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古田史学会報
1996年 8月15日 No.15
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法隆寺の中の九州年号

聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎

京都市 古賀達也

 法隆寺釈迦三尊像光背銘にある法興が九州年号であることが古田氏より指摘されているが、いま一つ九州年号を記したと思われる文書が法隆寺にあるらしい。あるらしい、というのも、将来にわたって永久に封印するという法隆寺の方針により、誰も見ることができないからだ。それは、「善光寺如来の御書箱」と呼ばれているもので、昭和資材帳調査時(昭和六〇年)のレントゲン撮影では三巻の巻物らしい物が確認された。封印されているため誰も見ることはできないはずだが、明治五年に明治政府の強引な調査により、箱は開かれ、その時の写しが東京国立博物館にあったことを法隆寺住職高田良信氏が著書『法隆寺の謎と秘話』にて明らかにされている。
 その写しは善光寺如来から聖徳太子への返書の一つで、他の二つは写されていないためか、同書には紹介されていない。
 この御書箱の中には、善光寺如来から聖徳太子への返書が入っているという寺伝があるそうで、その内の一通 が東博に残っている写しのものであろう。この封印された文書は、幸いというか、いくつかの文書に書写されており、その概要は把握可能だ。手紙の内容自体、それほど大したものとは思われないが、そこに記された年号に九州年号の定居・大化・法興などが見られ、興味をひくところである。もっとも、ここでの法興は、光背銘の「法興元丗年」を「法興元世年」と読み誤ったもののようで、後代偽作と思われる。他の九州年号は諸本により異同があるようで、すでに混乱した様相を示している。
 御書箱にあるのは三通のようであるが、善光寺如来との往復書簡は三回に及ぶといわれていることから、双方で六通の存在が諸書に見える。そこで、善光寺側の伝承を調べて見ると、予想通り聖徳太子との往復書簡の存在を伝えていた。
 天明五年(一七八五)に成立した『善光寺縁起集註』に記された聖徳太子からの手紙には九州年号の命長と法興が使われていた。この法興も先の法隆寺側史料と同様に後代偽作のようだが、命長の方は検討に値するように思われた。命長が使われている聖徳太子の手紙とは次の様なものである。

            御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
         斑鳩厩戸勝鬘 上

 九州年号の命長七年は六四六年にあたり、干支は丙午である。この手紙の「丙子」とは異なる上、聖徳太子の時代(五七四〜六二一)ともあわない。一見、混乱した様相を示しているが、私には逆にこの手紙だけは「本物」と思われるのだ。それは次の理由からだ。
 1. 命長七年の干支が丙子とあるのは丙午の誤写の可能性も有しているが、聖徳太子の時代の丙午は五八六年で、太子はまだ十三才のため、丙子(六一六)に書き改めたのではないか。
 2. もし、後代に九州年号を使って偽作するのであれば、わざわざ太子の時代と異なる命長を使う必要はない。したがって、命長七年丙午と記された手紙が存在しており、それが後に聖徳太子のものとされたのではないか。
 3. その結果、太子の時代にあわせるために「命長七年丙子」という架空の干支に書き換えられたと考えられる。
 4. 従って、この手紙は本来聖徳太子のものではなく、九州王朝系の人物により記された手紙であった可能性があろう。その証拠に他の聖徳太子の手紙とされるものの使者は「調子丸」であるが、この手紙だけは黒木臣とされており、近畿天皇家の臣とは異なるようである。(善光寺側史料には「黒木調子丸」と合体された表記も見える。)
 以上の考察により、この命長文書だけは本物の九州王朝系の人物による、しかも「臣」を使者としうる高位 の人物によるものと考えられるのである。
 さて、こうなると「歴史は足にて知るべきものなり(秋田孝季)」だ。法隆寺の方は将来にわたって封印するということであるから、善光寺の方を調査しなければならない。天明年間に善光寺の僧侶がその手紙を見ている可能性があるので、現在も善光寺に命長文書が残っているのではあるまいか。少なくとも、古写本は残っていよう。
 津軽行脚に続いて、善光寺参りも私の宿題となったようである。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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