「邪馬台国への道」
◇◇古田武彦が読む書評◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
朝日新聞西部本社編(不知火書房・一五〇〇円)
古田武彦
本書は、昨年九月に行われた博多湾周辺の水中探査が背景の一つとなって編集された。朝日新聞西部本社が九州・沖縄水中考古学協会と共同して実施した探査である。(福岡市、同市教委後援)。
同協会長の林田憲三がのべているように、水中考古学の可能性は絶大だ。今後が期待される。また塩屋勝利・福島和明・七田忠昭・下村智等、発掘現場からの報告も貴重である。
しかし本書全体をおおう一大矛盾が存在する。それは、一方では「邪馬台国のありかは未だわからない」という立場を基本としながら、他面
「博多付近は奴国である」ことを、地の文で自明のように扱っている。
では、博多湾岸が、女王国(いわゆる邪馬台国)でないことは、確定しているのか。自明の事実なのか。--否。
わたしはかつて『「邪馬台国」はなかった』を出した(現在、朝日文庫)。「博多湾岸とその周辺説」だ。
この立論は、次の論証にもとづく。帯方郡(ソウル近辺)から不弥国(里程記載の最終国。博多湾岸)まで、各部分里程の総和は一万六百里(或は七百里)。途中の「対海国(方四百余里)一大国(方三百里)」の「半周」合計、千四百里。総計一万二千余里となる。すなわち、帯方郡から女王国への総里程として記載されたところと一致した。ここに「不弥国は女王国の玄関」という、わたしの基本の論証が成立する。
「部分の総計は全体とならねばならぬ」。 この鉄則が、わたしを「博多湾岸中心説」へと導いたのである。では、この鉄則は、現在の学界では無価値か。破棄されたのか。--否。
逆に、本書にも見られる「弥生絹の分布」や「弥生宮殿(高床式)跡の分布」は、いずれもまさに「博多湾岸とその周辺」の領域だ。この事実は近年いよいよ鮮明になってきた。それなのに「ここは邪馬台国に非ず」を既定、の前提とする。志賀島の金印も「倭の奴国」読み一辺倒だ。異見を“封殺”し通
してきた。
博多で行われた「邪馬台国シンポジウム」(今年一月二十九日)も、本書成立の一背景となっているが、ここでも事態は変わらない。中山千夏がせっかく「邪馬壱(台)」の問題に注意をうながしても、他の学者は知らぬ顔。何のためのシンポジウムだろうか。博多で行いながら、「邪馬壱国、博多湾岸中心説はなかった」かの扱いだ。なぜ。どうして「ある」ものを、「ない」ふりをしてみせねばならぬ
のか。--姑息である。
先日、テレビの出演者(某宗教団体)が批判者との同席を、当初ことわったとかで話題になったが、学界こそ「醜い悪習」の先輩だ。 学問の、規制なき未来のため、直言する。
(産経新聞、一九九五・五・二三夕刊より転載)
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