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『新・古代学』古田武彦とともに 第5集 2001年 新泉社

「日出ずる処の天子」の時代

試論・九州王朝史の復原

古賀達也

はじめに

 中国の歴代王朝は、先住したそれ以前の王朝の史書を編纂してきたが、比べて日本においては、前王朝(倭国=九州王朝)の存在さえも隠滅し、その史書を盗用して自らの史書『日本書紀』を近畿天皇家は編纂した。在ったものを無かったことにし、無かったことを在ったことにするという手口で『日本書紀』は編纂された。これは明らかに「偽書」編纂の手口である。そして、それにとどまらず、近畿天皇家は『日本書紀』の記述を歴史的事実として受け入れることを国民に強要した。あるいは、遣唐使として中国に渡った日本国の使者は、その偽りの史書の言葉で、自らの「歴史」を語り、中国側はそれを疑いの目で見た。その様子が次のように『旧唐書』には記されている。

 「其の人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対こたえず。故に中国これを疑う。」  『旧唐書』日本国伝

 倭国(九州王朝)と中国との長い国交の歴史を知る唐の官僚たちには、日本国(近畿天皇家)の使者の言を信用できなかったようである。一方、国内ではどうであったのか。『日本書紀』の成立は九州王朝と近畿天皇家の権力交代があってから、わずか二〇年ほど後(七二〇年)のことである。にもかかわらず、近畿天皇家は『日本書紀』の歴史認識を国民に強要し、自らの政権の正当性を主張した。おそらく当時、誰も本気で信じるはずもない虚構の歴史を国史としたのだ。その企ては、「時」を味方につけて「真実」へと成長し、あたかも完全犯罪と化するかに見えた。
 しかしながら、一三〇〇年の時を経て、一人の人間の理性と感性により、真実はその姿を現しはじめた。真実に「時効」はなかったのだ。古田武彦氏による『失われた九州王朝 (1)』という一冊の書が、万人のもとに提示され、消し去られた王朝の輪郭が、歴史の真実が蘇ったのである。この書を世に出すにあたり、古田氏は「右翼」によるテロを覚悟したと、筆者は直接聞いたことがあるが、この「歴史を学ぶ覚悟」を九州王朝研究者は忘れてはなるまい。
 この失われた九州王朝の歴史を復原する試みは、近年とみに進展を見せた。本稿もその成果の一端である。地をはうような現地調査、紙背をも見通す文献調査、そして人間の理性にのみ従った論理の積み重ね、これらの成果が一三〇〇年のはるか彼方の歴史の闇をはっきりと照らし出したのである。
 先に発表した拙論「九州王朝の筑後遷宮 ーー高良玉垂命考」『新・古代学』四集)では、「倭の五王」時代の九州王朝筑後遷宮論を主題としたが、本稿では『隋書』イ妥国伝に見える多利思北孤、すなわち「日出ずる処の天子」の時代を対象として、さまざまなテーマを取り扱った。比較的、論証が成功したテーマ、まだ作業仮説の域を出ないテーマ、あるいは今後の問題提起に類するテーマなど雑多ではあるが、九州王朝史研究に若千でも裨益するところがあれば、筆者の幸いとするところである。
     イ妥* (タイ)国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO

 

一 法興年号の一視点

 九州年号実在論者の中で、最も異見が提出されているテーマに、法興年号がある。古田武彦氏は法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える同年号を九州王朝多利思北孤のものとされ、論者の中ではどちらかと言うと非九州年号説の方が「多数」を占めているのが今日の論争状況であった。よって本章では法興年号について新たな視点から考察を加え、古田説の補強を試みることにする。

 

法興年号の時代と地域

 法興年号の時間軸を決定する場合は、釈迦三尊の光背銘にある日付干支に注目したい。法興元三一年の翌年二月二一日の日付干支が癸酉とあるが、『三正綜覧』によれば六二二年二月の日付干支に一致し、法興元年は五九一年で推古の時代、言わば通説の通りとなる。同様に、『伊予国風土記逸文』の「伊予温湯碑」にある法興年号についても、その年干支を五九一年とするものであり、釈迦三尊の法興と同一と考えられるが、移動しうる釈迦三尊に比べて、こちらは場所が特定できる。その碑文に次の記事が見える。

 法興六年十月、歳在丙辰。我法王大王、与恵総法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験。欲叙意、聊作碑文一首。

 我が法王大王が法興六年十月に夷与村に来たと記されているが、同行の恵総法師や葛城臣はその名前が記され、碑文の作者「我」と法王大王の名前は記されていない。碑文作者名は恐らく石碑の裏面かどこかに記されていたと想像できるが、法王大王の名前が記されていない点は重要である。すなわち、法興六年の時代に我が法王大王と言えば、それだけで人物が特定できるから記されていないのだ。ようするに、法興年号の発布者の支配領域であれば年号とその最高称号を記すだけで用は足りるのである。このことは当時伊予国が法興年号の発布者の支配領域であったことを指し示す。とすれば、この時代、六世紀末から七世紀初頭にかけて、伊予国を支配し、年号を公布でき、深く仏法に帰依していた権力者は誰であったか。

 

イ妥国の支配領域

 『隋書』イ妥国伝に妥国の領域が次の様に記されている。

  夷人里数を知らず、但々計るに日を以て。其の国境は東西五月行、南北三月行にして、各々海に至る。

 イ妥国は筑紫を起点として東西五月行南北三月行とされており、どう控え目に見ても伊予国がその領域内に含まれていることは疑えない。とすれば法興年号の発布者はイ妥国王多利思北孤、その人以外にありえない。『隋書』イ妥国伝の記述を信じれば、法興は九州王朝の年号となる。更に、仏法に深く帰依した点も上宮法皇と多利思北孤を結ぶ強固な状況証拠と思われる。
 一方、金石文史料として松山市久米高畑遺跡出土の須恵器に「久米評」と記されたものがある。これなども同地域が九州王朝の評制下にあった物証と言える。以上、内外の史料の指し示すところ、伊予国を九州王朝の支配下とすることは正当な理解であろう。

 

法王の語義と『法華経』の伝来

 『隋書』イ妥国伝と伊予温湯碑文を結び付けるものに「法王」の一語がある。法王は釈迦如来を意味する。たとえば『法華経』の序品や方便品など各所に法王の語が見える。いずれも釈迦如来を示す用語だ。とすると「法王大王」とは釈迦如来大王と同義になり、見える『隋書』イ妥国伝に「海西の菩薩天子」に匹敵、あるいはそれ以上の仏教思想上の称号となる。多利思北孤が隋の煬帝を海西菩薩天子と呼んだ時に、同時に自らを海東菩薩天子と意識していたはずと、古田氏は指摘されているが、伊予温湯碑文に見える法王大王も同様に仏教思想に基づいた自称と思われる。ちなみに『法華経』の伝来については『二中歴』古代年号部分に興味ある記事が記されている。(2)

 端正五年 己酉 自唐法華経始渡

 端正元年(五八九)に『法華経』が唐より初めて渡ったと読めるが、その二年後の五九一年より法興年号は始まる。初めて見た『法華経』への感動が、あるいは仏法への帰依(「出家」の可能性もあろう)が、自らを法王と名のらせ、それまでの「世俗」の年号と並立して法興年号を公布した動機となったのではあるまいか。(3)

 ところでその『法華経』だが、有名な鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が成立したのは四〇六年で、「提婆達多品」などが欠けていることが後代史料『添品妙法蓮華経』(六〇一年成立)の序に記されている。現在残っている伝鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』には「提婆達多品」などが完備されており、本来の鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』ではないようだ。ところが、大委国上宮王(通説では聖徳太子)の撰とされる『法華義疏』には「提婆達多品」が見えず、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』に基づいていると考えられる。とすれば多利思北孤が見たであろう『法華経』は鳩摩羅什訳の可能性が大であり、その注釈書『法華義疏』に見える大委国上宮王を多利思北孤とする古田説と『二中歴』の法華経初伝記事は時期的に矛盾しない。
 このように釈迦三尊像光背銘、伊予温湯碑文、『隋書』、『二中歴』、『法華義疏』などの記事がいずれも法興を九州王朝多利思北孤の年号とする一点で見事な連関と整合性を見せるのである。よって、法興年号を九州王朝多利思北孤のものとする古田説こそ、他の諸説を越えるものと言わざるを得ない。

 

二 法隆寺の中の九州年号

 ーー聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎

 法隆寺釈迦三尊像光背銘にある法興が九州年号であることが古田氏より指摘されているが、いま一つ九州年号を記したと思われる文書が法隆寺にあるらしい。あるらしい、というのも、将来にわたって永久に封印するという法隆寺の方針により、誰も見ることができないからだ。それは、「善光寺如来の御書箱」と呼ばれているもので、昭和資材帳調査時(昭和六〇年)のレントゲン撮影では三巻の巻物らしい物が確認された。封印されているため誰も見ることはできないはずだが、明治五年に明治政府の強引な調査により、箱は開かれ、その時の写しが東京国立博物館にあったことを法隆寺住職高田良信氏が著書『法隆寺の謎と秘話』にて明らかにされている。
 その写しは善光寺如来から聖徳太子への返書の一つで、他の二つは写されていないためか、同書には紹介されていない。
 この御書箱の中には、善光寺如来から聖徳太子への返書が入っているという寺伝があるそうで、その内の一通が東博に残っている写しのものであろう。この封印された文書は、幸いというか、いくつかの文書に書写されており、その概要は把握可能だ。手紙の内容自体、それほど大したものとは思われないが、そこに記された年号に九州年号の定居・大化・法興などが見られ、興味をひくところである。もっとも、ここでの法興は、光背銘の「法興元丗年」を「法興元世年」と読み誤ったもののようで、後代偽作と思われる。他の九州年号は諸本により異同があるようで、すでに混乱した様相を示している。
 御書箱にあるのは三通のようであるが、善光寺如来との往復書簡は三回に及ぶといわれていることから、双方で六通 の存在が諸書に見える。そこで、善光寺側の伝承を調べて見ると、予想通り聖徳太子との往復書簡の存在を伝えていた。
 天明五年(一七八五)に成立した『善光寺縁起集註(4) 』に記された聖徳太子からの手紙には九州年号の命長と法興が使われていた。この法興も先の法隆寺側史料と同様に後代偽作のようだが、命長の方は検討に値するように思われた。命長が使われている聖徳太子の手紙とは次の様なものである。

            御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
         斑鳩厩戸勝鬘 上

 九州年号の命長七年は六四六年にあたり、干支は丙午である。この手紙の「丙子」とは異なる上、聖徳太子の時代(五七四〜六二一)ともあわない。一見、混乱した様相を示しているが、私には逆にこの手紙だけは「本物」と思われるのだ。それは次の理由からだ。

 (1) 命長七年の干支が丙子とあるのは丙午の誤写の可能性も有しているが、聖徳太子の時代の丙午は五八六年で、太子はまだ十三才のため、丙子(六一六)に書き改めたのではないか。
 (2) もし、後代に九州年号を使って偽作するのであれば、わざわざ太子の時代と異なる命長を使う必要はない。したがって、命長七年丙午と記された手紙が存在しており、それが後に聖徳太子のものとされたのではないか。
 (3) その結果、太子の時代にあわせるために「命長七年丙子」という架空の干支に書き換えられたと考えられる。
 (4) 従って、この手紙は本来聖徳太子のものではなく、九州王朝系の人物により記された手紙であった可能性があろう。その証拠に他の聖徳太子の手紙とされるものの使者は「調子丸」であるが、この手紙だけは黒木臣とされており、近畿天皇家の臣とは異なるようである。(善光寺側史料(5) には「黒木調子丸」と合体された表記も見える。)

 以上の考察により、この命長文書だけは本物の九州王朝系の人物による、しかも「臣」を使者としうる高位の人物によるものと考えられるのである。
 さて、こうなると「歴史は足にて知るべきものなり(秋田孝季)」だ。法隆寺の方は将来にわたって封印するということであるから、善光寺の方を調査しなければならない。天明年間に善光寺の僧侶がその手紙を見ている可能性があるので、現在も善光寺に命長文書が残っているのではあるまいか。少なくとも、古写本は残っていよう。
 津軽行脚(和田家文書調査)に続いて、善光寺参りも私の宿題となったようである。

 

三 多利思北孤の瀬戸内巡幸

 ーー『豫章記』の史料批判

 昨年、わたしたちは数々の学問的成果にめぐまれたが、中でも『新撰姓氏録』の史料批判により天孫降臨の年代(皇暦の孝元時代、紀元前二世紀頃)を推定し得たこと、九州王朝の水沼遷宮を明らかにしたことは、以後の九州王朝史研究に大きな進展をもたらすものと注目されよう。(6) 今回、この二つの成果に立脚して『豫章記』の史料批判を試みたので報告したい。

伊予二名洲への天孫族降臨

 『豫章記』は伊予の越智氏の系図と歴史を綴ったもので、室町末期に成立したとされる。(7) 本文中には平家物語・太平記などが引用される他、「家ノ相伝」「家ノ旧記」も引用されている。越智氏は後に河野氏を名乗っており、河野水軍の活躍などでも著名な氏族である。『豫章記』の他、越智氏系図、河野氏系図、伊豫三嶋縁起などからも一族の歴史をうかがい知ることができる(『群書類従』所収)。
 越智氏は始祖を孝霊天皇の第三皇子、伊豫皇子としているが、伊豫皇子の三人の子どもの末子が伊予国小千(越智)郡大濱に住み着いて、小千御子を名乗る。兄の一人は吉備の児島に行き三宅氏を、もう一人は駿河国清見崎(後の伊豆国、三島神社付近か)に着き、大宅氏をそれぞれ名乗る。(8) 初代の伊豫皇子は伊豫郡神崎郷に宮を造り、後に霊宮大神と称される。宮の南方十八町にある山の腰に皇子の陵があり、「天子の陵に似たり」と『豫章記』には記されている。
 この始祖説話は国生み神話における天孫族の伊豫二名洲の征服譚(天孫降臨の一つ)ではあるまいか。それは孝霊天皇の子ども、孝元の時代に当たるからだ。しかも、小千御子の子は天狭貫、孫も天狭介を名乗っており、いずれも天孫族であることを示している。すなわち、伊豫皇子や小千御子が天孫族で、孝霊の子の孝元の時代に「伊豫二名洲」を支配下におくために派遣された説話と思われるのである。伊豫皇子の次男が吉備の児島に住み着いたことも、国生み神話の「吉備子洲」に対応しており興味深い。
 この分析が正しければ、天孫族が大八洲各地へ降臨させた氏族を調べることが可能と思われる。大八洲の地の豪族の系図より、出自を孝霊・孝元とするものを調べればよいのだ。一例として、古代吉備の豪族、吉備津彦命は孝霊紀によれば孝霊天皇の皇子、彦五十狭芹彦命の亦の名とされており、孝元と同時代に設定されている。このことにより吉備津彦が「洲生み説話」あるいは「天孫降臨」の時代の人物である可能性をうかがわせるが、『日本書紀』記述の信頼性の問題があるため、なお慎重な検討が必要である。
 このように『新撰姓氏録』の史料批判により確立された「皇暦による時間軸」というスケールが、天孫降臨氏族を調べる際にも有効な方法と思われるのである。

九州年号「端正」記事

 『豫章記』系図中に九州年号の端正(『二中歴』では「端政」)が見えることも注目される。伊豫皇子を初代として、十五代目「百男」の下にある細注に「端正二年庚戌崇峻天皇時立官也。其後都江召還。背天命流謫也。」と九州年号「端正」(元年五八九年)が記されている。端正二年(五九〇)に立官したとあり、この地方の長官に任命されたものと思われる。たとえば『長典筆記』や『聖徳太子伝』などに崇峻二年(端正元年)の分国記事が見えるが、(9) この分国に伴って新たに国々の長官が任命されたと考えられることから、この端正二年立官記事は九州王朝下の任官記事であろう。そして任命したのは九州王朝の天子、多利思北孤の可能性が高い。なぜなら、太宰管内志の大善寺玉垂宮関連記事によれば、端正元年に玉垂命が三瀦で死去し、端正三年には上宮法皇(多利思北孤)の「法興」年号が端正と並立して建元(法隆寺釈迦三尊光背銘による)されていることから考えて、次代の倭王は多利思北孤となろう。
 端正元年(五八九)という年は、南朝陳が隋に滅ぼされた年でもある。南朝の天子に対して臣下の礼をとっていた倭国にとって一大衝撃であったことを疑えない。陳の滅亡を機に倭王は天子を名乗る。あの有名な「日出る処の天子」だ(『隋書』イ妥国伝)。そして自らの直轄支配領域を九国に分国し、「九州」と称したのではあるまいか。この分国の翌年に越智氏が伊豫国の長官として引続き任命されたことは当時の情勢とよく一致する。このことも越智氏が天孫降臨以来の九州王朝配下の一氏族とする理解を支持するのである。

三島大明神の正体

 『豫章記』中、もう一つ興味深い記事がある。三島大明神降臨説話である。現在、大三島にある大山祇神社の祭神は、『豫章記』によれば「崇峻天皇御宇端正三年庚戌當国迫戸浦天降玉フ」とある。『伊豫三嶋縁起』では「端政二暦庚戌自天雨降給」とされるが、庚戌の年は端正二年(五九〇)に相当することから、『豫章記』の場合、崇峻天皇三年と端正二年庚戌が混同され「崇峻天皇御宇端正三年庚戌」と誤記されたものと思われる。
 神様の降臨にしては、六世紀末の端正二年では新しすぎる「神話」ではある。これは神様の話ではなく、倭国の天子、阿毎多利思北孤の巡幸説話ではあるまいか。瀬戸内海地方には伊予大三島の他にも、厳島神社には推古天皇の時(端正五年、五九二)に宗像三神を祭ったという社伝があるし、(10) 伊予国風土記逸文に「法興六年(五九六)」に法王大王が当地を訪れた記事が見える。このように、端正年間(五八九〜五九三)から法興年間(五九一〜六二二)にかけて多利思北孤の足跡が瀬戸内沿岸部に遺されているのである。(11) これらを「多利思北孤の瀬戸内巡幸」の痕跡と呼んでみたい。
 それでは何故この時期に多利思北孤は「瀬戸内巡幸」を行ったのであろうか。思うに、南朝陳の滅亡が深くかかわっていたのではあるまいか。すなわち、この時代、筑後川南岸の水沼の地に都心(宮殿)を構えていた九州王朝が、南朝の滅亡により仮想敵国隋による南(有明海)からの侵入の脅威にさらされたこと、これを疑えない。そして多利思北孤がより安全な地への遷都を考えても不思議あるまい。実際に一時期大三島に行宮を構えたことも考えられよう。たとえば、大三島の大山祇神社の偏額に「日本総鎮守大山積大明神」と「誇大な呼称」があるのも、その痕跡ではあるまいか。考古学的成果については未調査なので、今後の課題としたい。
 そして巡幸の末、筑後川以北の筑前太宰府に都心を戻したと考えているのだが、それを記念した年号が「定居」(六一一〜六一七)や「倭京」(六一八〜六二二)ではなかったか。なお九州王朝の遷宮については『新・古代学』4集掲載予定の拙稿(九州王朝の筑後遷宮)を参照されたい。この他にも、『豫章記』には重要な記事が記されているが、稿を改めて報告させていただきたい。

 

四 「君が代」の「君」は誰か」

 ーー倭国王子「利歌弥多弗利」考

 古田史学会報三三号(平成十一年八月)に掲載された古田武彦先生の論考「『日の丸』と『君が代』の歴史と自然認識 ーー現代の政治家に寄す」において、古今和歌集に見える「君が代」の首句が「わがきみは」であることから、この歌は「わがきみ」対して詠われたものであり、この「わがきみ」は具体的な人物であると指摘された。そして、「病状とみに悪化」「命、旦夕」の九州王朝君主への歌である可能性を示唆された。真の歴史家の慧眼、かくも鋭きものか。
 この「君が代」の「君」の問題について、すでに古田先生からその概要はお聞きしていた。また、本年六月の関西例会において、関連する拙論を披露した経緯もあるので、ここにその要点をご報告させていただきたい。

 

『隋書』イ妥国伝の「阿輩の君」

 古田先生は、わたしへの電話で、「君が代」の「君」の候補者として、『隋書』イ妥*国伝の多利思多利思北孤を示唆されたことがあった。たしかに、『隋書』イ妥*国伝によれば多利思北孤は「阿輩の君」とよばれていたとある。この「阿輩の君」という呼称こそ、倭語の「わがきみ」に相当することは既に先生が論証されたところである。したがって、史料上「わがきみ」と呼ばれていたことが判明している唯一の倭王、多利思北孤こそ「君が代」の「君」の第一候補にふさわしい。一方、法隆寺釈迦来三尊像光背銘に見える上宮法皇(多利思北孤)の記事にも、その晩年病に臥し、鬼前太后・王后・上宮法皇と立て続けに没したことが記されている。この状況から考えるに、おそらく“流り病”が倭国王家を襲ったのではあるまいか。「病状とみに悪化」「命、旦夕」といった状況にぴったりであることも、「君が代」の「君」にふさわしい。

善光寺文書の「命長の君」

 このように、多利思北孤こそ「君が代」の「君」の第一候補であることに、わたしも異論はないのだが、もう一人の人物も“有力候補”と見なしたいのである。それは、多利思北孤の息子、利歌弥多弗利である。
 古田史学会報十五号(一九九六年八月)の拙稿「法隆寺の中の九州年号 ーー聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎」において、『善光寺縁起集註』に見える聖徳太子からの手紙とされる文書に「命長七年丙子」という九州年号があることを紹介した。そして、命長七年(六四六)という年次などから考えて、この手紙は聖徳太子ではなく、九州王朝の高位の人物が善光寺如に宛てた手紙であるとした。その文章は次の通りだ。

           御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
  命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
          斑鳩厩戸勝鬘 上

 この「命長」文書こそ、法興三二年(六二二)に没した多利思北孤の次代にあたる利歌弥多弗利のものと考えたのであるが、その内容は死期せまる利歌弥多弗利が、「我が済度を助けたまえ」という、いわば願文であり、ここにも「病状とみに悪化」「命、旦夕」のもう一人の倭王の姿を見るのである。おそらく、利歌弥多弗利は永く病に臥してしたのではあるまいか。なぜなら、「命長」という九州年号に、時の天子の病気平癒の願いが込められている、と見るのは考えすぎであろうか。

上塔(かみとう)の利

 わたしの推測が当たっていれば、その願いや善光寺如来への「願文」もむなしく、病は治ることなく没したと思われる。と言うのも、九州年号「命長」はこの七年で終り、翌年「常色」と改元されているからだ。利歌弥多弗利崩御による改元ではあるまいか。
 さらに、利歌弥多弗利という名前からも次のように推論できる。従来『隋書』イ妥*国伝に見える「名太子爲利歌弥多弗利」を、「太子名付けて利歌弥多弗利となす」と読まれてきたが、古田説によれば、「太子名付けて利となす。歌弥多弗の利なり」と読むのが妥当であるとされた。すなわち、多利思北孤の太子は「歌弥多弗(かみたふ・・・・上塔)の利」と呼ばれていたとされ、「上塔」は地名であろうと考えられた。そして「かみとう」という字名が博多湾岸にあることを指摘されたのである。そうすると、「君が代」が詠われる、志賀島の志賀海神社の祭礼「やまほめ祭り」の台詞に見える「香椎から船で来られるわが君」と利歌弥多弗利(上塔の利)が、地理的にも一致するのである。この点も、「君が代」の君の候補として、利歌弥多弗利を有力候補の一人とすることを支持するのだ。もちろん、現段階では作業仮説の域を超えるものではないので、断定できない。今後の研究成果を待たなければならないであろう。

利歌弥多弗利の生没年

 さて、最後に利歌弥多弗利の生没年について、更に論究してみたい。没年はすでに述べたように、善光寺文書の史料批判により命長七年(六四六)と一応推定されるが、生年を推定させる史料があるので紹介する。それは淡海三船(七二二〜七七五)の撰になる『唐大和上東征傳』(略して『東征傳』とも呼ばれる)である(宝亀十年、七七九年の成立とされる。『群書類従解題』による)。
 有名な鑑眞和上の伝記であるが、鑑眞和上の発言として次の記事がある。

「大和上答曰。昔聞南嶽思禅師遷化之後。託生倭國王子。興隆佛法。濟度衆生。又聞日本國長屋王崇敬佛法。」(『群書類従』による)

 天台宗の第二祖、南嶽思禅師が没後、倭国の王子に生まれかわり、仏法を盛んにしたいう伝承を昔聞いたことがある、と鑑眞和上とが述べている記事だ。詳しい解説と論証は別に発表する予定であるが、ここでの倭国とは九州王朝のことであり、長屋王の日本国と区別した表記であることを、荒金卓也氏が『九州古代史の謎』で指摘されている。卓見であろう。更に荒金氏は、後に聖徳太子のこととされて流布されたこの倭国王子は、九州王朝の多利思北孤のことであるとされた。
 この南嶽思禅師の没年は陳の大建九年(五七七)であり、聖徳太子の生年は敏達三年(五七四)。南嶽思禅師が没した時すでに聖徳太子は四歳であり、生まれかわりとするには無理があるのだ。この矛盾については平安末期すでに気づかれていたようだ(扶桑略記)。そこで、倭国の王子を九州王朝の王子とした時、こうした矛盾が解決するのだが、荒金氏のように多利思北孤とした場合、年齢的にやや無理があるのではあるまいか(多利思北孤は享年四六歳で没したことになる)。その点、利歌弥多弗利とした場合、生没年が五七七年から六四六年(命長七年)となり、その享年は七十歳となり、当時としては比較的長寿であろう。「君が代」の「君」として、病気回復と長寿を詠われるにふさわしい年齢ではあるまいか。
 この利歌弥多弗利説を支持する別の視点として、法興年号がある。いわゆる九州年号と並立して続くこの法興年号は、多利思北孤の出家を機に建元された年号と思われるが、多利思北孤の誕生を五七七年とすると、その建元は十五歳の時であり、即位は更に上って端政元年(五八九。先代の倭王玉垂命が端政元年に三瀦で没したことが『太宰管内志』に見える)と思われ、十三歳の時となる。これでは利歌弥多弗利は多利思北孤出家後の子供となりかねない。
 その点、倭国王子を利歌弥多弗利とした場合、即位は仁王元年(六二三)、四七歳のときであり、没年とともに自然である。また、立太子を多利思北孤即位年(五八九)のこととすると、十三歳のときであり、その後多利思北孤没年までの三四年間を太子として在位したことになり、その間の活躍が、後に聖徳太子の事績として近畿天皇家側に盗用されたと考えても、納得できるところではあるまいか。
 なお、本稿で触れた『東征傳』については、別に詳述したい。九州王朝史復原のための重要なテーマであるので、時間をかけ、じっくりと論証を固めたいと考えている

 

五 九州王朝と鵜飼

 『新・古代学』四集に掲載された拙稿「九州王朝の筑後遷宮」において『隋書』イ妥国伝に記されている「鵜飼」の風習が筑後川原鶴温泉に現在でも見られることを述べたのだが、同地での鵜飼の風習が古代まで遡ることができるかどうかについては、論究しなかった。そのことが、少なからず気にかかっていたこともあって、その後、鵜飼の風習について調査し、昨年十二月の「古田史学の会」関西例会にて発表したのであるが、ここにその要旨のみ報告しておきたい。
 『隋書』イ妥国伝によればイ妥国の鵜飼の様子が次のように記されている。
「小環を以て 廬鳥*滋鳥*(12) の項に挂(か)け、水に入りて魚を捕らえしめ、日に百余頭を得。」
     廬鳥*廬編に鳥。JIS第3水準ユニコード9E15
     茲鳥*茲編に鳥。JIS第3水準ユニコード9DC0
     イ妥*(タイ)国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO

 一方、『太宰管内志』には筑後地方における鵜飼の風習について、次の通り紹介している。
○日田川〔筑後川の上流。豊後国日田郡〕
〔前略〕廬鳥*滋鳥*を飼て、此川の年魚〔あゆ〕を取て、なりはひとするもの多し〔中略〕其鵜飼舟と云ものはいといとちひさくして、わづかに鵜つかふ人と船さす人と二人のるばかりに作れり、船ノ中には薄(スヽキ)の松明あまたに入れて、それを左ノ手にともして、右ノ手にて鵜をつかふ事なり、ひとりにて四ッも五ッもつかふに、手をひねりつヽ糸のみだれぬやうにとりさばくさま、えもいはずおもしろき見(ミ)物なり、〔後略〕
○吉井〔筑後国生葉郡〕
〔前略〕生葉郡吉井亦有養廬鳥*滋鳥*、待夜使捕 魚者是曰夜川、〔後略〕
○瀬高庄〔筑後国山門郡〕
〔前略〕其川邊及三里者皆養廬鳥*滋鳥*〔中略〕使廬鳥*滋鳥*自上流逐之待魚之聚於網上而後擧網一網或得魚数百〔後略〕
※〔〕内は筆者による注。

 このように筑後地方の二つの大河、筑後川と矢部川における鵜飼ならびに鵜による漁の風景が紹介されており、江戸時代同地方において鵜飼が盛んであったことがうかがえる。
 更に古くは十四世紀頃に設立したとされる高良大社文書『筑後国高良山寺院興起之記』に次の記事が見える。(13)
○浄福寺
 阿曇ノ大鷹見麻呂トイフモノ有リ。性遊猟ヲ好ミ、動モスレバ廬鳥*罩(ろたく)ニ随フ。(中略)天長八年辛亥年(八三一)七月廿九日、少病少悩ニシテ奄逝ス。(後略)
※原文は漢文。訓読は古賀壽氏による。()内は筆者による注。

 九世紀における高良大社近辺の人物による鵜飼が記されているのだ。現在でも長良川の鵜飼で有名なように、古来から鵜による鮎漁はなされていたようである。たとえば『万葉集』にも大伴家持の次の長歌に鮎と鵜飼が詠み込まれている。

 大君の 遠の朝廷ぞ み雪降る 越と名に負へる 天ざかる 鄙にしあれば 山高み 川とほしろし 野を廣み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛と 島つ鳥 鵜養が伴は 行く川の 清き瀬ごとに かがりさし (以下略)
『万葉集』巻十七 四〇一一

 平城京から出土した木簡にも筑後地方の鮎を記したものがある。次の二つだ。
「筑後国生葉郡煮塩年魚 伍斗 霊亀二年」
「筑後国生葉郡煮塩年魚 四斗二升 霊亀三年」

 霊亀二年は七七一年のことであり、浮羽郡は古くから鮎の産地だったのである。こうした諸史料に見える筑後地方の鵜飼と鮎漁は、『隋書』イ妥国伝の記すイ妥国の地が筑後地方であった傍証とみなしうるであろう。おそらく、イ妥国独特の風習であった筑後川の鵜飼漁を隋使の一行は驚きの目で見、煬帝に報告したことであろう。

 更に言うならば、『記紀』に見える神武歌謡の「鵜養が伴、いま助けに来ね」という表現からも、神武の出身地である筑前糸島では弥生時代から鵜飼がなされていたことを示しており、九州王朝と鵜飼は密接な関係と、共に深い淵源を持っていたことがうかがえるのである。
 最後に興味深い問題を紹介しておきたい。それは昨年より古田氏の研究課題として浮上してきた、持統紀や『万葉集』に現れる「吉野」は佐賀県ではないかというテーマに関連するものだ。たとえば、柿本人麻呂の次の吉野行幸の長歌は、佐賀県「吉野」ではないかという疑いである。

やすみしし わが大君は 神ながら 神さびせすと 芳野川 たぎつ河内に 高殿を (中略)上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて奉れる 神の御代かも 〔巻一、三八〕

 佐賀県と福岡県の県境となっている筑後川旧流に接する久留米市長門石町には「上鵜津」「中鵜津」「下鵜津」という字名が残っている。また、「河内」という地名が奈良県吉野近辺には見あたらず、佐賀県に多いことも古田氏が指摘されているところだ。(14) 本稿で扱った「鵜飼」という視点からも、『万葉集』に取り込まれた九州王朝歌謡の発見が期待できるのではあるまいか。

 

 六 九州王朝の鷹狩り

 九州王朝の筑後遷宮が明らかとなった現在、古田武彦氏は正倉院文書「筑後国天平十年(七三八)正税帳」に見える筑後国から献納される玉類、銅器製造技術者や鷹養人などの記述から、筑後国が高度な技術や貴族の遊びである鷹狩りなどの先進地域であったことを指摘された。(15)
 例えば鷹狩りの技術者について次のように記されている。

○貢上鷹養人参拾人、起天平十年六月一日尽九月廿九日  (以下略)
○貢上犬壹拾伍頭、  (同右)

 ここに記された犬とは鷹狩り用の犬であろう。同じく「周防国天平十年正税帳」にも次の記述が見える。

○四日向従大宰府進上御鷹部領使筑後国介従六位上日下部宿禰古麻呂、将従三人、持鷹廿人、(中略)御犬壱拾頭  (以下略)

 大宰府から献上物として御鷹部領使の日下部宿禰古麻呂という人物が見えるのであるが、この筑後国官僚の日下部氏は、高良大社官長職の日下部氏(草壁とも記される。現、稲員家の祖先)と同族の可能性が高い。すなわち、九州王朝王家一族の一人と思われるのである。また、六〇年に一度執り行われる高良大社御神期大祭御神幸では、稲員家を中心に「三種の神器」などとともに、羽の付いた冠を被った「鷹鳶」と呼ばれる一団が行列に加わっている。(16) これなども、九州王朝の天子、玉垂命が御鷹狩りをしていた名残ではあるまいか。
 鷹狩りに使用される鷹は「はいたか」あるいは「はしたか」と呼ばれる雌の鷹で、日本やヨーロッパに広く分布している。(17) 雄は「このり」と呼ばれ、小型のため鷹狩りには適さないらしい。ちなみに、久留米市草野町には「隼鷹(はいたか)天神」という神社があり、鷹狩りに関連した神社ではあるまいか。(18) また、高良山(三一二メートル)がある水縄(耳納)連山の最高峰は鷹取山(八〇二メートル)であり、これも鷹狩りに関連した山名と思われる。このように筑後地方には鷹狩りの伝統を思わせる痕跡が現在でも残っているのである。
 管見によれば、鷹狩りのわが国への伝来を伝える史料は、『日本書紀』仁徳紀を筆頭にいくつか見えるが、その中から四例を紹介したい。

〇四十三年の秋九月の庚子の朔に、依網屯倉の阿弭古、異しき鳥を捕りて、天皇に献りて曰さく、「臣、毎に網を張りて鳥を捕るに、未だ曾て是の鳥の類を得ず。故、奇びて獻る」とまうす。天皇、酒君を召して、鳥を示せて曰はく、「是、何鳥ぞ」とのたまふ。酒君、對へて言さく、「此の鳥の類、多に百済に在り。馴し得てば能く人に従ふ。亦捷く飛びて諸の鳥を掠る。百済の俗、此の鳥を號けて倶知と曰ふ」とまうす。是、今時の鷹なり。乃ち酒君に授けて養馴む。幾時もあらずして馴くること得たり。酒君、則ち葦の[糸昏]を以て其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕の上に居ゑて、天皇に献る。是の日に、百舌鳥野に幸して遊猟したまふ。時に雌雉、多に起つ。乃ち鷹を放ちて捕らしむ。忽に数十の雉を獲つ。是の月に、甫めて鷹甘部を定む。故、時人、其の鷹養ふ處を號けて、鷹甘邑と日ふ。
  〔『日本書紀』仁徳紀。岩波日本古典文学大系〕

〇諏訪大明神之事(佐賀県東松浦郡浜玉町大字浜崎字宮の元)
 當社大明神と申奉るは、人皇十七代仁徳天皇の御宇、百済国より王仁と云ふ官人鷹を獻奉しける。其頃迄は日本に鷹といふ鳥渡らず、其旨皇帝に奏しければ、鷹は所謂霊鳥と聞けり、請取に其法禮有べし、故実を知りたる者やあると、尋ねさせ玉ふと云へども、其作法知りたる者なし、然らば女を出し請取らすべし、其法知らずとも苦しからずとて、官女を撰み玉ふに、往昔神功皇后、三韓征伐平定し玉ひ、大矢田宿禰といふ人を新羅国に留置き、鎮守府将軍とし玉ふ、是鎮守府将軍の始めなり、此宿禰より四代に當って、大矢田連と云ふ人の娘を諏訪の前といふ、則ち宣旨有て鷹を受取らせらる、此官女は三二相相備はり、類ひなき美女にて、和歌を長じ、其外諸道に達したりしかば、帝帳中の姫なり、王仁のセイライと云ふもの、其鷹を渡す時つらつら思ふ様、かかる官女に渡すこと其例なし、直に渡すもいかがなりと、笄を抜き錦の[白/巾]紗を掛て、盥に立て鷹をおろせり、則ち諏訪の前さしよって請取けり、鷹はコノリ也、皇帝御感斜めならず、セイライを三年留置かせ玉ひ、鷹の居様、故実など委敷相傳せり、其中にハイ鷹とハシ鷹を仕立、日本鷹狩始まる、日本にては諏訪の前を鷹匠の太祖とす、(以下略 )
  〔『神道大系 神社編肥前国』昭和六二年刊〕
      [白/巾]は、白の下に巾。JIS第3水準ユニコード7681

〇鷹経辨疑論上
 (前略)吾朝ヘハ神代ニモ一度ワタル。人皇十二代景行天皇ノ御宇ニモワタル。シカレドモ術ヲシラズシテ鳥ヲトラズ。爰ニ十七代仁徳天皇ノ御宇。始テ鷹術ヲ傳シヨリ以来。代々聖主是ヲ賞シ給ヒテ。禁野片野ノ御狩。宇多芹川ノ迫遥タユルコトナシ。(中略)
 世云。仁徳天皇十六年二摩詞陀國ヨリ越前國敦賀ノ津ニ着。其名ヲ駿王鳥ト號ス。(後略)
  〔『続群書類従』巻第五四一「鷹部一」〕

〇小倉問答〔一名定家問答〕
  (前略)
 一 鷹は日本に渡る事いつの御代にや。
 答云。人王十七代仁徳天皇の御宇に始て渡りしなり。是鷹根本也。
 一 始而渡りし鷹の名は俊鷹と申也。大國にてあまたの中よりもすぐれたる鷹也。紀州那智山にはなさるる。是西南の鷹の根本也。
 一 唐より鷹持渡之人はシュンクワウと云し也。和国三年住けるに鷹道不相傳。然時コチクと云美人を封してとはせし時。帰朝の時鷹書一巻コチクにあたへしなり。
 一 二番渡りし鷹は人王三十代欽明天皇の御時なり。鷹の名からくつわと申也。富士山にはなさるるなり。
    〔『続群書類従」巻第五四二「鷹部二」〕

 これら史料にはいずれも仁徳天皇の時代の鷹狩り技術伝来を伝えており、皇暦で考えると四世紀頃となる。また、『日本書紀』の内容から判断するに、百済の王族である酒君がすでに養鷹の技術を持っていたという記事であることから、これは百済と深い関係を持つ九州王朝記事からの盗用と思われる。したがって、鷹狩りと養鷹の技術は百済を経由して九州王朝へもたらされたと見てよいようである。「諏訪大明神之事」も日本鷹匠の太祖として、大矢田連の娘、諏訪の前の伝承を伝えており、その祖先の大矢田宿禰が九州王朝の武将(鎮守府将軍)であると思われることから、ここにも九州王朝との関連が認められるのである。 (19) そしてその時期は、『日本書紀」の仁徳四十三年という年次を信頼すれば、西暦三五五年に当たり、九州王朝筑後遷宮の十二年前のこととなる。 (20)
 鷹経辨疑論に見える、仁徳十六年の摩詞陀國から敦賀に伝わったという記事は、他に類似伝承を知らないので、その詳細は不明とせざるを得ないが、仁徳の時代の伝来という点では一致している反面、摩詞陀國からの伝来とする他とは異なった伝承を伝えており、興味深い。
 また、「小倉問答」の記事中に見えるシュンクワウという人物が三年滞在したこと、コチクという美しい女性に技術(鷹書一巻)を伝えたという点が、先の「諏訪大明神之事」に見える「セイライの三年間留置」「類ひなき美人、諏訪の前への伝授」と対応しており、両者が共通の伝承をもとに成立した可能性をうかがわせる。
 このように、九州王朝で受容された鷹狩り技術は、七〇一年の政権交代により近畿天皇家へと接収される。例えば「養老律令」職員令には、兵部省に主鷹司を置いていることが見える。(21) 『続日本紀』聖武天皇神亀三年(七二六)七月条にも「鷹戸十戸を定む」とあり、九州王朝と近畿天皇家の政権交代に伴う動きの一つとして、冒頭紹介した天平十年の「筑後国正税帳」などの記録が深く理解され得るのである。

 

あとがき

 筆者が古田武彦氏の先駆的学説に導かれて九州王朝研究を始めてから十二年の歳月が流れたが、当時では思いもよらなかった歴史の真実が次々とその輪郭を現してきた。中でも特筆すべきこと、一つは、「玉垂命」が筑後遷宮時の歴代倭王であったこと。二つは、その末商(22) が系図や伝承を伝えながら現在も続いていたこと、これらの発見ではあるまいか。そして、その地が筆者の郷里であったことに、深い感慨を禁じ得ないのである。
 その一方で、九州王朝説は学界からの冷たい沈黙で遇されてきた。しかし、それは当然のことであり、喜ぶべきことでもある。例えば、徳川時代。徳川家の体制の枠内で、体制に奉仕する「学問」として朱子学は大手をふって歩いた。しかし、真の歴史研究はそれら朱子学の大家ではなく、在野の研究者によってなされた。
 そして現在では、天皇家一元通念の枠内で、天皇家一元通念に奉仕する「菊の朱子学 (23)」が学界を闊歩している。しかし、真の学問としての古代史研究はそこにはない。二〇世紀末の今日において、プロ・アマにかかわりなく真の古代史研究はわたしたち多元史観研究者の側にあるのである。天皇家一元通念という菊のイデオロギーに依拠した「菊の朱子学」に対して、真実と人間の理性にのみ依拠する多元史観研究の学派、すなわち、古田武彦氏を中心とする「古田学派」こそ真の古代史研究者として、後世の人々の目に映ること、これを疑えないのである。
 明年、二一世紀の最初の年、九州王朝が滅亡して一三〇〇年を迎える。その二一世紀に本稿が間に合ったことを深く喜びとし、筆者を真実へと導いていただいた諸氏に心より感謝申し上げるしだいである。

 

《注》
 (1) 『失われた九州王朝』は昭和四八年、朝日新聞社より発行された後、角川文庫を経て、現在、朝日文庫に収録されている。『「邪馬台国」はなかった』(現在、朝日文庫に収録)に次ぐ古田武彦氏の古代史第二作である。

 (2) 古賀達也「九州王朝仏教史の研究 ーー経典受容記事の史料批判」『古代に真実を求めて』第3集所収(明石書店刊)において、『二中歴」年代歴細注に見える仏教関連記事の史料批判により、九州王朝の仏典受容史について論じた。

 (3) 古田武彦「両京制」の成立 ーー九州王朝の都域と年号論」(『古田史学会報」三六号、平成十二年二月十四日)において、別系統年号の並立という問題が論じられている。

 (4) 『大日本仏教全書』第一二〇巻

 (5) 同右。

 (6) 古田武彦氏はじめ、三宅利喜男氏、福永晋三氏らの諸研究成果による。

 (7) 古田史学の会書籍部の木村賢司氏は越智氏の末商とのこと。木村氏の友人でもある水野代表の要請により、『豫章記』を調査したことが本章執筆のきっかけとなった。

 (8) 伊豫皇子の三人の子供は三つ子である。この点、水野氏の御指摘を得た。

 (9) 日本国内の三三国を六六国に分国したとされるテーマについて、『九州王朝の論理』所収「続・九州を論ず」にて論じたので参照されたい。同書は古田武彦氏、福永晋三氏との共著。明石書店刊。

 (10) 水沼の君も宗像三神を祭っており、厳島神社のある佐伯郡には海部(あま)郷があったことも、多利思北孤との関係をうかがわせる(多利思北孤の姓は阿毎である)。また、国立京都博物館蔵の厳島縁起絵巻には「端政」が記されている。『聖徳太子伝』にも「端正五年十一月十二日ニ厳島大明神始テ顕玉ヘリ」とある。

 (11) 川之江市・伊予三島市の南に「法皇山脈」が走っている。この「法皇」の由来については、山並が鳳凰に似ているためや、白川法皇への木材供出に応じた褒美として名付けた、後白川法皇の時の杣の平四郎の活躍によるもの、などの諸説がある(法皇青年会議所インターネット・ホームページによる)。今後の検討課題としたい。

 (12) 「廬鳥*」「茲鳥*」共に鵜のこととされる。
     廬鳥*廬編に鳥。JIS第3水準ユニコード9E15
     茲鳥*茲編に鳥。JIS第3水準ユニコード9DC0

 (13) 高良大社文化研究所所長、古賀壽氏の御教示による。

 (14) 古田氏の指摘に基づき、高木博氏、筆者が地図にて調査確認した。

 (15) 古田武彦『「君が代」を深く考える』所収「天子の貨幣 ーー正倉院文書の証言」五月書房刊。

 (16) 近年では、平成四年四月十一〜十三日に一六〇〇年祭が行われ、「鷹鳶」の一団が参加している。

 (17) 『広辞苑』「はいたか」による。

 (18) 古賀壽氏のご教示による。

 (19) 大矢田宿禰が新羅征伐により鎮守将軍に任じられたことは、『新撰姓氏録』「右京皇別真野臣」に見える。

 (20) 古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ーー高良玉垂命考」『新・古代学』四集(新泉社)において、九州王朝の筑後遷宮の年次が仁徳五五年(三六七)であることを論証した。

 (21) このことより、鷹狩は当時の軍事ハイテク技術であったという指摘を、古賀壽氏よりお聞きしたことがある。興味深い視点である。

 (22) 稲員家(広川町、八女市)、隈家(久留米市大善寺玉垂宮神官)、松延家(八女市)、鏡山家、神代家、他。

 (23) 古田武彦氏による命名。

〈初出一覧〉本誌転載にあたり、若干の加筆修正を行った。

  はじめに         書き下ろし
一 法興年号の一視点    「古田史学会報」No.四 平成六年十二月二十六日
二 法隆寺の中の九州年号  「古田史学会報」No.十五 平成八年八月十五日
三 多利思北孤の瀬戸内巡幸 「古田史学会報」No.三二 平成十一年六月一日
四 君が代」の「君」は誰か 「古田史学会報」No.三四 平成十一年十月十一日
五 九州王朝の鵜飼     「古田史学会報」No.三六 平成十二年二月十四日
六 九州王朝の鷹狩り     書き下ろし
  あとがき         書き下ろし

     本稿を父、古賀正敏の霊前に捧げる(平成十三年一月十五日没)。


高良山の「古系図」ーー「九州王朝の天子」との関連をめぐって 古田武彦(古田史学会報35号)へ

八女郡星野村行 古賀達也(『新・古代学』第6集)へ

『新・古代学』 第5集 へ

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これは研究誌の公開です。史料批判は、『新・古代学』各号と引用文献を確認してお願いいたします。

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