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東日流外三郡誌は偽書ではない(1)北日本の歴史の再認識を教えるもの 青山兼四郎

『角田家秘帳』模写のいきさつ 東日流外三郡誌は偽書ではない(3)

古田史学会報1995年 8月15日 No.8
-------------特別寄稿--------------------------
和田家文書との出会い(4)

『角田家秘帳』模写のいきさつ

青森県藤崎町藤本光幸

 昭和三八年に『東日流外三郡誌』(和田末吉書写 本)が初めて私のもとへ和田氏によって持参されましたが、当初はそれが三百六十八巻もの量 であることを知りませんでした。和田氏は五、六巻(冊)ぐらいずつ持参し、一度に大量 に持って来るということはありませんでした。それも一巻目から順序に持って来るということもなく、順不同の状態です。
 後に判明したことですが、膨大な数量ですので、上の方から手当り次第に持参したものであり、しかも和田氏自身、この頃から地元である高楯城の事、安東一族の事、藤原一族の事等に関心を持ちはじめた様で、一応自分自身で読み終ったものを私の所へ持ち込んだものの様でした。
 昭和四十年頃までに約百巻(冊)程が持参されましたが、その中の一巻に『東日流外三郡誌』は全部で三百六十八巻あると記されて居り、それによって、はじめて『東日流外三郡誌』の全貌がわかった次第です。その後、昭和四六年頃までに約二百巻程が和田氏によって持参されました。      
 所で、昭和四二年頃から和田氏の地元で、高楯城の関連文書が発見された事から、高楯城に関係のある人々、即ち木村実氏、角田義雄氏、今集次郎氏、長峰繁正氏、山口貞治氏、柳原与四郎氏、中野朝義氏、中野金一氏、中野正明氏、和田喜八郎氏、それに私が入って高楯城史跡保存会を結成し、高楯城を破壊から護る為に、土地の買収と共に関係文書の整理研究に取り掛かったものでした。その時に出てきたのが『角田家秘帳』なのです。
 『季刊邪馬台国』五二号に“『角田家秘帳』の不正、『角田家秘帳』事件”とし、これも和田氏による古文書の贋作事件であるとして、昭和四五年刊『歴史読本』の「歴史ニュース」の記事を紹介し、“角田家にもちこまれたニセの古文書『角田家秘帳』は角田家にあった「天神様」と交換され、あきれたことに、その「天神様」は復原された高楯城西館の史料館の拝殿に城祖「万里小路藤房卿の御霊像」として安置されているのである”とし、ここでは二重のインチキ、ペテンが行われていると述べて居り、1. ニセの古文書『角田家秘帳』をホンモノとして角田家にもちこんでいること。2. 交換された像は角田家においては「天神様」とされていたものであり、万里小路藤房の像などという言い伝えは存在していない。の二点を強調して居ります。
 更に『季刊邪馬台国』五三号で“古田武彦氏に、木村家遺族の怒りの声が聞こえるか ーー「古田史学」は「不正義の史学」なのかーー”として木村実氏の長女小杉寛子さんからのお手紙を紹介し、編集部付記として“一九九三年六月一日のNHKのナイトジャーナルの放映のなかで和田喜八郎氏は『角田家秘帳』も「木村実さんが書いた」と発言している。『角田家秘帳』の文字の筆跡は明確に和田喜八郎氏のものである。”と述べて居ります。
 これに対して当時会議に出席して居た者の一人として私は反論したい。

  1. 『角田家秘帳』はそれ一部のみで持ち込まれたものではない。和田氏によって他の高楯城関連文書約三十巻程と一緒に高楯城史跡保存会の会議の際に持ち込まれたものの中に入っていたものであり、
 2. これを会議に出席していた角田義雄氏が拝見して、自分の先祖に関するものであるので、是非これを複製してもらえないかと懇願するので、当時はコピーもない時でしたので、私から達筆家であった木村実氏に頼み込んで、書写 して戴いたものです。従って、書体は木村実氏自身の流麗な書体です。これをどの様な筆跡鑑定によって和田氏の筆跡と判定したのでしょう。        
 3. 交換された像といわれるが、「万里小路藤房像」は角田家でその様に伝承されて来ているとして、角田義雄氏が御自身で持参されて来たものです。
 4. 木村実氏の長女小杉寛子さんは、失礼ですが何か誤解されて居る様です。『角田家秘帳』は「木村実氏の自筆」であります。故木村実氏は地元のすぐれた書家であり、その流筆には何ら“偽筆”めいた点のない堂々とした本人の自筆の筆跡である事は、故木村実氏の名誉のためにも、書写 を頼んだ者として声を大にして申し述べたいものであります。書体を見れば素人の私でも『角田家秘帳』と『和田家文書』が完全に筆跡が異なる事がわかります。
 これをもしも和田喜八郎氏の捏造と強弁するのは、これこそ一方的判断による短絡的結論で無実の人々を誹謗中傷している事になるのではないでしょうか。
<続く>

【資料解説】上図は『季刊邪馬台国』五二号掲載の『角田家秘帳』。下図は本物の和田家文書。『角田家秘帳』は模写 のため字形などは和田家文書に似せているが、運筆が流れるような曲線的で線の太さも流麗に変化している。比べて、和田家文書の方は書き慣れてはいるが運筆が我流であり直線的で、両者の筆跡は明確に異なる。偽作論者、安本美典氏らはこの程度の違いも判らない「鑑定眼」の持ち主ぞろいのようである。(編集部)



東日流外三郡誌は偽書ではない(3)

山王坊、十三湊についての認識から生ずるもの

青森県中里町 青山兼四郎

 十三湊
 津軽半島の北西部、岩木(巌鬼)川の河口、港十三湖の西部分に位 する。海上通路とつづく田光沼・田子屋野遺跡は、津軽海峡の成立・旧石器時代円筒容器の遮光器土偶のつくられた頃以前、即ち青森三内遺跡と同じ頃か、既に海上交通 が進められた縄文時代の相当な基地として発達したものと推定せられる。然しながら中部日本海地震などにより巌鬼山が噴火して、その海岸線にも更に変化をもたらしていった。
 北の水戸口は早くから五月女范原より渡しにより更に北の誇松(磯松)に通じる。南は十三道をすぎて車力村富范へ通 じ、西は前潟、内湖、明神沼と続き、七里長浜を隔てて日本海(滄海)に出る。東は安東浦(十三湖)に面 し、貿易と漁業に、今も蜆貝と観光を主な産業としている。昭和三十四年に完成した日本一の木橋は老朽化して解体され、現在の鉄筋コンクリートの永久橋は五十四年に竣工した。
 更に明治二十二年に磯松村と合併した脇元村と西津軽郡であった十三村と合併したのが昭和三十年。その際に以前より十三湊は四浦の一つであったが四は死に通 じて縁起が悪いとの理由から現在の市浦村と命名している。古くは陸奥国津軽郡郷帳に行政機構として十三町奉行が置かれ、奉行二人、町同心警護・町同心・町年寄八人、名主二人、月行事七人、勤番目付一人、別 段取締役一人を配置していた。なお正保二年には遠見番屋、寛文五年には沖横目が置かれている。湊十三として滄海を通 る密貿易船の取締まりや遭難船の監視に当たったと津軽家御定書にある。また同四年には十三蔵奉行と居鰭横関、同九年に十三御材木奉行が置かれた。ロシヤの南下に対して沿岸防備のため大筒役二人が置かれている。
 十三湊は平安前期より殊の他貿易が盛んであり、『十三往来』には「奥州津軽十三湊於新城」と見え、天文年間の津軽郡中名字に十三湊を下郡潟内とも呼んでいた。十三の読み方は中世は「トサ」、近世は「ジュウサン」という。語源には諸説があり、トは湖溜水、サは海辺近くに広がる意という。またこの湖に注ぐ川が十三を数えるからとの説、熊野信仰による十三塚に起源を求める説がある。斉明紀四年四月に「有間浜に、渡嶋の蝦夷らを召し聚へて、大いに饗たまひて帰す」とある。
 安東氏は十三湊を根拠地に鎌倉幕府の水軍として活躍し、滄海のみにとどまらず小浜港、琵琶湖、瀬戸内海、九州方面 にまで交通網を拡げていた。そして南方方面ジャワ・スマトラ・印度洋にまで航行しえたのも強力な軍船でもあったからである。
 その鎌倉中期ころ我が国の人口は大凡三百六十万人を数えた。三津七湊といわれたころの港十三近辺の人口は十二万人ないし二十万人を形成していたという。日本海有数の港であり『十三往来』の中に「新町並棟振軒数千万家造商人売買任心」とあり、まこと繁栄の様が推測されるが、興国元年(一三四〇)の白髭水とも呼ばれる大津波は我々の予想をはるかに超えた大きなもので、東日流の大里は壊滅的な被害を受けたものと思う。今も河川改修や道路改良のときに生々しい被害の痕跡が随所にみられる。いかにその後の発展の障害になったか計り知れない。
 十三湊は青森・鯵ケ沢・深浦とともに四浦と呼ばれ、廻船として主役を演じ、上方文化を流入したのはベンザイ船であったと思う。津軽平野の米は岩木川の各河港の板屋野木(板柳)湊(五所川原)などより十三湊へ多く運ばれ、中山山地・梵珠山地より木材が積出されていたのであり、茶・酒・醤油・薩摩芋・梨・西瓜・菓子などの食品、畳表、唐傘や津軽塗物、玩具・雑貨類などすべてについて上方と交易していた。
 だがこの中世の中部地震の影響によって湊は復旧されることなく、今もなお発展できないため後進県の名が残っている。東廻航路による江戸への廻米が青森から、西廻航路の上方米はこの後、鯵ケ沢湊が利用されて積み出されることになってから、次第に十三湊はその地位 を鯵ケ沢に譲り、かつての全盛から衰微するに至った。この頃より福島城も山王千坊・日吉神社もやがて南部藩の治政下に入り、百五十三年間にわたりその勢力圏に支配されることになった。       
 このように安東水軍の拠点であった十三湊の繁栄については、日本海には縄文以前から「石刃(せきじん)文化の道」があり、この列島に画期的な旧石器革命をもたらしている。また縄文時代には「黒曜石の道」があり、縄文人すなわち古代狩猟人に必要な黒曜石(矢じり用)を沿海州の奥深くまで運んでいた。このことではまた、弥生以前の各種雑穀農業も、この道を経由して日本列島に展開している。五世紀頃には「馬の道」が開け、北海道や東北に優秀な種馬が沿海州から運ばれていた。奥州が名馬の産地として安部一族に強力な力を与えていたのもこの馬の道が開けたお蔭だったのである。
 アテルイの強力な抵抗を背後で支えたのも沿海州勢力であったと伝えられる。平安中期からの安部氏の急成長も、この日本海交易なしには全く考えられないものがある。カムチャッカ(北木沈日国)、オホーツク海(豊漁海)、樺太(北日高)、サガレン(沿海州)よりタイワン(琉球)、南シナ海(冬無海)、マライ(羅越国)、広東(奥南)、カンボジア(扶南)、ビルマ(比留麻)、インド(大天竺)など、カムチャッカよりインド洋に及ぶこの広大な海域での当時の安東水軍と貿易船の活躍は世界随一と認めなければならない。
 私たちには『東日流外三郡誌』を除けば「安東水軍」の活躍について史料はきわめて乏しい。鎌倉時代に関東御免の津軽船として、日本海航路に活躍したことをみる程度だった。だが実際には瀬戸内海は勿論、熊野地方の海上にもその航跡は及んでいた。紀州熊野にこそ安東船が出入りしていたことは現在でも紀州より入ってきた部族が津軽にたくさん居住していること、なかでも安東船について詳しく述べている古文書(米良文書)に残っている。九州最大の水軍である松浦水軍に、自分たちの祖は安東水軍から出たという伝承もある。

 日吉(ひえ)神社
 日吉神社は相内集落の東北方、岩井に位 置し、相内川支流の山王坊川流域の林に鎮座す る。安東氏が福島城の鬼門の鎮護として祀ったと伝えられるが、山王造りの京風二重鳥居は近隣に見ることはない。私たちはこの鬼門鎮護の守り神説を否定するものではないが、遠く縄文以前より弥生を経て滄海時代より安東船が航海して文化を運び来たったことを現地で認識している。既にこの時代より若狭湾、小浜湊、舞鶴湊経由、福知山・綾部を経る、または朽木か高島・西近江路から琵琶湖雄琴、坂本に至り、延暦寺・日吉神社・比叡山を深く信仰していた記録を見る。
 菅江真澄の「外浜奇勝」にも次のようにある。「その沢奥に、山王坊とて寺のあともありき。そこに、世に名聞こえたる弘智法印住み給ひて、・・・山王坊にやまねびし給ひたらんか。かの沢のそこに、としふる石碑どもまろび埋れたりしを、近き世に此里のところどころに、もて運び建てしなどかたり・・・」。「津軽俗説選」にも山王坊(山王三千坊有古跡)とみえ、五輪搭やその他の古碑が多くあったことが知られ、十三千坊の中心としての繁栄を推定するとある。近年ようやく発掘調査が行われその全貌がわかりつつある。明治初年の神仏分離により山王宮の称号をやめて日吉(ひえ)神社と改名し、飛竜宮境内へ移したとある(神仏混淆神社調書)。このことは、秋田市の山王通 りと今にその名をとどめていることと同じく、京都、大阪、堺市に連なる上方文化の遺産である。
 平泉文化の最盛期には日本列島は寒期に入り、農業生産は低下していた。平安貴族などの描写 を見ても栄養失調型となっていて、生活は極めて貧しかった。藤原三代の栄華にしても農業の収益では経済がもたない。この生産力低下をカバーするのには砂金と良馬だけでは不十分であり、おそらく鉄貿易が重要な地位 を占めていた。鉄は平安前期より末期の戦乱には殊の外不可欠の資源であった。戦乱には勿論であるが、一方農業生産の拡大にも奥州産の鉄を使用した農器具が大きな役割を果 たしたものと推測される。以上のように砂金と産鉄のことは古来より東北で知られていたが、それを一層高めたのは海外との文化の交流であった。         
 坂上田村麻呂の年貢問題も征夷という名の国家統一事業も、その主目的は農地の確保や住民統治よりも、この日高見国の砂鉄資源と製品・製法の収奪にあったのである。コガネは黄金というよりも粉金(砂鉄資源)であり、鉄はマガネ(真金)と呼ばれて砂金以上の値打ちがあったのである。さて、これらの東北の古代産業、文化の発展に重要な役割を果 たしたのは、荒吐族発生の地である東日流十三湊であった。 十三湊はのち室町時代の廻船式目にもあるように日本海の重要な港湾である「三津七湊」
の一つであることは、北方の最優良海湖で環境共に整っていたからである。「三津」とは伊勢の安濃津、筑前の博多津、和泉の堺津であり、「七湊」とは越前の三国、加賀の本吉、能登の輪島、越中の岩瀬、越後の今町、出羽の秋田、そして東日流の十三湊である。このように、七湊のすべてが日本海側にあり、如何に古代から中世にかけて、日本海運航路がその中心であったかを知ることができよう。
瀬戸内海は海というよりも「河」だったと判断している。そしてこの最北端オホーツクより、印度洋に航海した港こそが十三湊であり、安東水軍の前身である安部水軍・荒吐水軍である。それより更に東日流外三郡誌には、安日、長髓彦の亡命した十三水門(みなと)とあるから荒吐族以前からも良港として機能していたのである。石刃文化の道・黒曜石の道・馬の道などの発着港だったのである。これらのことについて三郡誌に記載あるとおりで、このような遠洋航海については神仏の加護が現代も絶対に必要であり、ましてや古代の航海については、「日枝・日吉神社」の加護こそ安東水軍と共に信仰祈念はわたしたちの想像する以上のものであった。寛政奉納額こそこの実態を祈願したものであり、東日流外三郡誌の完成と相俟って偉大な行跡といわなければならない。 十三史談会員であった故奥田順蔵村長、故福士貞蔵今泉小学校長は現地で教鞭をとる傍ら北奥羽と十三湊の発達史を調査されていた。この寛政奉納額を拝見した当時の両先生の心境をつぶさに思う時、この北奥羽の事実を天下に発表される意気こそ、今髣髴と或いは幻影のごとく目前にちらつく。外三郡誌と両先生の史実発掘の意志に感激しながら、静かにこの稿を捧ぐ。


これは会報の 公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集~第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)

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