2014年 2月10日

古田史学会報

120号

1、賀詞交換会
 古田武彦講演要旨
  文責・古賀達也

2、九州年号
 「大長」の考察
  古賀達也

3,「末盧国・奴国・
邪馬壹国」と「倭奴国」
  正木 裕

4、「天朝」と「本朝」
「大伴部博麻」を顕彰する 「持統天皇」の「詔」からの解析

5,「ウィキペディア」の史料批判

  古賀達也

6、「水鳥のすだく水沼」の真相
  正木裕

7、年頭のご挨拶
  水野孝夫

 

古田史学会報一覧

納音(なっちん)付き九州年号史料の出現 -- 熊本県玉名郡和水町「石原家文書」の紹介 古賀達也(古田史学会報121号)

「ウィキペディア」の史料批判 古賀達也(古田史学会報120号)

納音(なっちん)付き九州年号史料の出現 -- 熊本県玉名郡和水町「石原家文書」の紹介 古賀達也(古田史学会報121号)


 九州年号「大長」の考察

京都市 古賀達也

九州年号「大長」史料の性格

 文献史学の研究で、まず最初に行う作業が「史料批判」という、その史料性格の調査検証です。簡単に言えば、その史料が誰によりいつ頃どのような目的や利害関係に基づいて書かれたのかを検証する作業です。それにより、その史料の記述内容がどの程度信頼できるのかを判断します。不正確な、偽られた史料を根拠に仮説や論を立てると、不正確で誤ったものになるので、史料を見極める眼力といえる「史料批判」は文献史学の基礎的で重要な作業なのです。
 たとえば九州年号が記された史料の場合、古田学派内でも史料批判抜きで「九州王朝系史料」と判断されているケースが見られますが、九州年号があるからといっても、その記事が九州王朝系のものとは限らないケースがあります。たとえば近畿天皇家の年号が無い時代、七〇〇年以前の記録を後世になって編集する場合、『二中歴』など九州年号が記された「年代記」類を参考にして九州年号を追記して記事の暦年を特定するというケースも考えられます。したがって九州年号とともに記録された記事が、元々から九州年号により記録されたものか、後世に編集されたときに九州年号が付記されたものかを判断する作業、すなわち史料批判が必要となるのです。
 ところが『伊予三島縁起』に見えるような「大長」年号記事の場合、九州王朝系記事の可能性が論理的にかなり高くなります。それは次の理由からです。最後の九州年号である「大長」は元年が七〇四年(慶雲元年)、最終年の九年は七一二年(和銅五年)で、すでに近畿天皇家の年号が存在している期間です。ですから後世に編集する場合、近畿天皇家の年号が採用されるはずで、最後の九州年号「大長」をわざわざ使用しなければならない理由がありません。それにもかかわらず「大長」で暦年が特定されているということは、王朝交代後の七〇一年以後でも九州年号を使用する人々、すなわち九州王朝系の人々により記録された可能性が高くなるのです。
 この場合、注意しなければならないことがあります。『二中歴』以外の九州年号群史料には七〇〇年以前に「大長」が移動されて記録されているケースが多く、その移動された「大長」を使用して、後世の編纂時に七〇〇年以前の記事として「大長」年号とともに記録されている場合は、本来の九州王朝系記事ではない可能性が高くなります。『伊予三島縁起』のように七〇一年以後の記事として「大長」が記されているケースとは異なりますので、この点について注意が必要です。
 こうした視点から『伊予三島縁起』を見たとき、「大長」年号とともに記された記事は九州王朝系記事とみなすべきとなり、その他の九州年号記事も本来の九州王朝系記事に基づかれたものとする理解が有力となるのです。従って、『伊予三島縁起』の原史料を記した人々、合田洋一さんがいうところの「越智国」は九州王朝との関係が深い地域ということになり、王朝交代後も九州年号「大長」を使用していたと考えられます。すなわち、大長九年(七一二)時点でも近畿天皇家の「和銅五年」ではなく、九州王朝の「大長九年」を使用するということは、近畿天皇家よりも九州王朝を「主」とする大義名分に越智国は立っていたことを指示していると思われます。こうした史料事実は、八世紀初頭の日本列島の状況を研究するうえで貴重なものと考えられます。
 同様に、七〇一年以後の記事として「大長」が使用されている『運歩色葉集』の「柿本人丸」の没年記事「大長四年丁未(七〇七)」も九州王朝系記事と見なされ、柿本人麿が九州王朝系の人物(朝廷歌人)であったとする古田説を支持する史料なのです。この他にも「大長」が記された史料がありますので、もう一度精査したいと思います。

 松山市出土「大長」木簡

 芦屋市出土の「元壬子年」木簡が九州 年号の白雉「元壬子年」(六五二年)木簡であることは、これまでも報告してきたところですが、当初、この木簡は「三壬子年」と判読され、『日本書紀』の「白雉三年」のことと『木簡研究』などで報告されており、九州年号群史料として有力史料と判断していた『二中歴』とは異なっていました。
 わたしは奈良文化財研究所HPの木簡データベースでこの木簡の存在を知ったとき、この「白雉三年」との説明に驚きました。『二中歴』を最も有力な九州年号史料としていた自説と異なっていたからです。そこで、わたしはこの木簡を徹底的に調査実見し、その「三壬子年」と判読されてきたことが誤りであり、「元壬子年」と書かれていたことを発見したのでした。
 このとき、わたしは自説に不利な史料から逃げずに、徹底的に立ち向かって良かったと思いました。このときの体験は、わたしの歴史研究生活にとって、大きな財産となりました。
 それ以後も九州年号木簡を探索してきましたが、奈良文化財研究所の木簡データベースを閲覧していて、もしかすると九州年号木簡かもしれない木簡を見いだしましたので、ご紹介します。
 それは愛媛県松山市の久米窪田 II 遺跡から出土した木簡で、「大長」という文字が書かれているようなのです(前後の文字は判読不明。「長」の字も推定のようです)。最後の九州年号「大長」(七〇四〜七一二年)の可能性もありそうですが、断定は禁物です。人名の「大長」かもしれませんし、法華経など仏教経典の一部、たとえば「大長者」の「大長」という可能性も小さくないからです。
 『木簡研究』第二号によれば、「大長」木簡は一九七七年に出土しており、その出土層は八世紀初期を前後するものとされており、まさに九州年号の大長年間(七〇四〜七一二年)にぴったりなのです。
 こうなると、実物を見る必要がありますので、松山市の合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)に連絡し、愛媛県埋蔵文化財センターに問い合わせていただいたところ、同木簡は「発掘へんろ」巡回展に出されていることがわかりました。

 

「大長」木簡を実見

 坂出市の香川県埋蔵文化財センターで開催されている「続・発掘へんろ ー四国の古代ー」展を見てきました。目的は「大長」木簡(愛媛県松山市久米窪田 II 遺跡出土)の実見です。同展示は入館料は無料の上、「四国遺跡八八ヶ所」マップなどもいただけ、かなりお得で良心的な展示会でした。
 さて問題の「大長」木簡ですが、わたしが見たところ、長さ約二五センチ、幅二センチほどで、全体的に黒っぽく、その上半分に墨跡が認められました。下半分は肉眼では墨跡を確認できませんでした。文字と思われる墨跡は五文字分ほどであり、上から二文字目が「大」と見える他、他の文字は何という字か判断がつきません。同センターの学芸員の方も同見解でした。あえて試案として述べるなら次のような文字に似ていました。字体はとても上手とは言えないものでした。

 「丙大??※」 
    ?=不明 ※=口の中にヽ

 これはあくまでも肉眼で見える墨跡からの一試案ですから、だいたいこんな「字形」という程度の参考意見に過ぎません。赤外線写真撮影などの再調査が待たれます(後日、愛媛県埋蔵文化財センターで赤外線写真調査が実施されました。合田洋一さんのご連絡による)。
 この他に松山市久米高畑遺跡出土の「久米評」刻書土器なども展示されており、同展は一見の価値がありました。


伊予大三島の大山祇神社参詣

 昨年の七月六日に松山市にて「王朝交替の古代史 七世紀の九州王朝」というテーマで講演しました。「古田史学の会・四国」の主催によるものです。大和朝廷の養老律令や宮殿の規模・様式変遷、飛鳥出土木簡などを通じて、九州王朝から大和朝廷への権力交替期についての持論や作業仮説(思いつき)を発表しました。
 翌日の日曜日には合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、四国の会事務局長)のご厚意により、一度行ってみたかった大三島の大山祇神社を西村秀己さんもご一緒に三人で訪問しました。最初に社務所に寄り、『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房)を進呈しました。宝物館は圧巻で、源義経奉納 の鎧(国宝)など重要文化財や国宝が多数展示してありました。国宝館には斉明天皇奉納と伝えられている大型の「禽獣葡萄鏡」がありました。「唐鏡」と説明されていましたが、その大きさなどから国産のように思われました。
 大山祇神社の他にも、合田さんの案内で「しまなみ海道」の大島にある村上水軍の記念館なども見学できました。


九州年号史料「伊予三島縁起」

 わたしが大三島の大山祇神社を訪れたかった理由の一つに、九州年号史料として著名な同神社の縁起「伊予三島縁起」を実見したかったからでした。わたしが持っている「伊予三島縁起」は五来重編『修験道史料集(2)西日本編』所収の活字版ですので、是非とも実物か写真版で九州年号部分を確認したかったのです。残念ながら宝物館には「伊予三島縁起」は展示されておらず、販売されていた書籍にも「伊予三島縁起」は掲載されていませんでした。
 「伊予三島縁起」の九州年号史料としての性格が、四国地方にある他の九州年号史料とはかなり異なっており、このことが以前から気にかかっていました。というのも、四国地方の他の九州年号史料に見える九州年号は、「白雉」や「白鳳」といった『日本書紀』『続日本紀』などの近畿天皇家の文献にも現れるものが多く、そのため本来の九州年号史料ではなく、それら近畿天皇家史料からの転用の可能性を完全には否定できないのです。この点、「伊予三島縁起」に見える九州年号は、「端政」「金光」「願転(転願)」「常色」「白雉」「白鳳」「大(天)長」などで、これらは『日本書紀』や『続日本紀』などからは転用のしようがない九州年号であり、「番匠初、常色二年」など九州王朝系史料からの引用と思われる貴重な記事も含まれており、その史料性格は格段に優れているのです。
 こうした理由から、わたしはどうしても「伊予三島縁起」原本を見たかったのです。『修験道史料集』に掲載されている「伊予三島縁起」の解題には、原本は大山祇神社にあり、善本は内閣文庫にあると記されています。

 

『伊予三島縁起』の「大長」年号

 昨年九月の関西例会では、古田説に基づき『「倭」と「倭人」について』を発表された張莉さんのご夫君(出野さん)を始め初参加の方もあり、盛況でした。わたしにとっての最大の収穫は、多摩市から参加されている齊藤政利さんにいただいた内閣文庫本『伊予三島縁起』の写真でした。九州年号史料として有名な『伊予三島縁起』原本(写本)を以前から見たい見たいと私が言っているのを齊藤さんはご存じで、わざわざ内閣文庫に赴き、『伊予三島縁起』写本二冊を写真撮影して例会に持参されたのでした。
 まだそのすべてを丁寧に見たわけではありませんが、一番注目していた部分をまず確認しました。それは「天長九年壬子」の部分です。五来重編『修験道資料集』掲載の『伊予三島縁起』には「天武天王御宇天長九年壬子」と記されており、この部分は本来「文武天皇御宇大長九年壬子」ではないかと、わたしは考え、七〇一年以後の九州年号「大長」の史料根拠の一つとしていました(『「九州年号」の研究』所収「最後の九州年号」をご参照下さい)。
 齊藤さんからいただいた内閣文庫の写本を確認したところ、『伊豫三島明神縁起 鏡作大明神縁起 宇都宮明神類書』(番号 和42287)には「天武天王御宇天長九年壬子」とあり、『修験道資料集』掲載の『伊予三島縁起』と同じでした。ところが、もう一つの写本『伊予三島縁起』(番号 和34769)には「天武天王御宇大長九年壬子」とあり、「天長」ではなく九州年号の「大長」と記されていたのです。わたしが推定していたように、やはり「天長九年」は「大長九年」を不審とした書写者による改訂表記だったのです。
 「大長九年壬子」とは最後の九州年号の最終年である七一二年に相当します。近畿天皇家の元明天皇和銅五年に相当します。なお、「天長九年壬子」という年号もあり、淳和天皇の時代で八三二年に相当します。『伊予三島縁起』書写者がなぜ「天武天王御宇」と記したのかは不明ですが、九州年号「大長」が七〇四〜七一二年の九年間実在したことの史料根拠がまた一つ明確となったのです。内閣文庫写本の詳細の報告は後日行いたいと思います。齊藤さんに心より感謝申し上げます。

 ※本稿は「古田史学の会」ホームページに連載している「洛中洛外日記」を編集し、転載したものです。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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