2018年10月10日

古田史学会報

148号


1,「那須國造碑」からみた
『日本書紀』紀年の信憑性
 谷本茂

2,『東日流外三郡誌』と
永田富智先生にまつわる
遠い昔の思い出
 合田洋一

3,「浄御原令」を考える
 服部静尚

4,九州王朝の高安城
 古賀達也

5,『隋書俀国伝』の
 「本国」と「附庸国」
 阿部周一

6,聖徳太子の伝記の中の
九州年号が消された理由
 岡下英男

7,「壹」から始める古田史学
  十六
「倭の五王」と九州王朝
古田史学の会事務局長
 正木裕


古田史学会報一覧

十七条憲法とは何か(会報145号)
 評制研究批判(会報149号)


「浄御原令」を考える

八尾市 服部静尚

一、はじめに

 古田武彦氏は、威奈大村骨蔵器銘文※を挙げて、大宝律令が近畿天皇家の初めての律令であったとする。
 ここでは、その大宝律令が前王朝の浄御原律令を下敷きにして制定されたことを示す。
 ※江戸時代に大和国葛下郡馬場村で掘り出された「威奈大村骨蔵器」。ここに慶雲四年(七〇七)に亡くなった威奈大村の墓誌が刻まれている。その銘文中に「以大宝元年律令初定」とある。

 

二、「大宝律令は大略浄御原朝庭を以て准正と為す」

 『続日本紀』には、浄御原令と大宝令の間には本質的な差異はなかった旨を記述するが、『続日本紀一』新日本古典文学大系(岩波書店一九八九年)は、その補注2―八八で東野治之説(次項で説明する)を紹介し、その記述に疑問を呈する。
◆続日本紀大宝元年(七〇一)八月三日条。
遣三品刑部親王 正三位藤原朝臣不比等 從四位下下毛野朝臣古麻呂 從五位下伊吉連博徳 伊余部連馬養撰定律令。於是始成 大略以淨御原朝庭爲准正

 

三、ここであげる東野治之説とは

 東野氏は『日本歴史』吉川弘文館一九八六年の『研究余録』において、『冊府元亀(一〇一三年成立)』および『唐会要』での記述を挙げる。(ここでは冊府元亀を省略)
 ◆唐会要(九六一年完成)巻三十九定格令より、
 武德元年六月一日。詔劉文靜與當朝通識之士。因隋開皇律令而損益之。遂制為五十三條。務從寬簡。取便于時。其年十一月四日。頒下。仍令尚書令左僕射裴寂。吏部尚書殷開山。大理卿郎楚之。司門郎中沈叔安。内史舍人崔善為等。更撰定律令。十二月十二日。又加内史令蕭瑀。禮部尚書李綱。國子博士丁孝烏等。同修之。至七年三月二十九日成。詔頒于天下。大略以開皇為准。正五十三條。凡律五百條。格入于新律。他無所改正。

 東野氏の論考では触れていないが、このいきさつは旧唐書の方が判り易い。
◆「舊唐書」(九四一年完成)志第三十刑法 より
高祖初起義師於太原、即布寬大之令。百姓苦隋苛政、競來歸附。旬月之間、遂成帝業。既平京城、約法為十二條。惟制殺人、劫盜、背軍、叛逆者死、,餘並蠲除之。及受禪、詔納言劉文靜與當朝通識之士、因開皇律令而損益之、,盡削大業 所用煩峻之法。又制五十三條格、務在寬簡、取便於時。尋又敕尚書左僕射裴寂、尚書右僕射蕭瑀及大理卿崔善為、給事中王敬業、中書舍人劉林甫顏師古王孝遠、涇州別駕靖延、太常丞丁孝烏、隋大理丞房軸、上將府參軍李桐客、太常博士徐上機等、撰定律令、,大略以開皇為准。于時諸事始定、,邊方尚梗、救時之弊、有所未暇、惟正五十三條格、入於新律、,餘無所改。
(私訳)唐の高祖(李淵)が太原で初めて挙兵し、その際に(百姓に)寛大な令を掲げた。隋の悪政に苦しむ百姓は競って帰順した。旬月のうちに高祖は京城を平定し、そこで、殺人・盗み・脱走兵・反逆などを禁止する十二条を法とした。禅譲即位ののち、劉文靜ら当代の博識に指示して、(隋の文帝の)開皇律令(五八一年)に基づき、(煬帝の)大業(律令六〇七年)の悪法の所は削らせた。又、五三条の格(律令の補足および改正)を制定し、(中略)大略、開皇(の律令)に準じて(武徳)律令を選定した。この時、諸事が始めて定められたが、国境での戦乱が続き、その救援に暇が無い状況であったので、五十三条の格を新律に加えただけで、他に改めた所は無かった。

 東野氏は、唐会要の「大略以開皇為准。正五十三條。」には、「准と正の間に読点がある」「正の後に五十三条」があってそれで意味が通ずる。「准正」という語は『大漢和辞典』などを検しても成語としての用例がみあたらない。以上から、『続日本紀』のこの記事は、唐の公的記録を下敷きにしているばかりでなく、その意味の把握も不確かなまま利用したものだとする。
 結論として、浄御原令と大宝令の異同を論ずる場合、続紀のこの一段は考慮の外に置くべきとする

 

四、東野説に反論する

(1)東野氏が挙げた後者の理由「『大漢和辞典』などを検しても(准正という)成語としての用例がみあたらない」であるが、『晋書』にその用例がある。
◆『晋書』巻五十一摯虞しぐ傳より
考歩兩儀、則天地無所隱其情、准正三辰,則懸象無所容其謬

 『諸橋大漢和辞典』は、この摯虞傳の用例を挙げて、「準正」(諸橋は準正とするが、「維基文庫」によると「准正」とある。四庫全書本では准を準と変換しているので、諸橋がこれを参照した可能性がある。いずれにしても諸橋は『廣韻』(一〇〇八年)の「准、俗準」を挙げているので、ここは准正と見てよい。)の意を、「一定の標準にあてて正すこと」とする。つまり摯虞傳のこの用例は、本来の読み「(計量法を)正しい三辰になぞらえる。」から、諸橋の熟語およびその意を採用すると「三辰(日・月・星の観測結果=一定の標準)にあてて(計量法)正す」となる。他に仏教関係で使用例があって、特に『倶舍論記』には五十八カ所も出現する。その一例を示す。
 
◆『倶舍論記』(玄奘門下の普光が、『具舎論』※を解説した書物)
 卷一 ~婆沙雖無評家。准正理論。以初師爲正。
 (私訳)婆沙論に批判無きといえども、正しい道理になぞらえて教法を究明する。以て初めて師は正と為した。
※『(阿毘達磨)倶舎論』は、部派仏教の「説一切有部(毘婆沙論。論を重んじる)」を基本に、他の説「経量部」(経を重んじ基準とする)を取り入れて書かれた、現実世界・宇宙の構造・輪廻・煩悩・悟りに至る段階などを説明する仏教の入門書。毘婆沙論の三世実有説を否定して、後に空理論につながるのがこの具舎論である。 

 以上、東野氏のこの理由はあたらない。

(2)次に前者の理由。東野氏の指摘通り、武徳律令(六二四年)制定の際の記述を意識して、続日本紀の「大略以淨御原朝庭爲准正」の記述がある。武徳律令制定から七十七年後の話であり、当然唐からその記録資料が日本に渡って、それを参考にしての大宝律令の制定であり、続日本紀への記載であるに違いない。
 氏は、そこには「大略以開皇為准正五十三條」と記されていたが、末尾の五十三条を読み落とし、「大略以開皇為准正」と読み、これを「律令編纂に関する一般的な書き方と受け取って利用したのではなかったのか。」とする。もし東野氏の言うように文法上の誤りがあったとしても、これをもって浄御原朝庭への言及が信用できないとすることには論理的つながりがない。

(3)加えて、東野氏は「(武徳律令を制定するにあたり)煬帝の施政を否定し、その前の隋の高祖の方針にもどしたことを明示する意味があった。我国の律令編纂史にあっては、本来このような重大な断絶があったわけでなく、『何某を以て准と為す』というような表現が真に必要であったかどうかは多分に疑わしい。」と言う。
 要するに続日本紀は、隋から禅譲を受けた唐の初代の律令制定の文言を利用している。もしその意を理解して利用しているとすれば、一元史観では説明できないのである。
 「重大な断絶があったわけでもなく」とする一方で、氏は「浄御原令下の木簡にみえる制度が大宝令制下のそれとかなり異なる」とする。これは評から郡への変更を言うのであろう。これに伴う評督(もしくは他の評の役職名)から郡司、国宰から国司など官職名およびそれに伴う職掌の変更も否定できない。重大な断絶があったのだ。つまり氏が挙げる全ての理由が否定される。

(4)以上から、続日本紀大宝元年八月三日条は「大略、浄御原律令にあてて正し、大宝律令を制定した。」となる。浄御原律令と大宝律令を、隋の開皇律令と唐の武徳律令になぞらえたとすれば、浄御原律令は近畿天皇家が定めた律令ではないことになる。もちろん「大略あてて」とするのだから令だけでは無くて、浄御原律令である。

 

五、その後消された浄御原律令

 『続日本紀一』新日本古典文学大系(岩波書店一九八九年)の巻頭言「続日本紀への招待」で青木和夫氏は次のように述べる。
「巻第一の四年間が巻第二以後にくらべて特に研究者の関心を惹くのは、その期間が大宝律令施行以前の浄御原令時代という点である。持統三年に諸官庁に配布された浄御原令は、律を伴っていなかったらしいし、後の養老律令からその全容を推測しうる大宝律令と違って、内容はほとんどわかっていない。いや、持統天皇三年以後、文武に譲位するまでの『日本書紀』持統天皇紀の記事も、役に立つのではないかと思われるかも知れない。だが違う。『日本書紀』は、編集に使った原史料の文章を、ひどく修飾してしまっている。その点、続紀は正直だ。年号の件もそうだったが、浄御原令時代の冠位はもちろん、官職の名称もほとんど当時のままに表記している。」

 その正直な続日本紀で、次のような記述がある。
◆続日本紀養老三年(七一九)十月十七日条
詔曰。開闢已來。法令尚矣。君臣定位。運有所属。洎于中古。雖由行。未彰綱目。降至近江之世。弛張悉備。迄於藤原之朝。頗有増損。由行無改。以爲恒法。
(私訳)詔して曰く「(我国は)開闢以来法令を重んじる。君臣の位を定め秩序を保ったが、中古に及んでも成文法とはしなかった。近江(天智)の世に至って弛張ことごとく備わり(律令が完成した)、藤原朝(文武)に至って、増減はあるものの改めることは無かった。もって恒法とする。」

 ここでは浄御原律令は消えて近江(「ことごとく備わる」なので律令)から藤原(大宝律令)とする。『日本書紀』編纂の最中である。前政権の足跡を消し去る方針が固まったのだろうか。
 『書紀』では、浄御原の名を消して、天武・持統の律令として記述される。
◆天武十年(六八一)二月二五日 天皇々后共居于大極殿、以喚親王諸王及諸臣、詔之曰「朕今更欲定律令改法式、故倶修是事。然頓就是務公事有闕、分人應行。」
 同十一年(六八二)八月一日 令親王以下及諸臣、各俾申法式應用之事。甲子、饗高麗客於筑紫。是夕昏時、大星自東度西。丙寅、造法令殿内、有大虹。
 持統三年(六八九)六月二九日 班賜諸司令、一部廿二卷

 その後、弘仁格式(八二〇)序には「降至、天智天皇元年、制令廿二巻、世人所謂、近江朝廷之令也。」とある。滝川政次郎・坂本太郞らは、ここから、近江令二十二巻が完成したとする。「令」とあるので「律」のない近江令だとする。以上、七一九年以降、浄御原律令が消され、その後廿二巻が近江令にすり替えられたのだ。

 

六、浄御原律令はいつできたのか

(1)養老律令を参考にすると、行政法にあたる「令」は次の規定で構成される。
①役所の管掌・職員の官位などの規定(官位令・職員令など)
②官僚などの選叙・考課・禄等についての規定(選叙令・考課令・禄令など)
③戸籍と耕作地の班給・租税・賦役についての規定(戸令・田令・賦役令など)
④軍事および護衛についての規定(宮衛令・軍防令など)
⑤儀式・神祇・僧尼などに関する規定(神祇令・僧尼令・儀制令・衣服令・喪葬令など)
⑥(中央も含めた)地方行政制度に関する規定(大・上・中・下国条、同郡条など)
⑦その他(獄令・営繕令・医疾令・関市令・用度量条など)

(2)以上の「令」の構成要素に対して、孝徳紀に次の記事がある。
大化元年(六四五)八月五日東国の国司を任命、戸籍を造らせ田畑を調査。③併せて、罪を裁くな、賄賂を取るな、従者の数などの詔勅。①⑥鐘匱の制、男女の法を設ける。⑦
   同八月八日十師を任命。⑤
   同九月一日諸国の武器を収める。④
   同九月十九日人口調査、私有地を貸すことを禁止、支配の禁止。③

大化二年(六四六)正月一日改新の詔、其の一~其の四①②③④⑥⑦
   同二月十五日鐘匱の制の反省と続行。⑦
   同三月二十日皇太子奏請。③
   同三月二十二日薄葬令、律と考えられる各種詔⑤
   同八月品部の廃止、冠位制、男身の調の制。①③

大化三年(六四七)是年小郡で礼法を定める。⑤
 同是年冠位七色十三階の制を定める。①大化五年(六四九)二月冠位十九階を制定、八省百官を置く。①

 記事末尾に(1)項の各規定番号を付記した。つまり「令」の構成要素がほとんど孝徳紀の大化年間に定められている。実質的には七世紀中葉には「令」ができていたのだ。確定的な証拠は七世紀中葉の前期難波宮が発見されて、その宮域に官僚が働く大官衙が発掘されたことだ。官衙は律令制に基づく役所だ。官僚が働く官衙・住居する条坊・それを規定する律令はセットだ。

(3)古田氏は持統紀の吉野詣で記事が三十四年遡らせて編集されているとする。正木裕氏は天武紀の多禰国記事・副都詔、持統紀の金光明経の経典配布・講説記事などが三十四年遡らせて編集されているとする。

 以下は論証には至らないが、五項に挙げた天武紀の律令記事を三十四年遡らせると、七世紀中葉の詔勅類を集めて、律令として制定したのが、いわゆる浄御原律令ではないかと言う仮説がなる。ちなみに、令を「班賜諸司」したつまり発布した(遡り後の)六五五年には、斉明天皇は飛鳥に遷っている。
 先にも触れたが、官僚が働く官衙・住居する条坊・それを規定する律令はセットだ。奈良県飛鳥には大官衙・条坊の発掘は無い。古田氏が提起した福岡県小郡の飛鳥にも現在の所、条坊は未発見である。私の妄想では太宰府も可能性として候補となる。
 以上、『続日本紀』の記事から、大宝律令が前王朝の浄御原律令を下敷きにして制定されたことを述べた。
 併せて、浄御原律令は白村江の戦い以前に完成していたのではないかと言う仮説を述べた。


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