2021年6月8日

古田史学会報

164号

1,女帝と法華経と無量寿経
 服部静尚

2,九州王朝の天子の系列2
利歌彌多弗利から、「伊勢王」へ
 正木裕

3,何故「俀国」なのか
 岡下英男

4,斉明天皇と「狂心の渠」
 白石恭子

5,飛鳥から国が始まったのか
 服部静尚

 編集後記

6,「壹」から始める古田史学三十
多利思北孤の時代 Ⅶ
多利思北孤の新羅征服戦はなかった
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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野中寺弥勒菩薩像銘と女帝 服部静尚(会報163号)
飛鳥から国が始まったのか 服部静尚 (会報164号) ../kaiho164/kai16405.html
本薬師寺は九州王朝の寺 服部静尚(会報165号)


編集後記

飛鳥から国が始まったのか

八尾市 服部静尚

  NHKのブラタモリという番組で、この四月、「奈良・飛鳥~なぜ飛鳥は日本の国の礎となったのか?」という放送がありました。飛鳥時代の日本最初の都が、なぜ奈良県明日香村にできたのか?この謎解きをするという主旨です。タイトルのわりには、出演された学者を含め非常に抑えた慎重な表現に終始しているように私には見えました。ここでは、この謎解きの前提となる命題「飛鳥から国が始まった」ですが、文献史学や考古学でそんなことが言えるのだろうかという点について考察します。

一、文献上では

 『日本書紀』で、政治を行う場所としての飛鳥が出現するのは推古紀からとされるのですが、木下正史氏(注1)は、次のように飛鳥の地を定義します。( )内は私の付記。

『日本書紀』には「飛鳥」を冠する宮殿に、飛鳥岡本宮(舒明)・飛鳥板蓋宮(皇極・斉明)・後飛鳥岡本宮(斉明)・飛鳥浄御原宮(天武・持統)・飛鳥川原宮(斉明)・飛鳥河辺行宮があり、ほかに飛鳥川・飛鳥寺がある。考古学でこれらが明日香村大字飛鳥以南、岡にかけての主に飛鳥川右岸一帯にあったことを明らかにしている。これが古代に飛鳥と呼ばれた範囲です。推古天皇の豊浦宮・小墾田宮、嶋宮は飛鳥を冠していないので、本来の飛鳥の範囲外です。

 木下氏の定義に従うと、飛鳥で政治が行われる初めは舒明紀二年(六三〇)の岡本宮となり、その後持統天皇が藤原宮に遷るまでの期間となります。先の番組では、木下氏が除いた豊浦宮も飛鳥としているので、推古紀元年(五九三)豊浦宮での即位からとなります。

二、考古学では

(1)都市の研究より

 政治を行う場所には、支配者とこれを支える人々、地方に指示を徹底し取りまとめる役人、そして兵が居なければなりません。そこに人口集中があって、その生活を支える必需物資の需給システムがあるわけです。いわゆる都市化が不可欠となります。二〇一八年十二月大阪歴博物館で、総括シンポジウム『「古墳時代における都市化の実証的比較研究」が開催されました。ここでは、列島を俯瞰して古墳時代に都市化が進んだ三地域、大坂上町台地・福岡市比恵那珂遺跡群・奈良盆地南郷遺跡群に絞っての研究報告がされました。
 例えば、上町台地の都市化は五世紀以降、五〇〇~五五〇年の法円坂遺跡時代、五六〇~五九五年の屯倉の時代、六〇〇~六五〇年の難波遷都前の時代の三つ段階を経て六五二年の難波長柄豊碕宮に至ったとの報告がありました。比恵那珂遺跡の場合はさらに古く、弥生中期後半に都市化の萌芽があり、少なくとも弥生終末期(畿内の庄内式土器の時代)には都市計画を伴う初期都市が成立し、これが古墳前期前半まで続いた。四〇〇年代に一時衰退したが六世紀後半から飛鳥時代中頃にかけて、国家的な外交軍事の前線機関・基地の成立と見られる第二の都市化の時期を迎えていた、との報告でした。これに対して奈良盆地の飛鳥には見るべきものがなかったのか、奈良県西南部金剛山東麓の南郷遺跡の紹介のみであり、その散在性や人口の集中度から都市と呼ぶには不十分と総括された。
 つまり、『日本書紀』にある七世紀前半から列島を取り仕切る政治が飛鳥でスタートした、その痕跡が奈良盆地にはない。少なくとも今の所発掘されていないことになります。

(2)干支年木簡より

 飛鳥周辺の遺跡で、多くの干支年木簡が発掘されています。奈良文化財研究所がデータベース「木簡庫」を公開しています。写真1の例では「丁丑年十二月に美濃国の可児評から糯米を送った」と書き込んだ荷札と考えられますが、この干支年丁丑は六〇年に一度巡ってくるので、ほぼ六七七年と年代が確定できます。このような干支年が書かれた木簡を干支年木簡としますが、飛鳥池・石神・飛鳥京跡苑池の三遺跡で出土した干支年木簡を抽出すると、表1にまとめたように、丙寅年(六六六)から戊戌年(六九八)まで二十六点にのぼります。参考までに藤原京、藤原宮内裏、官衙などで出土した干支年木簡も併せて示しています。尚、七〇一年以降は干支年ではなくて全て(大宝とか慶雲とかの)年号表記になっており、ここでは触れません。
 飛鳥の三遺跡で出土した干支年木簡に注目すると、六六六年一点、六七〇年一点、六七六年から複数点数の出土です。ここから、六六六年頃から飛鳥に各地の物資が運ばれだして、六七六年以降本格にその流れが定着し、六八二年以降目的地が飛鳥から藤原京へ移行したように見えます。
 主に荷札木簡としての干支年木簡で、もっとも古いものは六四八年の難波宮出土戊申年木簡です。文献が云うように、五九三年もしくは六三〇年から飛鳥での政治がスタートしたとすると、飛鳥でも少なくとも六四八年~六六五年の間の干支年木簡が発見されておかしくないわけですが、それは見られません。
 つまり発掘成果からは、七世紀後半六六六年以降に、飛鳥が列島を代表するレベルの政治の中心地になっていったと考えられるわけです。七世紀後半しかも壬申の乱の後、大和飛鳥が天皇家の本拠地となったものと考えるのが妥当でしょう。それはつまり、天武天皇が壬申の乱(六七二)後、ここを本拠にして勢力拡大を進めたということになります。
 「奈良・飛鳥~なぜ飛鳥は日本の国の礎となったのか?」の答えは、天武天皇が壬申の乱後、飛鳥に本拠地を置いたからということになります。もちろん、それ以前に中国史書が伝える倭国が存在したのですから、「飛鳥から国が始まった」とはならないのです。

表1:7世紀後半前後の干支年木簡出土状況
表1:7世紀後半前後の干支年木簡出土状況

写真1:飛鳥井家出土木簡
写真1:飛鳥池出土木簡

 

(注1)『飛鳥・藤原の都を掘る』吉川弘文館 一九九三、木下正史


編集後記

 会報一六四号です。本号には服部稿を二編掲載しましたが、一〇頁の「飛鳥から国が始まったのか」はもう何時お預かりしたのか忘れる程以前です。服部さんはもしかすると「没」だと思っていたのかもしれませんが、これはあくまでも紙面の割付と文字数との問題です。ご寛恕願います。また、他の会員の方々も採用されてはいても、すぐには掲載され無いかもしれないことをご理解下さい。
 さて、小生も何時の間にか六十五歳を越えており(当会に入会したのが四十五歳の時ですから隔世の感があります)従って先日コロナのワクチン摂取券が届きました。抗体検査はと問い合わせたところ、勝手に自前で、との回答でした。抗体があるところにワクチン接種は危険だと思うのですがね。 高松市 西村秀己


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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