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五歳再閏
高松市 西村秀己
一、『周易』の「五歳再閏」
『周易』(単に『易』或いは『易経』とも云う)の『繋辭伝上』には次の文章がある。
分而為二以象両。掛一以象三。(中略)五歳再閏。・・・
この部分は卜辞に関わる「数」の解説をしている部分であるらしい。専門外であるので漢文の読みもよく判ってはいないことをお断りしておくが、肝心な部分は「五歳再閏」である。この部分を『十三経注疏』の「注」を書いたとされる魏の王弼は次のように記している。
凡閏、十九年七閏為一章、五歳再閏者二、・・・
つまり十九年間に七回の閏月があるのだから五年間に二回の閏月がある、という常識的な解説である。『十三経注疏』の「疏」を書いたとされる唐の孔頴達は、
五歳再閏者、凡前閏後閏相去大略三十二月、在五歳之中、故五歳再閏。
と書く。要するに閏月と閏月の間はおおよそ三十二ヶ月が入るので、これは五年の中に収まる。だから「五歳再閏」というのだ。という王弼と同様の解釈である。
また、後漢の蔡邕は『獨斷』の中で、
三年一閏、五年再閏。
と書く。正確には二.七年で一回の閏月、五.四年に二回の閏月なので、近似的には正しく前の二者と同じである。これらの解釈は「再」を「二」と単純に読んでいるのだが、果たして「再」=「二」なのだろうか?蔡邕・王弼・孔頴達らの解釈は二倍年暦を知らないが故の苦しい解釈と思えるのだが如何だろうか。
「再」とはある基準、例えば「一」があった場合にその次に来る(ある)ものを指す言葉である。従って基準が「一」の場合はなるほど「二」の意味となる。だが、基準が「一」以外のものである場合は「二」にはならないのだ。例えば「再三再四」という熟語に使われる「再」は「二」ではない。又、中国語の「再見」の「再」も「二」ではなく「また」である。従って「五歳再閏」は「五年間に二回の閏月」ではなく「五年経つと(また)次の閏月が来る」ではあるまいか?
『説文解字』の後漢の許慎は「閏」の項でこう書いている。
閏、餘分之月、五歳再閏。
これでは、許慎がどう解釈しているか不明である。ところが、史料を探し求めている内に南宋の朱熹が『周易』に注を付した『周易本義』に出会った。朱熹はここにこう書く。
閏、積月之餘日而成月者也。五歳之閒、再積日而再成月。故五歳之中、凡有再閏、然後別起積分。
閏とは、月の餘日を積んで月を成す者なり。五歳の閒、再び日を積んで再び月を成す。故に五歳の中、凡そ再閏有り、然して後に別に積分を起こす。
これは、まさしく「五年経つと(また)次の閏月が来る」という意味だ。ところが、これは一倍年暦ではありえないのだ。
二、閏月とは
太陰暦とは月(太陰)の満ち欠けを基準にして「月」を定める暦である。「一日」は満月であったり、三日月であったり国や宗教によってまちまちだが、中華では新月を「一日」と決める。新月から新月までの平均朔望月は二十九.五三日であり、これが十二ヶ月続くと三百五十四.三六日となり太陽年の三百六十五.二四二二日とは約十.八八日の差が生じる。この差が平均朔望月を越えるのが二.七年後でここに閏月を置くことで季節とのズレを調整するのである。これを太陰太陽暦という。従って、一般的な太陰太陽暦で「次の閏月が来る」のは約三年後であり、五年後ではない。
ここで実際に使われていた麟徳暦(儀鳳暦)を例に更に詳しく説明する。
麟徳暦の一年は四十八万九千四百二十八を千三百四十で除した数で小数形式で現すなら三百六十五.二四四八日となり、一月あたり三十.四三七一日となる。これをひとまず太陽月と呼ぶ。麟徳暦の朔望月は三万九千五百七十一を千三百四十で除した数で二十九.五三〇六である。これを仮に太陰月と呼ぶ。太陽月と太陰月の差、三十.四三七一引く二十九.五三〇六は〇.九〇六五日、これが朱熹の云う「月之餘日」である。この「月之餘日」を積んで(積算して)「成月」するためには、太陰月を「月之餘日」で割ればよいので、二十九.五三〇六を〇.九〇六五で除すと三十二.五七六五ヶ月となる。これを十二で割ると二.七一四七ヶ年となる。ところが、朱熹はこの期間を「五歳之閒」と云っているので矛盾がある。しかし、これがもし一年六月の二倍年暦であるなら、三十二.五七六五ヶ四ヶ年となり、「五歳(年)」としてもおかしくない数字となる。
もうひとつ、十五日一月・十二月一年の暦も考えてみよう。くだくだしい計算は省略するが、この場合月・年共に一倍年暦の半分になるので、結果二.七ヶ年に一回の閏月を置くことになるのである。
三、三十日一月・三百六十六日一年の暦
以上、見てきたように、「五歳再閏」の要件を満たすものは一倍年暦でも十五日一月の二倍年暦でもなく、三十日一月・六月一年の二倍年暦である事がわかった。ところが、谷本茂氏(本会会員)から、三十日が一月・三百六十六日が一年の暦を使っていた時代があるとのご教示を戴いた。このデータを先の計算に援用すると、「月之餘日」は〇.五日となり「成月」するためには、三十割る〇.五なので六十ヶ月つまり五年という、すなわち「五歳再閏」がピタリと成り立つ結果が得られるのである。
しかし、考えてみよう。閏月を使用するということは暦と季節のズレを修正するという意識がある、ということである。三十日一月の暦を使うということは、二ヶ月毎に第一日目の月齢が約一日分変化して行くということであり、三十二ヶ月(二.七年)後には第一日目の月齢は十五すなわちほぼ満月となっているのである。暦と季節のズレを意識しても月の初めと月齢のズレには無頓着である、そんな人々は筆者の想像の埒外にしかいない。暦と季節のズレを意識し始めた頃には、その人たちは二十九日と三十日が交互にくる一月を使用していたに相違ない。
四、最後に
『周易本義』は南宋の朱熹が注を付けたものである。南宋の時代は勿論一倍年暦の時代であり、朱熹が二倍年暦を知っていたとは想像も出来ない。しかし、先に見てきたように、
閏、積月之餘日而成月者也。五歳之閒、再積日而再成月。故五歳之中、凡有再閏
は、六月一年の二倍年暦でしか文脈を理解出来ないのも事実である。これは朱熹が二倍年暦の使われていた時代の古典から知らずに引用したとしか思えないものなのである。
以上、古田武彦先生や古賀達也氏(本会代表)が様々な文献から追い求めてきた中華古代の二倍年暦の直接証拠の一端を(周代とは断定出来ないながら)ご紹介することが出来た。
尚、先に「五歳再閏」からは十五日一月・十二月一年の二倍年暦は導き出せないと書いたが、この二倍年暦を否定した訳ではない。様々な方面で十五日一月・十二月一年の二倍年暦が有力である状況証拠がある。
秦始皇が中華を統一(厳密にはしていないのだが)するまで、文字も言葉も度量衡も統一されていなかった。では暦は統一されていたのだろうか?今にして思えば考えられないことだ。そこでここに諸兄に提案したい。六月一年や十五日一月の二倍年暦は云うに及ばず一倍年暦さえも周代以前の中華世界では混在していたのではなかろうか、そして日を干支で表わしていたのはその為では、と。
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