2005年8月8日

古田史学会報

69号

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 さまよえる倭姫
 水野孝夫

九州古墳文化の独自性
横穴式石室の始まり
 伊東義彰

『古事記』序文の壬申大乱
 古賀達也

遺跡めぐり -- 宮城県北
宮城県からも出ていた
遮光器土偶

 勝本信雄

イエスの美術
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削偽定実の真相 古事記序文の史料批判 西村秀己(会報68号)へ

講演記録 壬申の乱の大道 古田武彦へ


『古事記』序文の壬申大乱

京都市 古賀達也

はじめに

 『日本書紀』編纂における最重点記事は「壬申の乱」である。『日本書紀』全三十巻中、天武紀の前半に当たる第二八巻全てを壬申の乱の記述に当てていることからも明かであろう。内容も日付や場所など詳細に記述されており、他の巻に比較してもその詳しさは群を抜いており、異様でさえある。こうした史料事実こそ、『日本書紀』編纂の眼目が壬申の乱の記述にあったことの現れと言っても過言ではない。
 この異常に詳しい『日本書紀』壬申の乱の記述に基づき、多くの学者や歴史作家が所論を発表してきたことはご存じの通りであるが、それとは対照的に古田武彦氏はこの壬申の乱に対して、極めて慎重な姿勢をとり続けてこられた。著書だけでなく、講演会などでも多くを語られることはなかった。その理由は、「『日本書紀』の壬申の乱の記事は詳しすぎて、逆にあやしい。うっかり手を出すと大きな間違いを犯す。」というものであった。誠に鋭い洞察力と言わねばならない。
 そもそも壬申の乱とは、天智の正統な後継者であった大友皇子に対する、天武による力づくの非道な政権簒奪以外の何ものでもない。この歴史事実を正当化することこそ、壬申の乱の記述にまるまる一巻を当てた天武の後継者達の最大の目的であった。従って、非道な「政権簒奪者」側自らの記述を史料としてそのまま信用すること自体が、不用心であり、学問的史料批判とはかけ離れてしまう可能性を危惧すべきこと、歴史研究者として当然取るべき姿勢だったのである。

佐賀県「吉野」の発見

 壬申の乱に対して慎重な姿勢を崩されなかった古田氏だったが、一転してその著書『壬申大乱』(注1)にて、真正面から取り上げられた理由の一つに、佐賀県「吉野」の発見にあった。持統紀に頻出する吉野を奈良県ではなく、佐賀県の吉野であり、本来は九州王朝の事績であったものを持統紀にはめ込んだものとされたのである。
 更にもうひとつの理由(背景)があった。それは三森堯司氏の論文「馬から見た壬申の乱─騎兵の体験から『壬申紀』への疑問─」(注2)である。馬の専門家である三森氏は、『日本書紀』に記された壬申の乱での乗馬による踏破行路が古代馬のみならず品種改良された強靱な現代の馬でも困難であることを、科学的に立証された。すなわち、壬申の乱での天武等の行動記事は虚構だったことが証明されたのである。この三森論文の出現により、『日本書紀』の記述に基づいて壬申の乱を扱った従来の全ての論説が吹き飛んでしまった。この研究史的意義は重要である。
この三森論文の重要性に着目された古田氏は、壬申の乱の舞台の一つである吉野を佐賀県「吉野」とされ、壬申の乱全体像の見直しを行われた。そして、従来近畿を中心として理解されてきた「壬申の乱」のスケールを拡大し、九州と近畿を含む「壬申の大乱」であったとする説を先の『壬申大乱』にて発表された。この古田氏の業績により、多元史観の立場からの本格的な壬申の乱の研究が開始されたのであった。

『古事記』序文の「壬申大乱」記事

 三森論文からも明らかなように、基本的に信頼できない『日本書紀』の壬申の乱の記述に対して、新たな史料批判の対象として注目されるのが『古事記』序文である。太安萬侶により編纂された『古事記』には、元明天皇に対して出された上表文の形式を持つ、序文が付されているが、その序文中に壬申の乱にふれた部分がある。その記述は『日本書紀』の「壬申の乱」よりも成立が早い。同時に、上表文でもあることから、当時の大和朝廷内の共通の認識と利害に立った記述であることを疑えない。従って、『日本書紀』の記述よりも、基本的に史料価値が高いと思われ、『日本書紀』と『古事記』序文の「壬申の乱」の記述に相違点があれば、疑うべきは『日本書紀』の方である。
こうした理解と方法論に立って、『古事記』序文の史料批判を試み、「壬申大乱」の真実を追究したのが本稿である。
『古事記』序文中、壬申の乱に対応する記事は次の部分である。便宜上、訳文には個別記事毎に番号を付した。

曁飛鳥清原大宮御大八州天皇御世、濳龍體元、水存*雷應期。開夢歌而相纂業、投夜水而知承基。然、天時未臻、蝉蛻於南山、人事共給、虎歩於東國。皇輿忽駕、浚渡山川、六師雷震、三軍電逝。杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解。未移浹辰、氣珍*自清。乃、放牛息馬、豈*悌歸於華夏、卷旌貮*戈、舞*詠停於都邑。歳次大梁、月踵夾鍾、清原大宮、昇即*天位。
(岩波日本古典文学大系『古事記 祝詞』による)

存*は、三水編に存。JIS第4水準ユニコード6D0A
珍*は、王偏の変わりに三水編。
豈*は、立心偏に豈。JIS第3水準ユニコード6137
貮*は、JIS第3水準ユニコード6222
舞*は、人偏に舞。別字。JIS第4水準ユニコード511B
即*は、即の別字。JIS第3水準ユニコード537D

(訳文)
(1) 飛鳥の清原の大宮に大八州御しめしし天皇の御世に曁りて、濳龍元を體し、[水存]雷期に應じき。
(2) 夢の歌を開きて業を纂がむことを相せ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまひき。
(3) 然れとども、天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共給はりて、東國に虎歩したまひき。
(4) 皇輿忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を擧げて、猛士烟のごとく起こり、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。
(5) 未だ浹辰を移さずして、氣珍*自ら清まりき。乃ち、牛を放ち馬を息へ、豈*悌して華夏に歸り、旌を卷きて戈を貮*め、舞詠して都邑に停まりたまひき。
(6) 歳大梁(酉年)に次り、月夾鍾(二月)に踵り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。

 このように序文の約十五パーセントを壬申の乱に関する記述が占めていることからも、太安萬侶ら大和朝廷官僚や序文を上表された元明天皇も、壬申の乱を重要視していたことがうかがわれる。

『日本書紀』と序文の相違

 『古事記』序文や『日本書紀』に特筆大書された壬申の乱であるにもかかわらず、その両者には重大な相違が散見される。それも枝葉末節ではなく、壬申の乱勃発の大義名分にかかわる部分である。
 『日本書紀』によれば、壬申の乱勃発の大筋は、出家して吉野に入った天武(大海人皇子)を近江朝の大友皇子が亡き者にしようとしたため、やむなく天武は東国に逃れ、挙兵したという事になっている。すなわち、壬申の乱勃発の責任は大友皇子側にあり、とする。この一点こそ天智の正統な後継者である大友皇子を死に追いやった大義名分なのである。天武の後継者が自らの為に編纂した『日本書紀』の目的から見ても、そう書かざるを得ないことは、よく理解できる。

 ところが、『古事記』序文では様相が全く違ってくるのだ。先の訳文を見ていただきたい。天武はまず、「(2) 夢の歌を開きて業を纂がむことを相せ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまひき。」 とあるように、天皇となることを占い、「夜の水」に至って自らが皇位を継ぐべきことを知った。そしてその後、「(3) 然れとども、天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共給はりて、東國に虎歩したまひき。」とある。ようするに、南山(通説では奈良県吉野)に入る前に天下をとることを決めていたと記されているのだ。そして、その地(南山)でようやく「人事共給はり」、東国に入り挙兵したのである。
 『古事記』序文の記すところ、壬申の乱は最初から皇位簒奪をはかった天武によるものであり、そのために南山に入ったのである。従って、ここでの天武は命を狙われる被害者ではなく、終始一貫して加害者として記されているのである。そして、その大義名分は、せいぜい「占いの結果」であり、これでは到底世間は納得すまい。しかし、太安萬侶は序文でそのように記している。
 『日本書紀』と『古事記』序文のいずれが真実であろうか。当然、『古事記』だ。『日本書紀』の壬申の乱の経緯はできすぎている。また、『日本書紀』の大義名分が真実であったのなら、『古事記』序文のように自らに不利に書き換えなければならない理由はない。その逆なら、ありうる。また、元明天皇への上表文たる序文に、わざわざ嘘を書く必要性もない。従って、『古事記』序文の記すところが、壬申の乱の真実により近いと考えざるを得ないのである。すなわち、天武は近江朝を滅ぼすために南山に入ったのである。

夜水と南山

 『日本書紀』の壬申の乱の記事が虚構であることは、すでに述べたとおりであるが、そうであれば『古事記』序文の記事も『日本書紀』の記述とは切り離して、再検討が必要である。古田氏が指摘されたように、壬申の乱の吉野を佐賀県吉野とするならば、『古事記』序文に見える「夜の水」や「南山」も九州の地と考えるべきであろう。通説では「夜の水」を名張の横河とするが、原文の「夜水」は河名の漢文風表記と考えるべきではあるまいか。例えば、中国では河の名称として「洛水」「漢水」と言うように、「夜水」を日本風に言えば「夜川」となろう。このような名を持つ川が九州にあるだろうか。ある。九州第一の大河、筑後川は「一夜川」という別名を持つ。たとえば、江戸時代の筑後地方の地誌『筑後志』には次のように記されている。

 「●一夜川 是も亦筑後川の異称なり、俚俗の傳説に、普光山観興寺の佛像を刻む所の異木、往昔、豊後國の山渓より流れ出て、一夜にして此川に到り。大城の邑に止りぬ。爰を以て一夜川と名くと。按ずるに、例の浮屠の妄説にして、論ずるに足らず。一夜川の名實未だ詳ならず。」(『筑後志』)

 室町時代の連歌師宗祇(一五〇二没)の著書『名所方角抄』にも「一夜川、千とせとも俗に筑後川ともいう也」と記述されている。この一夜川こそ夜水と表記するにふさわしい川名である。
 近畿から九州に落ちのびた天武はこの一夜川(夜水)に至り、自らの運命を「夢の歌」として聞いたのだ。それは大友皇子や九州王朝に替わって自らが「天位」につくことを告げていた。しかし、「天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し」た。この南山も当然九州だ。しかも、夜水(筑後川)の近くでなければならない。そのような山はあるか。これも、ある。筑後川を渡るとそこには「曲水の宴」の遺構を持った筑後国府がある。そして、その先には有名な高良山神籠石山城が屹立している。この高良山こそ、九州王朝の都大宰府のほぼ真南に位置しており、南山と呼ばれるにふさわしい山である。高良山神籠石に籠もり、天武は時を待った。「人事共給」わる時を。
 このように、壬申の乱とは従来考えられていたような近畿内部の争乱ではなく、九州を発端として近畿や東国(東海地方)をも巻き込んだ、列島の覇者の地位を賭けた大乱だったのである。壬申大乱である。

人事、共に給わる

南山で「人事共給」わる時を天武は待つといったが、原文は「人事共給」であり、これを岩波の古典文学大系の『古事記』では、「供給」と同義として、「そなわる」と読ませている。しかし、この読みは強引ではあるまいか。「共給」とあれば、「共に給わる」と読むのが普通であろう。人と事を共に給わった、である。
 ところが、この「給う」という語は上下関係を前提とした言葉であり、上位者が下位者に物を与える時に使う用語である。従って、これでは天武よりも上位者が下位者たる天武に軍勢を与えたという意味になり、通説では理解困難な読みとなるのだ。岩波の編者達が「共給」に「そなわる」という無理な訓を与えたのもこうした事情からであろう。
 なお、「給」には「たまう」と「たまわる」の両方の語義があるが、今回のケースの場合は「たまわる」と解さざるを得ない。主語を天武として「たまう」としたのでは、天武が最初から軍勢を持っていたことになるし、誰に与えたのかも不明である。やはり、ここは「たまわる」と読むほかない。天武よりも上位者が天武に軍勢をたまわったのである。
 この「人事、共に給わる」という読みは、一元史観では理解困難な読みであるが、多元史観、古田説に立脚すれば二つの可能性が考えられる。一つは、中国(唐)の筑紫進駐軍、郭務宗*が天武に援軍と近江朝打倒の承認を与えたという可能性。たとえば、『釈日本紀』に記された壬申の乱の時の天武と唐人による次の会話からは、唐との協力関係がうかがわれるのである。
 「既而天皇問唐人等曰。汝国数戦国也。必知戦術。今如何矣。一人進奏言。厥唐国先遣覩者以令視地形険平及消息。方出師。或夜襲、或昼撃。但不知深術。時天皇謂親王(以下略)」(『釈日本紀』)

 天武が唐人に戦術を問うたところ、唐ではまず先遣隊を派遣し地形や敵の状況などを偵察した上で軍を出し、夜襲や昼に攻撃を行うということを助言したとある。こうした記事から、郭務宗*帰国後も唐人の一部は天武軍に同行したようである。
 もうひとつは、九州王朝が与えたというケースだ。たとえば、壬申の乱の功臣に大分君恵尺がいる。九州は大分の実力者と推定されるが、こうした人物が天武に従ったことを考えると、九州王朝が天武に援軍をさしだしたとも考えられよう。いずれも、当時、天武よりも上位者である。現在の所、どちらが天武に援軍や承認を給わったのか断定できないが(唐と九州王朝の両者が天武を支持したという可能性もあろう)、天武より上位者が九州の地に存在したことは間違いないし、太安萬侶はその事実を知っていたのである。

おわりに

 『古事記』序文における壬申の乱の記述は、大変慎重かつ巧妙に書かれている。『日本書紀』のような虚構に満ちた記述ではなく、上表文として恐らくは大和朝廷内周知の歴史認識(九州王朝の先住と王朝の交代)に基づいて記されているのであろうが、九州王朝の存在を直接的には見えない文章表現としている。それでいながら、「夜水」や「南山」などというギリギリの表現で壬申大乱のスケールを記していると言えよう。
 壬申大乱の勝者、天武は「天位」に即位した後、事実上の列島内第一実力者として、本格的な王朝体制の構築を開始する。律令や条坊制を持つ藤原京など、天武紀には様々な事業の開始記事で飾られている。この時期、九州王朝との力関係や大義名分上の関係など、まだまだ不明な問題が多いが、間違いなく言えるのは、国内的には壬申大乱こそ、大和朝廷が列島の代表者となった画期点の一つだったことである。その証拠に、大和朝廷は八世紀半ば時点でも、壬申の乱の功臣やその遺族を顕彰し続けた事実が上げられる。(注3) これからは、そうした視点から壬申大乱の更なる研究が望まれるであろう。
宗*は、立心偏に宗。JIS第4水準、ユニコード60B0

(注)
注1古田武彦『壬申大乱』東洋書林、二〇〇一年。
注2『東アジアの古代文化』十八号、一九七九年。
注3『続日本紀』天平宝字元年(七五七)十二月、大化改新や律令編纂などの功労者と共に、壬申の乱の功臣の子孫に功田を相続させることが太政官より奏じられている。

〔補〕南山を高良山のこととする本稿の結論に関連して、『高良記』の次の記事が注目される。
 「御詫宣ハ白鳳十三年也、天武天皇即位二年癸酉二月八日ノ御法心也」
 高良玉垂命が壬申の乱の翌年にあたる白鳳十三年(六七三)二月八日に発心し、仏門に入った記事と思われるが、この直後の二月二七日に天武が即位している。偶然とは思われず、何らかの関連性があったのではあるまいか。なお、歴代の玉垂命が倭の五王であったとする拙論(「九州王朝の筑後遷宮 -- 高良玉垂命考」、『新・古代学』第4集所収。一九九九年、新泉社)を発表しているので、参照されたい。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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