倭国(九州)年号建元を考える
高松市 西村秀己
倭国(九州)年号を記載した年代暦の中に『二中歴』「年代歴」がある。古賀達也氏は洛中洛外日記第349話『九州年号の史料批判(4)』で数多い年代暦の中での『二中歴』の優位性について次のように述べている。
「丸山モデル」が提唱された後も、古田先生は『二中歴』の史料的優位性を主張されていました。その理由の一つは、他の年代暦に比べて『二中歴』は成立が早いということでした。多くの年代暦はせいぜい室町期の成立であり、比べて『二中歴』は鎌倉初期であり、九州年号群史料としては現存最古のものなのです。
更に、こちらの方がより重要なのですが、『二中歴』「年代歴」に記されている細注記事の内容が、近畿天皇家とは無関係であるという史料性格です。
多くの年代暦は近畿天皇家などの事績を九州年号という時間軸を用いて記載するという史料状況(年号と記事の後代合成)を示しているのですが、これは九州年号史料にあった年号を、後代において「再利用」したものである可能性が高く、これら年代歴そのものは同時代九州年号史料の本来の姿を表したものではないからです。
その点、『二中歴』「年代歴」の九州年号記事は九州王朝内で成立した九州年号史料の集録という史料状況(同時代九州年号史料の再写・再記録)を示しており、それだけ年号の誤記誤伝の可能性が少なく、その年号立てについても信頼性が高いのです。
そして、古田先生は各年代暦の「多数決」あるいは最多公約数的な年号立てによる「丸山モデル」は学問の方法として不適切と言われていました。学問は各史料ごとの優位性の論証が基本であり、多数決で決まるものではないと主張されたのです。
筆者はこの古田武彦・古賀達也両氏の判断を支持するものである。
さてその『二中歴』の中で最も古い元号は周知の通り「継体」(その元年は西暦で言えば五一七年)である。つまり倭国(九州王朝)は「継体」をもって「建元」したと言えよう。「建元」は中国南朝の冊封体制からの離脱が大きな原因と考えられる。現に梁の天監元年(五〇二)の倭王武の進号記事を最後に倭は梁書そして次の陳書から姿を消している。
梁書の列伝ではこの進号記事を次のように記す。
高祖即位、進武號征東將軍。(梁書倭伝)
つまり、百済王が征東大將軍になったのと引き比べ倭王が征東將軍に留まったのを理由に梁の冊封体制から離脱したのだ、とする説もある。ところが、梁書の本紀では、
車騎將軍高句麗王高雲進號車騎大將軍。鎮東大將軍百濟王餘大進號征東大將軍。鎮西將軍河南王吐谷渾休留代進號征西將軍。鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍。(梁書本紀第二武帝中・但し百衲本は倭王は「大」の無い「征東將軍」らしいのだが未確認である。但しそれで本稿の結論が変わるわけではない)
となっている。百濟王も倭王も同格の征東大將軍なのである。しかも、倭王讃以来ここで初めて百濟王に追い付いたのである。これでは梁の冊封体制から離脱する理由がない。しかも、「継体」元年の頃の梁は全盛期と言っても過言ではない。軍事的業績としては、天監五年(五〇六)~天監六年に起こった鍾離の戦いで侵略してきた北魏の軍勢(百万と号していた)をその三分の一以下の軍勢で追い払い、中大通元年(五二九)には亡命してきた北海王元顥を北魏の帝位につけるべく、将軍陳慶之はたった七〇〇〇人の白袍隊を率いて北魏の首都洛陽を陥落させている。また内政的業績としてはこのころの梁の武帝蕭衍は南朝最高の名君と称せられるほどであった。つまり「継体」が最初の元号だというものの現実味が薄れてくるのである。
だが、最大の問題は『二中歴』「年代歴」の細注なのだ。
継体五年 元丁酉
善記四年 元壬寅 三年発護成始文善記
以前武烈即位
「善記」の細注の前半はともかく、後半の「善記以前武烈即位」はどういう事であろうか?「善記」の前には「継体」があるのだから、これは、
継体五年 元丁酉 武烈即位
或いは
継体五年 元丁酉 継体以前武烈即位
となるべきものである。これでは『二中歴』「年代歴」そのものが「継体」の存在を否定しているかのように見える。
さて、善記元年(五二二)は梁の普通三年に当るがその前年には次の記事がある。
以鎮東大將軍百濟王餘隆為甯東大將軍。(梁書本紀第三武帝下)
甯東大將軍はあまり一般的な称号ではないが、餘隆の諡は武寧王でありその諡に「寧」(甯と同字)を使ったのも甯東大將軍という称号が誇り高いものであったからに相違ない。とすれば、倭王の「征東大將軍」よりも格上であると考えてもよいのではなかろうか。(これは倭王武が生存していた場合で、もし武が死んで後継者に替わっていたとすればおそらくは鎮東大將軍であった筈で百濟王との差はさらに開く)つまりこのタイミングならば倭が梁の冊封から抜けるのも理解できるのである。
では『二中歴』「年代歴」が最も信頼できる倭国(九州)年号史料であり尚且つ最初の年号が「善記」という現象はどうすれば整合することができるだろうか?ここで「善記」建元と同時に「継体」を遡って追号した、という仮説を提案したい。
善記以前武烈即位
という細注からみると、「善記」を建元した人物は「武烈」であり「継体」元年は「武烈」が倭王に即位した年(もしくはその翌年)である、と考えることが最もリーズナブルである。『日本書紀』の年代が信頼できるとすれば、この人物は「磐井」であり「武烈」は「磐井」の諡号であろう。
では元号を遡って命名した例が他にあるのだろうか?
其後三年、有司言元宜以天瑞命、不宜以一二数。一元曰建元、二元以長星曰元光、三元以郊得一角獣曰元狩云。
その後三年たって、有司がいった。「元は、天のあらわす瑞祥によって命名すべきです。ただ一年、二年とかぞえるべきではありません。第一の元は建元と命名し、第二の元は長星の光にちなんで元光と命名し、第三の元は郊祀一角獣を得たのですから、元狩と命名いたしましょう」
(史記巻十二孝武本紀 平凡社中国古典文学大系)
『史記』は前漢の武帝の時代にそれまで六年や四年おきに「一元」「二元」などと呼ばれていた元号を「元鼎」の時代に遡って「建元」「元狩」などと命名したというのだ。(正確には『史記』の記述には三番目の「元朔」が抜けている)漢と倭が全く同じとは言い難いものの、共に最初の元号(正確に言えば「一元」や例えば「穆王元年」なども「元号」に分類することが可能なので、「何らかの意味を持つ漢字二文字以上を用いた年号」というべきか)がそれを定めた皇帝(王)の即位(若しくはその翌年)に遡って命名された例と言えよう。
以上のように考えれば「継体」が『二中歴』「年代歴」以外の史書に全く登場しないという謎も説明可能だ。つまり、実用されたことが無いからである。この仮説が絶対に正しいと断ずる自信は著者には無い。しかし、現在のところ倭国(九州)年号の史料状況を最もうまく説明できる仮説ではないだろうか?諸兄のご批判を乞う。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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