「日出ずる処の天子」の時代ーー試論・九州王朝史の復原 古賀達也(『新・古代学』 第5集)へ
「君が代」の「君」は誰か 『秘庫器録』の史料批判(2)
古田史学会報
1999年10月11日 No.34
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京都市 古賀達也
会報前号に掲載された古田武彦先生の論考「『日の丸』と『君が代』の歴史と自然認識--現代の政治家に寄す」において、古今和歌集に見える「君が代」の首句が「わがきみは」であることから、この歌は「わがきみ」対して詠われたものであり、この「わがきみ」は具体的な人物であると指摘された。そして、「病状とみに悪化」「命、旦夕」の九州王朝君主への歌である可能性を示唆された。真の歴史家の慧眼、かくも鋭きものか。
この「君が代」の「君」の問題について、すでに古田先生からその概要はお聞きしていた。また、本年六月の関西例会において、関連する拙論を披露した経緯もあるので、ここにその要点をご報告させていただきたい。
古田先生は、わたしへの電話で、「君が代」の「君」の候補者として、『隋書』イ妥*国伝の多利思多利思北孤を示唆されたことがあった。たしかに、『隋書』イ妥*国伝によれば多利思北孤は「阿輩の君」とよばれていたとある。この「阿輩の君」という呼称こそ、倭語の「わがきみ」に相当することは既に先生が論証されたところである。したがって、史料上「わがきみ」と呼ばれていたことが判明している唯一の倭王、多利思北孤こそ「君が代」の「君」の第一候補にふさわしい。一方、法隆寺釈迦来三尊像光背銘に見える上宮法皇(多利思北孤)の記事にも、その晩年病に臥し、鬼前太后・王后・上宮法皇と立て続けに没したことが記されている。この状況から考えるに、おそらく“流り病”が倭国王家を襲ったのではあるまいか。「病状とみに悪化」「命、旦夕」といった状況にぴったりであることも、「君が代」の「君」にふさわしい。
このように、多利思北孤こそ「君が代」の「君」の第一候補であることに、わたしも異論はないのだが、もう一人の人物も“有力候補”と見なしたいのである。それは、多利思北孤の息子、利歌弥多弗利である。
会報十五号(一九九六年八月)の拙稿「法隆寺の中の九州年号--聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎」において、『善光寺縁起集註』に見える聖徳太子からの手紙とされる文書に「命長七年丙子」という九州年号があることを紹介した。そして、命長七年(六四六)という年次などから考えて、この手紙は聖徳太子ではなく、九州王朝の高位の人物が善光寺如に宛てた手紙であるとした。その文章は次の通りだ。
御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
斑鳩厩戸勝鬘 上
この「命長」文書こそ、法興三二年(六二二)に没した多利思北孤の次代にあたる利歌弥多弗利のものと考えたのであるが、その内容は死期せまる利歌弥多弗利が、「我が済度を助けたまえ」という、いわば願文であり、ここにも「病状とみに悪化」「命、旦夕」のもう一人の倭王の姿を見るのである。おそらく、利歌弥多弗利は永く病に臥してしたのではあるまいか。なぜなら、「命長」という九州年号に、時の天子の病気平癒の願いが込められている、と見るのは考えすぎであろうか。
わたしの推測が当たっていれば、その願いや善光寺如来への「願文」もむなしく、病は治ることなく没したと思われる。と言うのも、九州年号「命長」はこの七年で終り、翌年「常色」と改元されているからだ。利歌弥多弗利崩御による改元ではあるまいか。
さらに、利歌弥多弗利という名前からも次のように推論できる。従来『隋書』イ妥*国伝に見える「名太子爲利歌弥多弗利」を、「太子名付けて利歌弥多弗利となす」と読まれてきたが、古田説によれば、「太子名付けて利となす。歌弥多弗の利なり」と読むのが妥当であるとされた。すなわち、多利思北孤の太子は「歌弥多弗(かみたふ:上塔)の利」と呼ばれていたとされ、「上塔」は地名であろうと考えられた。そして「かみとう」という字名が博多湾岸にあることを指摘されたのである。そうすると、「君が代」が詠われる、志賀島の志賀海神社の祭礼「やまほめ祭り」の台詞に見える「香椎から船で来られるわが君」と利歌弥多弗利(上塔の利)が、地理的にも一致するのである。この点も、「君が代」の君の候補として、利歌弥多弗利を有力候補の一人とすることを支持するのだ。もちろん、現段階では作業仮説の域を超えるものではないので、断定できない。今後の研究成果を待たなければならないであろう。
さて、最後に利歌弥多弗利の生没年について、更に論究してみたい。没年はすでに述べたように、善光寺文書の史料批判により命長七年(六四六)と一応推定されるが、生年を推定させる史料があるので紹介する。それは淡海三船(七二二~七七五)の撰になる『唐大和上東征傳』(略して『東征傳』とも呼ばれる)である(宝亀十年、七七九年の成立とされる。『群書類従解題』による)。
有名な鑑眞和上の伝記であるが、鑑眞和上の発言として次の記事がある。
「大和上答曰。昔聞南嶽思禅師遷化之後。託生倭國王子。興隆佛法。濟度衆生。又聞日本國長屋王崇敬佛法。」(『群書類従』による)
天台宗の第二祖、南嶽思禅師が没後、倭国の王子に生まれかわり、仏法を盛んにしたいう伝承を昔聞いたことがある、と鑑眞和上とが述べている記事だ。詳しい解説と論証は別に発表する予定であるが、ここでの倭国とは九州王朝のことであり、長屋王の日本国と区別した表記であることを、荒金卓也氏が『九州古代史の謎』で指摘されている。卓見であろう。更に荒金氏は、後に聖徳太子のこととされて流布されたこの倭国王子は、九州王朝の多利思北孤のことであるとされた。
この南嶽思禅師の没年は陳の大建九年(五七七)であり、聖徳太子の生年は敏達三年(五七四)。南嶽思禅師が没した時すでに聖徳太子は四歳であり、生まれかわりとするには無理があるのだ。この矛盾については平安末期すでに気づかれていたようだ(扶桑略記)。そこで、倭国の王子を九州王朝の王子とした時、こうした矛盾が解決するのだが、荒金氏のように多利思北孤とした場合、年齢的にやや無理があるのではあるまいか(多利思北孤は享年四六歳で没したことになる)。その点、利歌弥多弗利とした場合、生没年が五七七年から六四六年(命長七年)となり、その享年は七十歳となり、当時としては比較的長寿であろう。「君が代」の「君」として、病気回復と長寿を詠われるにふさわしい年齢ではあるまいか。
この利歌弥多弗利説を支持する別の視点として、法興年号がある。いわゆる九州年号と並立して続くこの法興年号は、多利思北孤の出家を機に建元された年号と思われるが、多利思北孤の誕生を五七七年とすると、その建元は十五歳の時であり、即位は更に上って端政元年(五八九。先代の倭王玉垂命が端政元年に三瀦で没したことが『太宰管内志』に見える)と思われ、十三歳の時となる。これでは利歌弥多弗利は多利思北孤出家後の子供となりかねない。
その点、倭国王子を利歌弥多弗利とした場合、即位は仁王元年(六二三)、四七歳のときであり、没年とともに自然である。また、立太子を多利思北孤即位年(五八九)のこととすると、十三歳のときであり、その後多利思北孤没年までの三四年間を太子として在位したことになり、その間の活躍が、後に聖徳太子の事績として近畿天皇家側に盗用されたと考えても、納得できるところではあるまいか。
なお、本稿で触れた『東征傳』については、別に詳述したい。九州王朝史復原のための重要なテーマであるので、時間をかけ、じっくりと論証を固めたいと考えている
京都市 古賀達也
『秘庫器録』には『秘府略』からの引用と思われる記事が五ヶ所に見える。その記載年次は次のようである。
1). 懿徳天皇 二年 七月(前五〇九)
孝霊天皇 五年 四月(前二八六)
同 六年 二月(前二八五)
同 十一年 七月(前二八〇)
同 十一年 八月(前二八〇)
同 二十年 二月(前二七一)
同 二三年 三月(前二六八)
同 二三年 五月(前二六八)
同 三二年 九月(前二五九)
同 三二年十二月(前二五九)
2). 崇神天皇六五年 六月(前 三三)
3). 応神天皇十七年 五月(二八六)
4). 同 十八年 二月(二八七)
5). 反正天皇 二年 五月(四〇七)
『秘府略』の引用は前報で紹介した5). 反正天皇二年記事で終り、その後は「鋳銭司記」からの引用として、持統天皇八年三月記事と文武天皇三年十二月記事が記されている。それらはいずれも鋳銭司長官任命記事である。それ以後は、引用文献名が記されず、いわゆる皇朝十二銭の鋳造記事が並んでいる。
このように『秘庫器録』に引用された『秘府略』記事は、近畿天皇家の年代で記されてはいるものの、いずれも「六国史」に見えない情報であり、すべてONライン以前の記事である。従って、『秘府略』(八三一年成立)が参考とした原史料は九州王朝系史料の可能性が高いのではあるまいか。しかしながら、1).
の懿徳二年から孝霊天皇三二年の記事は、皇暦として見た場合、天孫降臨(紀元前一世紀頃か)以前の年次を示している。これは九州王朝成立以前の縄文晩期から弥生前期の記事であり、いずれの王朝の記事であるか不明だ。この点については次報にて検討したい。
さて、1). から5). の『秘府略』引用記事の概要を見ると、それらが古代貨幣の推移を示していることに気づく。その内容は、概ね次のとおりだ。
1). 〔懿徳二年〕今まで諸物の交易に「穀」を用いてきたが、これからは「美石宝玉」を用いよ。「穀」を用いるなかれ。〔孝霊五年~三二年〕諸国からの宝玉貢献記事。(次報にて詳述)
2). 〔崇神六五年〕任那国の遣使、「漢珍六億萬枚」で不老不死薬を請う。
3). 〔応神十七年〕金銀を以て貨幣を造る。宝玉を用いるを止めよ。
4). 〔応神十八年〕玉を用いるを止めるなかれ。
5). 〔反正二年〕漢室の如く銅幣を造る。是に至り始めて此の「珍」を造り、宝玉を用いるを止める。
ここで示された古代貨幣史の認識を略述すると、次のようにも言えるであろう。
1). 縄文晩期に交易の手段としての「穀」から「宝玉」への移行(古田武彦氏の言う「縄文貨幣」と見なしうるであろう)。
2). 弥生中期に朝鮮半島から漢の銅銭(「漢珍」)の流入。
3). 弥生後期に金銭銀銭の鋳造。
4). 一旦禁止された宝玉の使用が復活。
5). 五世紀初頭に銅銭(「珍」)の鋳造と使用開始。宝玉使用が終る。
以上であるが、こうした歴史認識は非常に自然なものではあるまいか。従って、この点においても、これら『秘府略』記事を引用した『秘庫器録』が偽作とは思えないのである。
また、注目すべきことに、『秘府略』引用記事では貨幣のことを「珍」と称している( 2). 5). に見える)。それ以後の『秘府略』以外からの引用記事では、いずれも「新銭」「金銭」「銀銭」「銅銭」とあり、貨幣を「銭」と記している。すなわち、これら『秘府略』の原史料が九州王朝系史料であったとすれば、九州王朝では貨幣のことを「珍」と称していたことになるのである。そうすると、皇朝十二銭中、和同開珎の銭文のみに見える「珎」の字は、この貨幣の「一般名称」であった「珍」を示していたことになり(注1).
)、和同開珎が本来九州王朝で鋳造された貨幣であるとした拙論(注2). )や、古田武彦氏による本プロジェクト第二報(注3). )の論考と符合するのである。
なお、2). の任那国遣使記事については、『日本書紀』崇神天皇六五年七月条に次のような同類記事が見える。
「六十五年の秋七月に、任那国、蘇那曷叱知を遣して、朝貢らしむ。任那は筑紫国を去ること二千余里。北、海を阻(へだ)てて鶏林の西南に在り。」
(岩波日本古典文学大系の訳による)
任那国の貢献が、『秘庫器録』では六月とされており、『日本書紀』と一月異なるが、同じ事件が記載されたものと思われる。この点、『秘庫器録』の方が、派遣目的(不老不死薬の購入)が具体的に記されており、『日本書紀』の当該記事は九州王朝史書からの盗用とも考えられ、これはこれで興味深いテーマである。(つづく)
(注)
1. 『秘庫器録』活字本では、「和同開珎」のことを「和銅開珍」と記されていることから、「珍」と「珎」との区別が厳密ではないようである。また、書写時における「誤写」の可能性もあり、『秘府略』にも「珍」と記されていたかどうかは判断しがたい。
2. 古賀達也「『続日本紀』と和同開珎の謎」、『市民の古代研究』二二号所収。(一九八七年七月)
3. 古田武彦「プロジェクト貨幣研究第二回(第二信)」、『古田史学会報』三三号所収。(一九九九年八月)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
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