2021年 8月11日

古田史学会報

165号

1,本薬師寺は九州王朝の寺
 服部静尚

2,明帝、景初元年短里開始説の紹介
 永年の「待たれた」一冊
 『邪馬壹国の歴史学』
 古賀達也

3,九州王朝の僧伽と戒律
 日野智貴

4,「壹」から始める古田史学・三十一
多利思北孤の時代Ⅷ
「小野妹子の遣唐使」記事とは何か
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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九州王朝の「法皇」と「天皇」 日野智貴 (会報163号)
「法皇」称号は九州王朝(倭国)のナンバーワン称号か? 西村秀己 (会報163号)

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九州王朝の僧伽と戒律

たつの市 日野智貴

はじめに

 現在でも僧侶の名前や故人の戒名(法名)の上に「釈」を付けて「釈○○」と名乗ることがある。これはお釈迦様の共同体である「僧伽サンガ」の構成員となったことを示すものであり、氏姓制度の確立していた古代中国においては、生まれた氏族の姓を捨てて僧伽の一員となったことを示すために「釈」が姓として用いられるようになった。
 我が国においても、少なくとも西暦8世紀にはそのような風習が伝わっていた。『懐風藻』には「釈○○」と言う名前の僧侶が複数登場する。
 よく「日本仏教は特殊である」と言われるが、我が国でも浄土真宗を除くすべての宗派で形式的にせよ授戒が行われており、また、浄土真宗でも「釈○○」の法名は使用されており、形骸化した面は多いにせよ、少なくとも教義上は僧伽や戒律、又は法名の意義を正面から全否定することは無かった。これは日本だけでなく世界中の仏教がそうであり、破戒僧はいても戒律自体を正面から全否定する僧侶はいないのである(浄土真宗の僧侶は厳密には「非僧非俗」の立場であるし、またその浄土真宗の僧侶も「釈」を法名上の姓としている)。
 仏教が国教ではない今の日本でもそうであるのに、況してや「菩薩天子」たる多利思北孤(上宮法皇)が国家元首であった九州王朝が「例外」であった、とは考えにくい。本稿では九州王朝の僧伽と戒律のあり方について考察する。

 

仏教における戒律の種類

 まず、仏教における戒律の種類について説明する。仏教の戒律は、大きく分けて①「在家信徒の戒律」②「得度の時に受戒する戒律」③「僧伽の規律としての戒律」④「菩薩が持つ戒律」の、四種類に分類できる。
 ①は時と場合によってさまざまなものがあるが、時代・地域を超えて共通しているのは「五戒」という努力規定である。殺生をしない、窃盗をしない、婚外交渉をしない、嘘をつかない、酒を飲まない、と言うもので、これらを「どんな場合でも、絶対に守れ」と言われると困難であるが、努力規定であると考えると通常の道徳であることが判る。例えば「酒を飲むと仏教徒失格」と言う訳では無く「アル中にならないように努力をしよう」と言うことである。
 一方、出家信者の場合は様子が変わる。仏教における「出家」とは、文字通り「家」を捨てることであり、「仏子」つまり「お釈迦様の子供」となることである。だから氏姓制度の確立している日本や中国では先祖伝来の「姓」を捨てて「釈○○」と名乗る。
 なので出家信者の戒律である②と③には強制力がある。場合によっては罰則規定もある。なお、この戒律の内容は上座部仏教と大乗仏教では内容が若干異なるものの、大きな異同は無い。
 ①はいわゆる「菩薩戒」で、これは大乗仏教特有の戒律である。これは出家信者でも在家信者でも希望者が受戒する。菩薩戒の内容は様々なものが伝わるが、菩薩戒自体は日本・中国・チベットに伝わっている。

 

僧伽と戒律

 一般に判りにくいのは②と③の違いである。仏教では出家信者は「沙弥しゃみ」「沙弥尼しゃみに」「式叉摩那(しきしやまな 編集部注=沙弥尼から比丘尼に到るまでの修行中の女性)」「比丘びく」「比丘尼びくに」の五種類があり、まず得度すると「沙弥」「沙弥尼」「式叉摩那」となって②の戒律である「十戒」を受ける。そして、「比丘」「比丘尼」は僧伽サンガの正式な構成員として③の「具足戒」を受けるのである。
 出家信者の中でも僧伽に所属しているかどうかで守る戒律が違うのは、そもそも「僧伽」が「共同体」の意味だからである。真宗大谷派の僧侶でアンベードカル博士国際教育協会参与(アンベードカルはインド共和国初代法務大臣)でもある髙山龍智は次のように述べる。

 狭義のサンガとは、仏教の教えを共有する人たちを意味するようになったが、現代インド人の耳には、当たり前に「共同体」という意味に聞こえる。社会奉仕グループや組合などの名称にも、「○○サンガ」などと使われている。
 ある時、日本留学経験があり日本文化や日本語に堪能なインド人ヒンドゥー教徒の友人に、「日本人は、『サンガ』が共同体の意味であることを知らないのだよ」と言うと、彼は大きな目をさらに大きく見開いて、「何故?聞いただけでわかるでしょう?」と驚いた。なぜならヒンディー語では、共同体を示す語は「サンガ」、団結を意味する語は「サングティ」、平和的闘争(英語ならstruggle)は「サンガルシュ」である。表音語を話すインド人の耳には、共同体も、団結も、平和的闘争も、一連の意味を持った言葉として聞こえるのだ。
(髙山龍智『反骨のブッダ』コスモ21、92~93頁)

 従って、具足戒とは共同体内部の規律であり、二百以上の詳細な規定があるものの、それを破ったからと言って四波羅夷罪(註一)という重罪を犯した場合を除くと比丘や比丘尼の資格を失う訳では無く、共同体内部での制裁を受けるだけである。そのため具足戒は厳密には「戒」(自発的に守るもの)ではなく「律」(強制力のあるルール)であるが、中国や日本では戒と律の区別は厳格ではない。
 仏教を保護する国の多くは、こうした具足戒と僧伽とを保護した。これは政府側と仏教側の双方にメリットがあった。
 政府側からすると、具足戒には比丘や比丘尼が官吏となることを禁止する規定もあるため、仏教側からの政治への干渉を抑えることも出来る。さらに、僧侶への減税措置によって「功徳」を積みながらも、その僧侶になるには厳しい戒律が必要と言うことで出家者の数を抑制し「税収」も確保できる。
 仏教側からすると、政府の保護を受けながら僧伽の自治を維持できる。もっともいざ仏教側と政府側が正面から対立すると、僧伽の自治など有名無実となるのはどこの国でも同じである。(註二)

 

大和朝廷における「度牒」と「戒牒」

 大和朝廷(平安時代以降も含む)においても、僧侶とその授戒は国家権力によって管理された。僧侶には租税の免除等の特権があったからである。
 出家すると朝廷から「度牒」が交付される。その後、具足戒を受けると「戒牒」が交付される。これは単なる行政上の手続きにとどまらず、文学作品である『日本霊異記』においても「僧」「沙門」は具足戒を受けた人物に限定され、そうではない僧侶は「僧」ではなく「沙弥」と記されて例外が無いとする先行研究がある(註三)など、具足戒の受戒の有無で僧侶を区別することはかなり根付いていたようである。
 戸籍上も一般の戸籍は「民部省」が管理したが、僧侶の戸籍は「治部省」が取り扱った。もっとも、本来僧侶の戸籍は式部省の管轄であったとする説もある(註三)。最終的に治部省の管轄となった理由は、治部省が氏姓の管理をしていたことと無関係ではないだろう。僧侶は「釈」を姓としていたからである。戒律が疑似的親子関係を生むものであったことは、空海の『弘仁遺誡』の次の一節からも判る。

寧ろ身命を棄つるとも、この戒、犯ずることなかれ。もし故に犯ずる者は、仏弟子にあらず、金剛の子にあらず、蓮華の子にあらず、菩薩の子にあらず、我もまた彼が師にあらず、かの泥団折木に何ぞ異ならん。

 金剛とは密教の真理を伝えたとされる金剛薩埵のことで、蓮華とは釈迦の弟子のことであり、菩薩とは言うまでも無く大乗仏教の僧侶のことである。故意に戒律を犯すと彼らの子供ではなくなる、だから戒律は身命よりも大切である、と空海は述べている。

 空海とは対照的な態度であったのが最澄である。最澄は天台宗の僧侶には具足戒を授けずに「菩薩僧」とすることにした。彼は『山家学生式』の第一条に次の規定を置いた。(傍線は筆者)

凡そ法華宗天台の年分、弘仁九年より、永く後際を期して、以て大乗の類と為す。其の籍名を除かずして、佛子の号を賜加し、圓の十善戒を授けて、菩薩沙彌と為さん。其の度縁には官印を請はん。

 つまり、僧侶になったからと言って度牒は発行するが戸籍は抜かない、というのである。戸籍上は天台宗の僧侶も一般人と同じである、と言うことになる。なおここで「官印」とあるのは太政官の印鑑で、通常僧侶に関する証明書は僧伽に当たる僧綱が発行するが、戸籍上一般人と同じすることと整合性を取るために官印によって証明することとしたのであろう。
 『山家学生式』には「菩薩沙弥」「菩薩僧」という言葉が使用されていて「比丘」という言葉は慎重に避けられている。具足戒を受けていないから「比丘」ではなく「菩薩僧」という新用語を作ったのであろう。また、沙弥は本来比丘の中でも一定要件を満たした者の弟子であるが、比丘のいない天台宗ではその意味での沙弥は存在し得ないので「菩薩沙弥」と表記し、戸籍上も異なった扱いをするように求めているのである。
 これは朝廷からしても重要な問題であった。僧侶の定義が宗派によって違うのであれば、その扱いを変えるのは当然である。もしも明確な定義無くして僧侶に減税措置等を認めると朝廷による仏教管理は不可能になるからである。

 

何故「自誓受戒」を認めたのか

 話を奈良時代に戻すと、一方では僧侶の戸籍を一般人と別けたり、私度僧を取り締まったり、と仏教管理政策を進めていた大和朝廷は、もう一方ではそれを矛盾する政策をしていた。それが「自誓受戒」の承認である。
 本来、具足戒の授戒は比丘になってから十年以上たつ三人の比丘によって行われるが、七人以上の比丘の証人をも必要とする。これが「三師七証」の授戒である。一方、自誓受戒とは自分一人で仏に対して誓約し、仏から許可を得たと称して受戒するものである。この自誓受戒を認めている経典は『占察経』のみである。
 実は「自誓受戒」の根拠となっている『占察経』が「真経」とされたのは武周の頃であり、西暦六九五年の話である。況してや、通説ではそれが我が国に伝来したのは天平六年(西暦七三四年)のことである(註四)。しかし、鑑真渡来まで我が国では自誓受戒が行われていたとされる。
 これには疑問点が二つほど出てくる。
 第一に、どうして西暦八世紀初頭に伝来した『占察経』に基づく自誓受戒をわざわざ導入したのか。仏教の国家管理をしたければ十人以上の比丘がいなければできない三師七証での授戒の方が容易である。
 第二に、仮に鑑真渡来以前、三師七証の授戒が出来ない事情があるのだとすれば、『占察経』伝来以前の僧侶はどのように受戒をしていたのか。

 そもそも、『日本書紀』には日本人僧侶の名前も多数掲載されているし、その中には中国で玄奘三蔵法師の弟子になったものもいる。また、朝鮮半島からも僧侶が多数来日している。鑑真渡来以前の日本列島において三師七証の授戒が本当に不可能であったのか、は疑問の余地があるのである。

 

『日本書紀』の「得度」は全て沙弥

 奇妙なことに『日本書紀』においては僧侶の得度記事はあっても、それは全て具足戒の受戒ではなく、沙弥としての得度を示す記事である。
 例えば、次の記事がある。

(『日本書紀』敏達十三年是歳条)是ここに、唯ただ播磨国にして、僧還俗ほうしかえりの者を得う。名は高麗こまの恵便ゑべんといふ。大臣、乃すなはちもてのりのりしにす。司馬達等の女むすめ嶋を度いへでせしむ。善信尼と曰ふ。〈年十一歳〉又、善信尼の弟子二人を度いへでせしむ。

 この記事は明らかに三師七証の授戒を示すものではない。僧侶一人だけで行われているのであるから、沙弥の十戒の授戒である。また、比丘尼になれるのは二十歳以上であるが、年齢が十一歳と明記されていることも、沙弥尼としての得度であることを示している。
 それ以外の『日本書紀』の「度」記事にも三師七証の授戒の儀式の存在を示すものは皆無であった。だが、それは「大和朝廷が比丘の存在を伝えなかった」ことを示すものではあっても「日本列島上に比丘が存在しなかった」ことを示すものではない。
 当時の日本列島には朝鮮半島から渡来してきた比丘も多数いるのであるから、わざわざ中国からお坊さんを呼ばなくても、また、国家による仏教管理の原則を危うくする自誓受戒という方法を認めなくても、三師七証の授戒を行えたはずなのである。
 いや、実際には三師七証の授戒が行われていたのではないだろうか?当時は九州王朝の時代である。倭国、つまり九州王朝公認の僧伽があってそこで三師七証の授戒が行われていた、だが西暦八世紀以降の大和朝廷にとって九州王朝に公認された比丘らの存在は不都合であったから止むを得ず自誓受戒を認め、日本列島で三師七証の授戒が行われていた記録は『日本書紀』にも残さないようにし、そして、自誓受戒だと仏教管理政策が行き詰ったので九州王朝とは無縁な唐の僧侶である鑑真を招聘したのではないだろうか?

 

九州王朝の僧伽を無視した大和朝廷

 大和朝廷が九州王朝の僧伽の存在を無視していたことは傍証がある。『続日本紀』によると養老七年に大和朝廷の命令で満誓が観世音寺を建立したようであるが、実際には観世音寺は西暦七世紀後半、九州年号「白鳳」年間に出来ていたことは、『二中歴』の記事からも考古学の成果からも疑いようがない。
 また『続日本紀』神亀元年記事には、周知のとおり治部省からの、「京及び諸国の僧尼名籍」を見たところ「入道の元由」(得度の事情)が「不明」であったり、また「綱帳」に「名」があっても「還た官籍に落」ちていたりしているケースがある、という奏上を受けて

(『続日本紀』神亀元年十月丁亥朔ひのといのついたち条)白鳳はくほうより以来このかた、朱雀すざくより以前さき、年代ねんだい玄遠ぐゑんゑんにして、尋問じんもんあきらめ難がたし。亦また、所司しょしの記注きちう、多く粗略そりゃく有り。一ひとたび見名げんみょうを定め、仍よりて公験くげむを給たまへ。

という詔が出されている。

 私が注目したのは、「或は名綱帳かうちょうに存そんすれども、還かへりて官籍くわんじゃくに落ち」という一節を含む奏上に対して、聖武天皇が「白鳳以来、朱雀以前」と時期を限定して回答している、と言うことである。つまり、僧綱(僧伽)の帳簿に名前の載っている僧侶が「官籍」に戻っている(「還(ま)た~落ちる」と言うことから、戸籍に名前が掲載されていることを指すと思われる)、という事例が「白鳳以来、朱雀以前」に集中している(と、大和朝廷が認識している)のである。

 『二中歴』によると「白鳳」年間に観世音寺が建立された。また、自誓受戒の根拠となる『占察経』を真経とする『武周録』が制定された西暦六九五年は、九州年号だと「朱鳥十年」又は「大化元年」であり、「朱雀」以前においては自誓受戒が認められていた可能性は低い。
 つまり、「白鳳以来、朱雀以前」とは九州王朝が観世音寺で「三師七証の授戒」を行っていた可能性が高い時期である。その頃に受戒したと僧綱の記録にはあるのだが、実際には(出家したら抜かれるはずの)戸籍(官籍)に名前が載っており矛盾している、と言う問い合わせが来ているのである。
 もしも大和朝廷が観世音寺における受戒の効力を認めなかったのだとすれば、自誓受戒を認めざるを得なかった理由も説明がつく。観世音寺で受戒した比丘を全員排斥していると、三師七証の授戒を行うための人員を揃えるのに困難が来ても可笑しくはない。また、僧綱(僧伽)側の記録と大和朝廷の「官籍」の内容が矛盾しているという事実からは、当時の僧侶達が大和朝廷に対して協力的ではなかった(むしろ旧九州王朝に好意的であった)と推察でき、彼らを師匠としない新しい僧侶を大和朝廷が必要としていた、とも考えられる。

 

まとめ

 「菩薩天子」を名乗っていた(つまり、菩薩戒の授戒を受けていた)九州王朝の天子(註五)は、仏教管理政策を推進していたと思われる。だが、後に政権を握った大和朝廷からすると、かつて九州王朝に管理されていた僧侶は不穏分子であった。そこで、観世音寺で授戒を受けた僧侶の存在を認めなかったり、『日本書紀』から具足戒授戒の記事を消したりしたが、その方針を完遂するためには「九州王朝系の比丘の手によらずして」授戒する方式が必須であった。
 当初、大和朝廷は武周で承認された自誓受戒を認め、師僧がいなくても比丘に成れる体制を整えたが、これは私度僧の登場を容易にするものでもあり、大和朝廷による仏教管理を危うくする側面があった。そこで、九州王朝の影響を全く受けていない鑑真ら唐の僧侶を招聘して、九州王朝系の僧侶無くして三師七証の授戒を受けられるようにしたと考えられる。
(なお、「授戒」と「受戒」の二つの用語の併用で混乱された方もおられると思う。「授戒」は戒律を「授ける」行為であり、「受戒」は戒律を「受ける」行為である。)

一 淫・盗・殺・妄の4つ。但し、性行為・窃盗・殺生・嘘のいずれかをすると直ちに追放される、という意味ではない。「淫」についてはすぐに懺悔した場合に限り、沙弥又は沙弥尼としては僧籍を維持できる。「盗」は一定金額以上の窃盗であり、微罪では追放されない。他も同様で、つまり在家信徒に「五戒を守れ」と説く側の人間が明らかな不道徳をした場合のみに追放処分となるのである。

二 藤井伸二(二〇一七年)「王制の未来をも揺るがす軍事政権VS新興仏教寺院の攻防」『宗教問題』18号

三 佐藤文子(二〇一〇年)「古代の得度に関する基本概念の再検討」『日本仏教綜合研究』8号

四 石田瑞麿(一九五一年)「我が国に於ける鑑真渡来以前の戒律について」『宗教研究』一二五号

五 なお、本稿でも触れたとおり菩薩戒の受戒は出家とは異なる。詳細は別稿で論じたいが、会報一六三号の西村秀巳「「法皇」称号は九州王朝(倭国)のナンバーワン称号か?」において、「九州王朝の天子の称号は『法皇』であり、九州王朝の天子は菩薩戒を受戒することになっていた」とする拙稿に対して菩薩戒を受戒したならば後継者はどうするのか、と言う旨の批判があったが、私は九州王朝の「法皇」が出家していたとは考えていない。多利思北孤自身が隋の煬帝を「菩薩天子」と呼んでおり、九州王朝における「法皇」とは「菩薩戒を受持する在家の天子」を意味すると考えるのが妥当であろう。その他の批判については稿を改めて反論させていただく。


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