について 古田武彦(古田史学会報33号)
第一部
「君が代」は日本の国歌と言われています。
君が代(よ)は 千代に八千代 さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔のむすまで
この歌の詩は、十世紀につくられた古今和歌集と和漢朗詠集から取られたと言われています。しかしその歌集の中には両方とも「君が代」とは書かれてはいません。12世紀初めに一般向けに編集された和漢朗詠集の流布本 から、最初の言葉が「我が君」から「君が代」に変化しています。しかしこれは改竄(かいざん)です。この歌の理解において問題の解決にはなりません。 古今和歌集の歌詞は次の通りです。
古今和歌集第七
賀歌
343 題知らず 讀人知らず
我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔のむすまで
この歌は古今和歌集の賀歌(がのうた)の先頭にあり、他の歌(343ー347)と共に、我が君の長寿を願って儀式で歌われたものです。また「君」という言葉は、9世紀以前の古代においては王・大王・天皇を意味します。その視点からこの歌を見ると、「題知らず、讀人知らず」と書かれていることは理解出来なくなります。私は古今和歌集の編集者はこの歌の作者を知っていたと考えています。しかし彼らは自分たちの利益の為に「題知らず、讀人知らず」にしたと考えています。それはこの歌が大和朝廷で作られた歌でないことを示しています。
図3君が代関係地図 糸島・博多湾岸 |
それではこの歌はどこで作られたか。私は九州の筑紫、糸島・博多湾岸で作られた歌であると考えています。それは現在の福岡県である筑紫の字地名や神社そして祭神が読み込まれているからです。字地名である千代(博多湾は八千代)、糸島の細石神社、井原(いわら)遺跡・井原(岩羅)山、桜谷若宮神社の祭神である苔牟須売神があります。これだけ歌の中にあれば偶然の一致とは言えないと思います。
1 千代 | |
2 八千代 | |
3 井原(いわら)遺跡、井原山 | |
4 細石神社 | |
5 苔牟須売神 |
他方「君が代」の歌は、博多湾・志賀島の志賀海神社で行われる山誉め祭りの神事の中で、袮宜(ネギ)の方々により語られ、伝えられています。神事そのものは村人の中の選ばれた人々である袮宜と神主で執り行われます。
君が代(我が君)は 千代に八千代に さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔のむすまで
・・・
あれはや あれこそは我君のめしのみふねかや
・・・
志賀の浜長きを見れば幾世経(へ)ぬらん
香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代に
・・・
今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船になりにける
あれはやあれこそや安曇の君のめしたまふ御船になりけるよ
・・・
以上の歌の言葉が台詞として語られるのは、この祭りの神事の最後に船上を想定した筵(むしろ)敷の場で櫂を持って行われる神事です。この神事によれば、元の形から「君が代」であると言うことは難しい。それは次の台詞に「我が君」と出てきます。加えて「我が君」は対岸の千代から来るという台詞があり、具体的に語られています。それにこの歌は安曇の君に捧げた歌です。代々安曇の君と呼ばれる人は、九州王朝の君主です。私は長い年月の間に最初の言葉が「我が君」から「君が代」に変化したと考えています。
以上、私は「我が君」がこの歌の原型であり、大和朝廷に先行する九州王朝で作られた歌であることを確信するに至った。この歌は先に存在した神に、我が君の寿命の永遠を願って作られた歌です。そのため千代から苔牟須売(コケムスヒメ)神への祈願をおこなう道中双六(すごろく)として歌に読み込まれています。 そればかりでなく、「我が君は」は遡れば、縄文時代に最初の形が存在する。なぜならばこの歌に読み込まれているのは、すべて金属材料でない岩等です。又神聖な石(さざれ石)が岩に成長する様子が読み込まれています。それに我が君の永遠をお願いする縄文の神は石神です。
この歌の性格は時代と共に変化しますが、本質は同じです。
(翻訳 横田幸男)
古今和歌集巻七
賀哥(がのうた)
題知らず 讀人しらず
343 わがきみは 千代にやちよに さゞれいしの いはほとなりて こけのむすまで
344 わたつみの はまのまさごをかぞえつゝ 君が ちとせの ありかずにせん
345 しほの山 さしでのいそに すむ千鳥 きみが みよをば やちぞよとなく
346 わがよはひ きみがやちよに とりそへて とゞめ をきてば 思ひでにせよ
仁和の御時僧正遍昭に七十の賀たまひける時の御哥
347 かくしつゝ とにもかくにも ながらへて 君がやちよに あふよしも哉
君が代の源流に戻る
4 志賀海神社の山誉め祭を見る。
ホームページに戻る
制作 古田史学の会