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平成・翁聞取帖『東日流外三郡誌』の真実を求めて(『新・古代学』第3集)へ

1995年 6月25日 No.7

古田史学会報 七号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫
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インタビュー

和田家「金光上人史料」発見のいきさつ

佐藤堅瑞氏(西津軽郡柏村・淨円寺住職)に聞く

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 昭和二十年代、和田家文書が公開された当時のことを詳しく知る人は少なくなったが、故開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)とともに和田家の金光上人史料を調査発表された青森県柏村淨円寺住職、佐藤堅瑞氏(八十才)に当時のことを語っていただいた。佐藤氏は昭和十二年より金光上人の研究を進めておられ、昭和三十五年には全国調査結果や和田家史料などに基づき『金光上人の研究』を発刊されている。現在は青森県仏教会会長などの要職も兼ねておられる。「正しいことの為には命を賭けてもかまわないのですよ。金光上人もそうされたのだから。」と、ご多忙にもかかわらず快くインタビューに応じていただいた。その概要を掲載する。(編集部)
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--和田家文書との出会いや当時のことをお聞かせ下さい。

 昭和二十四年に洞窟から竹筒(経管)とか仏像が出て、すぐに五所川原で公開したのですが、借りて行ってそのまま返さない人もいましたし、行方不明になった遺物もありました。それから和田さんは貴重な資料が散逸するのを恐れて、ただ、いたずらに見せることを止められました。それ以来、来た人に「はい、どうぞ」と言って見せたり、洞窟に案内したりすることはしないようになりました。それは仕方がないことです。当時のことを知っている人は和田さんの気持ちはよく判ります。
金光上人の文書も後から作った偽作だと言う人がいますが、とんでもないことです。和田さんに作れるようなものではないですよ。どこから根拠があって、そういうことをおっしゃるのか、はっきり示してくだされば、いくらでも反論できます。ただ、こうじゃないだろうか、そうじゃないだろうかという憶測や、安本美典さんでしょうか、「需要と供給」だなんて言って、開米さんや藤本さんの要求にあわせて和田さんが書いたなどと、よくこんなことが言えますね。

--和田家文書にある『末法念仏独明抄』には法華経方便品などが巧みに引用されており、これなんか法華経の意味が理解できていないと、素人ではできない引用方法ですものね。

 そうそう。だいたい、和田さんがいくら頭がいいか知らないが、金光上人が書いた『末法念仏独明抄』なんか名前は判っていたが、内容や巻数は誰も判らなかった。私は金光上人の研究を昭和十二年からやっていました。
それこそ五十年以上になりますが、日本全国探し回ったけど判らなかった。『末法念仏独明抄』一つとってみても、和田さんに書けるものではないですよ。

--内容も素晴らしいですからね。
 素晴らしいですよ。私が一番最初に和田さんの金光上人関係資料を見たのは昭和三十一年のことでしたが、だいたい和田さんそのものが、当時、金光上人のことを知らなかったですよ。

--御著書の『金光上人の研究』で和田家史料を紹介されたのもその頃ですね
(脱稿は昭和三十二年頃、発行は昭和三十五年一月)。

 そうそう。初めは和田さんは何も判らなかった。飯詰の大泉寺さん(開米智鎧氏)が和田家史料の役小角の調査中に「金光」を見て、はっと驚いたんですよ。それまでは和田さんも知らなかった。普通の浄土宗の僧侶も知らなかった時代ですから。私らも随分調べましたよ。お墓はあるのに事績が全く判らなかった。そんな時代でしたから、和田さんは金光上人が法然上人の直弟子だったなんて知らなかったし、ましてや『末法念仏独明抄』のことなんか知っているはずがない。学者でも書けるものではない。そういうものが七巻出てきたんです。
        
--思想的にも素晴らしい内容ですものね。

 こうした史料は金光上人の出身地の九州にもないですよ。

--最近気付いたことなんですが、和田家の金光上人史料に親鸞が出て来るんです。「綽空(しゃっくう)」という若い頃の名前で。
  
 そうそう。

--親鸞は有名ですが、普通の人は綽空なんていう名前は知らないですよね。ところで、昭和三十一年頃に初めて和田家史料を見られたということですが、開米智鎧さんはもっと早いですね。

 はい。あの方が一番早いんです。

--和田さんの話しでは、昭和二十二年夏に天井裏から文書が落ちてきて、その翌日に福士貞蔵さんらに見せたら、貴重な文書なので大事にしておくようにと言われたとのことです。その後、和田さんの近くの開米智鎧さんにも見せたということでした。開米さんは最初は役小角の史料を調査して、『飯詰村史』(昭和二十四年編集完了、二十六年発行)に掲載されていますね。

 そうそう。それをやっていた時に偶然に史料中に金光上人のことが記されているのが見つかったんです。「六尺三寸四十貫、人の三倍力持ち、人の三倍賢くて、阿呆じゃなかろうかものもらい、朝から夜まで阿弥陀仏」という「阿呆歌」までがあったんです。日本中探しても誰も知らなかったことです。それで昭和十二年から金光上人のことを研究していた私が呼ばれたのです。開米さんとは親戚で仏教大学では先輩後輩の仲でしたから。「佐藤来い。こういうのが出て来たぞ」ということで行ったら、とにかくびっくりしましたね。洞窟が発見されたのが、昭和二十四年七月でしたから、その後のことですね。

--佐藤さんも洞窟を見られたのですか。

 そばまでは行きましたが、見ていません。

--開米さんは洞窟に入られたようですね。

 そうかも知れない。洞窟の扉に書いてあった文字のことは教えてもらいました。とにかく、和田家は禅宗でしたが、亡くなった開米さんと和田さんは「師弟」の間柄でしたから。

--和田さんは「忍海」という法名をもらって、「権律師」の位 だったと聞いています。偽作論者はこれもありそうもないことだと中傷していますが。

 正式な師弟の関係を結んだかどうかは知りませんが、権律師は師弟の関係を結べばすぐに取れますからね。それでね、和田さんは飯詰の駅の通りに小さなお堂を建てましてね、浄土宗の衣着て、一番最下位(権律師)の衣着て、拝んでおったんです。衣は宗規で決っておりますから、「あれ、権律師の位 を取ったんかな」と私はそばから見ておったんです。直接は聞いておりませんが、師弟の関係を結んで権律師の位を取ったと皆さんおっしゃっていました。

--それはいつ頃の話しでしょうか。

お寺建てたのは、洞窟から経管や仏像が出て、二~三年後のことですから昭和二十年代の後半だと思います。

--佐藤さんが見られた和田家文書はどのようなものでしょうか。

 淨円寺関係のものや金光上人関係のものです。

--量はどのくらいあったのでしょうか。

 あのね、長持ちというのでしょうかタンスのようなものに、この位の(両手を広げながら)ものに、束になったものや巻いたものが入っておりました。和田さんの話では、紙がくっついてしまっているので、一枚一枚離してからでないと見せられないということで、金光上人のものを探してくれと言っても、「これもそうだべ、これもそうだべ」とちょいちょい持って来てくれました。大泉寺さんは私よりもっと見ているはずです。

--和田さんの話しでは、当時、文書を写させてくれということで多くの人が来て、写 していったそうです。ガラスの上に置いて、下からライトを照らして、そっくりに模写 されていたということでした。それらがあちこちに出回っているようです。

 そういうことはあるかも知れません。金光上人史料も同じ様なものがたくさんありましたから。
                    
--和田さんと古文書の筆跡が似ていると偽作論者は言っていますが。

 私の孫じいさん(曾祖父)が書いたものと私の筆跡はそっくりです。昔は親の字を子供がお手本にしてそのまま書くんですよ。似ててあたりまえなんです。

--親鸞と弟子の筆跡が似ているということもありますからね。

 そうなんです。心魂込めて師が書いたものは、そのまま弟子が受け継ぐというのが、何よりも師弟の関係の結び付きだったんですから、昔は。似るのが当り前なんです。偽物だと言う人はもう少し内容をきちんと調べてほしいですね。文書に出て来る熟語やなんか和田さんに書けるものではありません。仮に誰かの模写であったとしても模写と偽作は違いますから。
 和田さんが偽作したとか、総本山知恩院の大僧正まで騙されているとか、普通言うべきことではないですよ。常識が疑われます。

--当時の関係者、福士貞蔵氏、奥田順蔵氏や開米智鎧さんなどがお亡くなりになっておられますので、佐藤さんの御証言は大変貴重なものです。本日はどうもありがとうございました。

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◎日 時 五月五日 午後三時~四時半
◎場 所 青森県西津軽郡柏村・淨円寺
◎聞き手 古賀達也
◎文 責 編集部


和田家文書との出会い(3) 青森県藤崎町 藤本光幸


「山王日吉神社」考(2)京都市 古賀達也


斎藤隆一氏への進言

静岡市 上城誠

 『季刊邪馬台国』五六号での、貴方の論考「偽書を擁護する人たち」を読ませていただきました。同書二一七頁~二一八頁で、貴方が取り上げられた和田喜八郎氏自身の「過却」使用例、「大国という大国は、その故因にあった過却を見るに」「過却の因果か洗脳史に依る」そのどちらも「単なる時間的過去」を表現している「過却」の使用例であり(私の云うAタイプ)、何等、私自身への反論となっていないばかりか、私が述べたように、和田喜八郎氏の使用する「過却」は「過去」の意味でしかないという論点を証明しているのではないでしょうか。貴方は和田喜八郎氏の使用するBタイプの「過却」を提示しなければなりません。それなしには、貴方の論考は私の文章を全文読んでいない読者に対してのみ「成立」するもののようです。
 また、「進化、銀河系、光年、宇宙の年齢等々」については、現在調査研究中であり、近いうちに発表させていただくつもりであり、決して「棚上げ」しているわけではありません。それゆえにこそ、「調査、研究の出発点で有り、結論を出せるものとは思えない」と述べたのです。貴方の恣意的な文章読解力とそれに依存した文章表現には驚かされます。まして、二二三頁で展開されている「冥王星」出現問題についても、私が平成六年十二月二十六日発行の「古田史学会報」四号で報告済みであり、逆に、ここにこそ「和田家文書」真作の確証を感じつつあるのです。この点も発表の機会があると思います。貴方は「真作説論者」は、「冥王星記録問題」を気付いていない、あるいは回避していると思わせたいようですが、これも一種の情報操作なのでしょうか。
 さて、貴方の思考方法が不思議に感じられるのは次の文章です。「しかし、後世に加筆や改竄された文書は(真作)ではない。追記箇所が判別できない以上、史料価値がないに等しい。」
 良くお読み下さい。自分自身の文章なのですから。貴方は、ここで「偽作」の許容範囲を拡大しようとしているのです。史料価値がないものは「真作」ではない、とは、もう言葉もありません。史料として使用できる「真作」と使用できない「真作」があるだけではないでしょうか。貴方自身の文章が貴方の「現代人(和田喜八郎氏)偽作説」を裏切っているのです。
 私は斎藤さんには京都で一度しかお会いしておりませんが、決して人格的に云々というような気持はありません。ただ、もう一度自分自身の論考を追試してみられる事を進言したいだけです。申し上げたいことはまだまだありますが今回はここ迄に致します。立場は違いますが、なるほどと思う論考を期待しております。


「民活」偽作論の虚妄 京都市 古賀達也


東日流外三郡誌は偽書ではない(2) 北津軽郡中里町 青山兼四郎


◇◇ 古田武彦が読む ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 書評 ◇◇◇◇

 「邪馬台国への道」

朝日新聞西部本社編(不知火書房・一五〇〇円)


◇◇ 連載小説 『 彩  神 (カリスマ) 』 第 二 話 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇

月の精(一)

--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇深 津 栄 美
〔第一話「太陽神流刑」の概略〕
 西暦紀元前十一世紀、縄文時代の半ば頃、現壱岐・対馬、それに隠岐の島を中心とする天国(あまくに)の長、八束には、亡き先妻との間に淡島という息子があったが、後添(のちぞい)に入った最愛の人那美との間に昼彦という男子が生まれた為、こちらに跡取の印の藍玉 を与える。だが、淡島は、乳母であり父子双方の妾でもあるみづほにそそのかされ、昼彦を葦船に乗せて海へ捨ててしまう。そうとは知らぬ 八束は、「北の大門」(現ウラジオストク)渡航を敢行するが、後を追って来た留守居役に急を告げられ、淡島は父の眼前でみづほを切り、自分も海中へ投身する。
     ◇          ◇
□□□□□□ 第二話「月の精」□□□□□□

 金の滴、降れ降れ、回りに銀の滴、降れ降れ、回りに……

 娘達が歌っている。河原に搖れる花々は一本、又、一輪と白い指につみ取られた。紺青の桔梗、桃色の柳蘭、白、黄、赤い野菊の茂みにバッタが隠れ、トンボが宙に銀の線を描いた。

「もうすぐ秋祭りね。」

 一人が振り返る。
 後ろの斜面の下には屋根に石を載せ、かろうじて丸太に支えられているような、半分ひしゃげた小屋が並んでいた。前後の庭には洗い立ての布が竿に広げられ、ある物は滴を光らせ、ある物は風になぶられている。食事にはまだ間があるのに、方々から薄青い煙が立ち昇り、煮物の匂いが流れて来る。心なしか、火のはぜる音や、その上に滾(たぎ)る鍋の歌までが聞こえそうだ。

「花や鳥ではありふれているし、貝や波模様ではみすぼらしいし……。」

 娘達が溜息を洩らすと、

「今年は王様の秋狩りが催されるから、困ってしまうわ。」

 友達が相槌を打って、

「細烏(さいう)さん、良い知恵はない?」

 脇へ呼びかけた。
「えっ!?」

 細烏と言われた女性は、不意を突かれたように向き直る。

「御免なさい、何て言ったの? 考え事をしていたものだから……。」
「嫌だわ、晴着の相談よ。」

 娘は打つ真似をしたが、

「昨日も旦那様の夢を見たの……?」
と相手を覗き込んだ。労わりとも揶揄ともつかぬ表情が、目に浮かんでいる。  

「思い詰めない方が良いわ。」

「お祭りになれば、延王(えんおう)様もきっと帰っていらっしゃるわよ。」

 娘達は口々に慰め、細烏は頷いたが、当てる視線はやるせなげだった。沖に霞む船上では今頃、投網(とあみ)を中止して土器(かわらけ)を持ち出し、竈を焚いて昼食(ひる)の最中だろう。船主も舵取も車座になり、スグリ酒を嗜(たしな)んで赤銅色の顔を綻ばせているかもしれない。かつての夫同様に ……。
 舳(へさき)をカモメが舞っている。羽先の黒い白鳥(しらとり)よ、私がそなたであったなら呑気に餌など探さずに、真直天国(あまくに)へ飛んで行くのに……天国は対海(つみ:現対馬)、一大(壱岐)、三児島(みつごのしま:隠岐)を中心とする海上の島国だ。岩と砂の多い韓(カラ:南朝鮮)とは違い、眩い緑が島中を覆い、そなたの仲間も沢山遊んでいるし、銀の魚が始終波間に躍り、果 実や清水(せいすい)にも事欠かない。夫は今、そこで霊泉の桶を頭に載せ、社の長い石段を上がり下がりしているのだろうか……?」 神に捧げる松明をかざし、火焼屋(ひたきや)から社への暗い山道を走らされているのでは……? カモメよ、もし夫に会ったなら、あの人の服の切れ端なりと私の許へ届けておくれ--。                    

 再び漁が始まったのか、遠くで銅羅が鳴る。

「あら、馬が走って来るわ。」
  
 誰かが叫んだ。
 鬣(たてがみ)をなびかせ、黒い影が素晴らしい速さで土手を近づいて来る。

「大した駿馬ね。」
「騎手(のりて)も美(い)い男振りじゃない?」

 娘達の品定めは、出し抜けに悲鳴に変わった。
 馬が泥寧(でいねい)に足を取られ、転倒したのだ。 (続く)
    ◇           ◇
[後記]
 今回から第二話に入らせて頂きます。「風土記にいた卑弥呼」の後半に出て来る「延烏郎・細烏女の話」に、やはり『三国遺事』中の「首露王とインド・アユダ国王女許皇后の婚姻談」(「駕洛国記・元嘉二九年<四五二>)記事をヒントにしました。インドの姫君が朝鮮王にお嫁入りするのは、「海のシルクロード」を考えれば何の不思議もない、と私には思われますが、いかがでしょう。(深津)

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(編集部)本号より『彩神』第二話「月の精」が始まりました。作者深津さんは『短歌』(角川書店)五月号に作品が佳作に入選されるなど、多方面 で御活躍中です。


古田史学「批判」の終焉

 ある「書評」 読後感

奈良市 太田齊二郎

「市民の古代/関東通信第十一号」に、「九州古代史の謎」荒金卓也(以下「本書」)に対する川村明氏の書評が載っております。
 その要旨は次のようです。

【A】九州王朝説は、中国史書の分析によって提起された筈なのに、「本書」は「その後の研究の展開」例えば
【a-1】 「通典」の存在や、
【a-2】 「古代史のディベート」その他の反論に触れておらず、これらの批判を読んでしまった人に対しては全く説得力がない。
【B】本を出す時は、自分の支持する説に批判的な論文や原典をきちんと読むべきだ。

 以下、素人の私見を述べさせて頂きます。

【A】川村氏は勘違いをしているようです。
 「本書」は九州王朝説の本筋議論を避ける学界の疲弊を案じた筆者が、同説を一般 に分かり易く紹介する為のものであって、筆者独自の補強はあっても決して同説に対する異説に迄、触れようとしたものではありません。
 従って、川村氏は「本書」の批判の前に、九州王朝説を無視する、いわゆる「大家」達を非難すべきでした。自分の意に添わないと言う思惑から、「本書」の本題を避け、恨みと中傷に終始するようなものが、はたして書評の名に値するのでしょうか。
 以下は素人による蛇足です。

【a-1】「通典」
「市民の古代ニュース一二四号」で秦政明氏は「日本列島に関する唐代の史書類は奈良朝によって管理された情報に基づいている」と述べています。
 奈良朝が日本列島の代表の地位を得た当時の両国の関係から、これは当然と思われ、通典が「倭一名日本」と言う管理された情報をそのまま記述した事もうなずけます。
 しかし、その管理された情報による記事をいつまでもそのままにしておく事が出来なかった唐は、「旧唐書」においては、日本国の使者を「実をもってこたえず」と非難し、別 国である倭国を誤解のないように、日本国の直前に配置したのではないでしょうか。私にはこのようにな理解しか出来ません。

【a-2】「古代史のディベート」
  この本が主張する所、それは「直接証拠」が無いから「九州王朝」の存在を信じる事は出来ない、と言う事のようです。 
 これは弁護士久保田氏の立場である「疑わしきは罰せず」、からは当然の帰結でしょうが、学問の世界では通用しません。何故なら学問においては「直接証拠」の無い事が、その研究テーマの出発点だからです。    
 双方の議論において、結局は「状況証拠」の質と量、どちらの主張がリーズナブルかでその是否が決まるのではないでしょうか。
 更に、この「ディベート」には、古田氏に関して、見逃せない誤認がありました。

「ところで、私は古田氏は「毛民」の用例を自ら山海経と淮南子に見い出したのだと思い、適切な例であるかどうかは別 として、その博識、博引には感嘆していた。ところが(中略)の中に、古田氏の挙げた「乍A乍B」の三つの用例がそっくり諸橋大漢和辞典にあると書いてあるのを見て、或いはと思って最近諸橋大漢和を見たら、古田氏の言う毛民の二例がそこにあることを見出した。

 これには正直なところがっかりした。私は古田氏を、必ずしも追随できない新奇な説を立てるが、よく勉強している人だと思っていた。しかし、辞典から引用したのであればそう書かねばならない。それを伏せている事は人間性の問題になる。」(同書三三〇頁)

 この見解は極めて不当なものです。「諸橋」は中国書に興味を持つものなら、誰でも知っている辞書です。そこに中国史料からの引用例が存在する事を伏せ、

 私は「諸橋」を知りません。だから自分で直接「山海経」「淮南子」から「毛民」の用例を見つけたのです。
 等と言う学者が、はたしているでしょうか。

 おまけに、久保田氏は、この「乍A乍B」ついて、その参照源が「諸橋」である、とする古田氏の記述(「多元的古代の成立(上)二七三頁後註」八三年駸々堂)を見落すと言う重大な過ちを犯しております。

 自分の過ちに基づくこの久保田氏の中傷は「人間性」に触れているだけに、明白に名誉毀 損であり、のみならず「古田史学」の愛読者にも大きな影響を与えます。 その後、秦政明氏のように、この中傷に同調する人も出現し(「古代の風」5号)、今後の事が大いに心配されます。

【B】川村氏のこの心構えは、今尚九州王朝説の本筋に対する議論を避け続けている「大家」達に対して提示されるべきものです。
同時に、この提案は川村氏ご自身に対しても向けられるべきです。何故ならばこのような心構えは、他人の文章を非難中傷する時にこそ、より慎重且つ必要であり、残念な事には、本書評に関する限り、氏はうっかりそれを忘れているように見えるからです。

 以上が川村氏の書評が示すその中身です。氏の提示する「その後の研究の展開」も結局は「九州王朝説」の本筋へは触れ得ず、私のような「アマチュア」に対しては全くその「説得力」がありませんでした。

 【附記】
 「古田史学」を批判する彼等は、自分の主張は間違いなく世間の評価を受けるに違いないと信じているのでしょうか。彼等の論旨の背景には「古田史学」がその座標軸として存在しています。孫悟空が、おのれの力を仏陀に誇示しようとして斤斗雲に乗り、宇宙の果 てまで来たつもりが、まだまだ仏の手のひらの上だった、と言う寓話を思い出しますが、「非ユークリッド空間」ならぬ 「古田空間」から抜け出る事が出来ない自分に気づかず、その「座標軸」を貶す事のおかしさ、天に向かって唾を吐くとは、まさにこの事ではないでしょうか。
「古田史学」の末梢をいくら批判してもその本筋に揺らぎはありません。「大家」達に「古田史学」を公認させてこそ、初めて自分達の批判が生きて来るのであり、末梢批判に終始する事の本末転倒に、一日も早く気がついて欲しいと思います。
 これが、私のような素人に、このような拙文を決意させた最大の理由です。
(本文は「関東通信」編集局に対し、苦情として先に送付したものを、本誌投稿用に縮小し、変更を加えたものです。:太田)


『古田武彦先生』試論

札幌市 山本修一

 はじめに、かの「市民の古代研究会」の、超えんえんと続いた騒動がなければ、深い関心も抱かず、また先生とはじかにお会いすることもなく、ただの熱心な一読者で終わっていただろうとふりかえるとき、実に、幸運を恵まれたものです。郷土誌や風土誌、歴史学や考古学、文献史学、国史学などの専門家としての素養を持たない、言わば趣味から出発した読者層の場合、わたしもそうですが、個人の夢想はそれぞれ孤立した見はてぬ 夢想にすぎない。著者の発言を、多くこの胸に聞き学び、ささやかな歴史についての自身の疑問点をこれまた多くの回答をもらい、そして、人間の歴史に希望を見いだすべく、インスパイアされる、まあ、古田先生の実物の人間らしさに鼓舞されたというほうが近いかもしれませんが、そのような好機は一生に一度か二度でしょう。

 古田先生が端的に言って、『東日流外三郡誌』問題を契機に先般の裏切りにでくわしたのは、この十五年ほどを見ていると現代日本を象徴する流れでした。つまり、今や巨大になり、自明のような都市的文化の擬制、市民だ、民主主義だと誰もが尊大な表情になる、けれどその民主主義のために、これまで一滴とて血を捧げたことはない虚ろな現代の日本知識人の擬制、それが非寛容と排除の力学を駆使したのでした。またそれは異端の反天皇制の史学として氏を指弾するならまだしも、文献史学、資料批判の評価が定まってきた先生をその根本で『偽書』を担ぐひととして誹謗中傷しましたし、(これは現代史に残る文字どおりの誹謗中傷の事例となるでしょう。少なくてもわが子には伝え残します)受ける印象が何かフェアーでないのは、裏切った人々の人間性が卑しいものであることを示しています。
 この都市的文化は真に歴史であり、後世に誇るに足りると思うと、誰か言っています?
 もっとも彼ら諸氏にしてみれば、かの美典氏ではないけれど、「古田氏の論理は、非科学的、非論理的、非学問的で、メチャクチャであるうえ、かなりのインチキ、トリックをふくむ」のですから、もとより自身を疑ったことのない、常に都合の良い立場を心がける苦笑に足る人間ではあったわけです。ちょうど逆から眺めると、古田先生こそが、恐らく自らは当初意識せざるうちに、いま、現代日本の科学と論理学、アカデミズムの「まがいもの」の性格をあばきつつあることになるのでしょうが、しかも、氏の感性の跳躍はしばしば論理の常識を凌ぎ、ひとを瞠目させてやまない。

 かの美典氏の類にとっては、民衆史や近代の地方の知識家の行動力や、血の滴る歴史観の発見など思い及ぶべきもなし、です。『三郡誌』について言えば、東北についての偏見が当然であるかのように、氏たちは敗者としての東北がどうのこうのと述べるが、では、この日本全体そのものが、かつて絞首台にあがることを一度は覚悟した故昭和天皇の戦後の歴史上にただ単なる資本主義の隆盛を重ね合せて来たのではなかったのか。
 それは、負け犬の、市民権を偶然ただもらってしまった、まごうことなき擬制の民主主義、だったのだ。
 ところが現在、負い目を知らぬ、人類の犯罪的歴史を何事もなかったかのように、その言葉で軽く切って捨てる、そのような社会観の所有者も大量に生れたのも、これまた否定しがたい事実ですね。古田先生は、それに怒ってやっと社会に登場したような一存在だと思います。すでに歴史の真実と格闘する力量 のある思惟者が少なくなっています。

 過去、古田先生が『三国志』の陳寿をその心底から現代の我々にたいして擁護しつくしたように、(あの松本清張でさえ、あることないこと書く陳寿、という表現をした。なお考古学の森浩一さんが、結果 的にもっとも信頼してよい群をぬいた史家といっているのはその学問的経験からだそうである。)少々不遜な言い方ですが今は、北海道のの人間にとっては先生をささやかに擁護する古代史の会の役まわりがきたような気がします。
 最後に今回のまとめ役をつとめていただいた若々しい吉森さんの大がんばりに、本当に感謝します。

(編集部)本稿は「古田史学の会・北海道ニュース」創刊号より転載させていただいたものです。


□□東海例会の報告
古田史学の会・東海 五月例会報告
桑名市 横田幸男
一大国、天国と瀚海
 前回と同様薄暗く小雨の降りしきる中、第四回例会が行われました。 
 初めに横田が『太宰府の歴史と九州王朝』の概説を報告しました。中国古代(殷・周・春秋戦国時代)と南朝の太宰(府)に対する変遷を説明し、それに附き従う倭国と逆に自立した九州王朝の太宰府に対する歴史観を披露しました。これに対して林伸喜氏から「淡道宰…」と書いた木簡が藤原京?から出てきたとの報告があり、今後の研究の方向性が示唆されました。
 続いて瀬戸市在住の林伸禧氏から『群書類従』(正・続)に現れた古代逸年号の一覧が示され一同努力にただ敬服するばかりです。これの解析については次回にしようということになりました。             
 魏志倭人伝の読み下しでは林俊彦氏が諸橋大漢和辞典を引用して、再度失われた一大国->天国(一+大->天、あまこく)を論じました。これは更に【説文】や【易乾鑿度】に遡って調べることが必要です。それから資料として示した諸橋大漢和辞典の瀚海の項の中で史記・匈奴列伝とその注記で一大海との何らかの関わりを示唆する文言がありました。もちろん、史記・説文・易乾鑿度の資料性を確認してもう一度論ずべき課題ですが、一同新たな発見の芽に、討論の可能性を感じています。しかしながら他方失われた古代の記憶を復原する困難を感じています。      
 また帯方郡から倭国へ至る方角と距離を巡っては、いろいろな説が紹介され、実践的な解釈を求める意見が出され、おおいに啓発されました。
 また、静岡古代史研究会の上城氏から申し入れがあった、静岡での古田氏の講演会共催もしくは賛同も了解されました。
(参考資料)諸橋大漢和辞典
一部 【一大】 イチダイ 天の異称。
[説文・易乾鑿度]参照 一大の二字を合すると天の字となるからいふ。
水部 【瀚海】 カンカイ
[注]集会曰、如淳曰、瀚海北海名、{張守節}正義曰“瀚海自一大海名、烏解羽伏 乳於此、因名也”

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   関西例会の報告
古田史学の会・関西 五月例会報告
 和田家文書現地調査報告
 五月例会は古賀より和田家文書の現地調査報告を行いました。今回は現地に一週間滞在したため、多くの収穫に恵まれました。中でも昭和三十年前後から和田家文書の研究をされた佐藤堅瑞さんへの聞き取り調査、青山兼四郎氏や松橋宮司との再会、そして北海道の会の皆さんとお会いでき、素晴らしい調査旅行となりました。その一方で、和田家のご家族から、「村八分」の状態やイジメの問題などが切々と訴えられ、学問論争の域を越えた偽作キャンペーンに怒りを覚えました。   
 さて、今回の学問的成果としては『東日流外三郡誌』と『東日流内三郡誌』などのブラックライトでの蛍光試験による貴重な知見を得たこと。昭和二二年に天井から文書が落下した後、多くの人が和田家文書を書写 したり模写したという情報を得たことなどです。例会では概要のみ報告しましたが、今後さらに調査を続け、論文として発表する予定です。
 『古代は輝いていた』の輪読は時間の都合で今回はできませんでした。初めての参加者もあり、終了後も喫茶店で話しがはずみました。六月例会はお休みです。(古賀達也)


□□新刊の紹介□

続・天皇陵を発掘せよ(三一書房発行 九〇〇円)

藤田友治 共著

 好評だった『天皇陵を発掘せよ』の続編。 共著者の西田孝司氏は円墳だった雄略天皇陵が江戸時代から明治までかけて、別の古墳と合体造成が行われた結果 、現在の前方後円墳になった事実を近世文書などから解明され、藤田氏もまた継体陵が間違って比定されていることや、河内大塚古墳が昭和になってから住民を強制立ち退きさせて、陵墓参考地としたことなどを、古老への聞き取り調査によって、明白にされている。古代天皇陵が現代の問題でもあることを喚起した好著である。近年話題になった見瀬丸山古墳についても取り上げられ、「九州王朝(古田武彦氏提唱)という概念を排除していては、日本の古代史の解明はありえない」と著者は訴える。本書は早くも大きな反響を呼んでいるようだ。永年の藤田氏の努力を知る者の一人として、本書の刊行を喜びたい。(古賀達也)


会則案の提案

 本会が発足して二年目を迎え、おかげさまでここまで順調に発展することができましたが、会としての態勢を整え、会の目的と責任を明確にするために八月二七日に予定している会員総会で会則を採択したいと考えています。この間、事務局や世話人会にて検討を進めて来ましたが、ここに会則案を発表し、総会まで会員の皆様にご検討していただくことにしました。よろしくお願いいたします

古田史学の会・会則(案)

第一条 名称
 本会の名称を「古田史学の会」(略称:古田史学会)と称し、事務所を代表指定の場所に置く。

第二条 目的
 本会は、古田武彦氏の研究活動を支援し、旧来の一元通念を否定した氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

第三条 事業
 本会は、第二条の目的を達成するため、次の事業を行う。
一、古田史学の継承と発展、その宣伝顕彰に関すること。
二、会報「古田史学会報」、会誌の発行。
三、古田武彦氏講演会などの開催。
四、会員相互研修のための研究会等の開催。
五、友宜団体との交流および共同事業。

第四条 会員
 会員は本会の目的に賛同し、会費として年額三千円を納入する。会員は総会に出席し決議に参加できる。また、会報並びに会誌の領布を無償で受けるものとする。

第五条 組織
一、本会に次の役員を置き、本会の運営にあたる。
 代表一名。副代表若干名。事務局長一名。会計一名。会計監査一名。
二、役員の選出は全国世話人会の推薦により総会にて承認を受ける。任期は二年とし、再任を妨げない。ただし、役員に本会の目的に著しく反する行為が認められた場合は、全国世話人会の決議により解任することができる。
三、全国世話人は総会において選出する。任期は二年とし、再任を妨げない。
四、本会に顧問若干名を置く。顧問は代表が委嘱する。
五、本会に会報及び会誌の編集部を設ける。 編集部員は代表が任免する。

第六条 会議および議決
 定期総会、全国世話人会は代表が招集し、年一回開催する。必要に応じて臨時に開催することができる。役員会は随時開催する。決議は出席者の過半数の賛成を必要とし、委任出席を認める。

第七条 会計年度
 本会の会計年度は、四月一日にはじまり、翌年三月三十一日までとする。

第八条 その他
本会則に定めなきことは、全国世話人会の決議、あるいは全国世話人会の定める細則によるものとする。
 本会則は一九九五年八月二七日より施行する。


□□事務局だより□□
○待望の新研究誌『新・古代学』がいよいよ創刊されます。和田家文書偽作論への全面的反論の幕開けでもあります。本会も全力をあげて『新・古代学』を育てていきたいと思います。皆様も是非お買い求め下さい。そして多くの友人にもご紹介をお願いします。
 第1集は古田先生や多元の会・関東、中でも青山富士夫氏のおかげで無事発刊にこぎ着けました。深く感謝するところです。
○九五年度会費を御納入いただき有難うございます。これからも御期待に応えられますよう頑張ります。また本会報への御寄稿もよろしくお願いいたします。
 会費がまだの方は、前号に同封した振込用紙で納入のほどよろしくお願いいたします。九五年度会費は三千円です。本年は会員論集の発行を計画しています。皆様の論文・エッセイなども募集中です。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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