2003年4月1日

古田史学会報

55号

1、国際教育シンポジウム
二一世紀教育における「公」・「共」・「私」をめぐって
  -- 古田武彦氏の発言

2、歴史の曲がり角(二)
 重層地名学
 古田武彦

3、キ国とワ国の論証
 西井健一郎

 学問の方法と倫理10
4、再び熟田津論争によせて
 古賀達也

5、太安萬侶  その二
  古事記成立
  斉藤里喜代

6、連載小説第十話
  真珠(2)
 深津栄美

7、九州旅行雑記
 今井敏圀

8、会活動の現況について
 事務局だより

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九州旅行雑記



千歳市 今井俊圀

 一月五日に行なわれた久留米市での古田先生の講演会参加と七日の大善寺玉垂宮の「鬼夜」見学をメインに、その前後に北部九州を旅するという「古田史学の会・北海道」のツアー(一月四日〜十日)に参加して、色々見聞きしたことの中で見つけたことを記したいと思います。

 一月六日
 
前原市の平原遺蹟見学の後、立ち寄った「細石神社」。「君が代」に出てくる木花開耶姫命と磐長姫命(苔牟須売神)を祀る神社ですが、思ったよりも小さな神社でした。しかし、糸島神職会発行の『鎮守乃杜』には、「神田も多く大社であったが、中古兵乱に消失すること再度、更には天正十五年(一五八七)太閤検地で没収されて衰退した。」とあります。近くには「井原」(いわら)もあり、縄文時代からの「神石信仰」の神祀りの中心地ではなかったかと思われます。そうすると、『和名抄』の「雲須郷」は雲原(くもはる)ではないでしょうか。「くも」は「くま」と同じで「聖なる〜」という意味、「はる」は「フレ」と同じで「〜の村、〜の国、〜の地」という意味で、「くもはる」は「聖なる地」となります。神祀りの地にふさわしい名称ではないでしょうか。


一月七日
 
早朝、福岡市西区横浜二丁目にある「高屋橋」の写真を撮りに行った帰り、通勤通学の皆さんで混雑するJRの電車で下山門駅を通過した時に、「ここが、まへらまの山門だ」と、ふと思いました。五日に久留米市の図書館で見つけた『筑前國續風土記』には、「日本紀神功皇后の紀に見えたる土蜘蛛田油津媛か住し所、則此山門也と村人はいへとも、山門の縣とあれは、是筑後國山門郡の事なるへし。」とありました。貝原益軒は否定していますが、江戸時代の山門村(現在の西区下山門一帯)には、「神功紀」の山門縣が山門村であるという伝承があったのです。拙稿「神功紀の謎」において、下山門から室見川一帯の説話ではないかと論じましたが、私説の裏が取れました。

一月九日
 宗像大社、宮地嶽神社とまわって志賀島の志賀海神社へ。この日ボランティアで案内してくださった「東京古田会」の高木博さんから「山ほめ祭」(山誉漁猟祭)についての色々なお話が。
それによると、「山ほめ祭」は志賀三神を本殿から今宮殿に移し、四方を幕で覆い、秘事の神事を行なってから始まるとのこと。志賀の大神に見聞きされては困ることが、その後行なわれるのではないかとのお話。
 そしてその後は、阿曇磯良の末裔とされる宮司さんではなく、一良さん、二良さんという階級のある社人と呼ばれる氏子さんの代表によって神事が取り仕切られるとのこと。
(これは、久留米市の大善寺玉垂宮の「鬼夜」でもおなじパターンでした)志賀の海人は「筑紫の君」の配下にあるのに、「筑紫の君」をお迎えする神事を志賀の三神に見聞きされてはどうして困るのか不審に思いました。そしてその時、思いついたのです。この「山ほめ祭」は「筑紫の君」ではなく「大山祗神」をお迎えする神事なのではないかということを。そう考えると、今まで疑問に思っていたことが氷解したのです。
 まず疑問に思っていたことは、その名称です。確かに神社の裏にある衣笠山、三笠山、勝山の三つの山を誉めるのですが、何故、海人族が山を誉めるのかが不思議でした。しかし、山を誉めることを名目に「大山祗神」を誉めるのであれば、「山ほめ祭」はそれにふさわしい名称です。
 もう一つは「君が代」と「筑紫の君」との関係です。「君が代」は、細石、いわほ、苔牟須売神と、どう見ても縄文の神石信仰に関係があるとしか考えられないのに、「筑紫の君」は天孫降臨までしかさかのぼれないことです。そのギャップがどうにも不可解でした。しかし、それが「大山祗神」であれば納得がいきます。「大山祗神」は苔牟須売神(磐長比売)の父であり、天孫降臨以前の博多湾岸一帯の支配者だったからです。「紀・記」において、ニニギノミコトが「大山祗神」の娘の木花開耶姫を娶るのは、旧支配者の娘を娶ることによって被征服民の懐柔をはかる征服者の常套手段だからです。これが「大山祗神」が旧支配者だった証です。「大山祗神」を祀る神社は、前原市に8、二丈町に2、志摩町に1、福岡市西区に2、早良区に6と糸島半島に集中してあります。その他、博多区千代に「山神社」があり(この祭の主人公である「阿曇の君」が千代から渡ってくるとされていて、この「山神社」の存在はとても重要です。)遠賀川流域の水巻町や、北九州の門司区にもあります。
 このように見てくると、「君が代」の「君」は元々は「大山祗神」であったと考えても良いのではないでしょうか。そしてもっと古くは、古田先生が指摘されているとおり、巨石信仰・岩石崇拝の時代、「金属器前」の旧石器・縄文時代にさかのぼることのできる女神「磐長比売」が「君」だつたのではないでしょうか。
「大山祗神」をお迎えする祭であれば、志賀の三神に見聞きされては困るのです。ですから、志賀の三神には今宮殿にご遠慮願って、阿曇氏の宮司さんではなく、氏子さんたちが密かに行なう祭だったのです。おそらく、氏子さんたちのご先祖は、阿曇族に支配される以前は「大山祗神」の配下の海人だったのです。
 九州王朝の目をかすめ、今に至るまで二〇〇〇年以上もの長い間、縄文の神(支配者)をお迎えする祭を連綿と守り伝えてきた志賀の人々は、何とすばらしい人たちなのでしょう。
 宮司さんが始めの神事を行なった後はノータッチで、その後氏子さんたちが一切を取り仕切る祭は他にもあると思います。特に北部九州で行なわれる、そういった祭を調べれば天孫降臨以前の歴史がもっともっとわかってくるのではないでしょうか。
 そんなことを考えながら、この「旅行雑記」を終えたいと思います。

  二〇〇三年二月二一日記

 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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