2004年2月5日

古田史学会報

60号

1、神代と人代の相似形
 西村秀己

2、『旧・新唐書』の
日本国記事について
厚味洋五郎

3、「九州年号」真偽論の系譜
新井白石の理解をめぐって
古賀達也

4、如意宝珠
 大原和司

書評
中国から見た日本の古代

5、オホトノヂは
大戸日別国の祖神
会報62号と同一
西井健一郎

6、二倍年暦の世界7
アイヌの二倍年暦
古賀達也

7、連載小説「彩神」第十話
若草の賦(3)
深津栄美

8、「二倍年暦」
に関する一考察
 澤井良介
古代戸籍の二倍年暦
 肥沼孝治

9、古田史学・虎の巻
年頭のご挨拶
十周年記念行事にご協力を
事務局だより

 

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「二倍年暦」に関する一考察 会員からのお便り 古代戸籍の二倍年暦


 

「二倍年暦」に関する一考察

守山市 澤井良介

 古田史学にとって「二倍年暦」は重要な位置付けにある。以下は、私なりに「二倍年暦」を探し求めた記録である。

(1)「中国古代の民族」白川静著
       講談社学術文庫

 本書は「古代文字の構造を通じて考えられる古代人の生活と思惟、古代歌謡としての詩篇の発想と表現とを通じてみられる生活習俗のありかた、そしてそれに よってえられたところのものをわが国の古代の民俗的な事実と対応させながら比較」考察するという三つの方法をもって、未開拓の中国民俗学的研究という分野 に正面から取り組んだものと紹介されている。その中で次のような個所がある。

 「人々の生活、ことにその生産的な営みは、自然の季節の推移と密接に連なるものであった。その生活の場としての海洋や山林、田野についての古代人の知識 は、季節的な推移の微妙な変化と、それに対応する生活の方法について、その深い体験によって組織された、おどろくべき確かさをもっている。そこにそれぞれ 自然暦というべき、自然との対応の関係が生まれた。ことに自然条件にもっとも多く依存する農耕については、早くから農事暦が生まれ、それによって農耕を指 導することが、為政者の重要な任務であった。」(第七章月令と歳時記)

 二倍年暦の根拠として押さえておくべき視点と考える。同じ、第七章に次の記述がみえる。

 「『礼記』「内則」には、『十有三年、楽を学び詩を誦し、勺(しゃく 舞楽の名)を舞ふ。成童にして象(しょう 舞楽の名)を舞ひ、射・御(御車)を学ぶ。二十にして冠し、始めて禮を学ぶ。以て裘帛(きうはく)を衣(き)るべし。大夏(古楽舞の名)を舞ひ、惇(あつ)く 孝弟を行ふ。』とみえ、『三十にして室(妻)あり」という。勺・象・大夏はみな古代の舞楽の名とされるものであるが、入社儀礼の主要な教学には、このよう な伝承舞楽の学習も加えられていたのであろう。そしてその舞楽は、おそらく狩猟や戦争のさいの、呪的な舞楽であったと思われる。このような儀礼の学習に九 年を要し、しかもその十年ののちを婚期とするような「内則」の記述は、もとより本来のものではない。」

 年の記述の矛盾について、「もとより本来のものではない」と結論している。二倍年暦を窺わせる説明となっている。『礼記』においての記述に対して、白川先生が疑問を呈しているところが大切なところである。

 この『礼記』(内則)に関連する記述として、『孔子家語』に次の記述をみておきたい。

 資料『孔子家語』本命解題二十六「新釈漢文大系」宇野精一著
 「哀公が言う、『男は十六歳で大人の体になり、女は十四歳で大人の体になるのであれば、人民を生むことができる。それなのに、『礼記』には男は必ず三十歳で妻を持ち、女は必ず二十歳で夫を持つとある。なんと遅いではないか。』」

 哀公の問いに対し孔子が答える形となっているが、これは『孔子家語』に手が加えられたことの証左と考えられないであろうか。
 『礼記』(内則)では女は事情により「二十三歳で嫁ぐ」ともあり、前記『礼記』の記述は二倍年暦で考えても矛盾がないと思われる。

 

(2)「千字文」小川環樹・木田章義注解
             岩波文庫

 『千字文』は久しく中国の児童の文字を学ぶ教科書として用いてきたものです。この『千字文』に次の記述がある。

 五 寒來暑往(寒さがやって来れば、暑さは去ってゆき、)
 六 秋収冬蔵(秋には作物を刈り取り、冬にはそれを蔵に収める。)

 この項に関して北魏の李進の注(以下李注)「繋辞伝」(易経)には次の記述が見える。

 「寒往けば、即ち暑来り、暑往けば、即ち寒来る。寒暑相い推して、歳成る。(寒・暑がたがいに推移することによって自然に1年が形成される。)」

 この文章は孔子の言とある。この後の文章を「易経」(岩波文庫)に求めると、次の文章が続いている。

 「往くとは屈するなり。来るとは伸ぶるなり。屈伸相い感じて利生ず。(往くことと来ることは、屈することと伸びることにおなじ。往来屈伸が互いに連関しあうことによってこそ、そこに大きな効果が生ずるのである。)」

 この文章から私は「寒暑往来」で一つのことが完結する。同様に、「暑往寒來」でまた一つのことが完結するということではないかと考えるわけです。このことから、

 冬→夏 一年
 夏→冬 一年
 冬→冬 二年

 と考えることができるのではないかということである。ここに二倍年暦をみることができる。

 また、『千字文』に次の記述がある。

 九七 性靜情逸(本性が落ちついているときには、心は穏やかで、)

 九八 心動[示申]疲(心が動くときには、精神は疲れる。)

 この項に関しても、先ほどの李注がある。

 『人の性が落ちついて靜であれば、その情は必ずのびやかで、たのしい。孔子は外出したとき、一人の老人が、毛皮の服を身につけ、琴を弾じて歌っているの に出あった。孔子が彼に尋ねると、老人は、「私の姓は宋、名は栄子です。」と答えた。また、「何が楽しいのですか」ときくと、「私には楽しいことが極めて 多いのです。天が万物を生むなかで、人間が最も貴いのです。今、私が男子の身を得ましたことは、最高に貴いことで、婦人は賎しいものです。人の一生は百歳 としましても、七十歳のものは稀です。わたし(栄)は九十二歳です。これらが私の楽しむことです。」と答えた。孔子は、「賢明なことだ」と言った。』

 「人の一生は百歳としましても・・・」とあり、当時の平均寿命からして矛盾。二倍年暦で考える他はない。

 『千字文』の最後に小川環樹先生の解説に面白い記述があるので紹介しておきたい。

 「『千字文』の渡来について、「古事記」(中巻)に百済の和邇が来朝し、「論語」十巻と「千字文」一巻、併せて十一巻を献上したとあり、「日本書紀」 (巻十)によると、応神天皇の十六年のこととある。我が古史の紀年を無条件に信ずれば、西暦二八五年、西晋の武帝の大康六年にあたる。その年は『千字文』 の作者周興嗣の死より二百六十年以上まえになる。この食い違いは、どう考えるべきか。・・・しかし
、実は簡単なことで、我が古史の紀年が故意に初期の天皇の治世を引き延ばした結果、年代の大きな食い違いが起こった。」

と小川先生は述べておられる。小川先生も論理的に矛盾を内包していると言わざるを得ない。

 

(3)「民間暦」宮本常一著
        講談社学術文庫

 本書は、民間に古くから伝えられてきた行事の一つひとつを自らの足でつぶさに探し求め、それらを体系化することによって日本人一般のものの考え方、労働 の仕方を浮き彫りにしたもので、常民の暮らしの折り目をなす暦の意義を詳述した、宮本民俗学の代表作といわれている。その中で、柳田国男の「民間暦小考」 (年中行事)を引用し、

 「民間暦の経済生活上の意義は、決して絶無でないのみか、もっと深い根本的なものがあったのである。簡単にそれを言ふと、民間暦の起こりもやはり生存の 必要からであった。是に従ふのが安らかな豊かな生活を導く要件であることを、たとへ誤りにもせよ嘗て実験したものがあって、稍不必要な時まで、子孫をして 学び且つ守らせたのである。」

 年中行事は、特別なものをこしらえて食う恒例の晴れの日と位置付けている。そして、著者(宮本)の私見として、

 「私(宮本)一個人の私見をのべてみると、民間暦の意味は制定暦以前の行事と思われるものを基準としたものであると考えられる。(中略)暦法制定以前に も、われわれは不完全ながら暦をもち、時の運行とわれわれの行為や運命には大きな関係のあることを考えていた。そうしてわれわれの力では解決のつかないこ とは、この見えざるものの支配によるものであるとした。
 ゆえに特別の日には神をまつり、つつしんで、その加護を待ち、またその日のもつ意義に従って行動したのである。民間暦はかくのごとくにして、その年々歳々くり返した儀礼が凝って日次の節となり折目となったものである。
 これが、新しく暦法の制定とともに、われわれの祖先はまずその暦にみずからの生活をあてはめてゆかねばならなかった。その努力は相当に苦しいものであったと思われるが、常民は、かつてもっていた習慣を捨てることなく、むしろこれを新しい制度に結びつけようとした。」
 著者は、「行事と月の考察において、今日一年として区切っているものの古くは、あるいは盆と正月の二つの区切りがあったのではなかろうかと思われる」と言っている。その例を多くをあげている。次にみるのはその一部である。

 六月と十二月の大祓
 三月の節句(上巳の節句)と八月の節句(八朔の節句)
 五月五日の節句と十月十日夜

 かくのごとく見ていくと、日本における古い行事は六月と十二月の晦日を境にして折半し、その六ヶ月中に行われる行事も互いに相似ていたらしいのである」 と指摘している。「ただ、どうして一年を折半していたものであるかということについては、私には今後の宿題として残されている」と結んでいる。

 わが国においても古史において二倍年暦の存在を示唆していると考えざるを得ない。

(4)「喪期」にみる二倍年暦
 『礼記』にみる「喪期」の二倍年暦 全釈漢文大系(集英社)

 「喪期」に関する『礼記』の記述は次のように解釈している。

 最も近しい父親が死んだ場合、「三年の喪」に服するとして、斬衰の服を着て、下記のそれぞれの期において、祭りを行い、二七ヶ月目で除喪するとしている。「三年」は足掛け三年としている。
 十三ヶ月 小祥の祭り 練祭と呼ばれる。祭りの後功衰の服を着る。(一周年の祭り)
 二五ヶ月 大祥の祭り 祥祭と呼ばれる。(三周年の祭り)
 二七ヶ月 忌明けの祭り [示潭]*祭と呼ばれる。除喪
 
 インターネット事務局注記 2004.03.03
 [示潭]*は、示編に潭の三水編なし

 二七ヶ月については、二五ヶ月と記述している個所もあり、両説あるとしている。問題は、“十三ヶ月”は小祥の祭り、“二五ヶ月”は大祥の祭りと記述している個所が『礼記』本文には見当たらないのである。いずれも、注釈において記述しているにすぎない点である。
 夫が妻、孫が祖父母の死んだ場合、「齊衰の喪」と呼ばれ、「期の喪」として位置付けられている。「期」は一年と注釈している。一年という表現も『礼記』 本文にはない。『礼記』では、「期」の解釈として「祭期を為す」と解釈している。つまり、前述の小祥、大祥の祭りをするという意味である。

 『礼記』において唯一小祥、大祥の祭りの時期を特定している個所が一箇所ある。次の通りである。

 「期の喪は、十一箇月して小祥の祭りをし、十三箇月して大祥の祭りをし、十五箇月して[示潭]*祭を行う」

 詳述はさけるが、鄭注によりこの文章は別の項にあったが、その項では解釈がおかしくなるから、並べ替えているとしている。変な話である。私は「喪期」についてはこの基準に尽くされていると考える。
 前述の「齊衰の喪」について、注釈では一年とし、五ヶ月、三ヶ月の節目(祭期)があるとしている。“一年の喪”が別にあり、「祭期」もあったと注釈は伝 えているのである。従って、「期の喪」の「期」の解釈は現在の一年ではなく、“三年の喪”の「祭期」と考えられるのである。整理すると次のように考えられ る。

 九ヶ月以下の喪についてもふれておく。

 三ヶ月 [糸思]の喪(曾祖父母の死) [糸思]麻の服
 五ヶ月 小功の喪(従兄弟の子の死) [糸恵]衰の服
 六ヶ月(一期)
 九ヶ月 大功の喪(父方の従兄弟の死)功衰の服
 十一ヶ月 齊衰の喪、“三年の喪”の小祥の祭(練) 齊衰の服(祖父母、叔父の死)(足掛け二期、期の喪)
 十二ヶ月  (二期)
 十三ヶ月 “三年の喪”の大祥も祭(祥)
 十五ヶ月 “三年の喪”の最後の祭([示潭]*) 斬衰の服(父母の死) 除喪の祭礼(足掛け三期、再期の喪)

 九ヶ月は四季中の三季にまたがる喪、五ヶ月は同じく二季にまたがる喪、三ヶ月は一季であり、各季で喪を除くあるいは祭るのは礼であり、天の道理にかなうと『礼期』は述べているのである。

 「期」は古史においては一つの大きな周期であったと考えられるのである。月でいえば現在の六ヶ月であり、一期(六ヶ月)が今日の「年」の概念であったと思われる。ここにおいても我々は二倍年暦をみることができる。

 先述した“三年の喪”が二五ヶ月というのは、後代の制定暦に合わせ手が加えられたという他はない。

 最後に、面白い記述があったので紹介をしておきたい。「史記」の孟子荀卿列伝(「荀子」内山俊彦著、講談社学術文庫掲載)には、
 「荀卿(荀子)は趙の人である。年五十で初めて斉に遊学してきた。・・・田駢らの人人は、みな、斉の襄王の時までに死んでしまっていたので、荀卿が最も 老師であった。」とある。問題は荀子の遊学の時期である。劉向は「序録」で、遊学を斉の威王・宣王の代においている。(前三〇一年まで)荀子の死が前二三 八年以後であることと照らし合わせれば、威王・宣王の代に五十歳とすると死んだ年には少なくとも百十歳を超えていねばならず、あまりに不自然な次第にな る。こうした矛盾から、後代では書き換えが行われている。
 
  1. 遊学の時期を襄王の末年、王建の初めへの前倒し
  2. 後漢の応紹の「風俗通義」では、「年五十」を「年十五」に改めている。
 しかし、二倍年暦で考えれば、すべて矛盾なく説明できる。荀子の時代は二倍年暦であった可能性が大きい。

 以上の考察により、古史においての二倍年暦の存在は動かしがたいと思われる。

 以上


会員からのお便り

古代戸籍の二倍年暦

所沢市 肥沼孝治

 二倍年暦を求めて国会図書館に行ってきました。その報告を「ホームページ」に書きました。

●「平安遺文」の戸籍記事を調べる
 二倍年暦の記事の続き。
 二五日、国会図書館に行って「平安遺文」に載っている戸籍記事を調べた。私が調べたのは一?九巻だった。(十、十一巻は索引。十二?十五は金石文など)戸籍記事が出てきたのは4件。資料番号で書いてみる。

○一八八 阿波国板野郡田上郷戸籍
 古賀さんが講演会(多元の会・関東主催、十二月二一日)で紹介したもの。この史料には軒並み高齢者が登場する。古賀さんの紹介は一部で、他にも二倍年暦 らしきところがあってうれしかった。たとえば、父九八歳、母百七歳の息子が五七歳の場合。これだと父四一歳、母五十歳の時の出産で、今でもちょっと苦しい (当時なら無理)だろう。二倍年暦なら父二十・五歳、母二五歳で無理なく理解できるのではないか。
 もう一つ。父八五歳、母百二歳の末娘が四七歳の場合。これだと父三八歳、母五五歳の出産で、無理そう。二倍年暦なら父十九歳、母二七・五歳でよりリーズナブルになるのではないか。(いずれにしても、この二例は少々「姉さん女房」的ではあるが)

○一九九 周防国玖珂郷戸籍
 これにも高齢者はたくさん出てくるのだが、残念ながらほとんどが家族のユニットで出てきてくれないので二倍年暦とは断定できなかった。

○四三七 讃岐国入野郷戸籍
 これも同様で家族のユニットで出てきてくれないので、二倍年暦とは断定できない。あと、「老」と「耆」の境目が律令と違っている気がした。(六五歳から「耆」だと私は思っていたのだが、この史料では六十歳以上はみな「老」のみ)

○某国戸籍
 これはかなり断片で役に立ちそうもなかった。

 今日の調査で、「戸籍は意外に残っていないものだ」と感じた。(地方の新発見に期待したい)しかし、編年で並べてあるので、「寧楽遺文」より時間はかかった。
 「鎌倉遺文」の量は四五巻で、今日の三倍。やるかどうかはビミョーだなあ。
 (十二月二六日)


 これは会報の公開です。

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