古田史学会報一覧 へ
平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の真実を求めて(『新・古代学』第4集)へ
和田家文書関係のリンクは下にあります


1995年 8月25日 No.8

古田史学会報 八号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫
事務局 〒602 京都市上京区河原町通今出川下る梶井町 古賀達也

□□□第一回総会にむけて□□□

古田史学の会のために

 中小路駿逸

 古田武彦氏の言説に強烈な関心を(思わくはいろいろ違っても)持つ人々が集まってできた(と私は思っているのだが)いくつかの会のなかの「市民の古代研究会」という会が、別れるの別れないのとゴタゴタしていたとき、私は「旗印をハッキリと」と「市民の古代ニュース(一二六号)」に書いた。古田氏の言説が「近畿大和なる天皇家の王権は、七世紀よりも前から日本列島内で唯一の卓越して尊貴な中心的権力であった」という「一元通念」を学理上「非」なりとしている一点(この一点で古田説は通念に対して決定的に勝ったのである)に、同意するか、明言せずに伏せるか、ハッキリしなさい、という趣旨を述べたものであった。ゴタゴタの原因の肝心カナメのカンどころはここにあり、ここが分かれ目となって会は少なくとも二つのグループに分かれると見、この「ことのスジミチ」が後世にハッキリわかるような記録を、シッカリ残しておきたいと思ったからである。
 私が「古田武彦氏についていくか、いかないか」とか「古田氏の学問のどこに、どういう意味で関心を持つか、持たないか」などで分けようとしなかったのはなぜか、おわかりであろう。そんな「対古田学態度」などで分けようとしたら最後、答は千差万別 、千変万化、あらゆる言い抜けが可能となって分類は無意味となり、何よりも、肝心カナメのカンどころ、「一元通 念」を「論証を経ざるもの」とした古田氏の指摘、日本古代史の研究史のなかで古田氏の学の位置を決定した理論上の「定礎」を「是」なりと明言するかしないかという、大事の一点が棚上げされ、覆われ、隠され、忘れられてしまい、結果は「学理上無効な一元通念が無期限に安泰」となること、明白だからである。「一元通 念」を「非」とするか。この件を伏せて言わないか。この規準が明晰かつ有効であることを私は確信していた。この規準を用いれば、ありとあらゆる錯乱(無知、ウソ、ゴマカシ、スリカエ、だまし、そういうのをすべて含め、一括して「錯乱」と言っておく。こういうものをこまかく詮索して分類したってしかたがあるまい。)が、ゴタゴタの前後にわたってみずからの正体を自主的にさらけだして記録に残すこと、明らかだからである。
 事態は私の見とおしのとおりに動き、この規準の有効性を明晰に示しつづけている。会はおよそ二つのグループに分かれた。そして「伏せる」側の人々が、さまざまの「錯乱」の姿を自主的に示し、後世のためにも役立つ記録をハッキリと残し続けているのである。「古田説はまだ全面的には正しくない。だから通念側を説得するためには、もっと厳格な論証を積み、古田説を修正・強化しなければならない。」という意見も聞いた。「錯乱」の一典型である。通念が「論証を経ておらず、その正しさを証するに足る根拠もなく、したがって学理上無効」であることを伏せ、古田説のあちこちの部分に異を立て、あたかも通念が学理上成り立つかのように言い立てつづければ、古田説が通念側を「説得」できる時など永久に来ないようにできること、亀のうしろを走るアキリーズが理屈の上ではどうしても亀に追いつけないようにできるのと同様、明白である。ところがこの「錯乱」は、事実に合わない。事実は古田説というアキリーズは「通念無効」を指摘したとき、すでに亀を追い抜いてその前を走っていたのだからである。
「通念が間違っていたら(というより、すでに間違っていることは明白だから)どうするのだ。」と。この問に対しては直接には何の答えもあるまい。問も答えも、その人にとってはあまりに重いものであろうからである。
 「もし通念が正しかったらどうするのだ。」という、おびえたような、脅迫のようなことばも聞こえてきた。尋ねたいのはこちらだ。
 古田説側と目されている人々に「通念に従うのも学理上成り立つ一つの立場」と思わせておく(むろん通念側は古田説を通念と並記したりなどせず、無視したまま、論文を書き、教科書を作り続ける)という手もある。この手でだませば、古田説側が通念に対して「自主規制」した形となり、「古田無視」は大手を振ってまかり通り、通念は安泰。古田論証の牙を自主的に抜いた古田説側も、無害な一部のモノ好きとしてそれなりに安泰。共存共栄、天下太平。ただ不毛な「古代史ナゾ解きコジツケ・ハッタリコンクール」が果てしなく続くこととなろう。
 古文献や考古学的出土物のあれこれから、通念に合うようなものを見つけては「通念の正しさが証明された」と宣伝する手もある。むろん、古田指摘以前に論証に用いられ、それによって通念が確立したという証明がなければ無効であることを伏せてである。これで圧倒的多数が安心する。救われた気分になる。枕を高くして寝られる。
 要するに、すべての「錯乱」とその結果は、ただ一事に収束する。「一元通念を無期限に擁護し延命させること」この一事だ。古田指摘を無視して通念を押し通す。これが基本。その上にか、まわりにか、いくつもの詐術を仕掛けておく、というわけだ。
 こういう、そばから見てもミジメな「錯乱」の実例に触れるのと並行して、「一元通念の本来の根拠」についての私の認識が深まった。そのことを言う。
 私はすでに「古田論証との出会い」(「市民の古代」八)以来、何度も述べている。「通 念の本来の根拠はチャンとあったはずで、宣命の文辞の誤解もしくは曲解がその一つと考えられる。すなわち、通念は間違いだったと言える根拠なら推定できるが、通念が正しいと言える根拠は見あたらない。」と言っているのである。問題の宣命の文辞というのは『続日本紀』に文武天皇即位ののち以後、歴代何度も出てくる「高天原(天孫降臨)に事はじめて、遠すめろきの御世、中・今に至るまで」「大八嶋知らしめす」神授の一王権が連綿と続いてきたという文辞である。この文辞には、二つの宣言が含まれている。一つは「名分宣言」、わが国唯一の正統の君主は天孫降臨以来一系の天皇なりという一種の信仰告白である。歴史上の事実の方は『日本書紀』に、わが王権は九州に降臨した王(皇孫)の傍流たる神武天皇以来のもので、持統天皇までその格であったことが示されており、宣命のように「降臨の王」を初代とはしていない。かれこれ合わせれば八世紀の朝廷は「われにとって本家筋なる王権が持統朝まで九州に存続し、文武朝にいたってわが王権が本家の格を引き継いだ」と、「名分連続、王統交替」の事実を宣言しているのである(ここまでがすでに述べたことである)。もう一つは「領土宣言」、正確に言うと「領有名分宣言」である。この一系唯一の王権こそ「大八嶋」の唯一正統の主権者たる名分を有するという「領有の名分」が宣言されているのである。そしてこの宣言は第一に「名分」を告げているのであって、正確な「領土の境界」を告げているのではない。この「大八嶋」がどこかは『日本書紀』(および『古事記』)の「国生み」の話に述べられている。その「大日本豊秋津洲」(『古事記』には「大倭豊秋津島」が本州島とは解し得ないことは、古田氏の論証(『盗まれた神話』)があり、私も私なりに述べた(論文「中国東海事象と万葉歌」大阪大学医療技術短期大学部紀要人文科学篇一八)が、国生みの二神は『日本書紀』本文によれば天照大神(オオヒルメノムチ。「皇孫」の祖母)を「天下の主」として生んだのであるから、この「大日本豊秋津洲」や、皇孫が「主」として降臨せしめられた「葦原中国」の範囲について、適宜拡大解釈を施せば、九州島周辺から津軽海峡あたりまでが一系正統の王権の領土たることは、実質的な領有を待たずとも、開闢以来「名分上」確定していたことにできるのである。
 この「名分に関する、信仰を含む宣言」を「史実宣言」へと横滑りさせ、この「名分」に合うように歴史のワク組みを構想した「錯乱」の所産が「一元通 念」なのだった。−−私は今、そう考えているのである。古田氏の指摘はこの「錯乱」を非なりとし、その裏づけを提示した私も、同様これを非とし、歴史像を通念型から古代の文献の示しているものに返せ、と要求している。たとえこの通念が数百年、あるいは千年余、日本人の心を規制し、文化の深部に根付いているように思われていようとも、より深い基層にあるものが真実ならば、そこに復帰して当然ではないか。「一元通 念を非とする。」−−この一句に私が固執する意味がおわかり願えようか。日本の文化が、精神が、ほんとに確かな基礎に立ったものになれるかなれないか、その分かれ目がこの一句にある。私はそう思っているのである。
 「古田史学の会」の会則案には、この肝要の一句が入っているようである。この一句が会の総会で承認されるか否かを、はるかな過去からの歴史と、これから歴史として形成されるのを待つ、限り知られぬ未来とが、深い関心をこめたまなざしをもって見守っているのである。
(なかこうじしゅんいつ・追手門学院大学教授)               


<特別寄稿>  北海道を知る  古田武彦


「大阪・池上曽根遺跡」奇妙な新聞報道

札幌市 吉森政博

 六月十七日付の各紙朝刊に、「弥生最大の神殿跡?発掘」(読売)等の大見出しで、大阪・池上曽根遺跡に関する記事が掲載されていた。日頃から意図的に「大和朝廷中心」の歴史を描き出そうとする報道が多いのだが、今回の報道にはとりわけ重要な問題点が感じられたので、注意を喚起したい。     
 主として読売新聞を中心に見ていくが、まず、リード文の中で、「建物は吉野ケ里遺跡の建物・柱規模をはるかに上回る…」と、見出しからの流れで、吉野ケ里遺跡よりかなり大きな印象を読者に与えようとしている。ところが、後の方では「建物の面 積だけでは、吉野ケ里遺跡や柚比本村遺跡など佐賀県内の弥生遺跡の建物より一回り小さい。」という記述もある。建物の面 積ばかりでなく、遺跡全体の面積も小さいのだ。「面積は小さいが、規模ははるかに上回る」というのは一体どういうことなのか。
 その根拠としてあげているのが「柱の太さが一・五倍もあり…」ということなのだが、これもまた、中程に奇妙な文章がある。「柱の直径が最大五十五センチメートルだが、当時は七十センチメートルあったとみられ、吉野ケ里などの大型建物の五十センチメートルをしのぎ弥生最大」というのだ。吉野ケ里遺跡の楼観の柱は柱穴から五十〜六十センチメートルといわれており、片や最小値、片や想定される最大値を比べて一・五倍というのだから、意図的に規模を大きく見せ掛けていると言われても仕方ないのではあるまいか。
 また「弥生最大の……」とは、昨年話題を集めた「縄文・三内丸山遺跡」の直径約一メートルの柱を意識してのことと思われるが、もっと古い時代のもっと大規模な遺跡の意義を無視し、あえて同時代の遺跡の操作された一部の数値だけの比較で「最大」として、「北部九州を圧倒する大型神殿の出現は、後の邪馬台国誕生のナゾを解くカギを提供したといえる」と、あたかもこの地域が倭の中心であるかのように結論付けるのも、意図的なミスリードと言えるだろう。
 魏志倭人伝に記される「邪馬壹(台)国」の「モノ」の出土は、絹にしろ、鉄鏃にしろ、銅矛にしろ、圧倒的に北九州に集中している。
 唯一の中国絹が出土している須玖岡本遺跡。最古の三種の神器を出土している吉武高木遺跡では、宮殿のまわりを宮殿が取り囲んでいる宮殿群跡が発見されている。他にも三雲、平原、唐の原、雀居遺跡等々、弥生前期から後期に至るまで、質・量ともに他の地域を圧倒する遺跡が集中しているのは、北九州・博多近辺なのだ。
 また、はるかに規模の大きい青森の三内丸山遺跡は「大規模集落」で、佐賀の吉野ケ里遺跡は「クニ」として「百余国のクニの一つ」にとどめ、北九州は「奴国」としながら、近畿のこの遺跡は「超一級の祭祀国家」と最大級の表現で「後の魏志倭人伝に描かれた倭国の中心部の一角」と断定してしまうのも、遺跡の価値よりも「わが国の中心権力は大和朝廷以外にない」というワク組みにこじつけようとする意図が感じられる。   

 さらに重要な点は、この弥生中期後半(一世紀前半)の近畿は、銅鐸文化圏(三世紀まで)であったこと。神武東征に始まる大和朝廷は銅鐸の伝承を持たない。むしろ銅鐸圏を侵食し、しだいに近畿一円を支配していった異文化圏の勢力が大和朝廷と考える方が妥当であろう。まして、この遺跡は、大阪府和泉市と泉大津市にかけて広がるもので、「大和」ではないし、大和朝廷の中心地でもない。すなわち、この遺跡を残したのは後の大和朝廷とは別個の勢力であったと考えられる。それが何故、邪馬台国を大和朝廷と結び付けて考える「邪馬台国畿内説」を「補強」し、「邪馬台国所在地論争の振り子を畿内説に大きく傾けそうだ」(道新)という論理になるのか、理解しがたいものがある。
 このように、様々な面で北九州に比べて見劣りのするこの時代の近畿の遺跡の価値を、意図的に過大に評価して「邪馬台国畿内説」を「補強」しようとする立場は、記者自身のものなのか、「近畿説」の学者のものなのかは分からないが、何もかも強引に「大和朝廷中心史観」にこじつける報道のあり方は、そろそろ改める必要があるのではないだろうか。

(編集部)本稿は「古田史学の会・北海道ニュース」3号より転載させていただいたものです。


『新・古代学』のすすめ 「平成・諸翁聞取帳」起筆にむけて
                京都市 古賀達也


「山王日吉神社」考(3) 菅江真澄は日吉神社に行っていない
                京都市  古賀達也


和田家文書との出会い(4) 『角田家秘帳』模写のいきさつ
               青森県藤崎町 藤本光幸


東日流外三郡誌は偽書ではない(3) 山王坊、十三湊についての認識から生ずるもの
                       青森県中里町 青山兼四郎


北海道の会青森研修旅行記  (北海道ニュース3号より転載)

松橋徳夫氏のこと

札幌市 八巻渉吾

 3日目の五月四日は朝から好天であった。この日は、前夜、急遽決まったオプショナル・ツアー竜飛岬往復は、朝食前の六時から八時にかけておこなわれた。私は参加出来なかったのが、一寸残念だった。
 今日は、この視察旅行のハイライト、石塔山・荒覇吐神社に和田喜八郎氏を尋ねることである。東日流外三郡誌の編者、藤本光幸氏が案内してくれるとのことで、十一時までに五所川原駅前集合であった。
 九時、十三湖畔の民宿出発、車は二手にわかれた。一つは古賀氏が松橋徳夫氏に会うための高山稲荷神社経由と、他の一つは金木町の斜陽館経由である。私は前者を選んだ。吉森氏の車に古賀・和田両氏と私が乗り、近藤氏が母堂と一緒に後に続いた。 晴天のもと、残雪を戴いた岩木山を眺めながら、数十分で車力村の高山稲荷神社についた。大変立派な神社であった。
 早速、宮司の松橋徳夫氏のお話を伺うことが出来た。松橋氏は白衣に紺色の袴という神官の装いで出てこられた。小柄で上品な好紳士であった。同氏は、昨日、十三湖の周囲を案内してくれた青山兼四郎氏とともに、日吉神社の寛政奉納額存在の生証人である。それだけに外三郡誌偽書説にたつ安本氏一派にとっては、松橋氏の発言は目の上のたん瘤であり、同氏に対して発言取り消しを強要しているという。
 同氏によれば、「以前、安本氏から電話があって、寛政奉納額はインチキだ。和田や古田はデタラメな人間である云々、延々とおっしゃっていたが、『私は見たものを見たと言っているだけだ。正しいかどうかを調べるのは、あなた方学者の仕事でしょう』と申し上げた。その後電話はきません。」ときっぱり答えられていた。
 松橋氏の毅然とした態度に敬服した私たちは、稲荷神社を後にして、西の高野山、弘法寺を経て時間どおり十一時に五所川原駅前についた。   



◇◇  『彩 神(カ リ ス マ)』  第二話◇◇◇◇◇◇
 
月  の  精  (二)
 −−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美 ◇◇
      ◇        ◇
「大変よ、落馬よ!」
「武士(もののふ)が怪我をされたわ!」
 娘達の知らせで、一斉に村人が集まって来た。
 下敷きになった騎手は、何とかして外へはい出そうともがいていたが、傷の痛みで力が入らないらしい。
「待ってなさいよ、お侍さん。今、馬をどけてあげますからね。」
「動いちゃいけませんぜ。」
 人々は励ましつつ、やっとの事で騎手を助 け起こした。だが、騎手は呻いて、人々の腕に取りすがってしまった。両足先に血がこびり付き、ドス黒い筋が地面 にまで流れ落ちている。
「こりゃ、いかん。骨折しているかもしれんぞ。」
「早う休ませにゃ−」
 人々は手を組んで騎手を担ぎ上げ、
「細烏さん、あんたん家を借りますよ。」
 と呼ばわった。
「どうぞこちらへ−」
 細烏は急いで先に立ち、小屋の戸を押しあける。
 女達が室の隅に床を伸べ、騎手を寝かしつけている間に、祈祷師が呼ばれて来て治療にかかった。祈祷師は竈(かまど)を借りて薬草が煮え立つまで印を結び、呪文を唱える。騎手は横になれたのも束の間、膏薬を張る為捻られ、斜めに転がされ、脂汗を流して呻吟し続けた。祈祷師の合図で細烏が煎じて薬を飲ませてやると、初めておとなしくなる。
「当分、動かせんな……。」
 寝ついた騎手を眺めやって、祈祷師は頭を振り、
「すまんが、面倒を見てくれるかね?」
 細烏を顧みた。
「喜んで。」
 細烏は微笑したが、
「それにしても、どちらの若様でしょう…… …?」 
 と、騎手を見下ろした。甘やかな香の匂いから推しても名のある人物とはすぐに判るが時々村を訪れる役人にこんな青年が加わっていた試しはない。新しく赴任して来たのだろうか? もしくは、国王の狩りに備えて下見にやって来た側近だろうか……? 一同は考え込んだ。
    ◇      ◇
 暫くして、青年は目を開いた。
「気がつかれましたか?」
 覗き込む細烏に、
「あなた、は……?」
 青年は訝し気に瞳を動かした。
「私は細烏と申します。ここは私の家でございます。」
 細烏の返事に、青年は再び目を閉じて額に手をやり、考える風だったが、
「そうだ、私は落馬して……。」
 と、頷いた。
「手当は致しましたから、もう大丈夫ですわ。」
 細烏が優しく言うと、
「私は阿達羅(アトラ)といいます。国王陛下の御命令で狩場の下見に来たのですが、とんだ御迷惑をおかけしてしまって……。」
 顔を赤らめる青年に、
 細烏はほほえみ、
「お召物その他から、都のお方とは察しておりました。」
「薬師(くすし)殿のお話では、あなた様の快癒には時間がかかるとか。村長(むらおさ)もお役所に報告の使いを出されましたから、安心してお休み下さいませ。」
 その日から、阿達羅は細烏の客人(かかりうど)になった。足を怪我しているので、体は元気になってもすぐには動き回れない為か、阿達羅は穏和で聞き分けの良い客人で、役人なら匂いを嗅いだだけでしかめっ面になる貝の汁や野菜の煮つけもいつもきれいに平らげ、貸し与えられた上衣や蒲団が穴があいていても文句一つ言わない。こうした阿達羅の態度はまず子供達に好かれ出し、母親や姉と祭りの相談に細烏の許を訪れると、
「阿達羅さん、都のお話してよ。」
 彼の床を囲むようになった。
「お兄ちゃまには女の子のお友達はいないの?」
 一端の主婦気取りで飲み水を運んで来た幼女が聞く。
「一人いるよ。洛東河口よりも広い草原と砂漠を横切って、雪を被った山を幾つも越え、海を渡った天竺(インド)という国に住んでいるのさ。」 
「まあ、そんなに遠いの?」
 幼女は目を瞠り、
「どうやってお兄ちゃまの所へ遊びに来るの?」
「大きな船に乗って来るのさ。その人は、私のお嫁さんになる約束をしてくれたからね」
 阿達羅は首の豪華な瓔珞(ようらく)を掲げ
「これは結婚の約束をした時、その人が贈ってくれたんだよ。」
「へええ、天竺ではお嫁さんがお婿さんに贈り物をするのか。」
 少年達が面白そうに目を輝かせ、
「細烏さんと一緒になった時は、延王が大きな鯛を釣り上げたっけ。」
「延王?」
 訝る阿達羅に、
「細烏さんの旦那さんだよ。」
 少年達は説明した。
「海釣りに行ったまま、帰って来なくなっちまったんだ。もう二年になるけど……。」
「細烏さんと延王は元々天国(あまくに)の人だから、故郷(くに)の迎えが来たらしいんだ。」
 「俺、その時、近くの岩場で遊んでいたから知っているんだ。延王は細烏さんに贈ったのと同じ、大きな鯛を釣上げたんだよ。体中真赤で、目が金色に光っていて、まるでお日様が海の中に落っこちていたみたいだった。それを見た途端、延王は舟を漕ぎ出して、どんどん沖へ遠去ってっちまったんだ。みんなに話したんだけど、そんなバカな事があるかって信用してくれないんだ。でも、細烏さんだけは、天国の御先祖(みおや)は金に光り輝く葦舟に乗ってどこからか流れ着いた太陽神だといわれているから、その魚はきっと故郷のお使いだろうと言って、今でも延王が韓(南朝鮮)へ帰って来るのを待っているんだよ。」
(続く)


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
古田武彦氏関西講演会のご案内
 新・古代学の誕生と秋田孝季
 法然の弟子に「二光」あり。一人は聖光上人、もう一人は金光上人。二人はそれぞれ布教へと旅立つ。聖光上人は九州へ、金光上人は東北へ。聖光上人は布教に成功、そして帰京。金光上人は志し半ばで、厳寒の津軽で殉教する。二人とも優れた人物であり、親鸞の兄弟弟子にあたる。「承元の弾圧」で親鸞が越後(和田家文書によれば佐渡)に流罪となったとき、津軽から金光上人が会いに来る。綽空(後の親鸞)と金光坊の対話。和田家文書中に記された、未知の親鸞伝承(金光上人伝)が「発見」されたのだ。
 『東日流外三郡誌』の著者、秋田孝季は田沼意次の密命を受け、安東船に乗り鎖国の日本から海外へ航る。その旅は遠く、インド・エジプトへ至る。海外の新情報とおびただしい美術品とともに帰国した孝季を待っていたのは、開国派田沼の失脚であった。失意の中から孝季は、生涯の大事業『東日流外三郡誌』編纂を開始する。
 偽作論者の悪質な妨害・中傷を吹き飛ばし、古田武彦氏は『新・古代学』とともに未開の学問的沃野へとわたしたちを誘う。夏の一日、古田武彦氏の講演会へ、あなたもお越し下さい。                 
 日 時 八月二七日(日)午後一時〜四時    参加費 一五〇〇円
 会 場 天満研修センター(JR天満駅東2分) 電話 06−965−1724

 古田史学の会 第一回 会員総会のご案内               
 古田武彦氏講演会終了後に、同会場にて会員総会を開催します。会員の皆様の御出席をお願い申し上げます。議案は、会則・役員人事・決算予算の承認などです。総会後は古田氏を囲んで懇親会を予定しております。
(古田史学の会代表 水野孝夫 )


例会の案内と報告

<北海道>

◎九月九日(土)午後一時〜午後五時
◎十月十四日(土)午後一時午後四時
会場はいずれも札幌市中央区カデル2・7
(六月例会報告)
 今回の例会は創立一周年記念に当たるが、格別変わったこともなく、いつもの通 りワイワイ、ガヤガヤの中で開催された。しかし、この一年の間に会員は倍増し、しかも錚々たる顔ぶれで、事務局としても、おおいに緊張せざるを得なくなった。今後の例会の持ち方について、古田武彦氏第二回講演会、浜田会員の九州視察旅行報告について検討・報告があった。『古代は輝いていた』の読み合わせでは、九九〜一一五頁を読み進められた。
 八岐の大蛇神話では、おろちから剣の出現をみるが、剣に関連するものとして、丹後出土の「四頭竜環頭太刀」は丹後独自の習俗と思われ、これを大和朝廷からの下賜品とする学者がいるが、これは天皇家一元主義の病に冒されたものではないか。(八巻渉吾)

<関 西>
◎九月三〇日(土) 午後二時〜四時 
 会場 北市民教養ルーム(大阪梅田) 
 (七月例会報告)
 『古代は輝いていた1』一〇〜二六頁を読んだ。話題として、チョウ草とはターメリック(うこん)説、猿の腰掛説。金印、後漢書には金印とは書いていない。倭と委は同じか、いつから「ワ」と読む?。竹、竹を切るのは鉄器でないと切れない?。倒産、破産は日本では民事だが、韓国では刑事問題。よってみんな国外へ逃げる。「歳時をもって」とは毎年か?稲作は江南ルート?韓国ルート?総合して「周田の伝播」は本当か?。などでした。八月は古田講演会があるので、例会はお休み。
(水野孝夫)

<東 海>
◎九月十日(日)午後一時〜五時 
会場 名古屋市舞鶴公会堂(JR舞鶴下車)
□連絡先 林俊彦 電話 052-936-5012 
名古屋市東区徳川1−729
(七月例会報告)
 横田から宮崎市定氏の天皇の由来についての原稿を参考に『王と天皇』についての報告がありました。魏志倭人伝の読み下しでは国名について分かる国がないかと糸口を見つける議論となりましたが、不明で大いに混乱しただけです(笑い)。八月は休み。勤務の都合で横田が関西に帰ることになりましたので、後は林俊彦氏にお願いすることになりました。(横田幸男)
□□読者からのお便り□□

和田家文書に関心
     北奥文化研究会事務局 小山英治

 先日貴会から御恵送の『新・古代学』一冊拝受致しました。有難うございました。本会の貴重な財産として会の研究資料として活用したいと思います。当研究会も現地の研究会として少なからず和田家文書について関心をもっている所ですが、真偽の程を判断しかねている次第です。今後ともよろしく御教導下さい。貴会の御発展を御祈念申し上げます。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
和歌を御披露します
       町田市 深津栄美

 前号で、私も和歌の創作を始めた事を御紹介頂きましたが、九州王朝にちなんだ作品を不遜ながら二首ばかり披露いたします。

○銚子塚黄金(きん)の鏡を出だしたり
 家臣何故大和帝(あるじ)より傲(おご)れる
○吉野ケ里の菅玉波及(ペルシャ)にも在りと
云ふ砂漠隔ちて碧(へき)愛(め)づる乙女ら

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 
事務局だより             
◎全国各地からお便りや素敵なニュースが届いている。北海道からは「古田史学の会・北盛岡市 外里冨佐江|海道ニュース」1号が届きました。感動的な記事やするどい論稿が満載されています。本会報にも和田高明氏の論文を転載させていただきました。引続き転載し、全国の皆様にもご紹介してまいります。
◎五所川原からは和田喜八郎氏から、本会報での和田家文書真作説の掲載にお礼の電話などをいただきました。会報を地元関係者に見せたら、和田家一族へのイジメが減ったとのこと。冷静な、真に学問的な和田家文書研究が何よりも必要です。本会報が少しでも役だてば、これに過ぎることはありません。
◎名古屋からは、「東海の会」発足の案内が届きました。これからは例会を中心に勉強会を続けるとのこと。ここにも一つ、古田史学の輪が着実に広がりました。
◎「多元的古代」研究会の九州と関東、そして東京古田会から、それぞれの機関紙を送っていただいています。いずれも素晴らしい内容で、本会も見習っていきたいと思います。これらの友好団体と共同で研究誌の発行準備も進んでいます。御期待下さい。
◎本会編集部へ会員から優れた論文などが寄せられています。これらは、「会員論集」として製本し、全会員へ進呈したいと思っています。会費予算内で発行できるよう、検討中です。原稿のワープロ打ちなどの協力者を募っています。ご協力いただける方は、事務局まで御一報下さい。よろしくお願いします。
◎最後になりましたが、先の阪神大震災で被災された会員の方へ、心よりお見舞い申し上げます。また、事務局(古賀)へも、全国から安否を気遣うお電話をいただきました。ありがとうございました。被災地の復旧をお祈り申し上げます。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail
sinkodai@dream.com


古田史学会報一覧 へ

続平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の真実を求めて(『新・古代学』第4集)へ

ホームページへ
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"