2016年10月11日

古田史学会報

136号

1,古代の都城
宮域に官僚約八千人
 服部静尚

2,「肥後の翁」と多利思北孤
 筑紫舞「翁」と『隋書』の
 新理解
 古賀達也

3,「シナノ」古代と多元史観
 吉村八洲男

4,九州王朝説に
刺さった三本の矢(中編)
京都市 古賀達也

5,南海道の付け替え
 西村秀己

6,「壹」から始める古田史学Ⅶ 倭国通史私案②
 九州王朝(銅矛国家群)と
 銅鐸国家群の抗争
 正木裕

7,書評 張莉著
『こわくてゆかいな漢字』
 出野正

 

古田史学会報一覧

割付担当の穴埋めヨタ話⑧ 五畿七道の謎 西村秀己

「東山道十五国」の比定 — 西村論文「五畿七道の謎」の例証 山田春廣(会報139号)

古代官道南海道研究の最先端(土佐国の場合)(会報142号)

書評『発見された倭京 太宰府都城と官道』 古賀達也(会報146号)


南海道の付け替え

高松市 西村秀己

 五畿七道は古代の行政区分の名称であるが、七道は同時に官道の謂でもある。この官道には駅家がおよそ十六キロメートルごとに設置され、公使や高位の者の宿泊や休憩に給せられ、或いは移動に必要な馬や船が用意されていた。少し後の時代ではあるが『延喜式』には全国に四〇二の駅家があることを記しているそうだ。
 この七道は九州の西海道を除いて全てその時代の首都から出発する。従って遷都が行われれば、これらの道も付け替わる。平城京の時代、例えば南海道は平城京をほば南に向かって出発し大和国を通って紀伊国に入っていたのだが、平安京の時代には山陽道とともに南西に進み山崎(京都府大山崎町)で分かれて河内国を南下した。
 南海道は紀伊国に入った後、紀の川添いに西進し淡路国に渡って阿波国へと向かう。つまり四国内部の南海道は阿波国を起点とするのである。ところが、続日本紀養老二年五月にこのような記事がある。

庚子、土左国言、公私使直指土左、而其道経伊豫国。行程迂遠、山谷険難。但阿波国、境土相接往還甚易。請、就此国、以為通路。許之。

 庚子(七日)、土左とさ国言もうさく、「公おほやけ・私わたくしの使つかひ、直ただに土左を指せども、その道、伊豫いよ国を経。行程こうてい迂遠うゑんにして山谷さんこく険難けむなんなり。但ただし、阿波あは国は境土さかひあひぎて往還わうくわんはなはだ易やすし。請はくは、此の国に就きて通路かよひぢとせむことを」とまうす。これを許ゆるす。

 これは、これまで都から土左国府(推定南国市比江付近)へ行くのにわざわざ伊豫国府(推定今治市国分町付近)を経過しなければならなかったので、阿波国府(推定徳島市国府町)から直接行けるようにして欲しいという、土左国府からの願いを許したものである。延暦十六年以降の南海道の分岐点である四国中央市から今治市まではおよそ一〇〇キロメートル。つまり、土左国への(或いはからの)使いは二〇〇キロメートルも回り道をさせられていたことになる。
 この「伊豫国」を伊豫国府と見ずに、官道が伊豫国内を通過しているだけと捉える向きもあるようだが、それならば延暦十六年以降のルートと殆ど変わらず「行程迂遠」とはとても言えないし、その程度のことであればことさら行程を変更するのに勅許をうけるまでもあるまい。「伊豫国」は伊豫国府と考えるべきであろう。おそらく、各国府に出頭しその後の道中の安全を保証する「駅鈴」のようなものの支給を受けていたのではないだろうか。
 では何故伊豫国府へ遠回りするようなことになっていたのだろうか。一元史観の学者には到底解決不能の難題であるに違いない。だが、我々多元史観の立場からはいたって簡単な問題だ。先に書いたように、遷都があれば道は付け変えられるのだ。つまり北九州から関西への遷都である。北九州に首都があった時代、四国への道(「南海道」と呼ばれていたかどうかは不明)は豊後から海を渡って伊豫に至り、そこから分岐して一方は讃岐・阿波へ、もう一方は土左へと向かっていたと推定できる。これが、関西に首都が遷ったあとも道と駅家だけは従来通り維持され、阿波→讃岐→伊豫→土左となっていたのだ。養老二年以降四国の道は阿波で分岐し一方は讃岐・伊豫へ、もう一方はおそらく吉野川か那賀川を遡って西進し現在の高知自動車道か土讃線のルートを南下して土左国府に至ったのだろう。

 逆に言えば、この南海道の付け替えの記事そのものが北九州に長らく首都があったことの直接証拠と言えるのではあるまいか。
 さらに、このような改変がなされたのは、九州王朝の組織的残存勢力の滅亡と、無縁ではあるまい。九州王朝の最後の年号である大長一〇年(これは古賀説であるが筆者はこれを支持する)は和銅六年であり、この年は日向国を分割して大隅国を創設している。その三年後の霊亀二年五月には、

 辛卯、(中略)大宰府言。豊後伊豫二国之界、従来置戍、不許往還。但高下尊卑、不須無別。宜五位以上差使往還、不在禁限。(中略)並許之。

 辛卯(十六日)、(中略)大宰府だざいふもうさく、「豊後とよくにのみちのしり・伊豫いよの二国の界さかひ、従来もとよりじゆを置きて、往還わうくわんすることを許さず。但ただし高下こうげ・尊卑そんひ、別べち無くはあるべからず。五位以上使つかひを差つかはして往還すること、禁いさむる限かぎりに在らざるべし。(中略)並ならびにこれを許す。

とある。これは従来南九州と北九州の船舶による往来を禁止したものの一部解禁と思っていたのだが、養老二年の記事と関連付けると北九州と四国の旧官道の往来を禁止していたものと考える方が適切であるかもしれない。九州王朝の組織的残存勢力が居なくなったことで、近畿天皇家が思うがままの腕を振い始めたのが目に見えるようだ。そして南海道の付け替えの二年後『日本書紀』が完成するのである。

新・旧土佐への交通路
新・旧土佐への交通路
旧・新道は推定。国府もおおよその位置

旧道
阿波国府→讃岐国府:78km
県道1号→藍住IC→徳島自動車道→高松自動車道→府中湖IC→県道184

讃岐国府→伊予国府:125km
県道184→府中湖IC→高松自動車道→松山自動車道→国道196号

伊予国府→土佐国府:130km
国道196号→国道11号→国道194号→高知自動車道→国道195号

合計:333km

新道
阿波国府→土佐国府:148km
県道1号→藍住IC→徳島自動車道→高知自動車道→南国IC→県道45号

(注)筆者は三年ほど前に古田史学の会・四国の例会で今井久氏(西条市・本会会員)から本稿と同様の内容の話をお伺いしたことがある。その際今井氏のお話の出典がよくわからなかったのだが、今回別役政光氏(高知市・本会会員)との対話中に『続日本紀』に見い出したものである。従って「南海道付け替えの発見」の功績は今井氏に帰することを明記する。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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