2015年10月 9日

古田史学会報

130号

1,「イ妥・多利思北孤・鬼前・干食」の由来
 正木裕

2,「権力」地名と諡号成立の考察
 古賀達也

3,「仲哀記」の謎
 今井俊圀

4, 九州王朝にあった二つの「正倉院」の謎
 合田洋一

5,「熟田津」の歌の別解釈(一)
 阿部周一

6,「壹」から始める古田史学 II
古田武彦氏が明らかにした
「天孫降臨」の真実
 事務局長 正木 裕

7,「桂米團治さんオフィシャルブログ」より転載

8,「坊っちゃん」と清
 西村秀己

 

古田史学会報一覧

 孫権と卑弥呼 正木裕(会報129号)
『日本書紀』に引用された「漢籍」と九州王朝 正木裕(会報132号)

「?・多利思北孤・鬼前・干食」の由来 正木裕(『古代に真実を求めて』第十九集


「イ妥・多利思北孤・鬼前・干食」の由来

川西市 正木 裕

 『隋書』イ妥国伝や「法隆寺釈迦三尊像光背銘」には、「イ妥(国)・多利思北孤・鬼前(太后)・干食(王后)」という特異な“固有名詞”が記されている。本稿では、こうした固有名詞の由来や意味について、これまでの古田武彦氏ほかの解釈に新たな視点を加えて分析したい。

一、「イ妥たゐ」について

1、代々継続してきた「委」国

 『隋書』イ妥国伝に「漢の光武の時、使を遣して入朝す。(略)魏より齊・梁に至り代々中国に相通ず」とある。そして、紀元五十七年に「委奴ゐぬ国王」が漢の光武帝から賜った「漢委奴国王」印は筑紫博多湾岸(志賀島)から出土しているから、「委奴国」は明確に九州博多湾岸の国だ。この「委奴国」を承継し、「魏より齊・梁に至り代々中国に相通ず」る国として認識されているのが多利思北孤のイ妥国ということになる。
 「魏より齊・梁に至り」とは魏の時代の俾弥呼・壹予、宋・齊・梁時代の「倭の五王」を指すことは明らかだから、多
利思北孤を含むこれらの王は、皆連続して九州に存在し続けた「王朝」即ち九州王朝の王達だということになる。
 そうした視点から「国名」を見ると、「委奴国」の「委」は「ゐ・い」で、しなやか・穏やか・従順な意味。「倭」はこれに「人」が付いて「穏やか・従順な人」のことを表す。(小山鉄郎。前文字文化研究所理事「稲の形をした被り物である『禾』を被り、豊作を祈って踊る『女』が『委』」)
 「奴」は「ド・ヌ・ノ」で本来は「捉えられた女」を表す「人」の“蔑称”だが、「ヌ・ノ」と読めば倭語では格助詞の形容詞的用法で「委(穏やか・従順)“の”人の国」となる。いずれにせよ国名の意味を示す中心の文字は「委」だ。
 また邪馬壹国・壹予の「壹」も「ゐ・ゐっ・いっ」等の読みが有力で、「倭の五王」の「倭」の上古音も「ゐ」だから、結局「委」という国名も代々承継されていたことになる。

2、「イ妥国」は「大委(倭)」国

 「イ妥」も読みは「たゐ・たい」で、古田氏は『古田史学論集』第九集古田武彦講演会「四 九州年号と神籠石山城」で「イ妥」は、「大委(たいゐ)」の意味とされている。これは、「聖徳太子」(実際は多利思北孤)が「集め編纂した」と考えられる『法華義疏』の巻頭に「大委上宮王私集」と「大委」の文字が用いられていることからも分かる。
 従って、「イ妥国」も「委・ゐ」を承継する国と考えられるが、「委・倭」を名乗っていた時代とは大きな“質的変化”がある。それは「中国との関係」だ。
 「委奴国」は漢に臣従し、俾弥呼の邪馬壹国は魏・西晋朝に臣従していた。また、倭の五王が南朝宋や齊・梁に臣従し、叙位・叙任を求めていたことは有名で、「奴」という“卑字”通り中国に“従属する”国だったといえる。
 なお、『後漢書』(東夷列傳・倭)に「使驛通於漢者三十許国、国皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺国」と「大倭王」という言葉が見えるが、これは、倭に属する三十ほどの「倭の諸王」と区別し「倭の諸王を統合する王」を指す言葉で、「“大倭国”の王」、即ち漢が国名を「大倭国」と呼んだものではない。また自ら「大委(倭)」を名乗っていたものでない。これは、『宋書』の倭の五王「珍」が「倭国王」を自ら称し、他の王も「倭王・倭国王」とあることからわかる。
◆讚死、弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事、安東大將軍、倭国王。表求除正、詔除安東將軍、倭国王。

3、「イ妥」は多利思北孤の「対隋対等外交姿勢」を示す

 一方、多利思北孤は隋の煬帝に「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞く。」「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という有名な国書を送っていることから、「イ妥」は多利思北孤の国書に記される、即ち隋に向かって名乗った“自署国名”といえる。
 しかも国書の内容から、多利思北孤は隋と「対等外交」を指向していたことが分かる。従って「イ妥」が「大委」なら、これは、
◆イ妥国は「委」を承継する国であっても、従来のように、中国に臣従し続けてきた「委 “奴”国」ではない、隋と“対等”の「大」のつく「“大”委国」である。
 という多利思北孤の「名分」を示す表現だと考えられる。
 あるいは『法華義疏』の「大委」から、多利思北孤の国書には「大委」とあったものを、隋はこれを嫌い“弱弱しい”という意味を含んだ“卑字”である「イ妥」を当てた可能性も考えられよう。
 いずれにせよ、こうした国名の変遷から、「委(倭)」を代々国名に用い、中国への臣従を表現していた時代から、「イ妥・大委」を用い、中国と対等の立場を指向した多利思北孤の時代への外交姿勢の変化が窺われよう。

二、「多利思北孤」について

1、多利思北孤は「足りし鉾」

 また、多利思北孤とは古田氏の言うように「足りし鉾=鉾に満ちる」という意味で、天孫降臨神話に出てくる神器の「銅鉾」の中心地九州筑紫に相応しい名と理解できる。倭の五王のように「一字名」なら「倭王“鉾”(呉音はム、漢音はボウ)」となろう。

2、何故「たり」は「多と利」で「ほこ」は「北と孤」なのか

 それでは、何故この「たり」という音に「多と利」、「ほこ」に「北と孤」という文字を当てたのだろうか。
 まず、「多利思」だが、釈迦は生誕時に「天上天下唯我為(独)尊 三界皆苦吾当安之」(『修行本起経』)と言ったとされている。
 これは、「欲界・色界・無色界の三界に迷い苦しむ衆生を皆安んじるがゆえに、我は天上天下で唯一人尊いのだ」という意味で、釈迦の「利他の思想」つまり「他を利せんとする思い」を表すものだ。
 但し、「吾は三界に苦しむ者を“皆”安んじる」というところから、「他」ではなく多くの人々を救済するという「多」の字の方がより適切な字となると思われる。結局「多利思」は「足りし」という倭語に、釈迦の「多くの者を利せんとする思い」を表す“貴字”をあてたもの言えるのではないか。
 次に、「北」は、「天子・聖人は北に座す」(「聖人南面而聽天下」とも)という哲学によるものと考えらる。「天子南面、臣下北面」といい、宮殿を「京(条坊都市)の北」に置くのが「北闕式」で筑紫大宰府もこれに当たる。
 また「孤」は「尊貴の人の自称に用いる字(白川『字通』)」であり、また「唯我」とは「孤」と同義だから、「唯一人の尊き天子」という意味で「孤」の字を当てたと考えられる。
 結局、「菩薩天子」多利思北孤は、「足りし鉾」という天孫の神器で筑紫を象徴する「鉾の満ち足りた国」を意味し、かつ「足りし」には、釈迦の、苦しむ者を“皆(多)”助けるとの釈迦の「利他(多)の思い」を表す「多と利と思」の文字を採用し、「鉾」には、天子を表す「北」と、「貴人の自称」であり、かつ釈迦の「唯我為(独)尊」の意味を持つ「孤」の字を充てたと考えられよう。

三、「鬼前太后・干食王后」について

1、鬼前・干食に関する説

 「法隆寺釈迦三尊像光背銘」で上宮法皇の母とある「鬼前太后」につき、『聖徳太子論争』で、家永三郎氏は「説明が付かない」とされ、「干食王后」は「膳大刀自かしはでのきさきと読むことに少しも不自然は無い」とされるが、どう考えても“不自然”と言えよう。
 一方、古田氏は「干食は天子の悪質・末期的な病気を暗示するもので后の固有名詞ではない」とされている。また、朝日文庫『失われた九州王朝』では筑紫糸島半島に「鬼前」地名が見いだされることから、地名ではないかという見解を示されている。古賀達也氏は「“思いつき”ではあるが「鬼前」は「キサキ」ではないか」という見解を述べられている。

2、やはり“固有名詞”ではないか

 ただ、上宮法皇・鬼前太后・干食王后という併記の状況から見て、これらは“固有名詞”、少なくとも人物を特定できる名称として用いられているというのが「自然な」読みだ。古田氏は『市民の古代』(第九集一九八七年)で「『食によからず』という漢文の文章はない」とされているから、「干食」を病気の暗示とするのは些か無理があるのではないか。このように議論が定まらないのは、「鬼前・干食」について、“ズバリあてはまる典拠”が見当たらないことによるものだろう。
 ところで、先に多利思北孤は仏教に由来する漢字が充てられているのではと述べたが、「鬼前・干食」の由来も仏教にあると考えたとき、古代仏教の説話・法話の中にこの典拠・文言が見いだせる。しかし、もしその典拠が当たっているとすれば、非常に興味深い問題が浮かびあがってくる。
 それは「鬼前・干食」とも「生前に仏教を信じなかったものが受ける罪」と「その報いとしての地獄の苦しみ」を表しているということだ。以下、「仏典に由来するものであれば」という前提で述べていく。

3、「干食」は仏法・仏像、僧房、僧侶への罪

 仏教では、人は生前の悪行に応じて「八熱地獄」と、そこに付随する十六の「小地獄(無間地獄)」に落ちて罰を受けるとされ、『正法念処経』(北魏〜東魏の擢曇般若流支五三八〜五四二年漢訳)地獄品には各地獄に落ち餓鬼となった罪人の姿を通じ、悪行を戒める記述がある。そして、その中に「鬼前・干食」の語が見られる。
 まず「干食」は、聖人を誹謗し仏法を破るものが堕ちる第四の地獄「野干吼処やかんくしょ」や、僧・寺や仏像・仏具を棄損したものが堕ちる第五の地獄「鉄野干食処てつやかんじきしょ」の有様に見られる。
◆『正法念処経』卷第十四(地獄品之十)
 「野干吼やかんく。是れ彼の地獄第四の別処。(略)若し人一切の智人を毀呰(きし 責め謗ること)し、支仏を毀辟(きへき 侮辱)し、阿羅漢を毀る。若し法律を毀そしり、(略)常に聖人を毀そしれば、彼の人是の悪業因?を以て、身を壞ち命終れば、悪処に堕ち、彼の地獄は野干吼処に在る。」

 「野干吼処」では、その罪を生じた身体の部分を鉄の口から焔*を燃す野干(原像はジャッカルとも。狐・狗に似た地獄の動物)が食するとされる。
 「所謂、彼処の野干の作せる業は、鉄の口焔*を燃し、彼処に遍満す。是れ野干の焔*の牙甚だ利きが如し。聖法人を毀る趣(「趣」は死後の姿。ここでは餓鬼)に疾く走り往きて、各の異処を食う。頭を食う者有り、項食う者有り。悪語を舌すを以て、復た野干有りて其の舌を食う(「野干食其舌」)。復た野干有りて其の鼻を食う(「野干食其鼻」)。復た野干有りて其の胸骨を食う(「野干食胸骨」)(以下肺・小腸・大腸・[火孚]・髀・喘*・脛・臂・手足・手足指を食う) 
     焔*は、焔の異体字。JIS第3水準ユニコード7130
     喘*は、口の代わりに足。JIS第4水準ユニコード8E39

 次に第五地獄「鉄野干食処」に堕ちれば熱鉄・野干による「大苦悩」を受ける。
◆「鉄野干食。是れ彼の地獄第五の別処。(略)若し人、悪心悪念に隨喜し、以て悪心を重ね。衆の僧寺を焼き、并せて仏像及び多の臥敷衣裳財物穀米衆具を焼く。悪心の故を以て、僧処を火焼し、隨喜す。心に生悔を生ぜずば悪処に堕ち、彼の地獄の鉄野干食別異処に生れ、大苦悩を受く。謂う所の苦は、前に説く所の如し。」

 「前に説く所の如し」というのは、卷第七に、「八大地獄」の第四で、殺生・偸盗・邪淫・飲酒の罪を犯した者が落ちる、「叫喚地獄」では、熱い鉄が常に身を焼き、「野干」が其の身中を常に食するごとき苦痛を味わうとあることを指す。

◆「身を壞ち命終れば、悪処、叫喚地獄髪火流処に堕ち、大苦悩を受く。謂所は火の雨ふり、彼の地獄の人、常に焼き煮らる。炎は頭髪を燃す。乃ち脚足に至れば、熱鉄の狗有りて、其の足を[ロ敢くら]い食う。炎の嘴の鉄鷲は、其の髑髏を破り其の脳を飲む。熱鉄の野干其の身中を食う(「熱鉄野干食其身中」)。是れ常に焼かれるが如く、是れ常に食われるが如し。彼の人、自ら不善悪業を作すがゆえに、悲苦号哭す。」

 つまり仏教上で「干食」は、罪業により堕ちた地獄においての、こうした「野干に食われ、焼かれ、砕かれる」という“大苦悩”を象徴する言葉となっている。(尤も釈迦は法華経で悪人成仏を説き、無限地獄の者も救い上げると約すから、菩薩天子たる多利思北孤にとっては「救済」を前提とした名称ではある。)

 

4、「鬼前」は前世で仏教を信じず侮った罪

 また、『正法念処経』卷第十六には驕慢・妄言・欺誑( ごおう だましあざむくこと)の罪とその罰として餓鬼が受ける苦痛のありさまが記され、その中に「鬼前(餓鬼前身)」の語が見える。
◆『正法念処経』卷第十六。餓鬼品第四之一
 「彼以て慧に聞き知る。諸の餓鬼の前身(「餓鬼前身」)の時。慳嫉(けんしつ 陰険なこと)、故に自ら其の心を覆い、妄語欺誑し、自らの強力を恃たのみ、良善を抂誣(ごうふ 罪をでっちあげる)し、囹圄(れいご ろうごく)に繋ぎ、人に糧食を禁じ、其の死に致らしむ。殺すを心快よしとし、悔恨を生ぜず。」とあり、その罪として、
◆「腹中に火起き、其の身を焚焼す。(略)地には棘刺生じ、皆悉く火燃し、其の両足を貫く。苦痛忍び難し」などといった罰を受けるとする。  
 
 この経典の内容は、北魏の延興二年 (四七二)に吉迦夜と曇曜が訳した、釈尊の入滅後に付法相伝した二十三祖師の因縁を述べる『付法蔵因縁伝』にも次のように記されている。
(大意)西天第十八祖の伽耶舍那尊者が托鉢に、ある宮殿を訪れたとき、舍主の傍らに二匹の飢えた鬼がおり、食物を与えても血膿となって吐き出していた。そこで、この鬼は何の縁でこのような罪の報を受けるのかと問うと、舍主は、
◆「斯の鬼の前世は(「斯鬼前世」)一は是れ吾が息、一は是れ兒の婦。我昔、布施し諸功徳を作すも、彼の夫妻、恒に恚(い 憤ること)惜を懷き、我数の教誨(きょうかい 教え諭す)を受け納めず。因りて立誓して曰く、「此の如き罪業必ず悪き報むくいを獲ん。若し受罪の時我當に汝を看ん」と。是の因?を得るに由りて斯く苦悩す」と答えた。
 つまり「鬼の前世は息子夫婦で、仏教を侮った罪で鬼に生まれ、罪の報いを受けた」ということで、ここにも「鬼前」の語が見える。
 結局、これらの語はいずれも仏教に背き罪を受け、無間地獄に落ち苦しむ人物の様を示していることになる。

5、地獄の苦しみは天然痘の症状と一致

 上宮法皇の母鬼前太后は十二月に、妻干食王后は翌年二月二十一日、法皇は二十二日と短時間に逝去が相次いでいる。これは『書紀』に記す当時の状況から見て、原因は天然痘である可能性が高い。そして、その症状は『書紀』敏達十四年(五八五)三月記事に
 「又瘡発でて死みまかる者、国に充盈てり。其の瘡を患む者言はく、『身、焼かれ、打たれ、摧くだかれるが如し』といひて、啼泣いさちつつ死る」とある。これは「鬼前・干食」が示す「無間地獄」そのものだ。
 多利思北孤の母、妻の蒙った天然痘の苦しみが地獄に記された苦悩と同様であるところから、前世の悪行の業により、そうした地獄に堕ちたことを想定し、地獄の苦悩から解放され成仏できるよう釈迦の救済を求めるため、末期ないし没後に、律師によって“堕ちた地獄の所在と被っている苦悩の種類”を暗示する文言二字を「法諱(戒名)」として授けられたものとは考えられないだろうか。
 「法隆寺釈迦三尊像」の脇侍は薬王菩薩と薬上菩薩だ。これは鬼前太后、干食王后の姿を模したもので、滅して後、中尊像の釈迦如来となった法皇多利思北孤により地獄の苦悩から救済され、いまや菩薩として世の人々を病苦から救わんとしている姿を現していることになろう。そう考えれば「釈迦三尊像の姿」とその「銘文」、「法皇・鬼前・干食の語」が一体のものとしてよく理解できるのだ。

四、物部氏と「鬼前・干食」

1、これら「仏教に対する罪」は「物部守屋の罪」と一致

 こうした「病状をもとにした地獄からの救済」という考えとは別に「仏教に対する罪」であることに注目すれば、不思議な仮説が生まれる。それは、こうした罪が『書紀』に記す「物部守屋の罪」と一致することだ。
 『書紀』敏達十四年(五八五)三月丙戌(三十日)、物部弓削守屋大連自詣於寺、踞坐胡床、其の塔を斫り倒し、火を縱けて燔く、?て仏像と仏殿を焼く。既に焼く所の餘る仏像を取り、難波の堀江に棄てさしむ。是日、雲無く風雨す。大連、雨衣を被り、馬子宿禰と從いて行う法侶を訶責し、毀り辱しむる心を生さしむ。乃ち佐伯造御室を遣し、馬子宿禰の供いたわる善信等尼を喚ぶ。是によりて、馬子宿禰、敢て違命せず、惻愴いたみなげき啼泣しつつ、尼等を喚び出し、御室に付く。有司、便ち尼等の三衣を奪い、禁錮、海石榴市亭に楚撻しりかたうちき。

2、鬼前太后・干食王后と物部氏の関係

 このように「鬼前・干食」は本来物部守屋が堕ちるべき地獄を示している言葉だ。これを多利思北孤の母・妻が名乗っていたとすれば、それは何を示すのか。
 これはあくまで仮説だが、多利思北孤の母・妻の出自は「物部氏」で、この罪を「弔ひ浮かめる」ことで罪障を晴らし成仏の得脱の縁を結ぶ(後世安穏を求める)意味もあって法諱としたとは考えられないか。
 多利思北孤の母・妻の出自は全く不明だが、蘇我馬子の妻は物部守屋の妹。そして九州でも玉垂命は物部との伝承もあるとのことなので(古賀達也氏による)、そうした可能性もあろう。その場合物部氏は、程度の差こそあれ神道を仏教に変えることに反対であり、“神官”としての玉垂命の一族にも、これを是としなかった系列がいたのではないか。そうすると端政元年の玉垂命崩御と多利思北孤即位も、仏教をめぐる蘇我・物部の争いと大いに関連が出てくることになる。
 以上、「イ妥」「多利思北孤」に加え、「鬼前・干食」の出典と謂れについて「仏教との関連」に注目して検討した。これは、まだ想像の域を出ない段階だが、若干の仮説を提示し、各位の今後の研究・検討の成果に待つこととしたい。
*出典『正法念処経』電子版(中華電子仏典協会資料底本:大正新脩大正蔵経)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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