2006年 4月15日

古田史学会報

73号

「万世一系」の史料批判
 古田武彦

呪符の証言
 林 俊彦

和田家文書による
『天皇記』『国記』
及び日本の古代史考察3
 藤本光幸

4私考・彦島物語II
國譲り(後編)
 西井健一郎

5記神武東征の謎を追うI
神武吉野侵攻は
「天孫降臨神話」
の盗用だった
 正木 裕

馬門(まかど)
 古川清久

7洛外洛中日記
『北斗抄』
 古賀達也

8読者からの便り
佐賀の「中央」碑
 西村俊一
 事務局便り

 

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『古事記』序文の壬申大乱 古賀達也(会報69号) へ


古田史学会報73号 2006年 4月12日

呪符の証言

名古屋市 林 俊彦

 偶然は人を思いがけないところへ導きます。冬のある日、私はあてどなき思索の潮流に身をまかせました。古田史学の会・東海の二月例会で何を語ろうかと。

(表)南山之下有不流水其中有一大蛇九頭一尾不食余物但食唐鬼朝食三千暮食
(裏)八百 急々如律令

 上記は平城京の二条大路から出土した木簡に書かれた文字です。「日本の歴史04 平城京と木簡の世紀」(渡辺晃宏さん著、講談社)で紹介されているものを引用しました。
 「急々如律令」は「災いよ速やかに退散せよ」で呪符の決まり文句。「南山」のふもとに流れざる水があり、そこに尻尾は一本で頭が九つの大蛇が住んでいるという。その大蛇は「唐鬼」しか食べない。それも朝に三千匹、夕に八百匹。「唐鬼」とは当時(七三五年から)大流行した天然痘、「南山」とは吉野の山、と著者は読み解きます。一応は納得できますが、吉野にそんな大蛇の伝承があったのでしょうか。「不流水」とは池か湖なのでしょうか。吉野にそんなところがあるのでしょうか。食べた唐鬼が三千と八百という妙に具体的な数字は何を示すのでしょうか。あまりに謎が多すぎます。
 ここで古田史学の会事務局長・古賀達也さんの昨年来の新説に私は引き寄せられました。

 飛鳥清原大宮に大八州御しめしし天皇(天武)の御世にいたりて、潜龍元を體し、[水存]雷(せんらい)期に應じき。夢の歌を開きて業を簒がむことを相せ、夜水に投りて基を承けむことを知りたまひき。然れども、天の時未だいたらずして、南山に蝉蛻し、人事共給はりて、東國に虎歩したまひき。(古事記序文)
[水存]雷(せんらい)の[水存]は、JIS第4水準ユニコード6D0A

 古田先生が壬申の乱を分析し、九州の吉野を見いだしたのをはじめ、それは西日本全体をまきこむ大戦乱だったとしたことを受けて、古賀さんは古事記(七一二年完成)序文に注目されました。序文と本文は単に文体が違うばかりでなく、内容的にも食い違いが随所にあります。しかし序文は天皇への上表文であるから天皇(元明)へのウソは許されない(臣下に読ませる本文ではウソをついても)。それで序文のほうが史料として信頼性が高いという論理で、上記こそが壬申の乱の真実の発端ではないかとされるのです。
 古賀さんは、「水」は川という意味もある。「夜水」は「一夜川」の別名を持つ筑後川を指す。「南山」は筑後川の南にある高良山である。天武は一旦高良山にこもって機を見て、唐軍に「人事共給」されて戦端を開いたと説を立ててみえます。(もちろんもっと詳細な史料上の根拠を挙げての広範な立論です)
 この古事記序の「南山」と木簡の「南山」は同一で、高良山ではないか。「夜水」と「不流水」も同一で筑後川ではないか、と私は思いいたりました。太安万侶とこの木簡を書いた人はほぼ同じ時代に同じ平城京の住人だったのですから。
 筑後川は日本の川としては珍しいほど普段は流れがゆるやかです。有明海の干満の影響を受けてかなり上流まで逆流するほどです。「不流水」とは言いえて妙です。もちろん一旦悪天候になれば、暴れ川と化します。「坂東太郎・筑紫次郎」の異名は伊達ではありません。一夜で流れが変わる、「一夜川」の別名も道理です。幾筋も流れを変えて濁流を流す様はいくつも頭を持つ大蛇に例えても不思議はありません。
 もっとも九州の話がなぜ平城京で?と疑問を持たれるでしょう。しかし天然痘はまず筑紫に入り、猛威をふるいました。医学や衛生学の知識に乏しい当時は、わらにもすがる思いでまじないにも手を出したことでしょう。効き目があるという評判が奈良にも伝わったのではないでしょうか。渡辺さんはもう一つ木簡の裏に書かれた習書としての文章を紹介しています。「此物能量者患道者吾成明公莫憑必退山陽道」。訓読の試案として「此の物能く量る者、道を患う者、吾れ明公と成る、憑くこと莫かれ、必ず山陽道に退け」と例示されています。意は尽くせないものの、筑紫からひたひたと押し寄せる天然痘の恐怖に対する当時の奈良人の心のざわめきが読み取れます。
 ここから私は奇想の渦に巻き込まれました。
 つまり「九頭一尾の大蛇」とはヤマタノオロチです。古事記では「八頭八尾」としますが。何をいうか。ヤマタノオロチは出雲ではないか、と思われますか?しかし「出雲國風土記」にヤマタノオロチの記載は一切ありません。すなわち「本家」出雲の古代伝承には存在しません。記紀のヤマタノオロチ説話は九州王朝で語り継がれたものの流用です。スサノオが降り立った「肥の河」(古事記)は「肥の国の河」(筑後川)に違いありません。佐賀県の神崎郡には櫛田宮という古社があり、祭神はクシナダ姫、スサノオ、日本武尊で、ヤマタノオロチ伝説も残っています。日本武尊も祀られているのは、ヤマタノオロチの尾から草薙剣が出てきたからでしょう。櫛田宮は吉野ヶ里遺跡のすぐ近くです。何か関わりがあるかもしれません。またこの神社の南方、筑後川のすぐ近くには高志狂言で有名な高志神社があります。高志はタカシと読みます。古事記ではヤマタノオロチは高志からやってきたとされています。高志をコシと読んで越の国と結びつけるのが通例ですが、冷静に考えてください。越の国(富山県)から出雲(島根県)まで巨大な大蛇が移動して、途中に何の被害の伝承も残さず、食べようとねらったのが小娘一人、そんな馬鹿げた話をいくら古代とはいえ当時の人々がまじめに語り継いだでしょうか。これは古代筑後川の治水史における伝説です。おそらくは地元民の人身御供の慣習を、スサノオが別な平和的な儀式に変えさせてやったという伝承でしょう。
 もう一つの渦です。「唐鬼」には先例がありました。
 白村江の敗戦の後、唐の軍隊がやってきました。古田先生の説によれば、長期に筑紫を占領した。筑紫の君磐井の墓の石人石馬を破壊したのも唐の占領軍だ、ということです。
 磐井の墓へは筑後川を渡らなければ行けません。日本書紀によれば、唐の軍隊は二千名ずつ二回、計四千名筑紫に来ています。しかし帰国記事はないのです。南山の大蛇が食べた「唐鬼」は三千八百、この近似は偶然ではありません。
 日本書紀の天武四年十月条に「筑紫より唐人三十口を貢れり。則ち遠江國に遣して安置らしむ。」とあります。これが「唐鬼」の生き残りです。唐の軍隊が筑紫に健在で、倭国占領を続けていたのならありえない事態でしょう。唐軍は筑後川の氾濫に壊滅しました。古代にも神風が吹いたのです。
 こうして呪文が作られ、天然痘筑紫来襲の際に使われご利益があった。そんな風説の下、平城京で冒頭の木簡が書かれました。
 小さな板切れ一枚を私の論理のいかだとして、ついにここまでたどり着きました。そして自己のたどりきった航路をここに記録し終えました。これで例会は大丈夫、私は安堵に胸をなでおろしました。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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